『守られる』という名の地獄

小紫-こむらさきー

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「してはいけないことがある」

 学校にも、街にも、家にも。小さな因習が、あちこちに潜んでいる。

 それを破ると、変なものがまとわりつく。死ぬわけじゃない。でも、具合が悪くなったり、ケガしたりする。


 家出してから、もう数ヶ月が経った。

 二十万円はもうほとんどない。

 財布の残りは数千円。きっとあと数日で、使い切ってしまう。


 ネットで調べた、簡単に稼げる仕事。でも、それは警察の目に怯えながら、街に立つ仕事だった。

 摘発の噂があれば、街に立てないし、立てなければ、稼げない。でも、避妊具ゴムは必要だ。

 だけど、今はお金がない。

 母親みたいに、望まない子供を産んで、「お前さえいなければ」と呪うようにはなりたくない。父親に犯されて、もし子供ができたら……と思うと、死ぬほど怖かった。

 だから、仕事をするのなら避妊具ゴムが必要だ。

 必要だけど、買えない。買えないから、また、危険な目に遭う……。

 でも、お金がない。

 いや、ある。でも、使えば、また減る。減れば、また困る。


 ある決意をして、コンビニの前で立ち止まる。明るい店内が、夜の闇に浮かび上がっている。


 最近、噂で聞いた。

 このコンビニで、深夜に雑誌コーナーの隙間から誰かが覗いていても、決して目を合わせてはいけないって。

 見ると、変なものがまとわりつく。

 でも今、私に必要なのは避妊具ゴム、それだけだ。

 食べ物がなかったら、最悪こども食堂を使えばいい。

 今からすることより、噂が怖い。でも、やるしかない。


 ふと、背筋がゾクッとする。

 誰かが見ている気がして、振り向く。でも、誰もいない。

 ただの気のせいだ。そう思って、コンビニの中へ入った。


 店内は明るくて、暖かい。でも、私には居心地が悪い。

 レジの向こうに、店員が立っている。若い男だ。私を見て、少し眉をひそめた。

 きっと、私の格好がおかしいんだろう。白いコートは汚れているし、髪もボサボサだ。

 でも、気にしないで商品棚の前に立つ。


 避妊具ゴムのコーナーには、たくさんの種類がある。

 コートのポケットに入りそうなサイズのものを選ぶ。小さくて、薄いやつ。


 万引きは犯罪だって考えが頭に浮かんで手を止める。

 でも、生きるために、仕方のないことだって自分に言い聞かせて、意を決して商品を手に取る。レジに持っていく必要はない。

 見つかったらどうしようと思いながらも、ポケットに入れた。


 その瞬間、雑誌コーナーの隙間から誰かが見ている気がした。

 振り向いてしまう。

 雑誌の隙間から、濡れた髪の女の目が見える。


 髪がびっしょりと濡れていて、水が滴り落ちそうだ。

 その髪は、雑誌の隙間から垂れ下がって、まるで海藻のみたいに絡みついている。

 水が、ポタポタと雑誌の上に落ちている気がする。

 その目は、まるで死んだ魚みたいに濁っていて、焦点が定まっていない。

 でも、確かに私の方向を見ている気がする。


 湿気とかびの臭いが、雑誌コーナーから漂ってくる。

 腐った水の臭い。

 気持ち悪い。

 吐き気がする。

 でも、目を逸らせない。見てしまう。

 目が合いそうになった。

 でも、ギリギリで目を逸らした……はずだ。


「してはいけないこと」を破らなかったはず。すごく怖かった。

 背筋がゾクッとする。

 そして背中に、冷たい水が伝うような感覚が一瞬だけ走った。

 でも、すぐに消えた。ただの気のせいだ。そう思いたい。


 でも、今、そんな因習や噂なんて、どうでもいい。

 今、私にとって大切なのは今日仕事ができるかどうかだ。


 恐怖で挙動不審になる。

 不自然な動きになりながら、店の出口へと向かった。

 でも、すごく怪しかったのか、早足でレジから出てきた店員に腕を掴まれた。


「ちょっと、待ってください」


 店員が怖い顔をしている。


「さっき、何かポケットに入れませんでしたか?」


「……入れてない」


 嘘だ。でも、嘘をつくしかない。


「防犯カメラに写ってるはずです。確認しましょう」


 防犯カメラ。バックヤード。閉じ込められる。逃げられなくなる。

 焦って考えることがまとまらない。


「……違う。違うって」


 当たり前だけど、店員は信じてくれない。


「バックヤードに来てください。警察、呼びますよ」


「やだ……やだよ……ここでいい……」


 店員は、私の腕を強く引っ張る。抵抗しようとする。でも、男の店員に力で勝てるはずはない。


「お願い……ここで……お金、払うから……」

「ダメです。来てください」


 警察……警察を呼ばれたら、親にも連絡が行く。

 母親に連絡が行ったら、迎えに来られてしまう。 

 連れ戻されたら、また、あの地獄に戻る。 

 戻りたくない……戻りたくない。


 胸が、苦しくなってきた。

 息が、うまく吸えない。

 吸おうとしても、空気が入ってこない。

 頭が、ぼーっとする。

 目の前が、白くなってきて、耳が、遠くなってきた。

 心臓が、バクバクと鳴っている。

 早すぎる。止まりそうだ。

 でも、止まらない。止まらない。止まらない。


「やめて……お願い……やめて……」


 声が出ない。

 でも、出さないと。出さないと連れていかれる。

 でも声が出ない。息もできない。


 でも、店員は、ごねる私の腕を軽く引っ張って、バックヤードへと連れて行こうとする。


 その時、背後から声がした。


「おいおい、可哀想に。いくらだそれ?」


 振り向くと、そこには知らない綺麗な男が立っていた。

 サングラスをしていてもわかるくらい顔が整っていて、細身で、背が高い。それに、派手な赤いレザーコートを着ている。

 男の目つきは悪いけれど、優しいまなざしでサングラス越しに私を見下ろしている。

 救いの手に見えた。でも、どこか…何か、違う。


「俺が払ってやるよ」


 男が、店員に話しかける。


「ちょっと、勘違いしてるみたいだから、説明させてくれよ」


 店員は、男を見て少し警戒したような表情を浮かべた。

 でも、男はにこにこと笑って店員に近づいた。


「この子、俺の恋人なんだ。財布を持たせるのを忘れたんだよ」


 男の声は優しい。でも、その目は冷たい。


「だから、お金がないんだ。でも、避妊具ゴムが必要でさ。仕方なく、万引きしようとしたらしい。魅力的な男の罪ってやつだ」


 店員は、男の言葉を聞いて眉をひそめた。

 明らかに、嘘だと分かっている。


「商品をポケットに入れていました。万引きです。防犯カメラを確認させてください」

「そうだよな。でも、この子、警察に連れていかれたら、俺にも迷惑がかかるんだよ」


 男は、店員の肩に手を置いた。その手の力が、少し強くなった。


「恋人なのに、万引きさせてたってバレたら、俺も困る。それでいいの?」


 男の声は、まだ優しい。でも、その目は冷たく店員を見つめている。


 店員は、男の言葉を聞いて少し迷ったような表情を浮かべた。

 でも、男はさらに言葉を続けた。


「それにさ、この子、まだ若いんだよ。警察に連れていかれたら、人生終わりだろ?」


 男は、私を見てにこにこと笑った。でも、その笑顔はどこか胡散臭い。本当は、優しくないみたいだ。


「俺がちゃんと謝って、代金も払う。それで、許してくれないか? それとも、俺がもっと面倒なことをしてもいいってことか?」


 店員と男のやりとりを聞いているうちに少しだけ冷静になった。

 改めて、男を見る。細身で背が高い男の、派手に染めた綺麗な銀髪が、店内の明かりに照らされて、少し光っている。

 その顔は、整っていて芸能人なのかなって思う。でも、キツいつり目の奥の瞳は冷たく見える。

 美しいけれど、どこか気持ち悪い。


 店員は、男の言葉を聞いて、少し考え込んだ。

 そして、ため息をついた。


「……分かった。でも、もう二度と、この店には来ないでください」


「ありがとう。店員さん、優しいね」


 男は、ポケットからたくさんのお金を挟んでいる分厚いマネークリップを出した。

 それから、店員に一万円を一枚渡した。


「釣りはいらないよ」


 店員は、男の言葉を聞いて少し驚いたような表情を浮かべた。

 そして男は、私の肩を抱いて引き寄せた。


「さあ、行こう」


 私は、男に肩を抱かれたままコンビニを出た。

 外には、黒い車が停まっていた。よく分からないけど、すごく高そうな車だ。見たことないくらい、立派な車。

 運転席には、別の男が座っている。

 男は、私の肩を抱いたまま、車のドアを開けた。


「入って」


 男に押し込まれるように、車に乗り込む。最初は優しかった男の雰囲気が、私を車の中に乗せてから、少し変わった気がする。


 車の中で男は、タバコを取り出して火をつけた。

 小さな声で「タバコ、買い損ねちまったな」と言っていたのが聞こえた。

 男はそのまま煙を吐き出す。その仕草が、なんだか様になっている。芸能人とかモデルみたいにかっこいい。

 派手に染めた銀髪は、車内の暗い光に照らされて、キラキラしてるし、整った顔が、タバコの煙に包まれて、もっと美しく見える。


 車が静かに走り出した。

 窓の外には、街の光が流れていく。コンビニの明かり、信号機の赤と青、ネオンサインの色が、次々と過ぎていく。

 私は、少しだけ窓の外を見た。街の光が、ぼんやりと見える。でも、すぐに、目を逸らした。


「で、お前、名前は?」

「……アマネ」

「アマネか。俺は式條だ」


 式條。この男が、私を助けてくれた。でも、信じるつもりはない。

 今は、この人に頼るしかない。信頼はしない。でも、媚びを売った方が得だ。


「で、なんであんな挙動不審だったんだ? プロならもっとうまく盗めよ」


 式條は、私を見て冷たく笑った。

 その声は、先ほどまで優しかった低くて柔らかい声だったのに、今は少し冷たさを帯びている気がする。


「……あそこに、いたから。見ちゃいけないものが」

「はあ? 幽霊にビビって万引き失敗したのか? 傑作だな。人間よりオバケが怖いのかよ」


 式條は、私の言葉を聞いて、鼻で笑った。

 バカにされている。でも、何か、私の怯えた顔を見て、楽しそうにしている気がする。


「……でも、本当にいた。雑誌の隙間から、濡れた髪の女の目が見えた」

「濡れた髪の女? はあ、お前、バカか? そんなもん、ただの都市伝説だろ? オバケなんて、所詮はオバケだよ。何もできない」


 式條は、私の言葉を聞いて、鼻で笑った。


「……でも、本当にいた」


「だから何だ? オバケがいたって、何もできないだろ」


「……でも、怖かった」


「だから、安心しろ。俺がいるから、大丈夫だよ。お前は、これから俺に守られるんだ」


 式條の声は、優しい。でも、その優しさの裏に何か冷たいものが隠されている気がした。


「……信じてる」

「バカなガキだな。だが、嫌いじゃねえよ」


 式條は、私の言葉を聞いて鼻で笑った。


「でも、そんなもん、俺の前じゃ何もできない。俺がいる限り、お前は安全だ」


 式條は、計算高い笑みを浮かべた。その目には、何か興味深そうな光が浮かんでいるみたいに見えた。


 ふと、背筋がゾクッとする。

 誰かが見ている気がした。窓の外を見る。でも、何もいない。

 ただの気のせいだ。濡れた髪の女のことを思い出して、怖くなっただけだ。

 でも、背中に、冷たい水が伝うような感覚が一瞬、走った。すぐに消えた。


 式條は、私の言葉を聞いて、少し考え込んだ。

 タバコを口元に近づけて、ゆっくりと煙を吐き出す。

 今まで、体を売るために、汚いおじさんたちとしか関わってこなかった。

 たまに若い人もいたけど。そんなのとはレベルが違う。見た目だけなら、見惚れて思わず息を止めてしまうくらい美しい。

 こんな人と一緒にいるなんて、なんだか、信じられない。

 でも、この人も、結局は私を利用するつもりなんだろう。きっと、そうだ。

 でも、それなら私もこの人を利用してやればいい。金と住むところが手に入るなら、それでいい。


「で、親に連絡されたくなかったのはなんでだ? 虐待か?」


 私は、式條の質問を聞いて、少し迷った。

 でも、この人に頼るしかないのは変わらない。それなら媚びを売った方が得だ。

 だから、少しだけ、話してみよう。


「……母親が、ヒステリーを起こして、私が大切にしていたものを、全部、ゴミ袋に詰めて、ゴミ置き場に捨てたの」

「ゴミ袋?」

「うん。友人からの手紙も、隠して買った化粧品も、学校の制服も、全部。『汚らわしい』って言って、ゴミ袋に詰めて、ゴミ置き場に捨てた」

「……それで、お前、回収したのか?」


「……うん。雨の中、カラスがついばんだゴミ袋を漁って、ドロドロになった私物を回収した」

「……でまた、捨てられたのか?」


「……うん。また、捨てられた。何度も、何度も。私が回収しても、また、捨てられる。私が部屋に戻しても、また、ゴミ置き場に置いてある」

「……へぇ。お前、どうしたの?」


「……もう、回収しなくなった。でも、母親は、別のものをまだ、捨て続けた」

「……だから、家出したのか?」


「……うん。でも、それだけじゃない。母親が、私を殴った。首を絞めた。でも、私が、母親を殴り返した。酒瓶で、頭を殴った」

「……おいおい、殺したのか?」


 式條の声に、興味深そうな響きがあった。面白がっている。でも、その声がなんだか、嬉しかった。


「……分からない。でも、動かなくなった。白目を剥いて、動かなくなった」


 死んでくれていたら、嬉しい。でも、分からない。


「……で、怖くなって勢いで家出したってわけか」


「……うん。でも、母親が、死んでるかどうか、分からなかった。でも、触れたくなかった。だから、逃げた」

「……それで、誰にも助けを求めなかったのか?」


「……うん。誰にも。だって、誰も助けてくれないから」

「……誰も?」


「……うん。誰も。学校の先生も、近所の人も、誰も。私が、母親に殴られてても、誰も助けてくれなかった」

「……それで、父親は?」


「……父親も、殴る。でも、それだけじゃない。父親は、私を……犯す。何度も、何度も。母親は、それを見てても、何も言わない。むしろ、私が悪いって言う」

「そりゃあ、キツいな。お前は、どう思った?」


「……誰も助けてくれない。だから、自分で助かるしかない。でも、自分で助かることもできない。だから、逃げた」


 式條は、私の言葉を聞いて、少し考え込んだ。

 そして、タバコを灰皿に揉み消して、新しいタバコを取り出して、火をつけた。

 煙を吐き出しながら、少し考え込むような表情を浮かべた。


「お前、俺の下で働かないか?」


「……働く?」


 おかしい。でも、思いもしなかった提案だった。

 街に立って、警察の目に怯えながら、体を売る。それよりも、もっと良い暮らしができるかもしれない。

 そう思うと、少しだけ心が軽くなった。希望が、ほんの少しだけ、湧いてきた。


「お前の見た目、今はまだ田舎臭いが、磨けば光る。俺が手をかけてやれば、もっと良い暮らしができる」


 式條は、優しい声でそう言った。

 その目には、何か、温かい光が浮かんでいるように見えた。

 でも、その言葉の裏に、何かが隠されている気がした。


「……でも、何をするの?」


「まずは、俺名義のマンションに連れて行く。お前と似たような立場の女が何人かいる。でも、お前は、頑張り次第で特別になるかもしれないぞ?」


 式條は、私の肩に手を回したまま口元だけを歪めて笑った。


「それから、お前は俺の言うことを聞いて、金を稼げ。だが、無理はさせない。お前ができる範囲で、いい」


 式條は、私のポケットにチラリと目をやった。ボロボロの古いスマホが見えた気がする。恥ずかしくなって、スマホをポケットの奥に押し込んだ。見えないように、隠すように。


「最新型のスマホだって買ってやる。俺に気に入られれば、もっと良い暮らしを保証してやる。小遣いだってやるし、お前が困らないように、全部、面倒を見てやる」


 式條は、私を見て優しく笑った。

 でも、その言葉の裏に、何かが隠されている気がした。


「でも、もう一つ条件がある」


 式條の声が、少しだけ、冷たくなった。その目には、鋭い光が浮かんでいる。


「俺のことは今後『パパ』と呼べ。クソみたいな親より、よっぽど俺の方が親らしいだろ?」


 式條の声は優しい。でも、その声の奥に、底知れぬ冷たさを感じる。

 見た目は良いし、上辺は優しい。でも、信頼できない。どこかヤバい感じがする。

 でも、ゴミ漁りをして笑われるよりはマシだ。

 そう思って私は、式條の言葉を聞いて、少し考え込んだ。


「……パパって呼べばいいの?」


 式條は、私の言葉を聞いて満足げに笑った。


「そうだ。俺がお前の親になってやる」


 そして、買い取った避妊具ゴムの箱を私に投げ渡した。


「早速これ、使おうか」


 私は、避妊具ゴムの箱を見つめた。

 また、体を売らないといけない。父親に犯されたのと同じ。でも、今度は、この男に。

 絶望が、胸を締め付ける。でも、それでも、道ばたで体を売るよりは、マシだ。

 そう言い聞かせて、同意した。

 でも、心の底では、分かっている。これも、地獄だ。でも、あの家の地獄よりは、マシだ。


「……パパ」


 イヤだった。でも、金と住処のためなら、媚びを売ればいい。そう思って、小さく、そう呼んだ。

 式條は、その言葉を聞いてゆっくりと目を細めた。


 車は、しばらく走り続けた。窓の外には、街の光が流れていく。

 窓に映る、式條の顔。機嫌が良い様子が、はっきりと分かる。満足げに笑っている。

 でも、その笑顔を見ても、何も感じない。ただ、虚しいだけだ。


 やがて、車のスピードが落ちて、高級そうなマンションの前で、車が止まった。

 運転席の男が何かを操作して、マンションの地下に続く、車庫の入口が開く。

 車は、ゆっくりと車庫へと入っていく。

 暗いトンネルのような車庫の中を、車は進んでいく。

 車庫の入口が、ゆっくりと私を閉じていく。

 ガシャンと、音が響く。

 閉じ込められた。でも、これで助かった。これで、あの家に戻らなくて済む。


 あの家に戻りたくない。

 あの地獄に戻りたくない。


 ここは新しい地獄だ。でも、ここなら雨風はしのげるし、父親に殴られることもない。

 私は、この綺麗な檻の中で、飼われることを選んだ。

 ポケットに入れた古いスマホを、指先でそっと確かめる。

 媚びを売って、従順なふりをして、いつかこの男を倒すための証拠を溜め込もう。

 そう思えば、この首輪も悪くない。

 ふと、車窓の暗闇に、濡れた髪の女が映った気がした。 彼女は車と並走するように、じっと私を見つめている。


 ヒッ、と喉の奥で悲鳴が鳴った。 嘘だ。車で走っているのに。

 どうして、あいつがついてくるの? コンビニにいたあれが、私を追いかけてきているみたいに思えた。

 目は、合わなかったはずなのに。


『みぃつけた』


 頭の奥で声が聞こえて、私はガタガタと震えながら、反射的に隣にいる式條の腕を掴んだ。

 怖い。助けて。誰か、あいつを追い払って。


「……ん?」


 式條が、私の手をチラリと見た。そして、口の端をニヤリと吊り上げた。


「へえ。意外と積極的じゃねえか」


 違う。そうじゃない。 否定しようとしたけれど、喉が張り付いて声が出ない。


「いい心がけだ。媚びの売り方はうまいんだな」


 彼は鼻で笑うと、私の肩を抱き寄せベタベタと二の腕を撫で回した。

 その手つきは、怖がってる私を慰めるものじゃなくて、商品を触る手つきだった。


 違う。

 私は怖かっただけなのに。

 でも、この男には通じない。私が怖がってても、助けてって言っても、全部、この男への媚びだと思われるんだ。そういうことなんだ。


 私は、式條の腕の中で小さく息を吐いた。

 言い訳する気力もなかった。

 私は、式條という悪魔に体を売ることで、あの訳のわからない化物から目を逸らした。

 見なければいい。

 気づかないふりをすればいい。

 私はこの泥の中で、何も見なかったことにして生きていく。


―『誰も助けてくれなかったくせに』へ続く―


https://kakuyomu.jp/works/822139840571915658/episodes/822139840572008158

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『守られる』という名の地獄 小紫-こむらさきー @violetsnake206

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