薫風のように

雨木すす

淡い恋心を

 あの頃は、授業なんて全部退屈で。こそこそと教員の目を搔い潜って手紙を回したり、居眠りをしたり、宿題を終わらせたりと、学生たちも自分勝手な理由で忙しかった。私もただぼうっと窓の外を眺めていたし、友人は最前列で居眠りをしていたんだっけ。

「この事例によって、特別な力というものは認められ、法で縛られることになった……だが、まぁ。先生も君たちより長く生きているが出会ったことはない」

「じゃあ、なぜそんな法律が出来たんですか。居ないってことでしょう」

 疑問を述べた生徒の言葉に、教師は時計を見ながら答えた。

「居ない、とも言い切れない。国のお偉いさん方の中に居ても不思議じゃないんだ。それに、隠している人たちも多いと聞くしな。だから、こう言った法があるって事だけど覚えておくといい」

 ――お前たちの身を守るものでもあるからな。そう言うと、教師は教科書をまとめて廊下へと出て行く。ふと思い出したように足を止めると、生徒達に振り返る。その顔には楽しげな笑みが浮かべられていた。

「宿題。もしそう言った力……能力を持っているとしたら、どんな能力か。考えておけよー、ランダムで当てるからな」

 生徒達の不服そうな声を笑い飛ばして、教師は今度こそ教室から姿を消した。ざわざわと騒ぎ出す生徒達、その中を歩いて行けば机に突っ伏した生徒が穏やかに寝息を立てていた。呆れたようにその頭を小突けば、のろのろと起き上がる。

美緒みお、もう授業終わったよ」

「あら……」

 机の上で踊っていた黒髪がさらりと、重力に従って彼女の背に流れていく。目の前の彼女――花淵はなぶち美緒は大きく欠伸をこぼすと、私の手を取り微笑みかける。

「今日の放課後はどこに行こうかな。琴乃は行きたい場所ある?」

「ううん、特にないけど。でも、美緒は相談事があるんでしょ?」

「えぇ、そうなの! 琴乃ことのにはすぐに話したくて……」

 ふたり揃って考え込んでいると、ひとりの少女が興奮気味に話かけてきた。

「ねぇ、聞いて! 都心にね、香水屋さんがあるんだって!」

「ああ、もう。梓、落ち着いて話しな」

 ああ、そうだ。確か、この子から聞いたんだった。目の前で深呼吸をする少女を見れば、先ほどより落ち着いた様子で。それでも瞳を輝かせながら言葉を続けた。

「その香水屋さんには噂があってね。その人が強く思う願いを見せてくれるんだって!」

 ――そんな嘘みたいな香水屋さんの話を。


 ぐにゃりと景色が歪む。ピピピピッ、と無機質で規則的な音が聞こえてくる。まだ開かない視界のまま、手を振り下ろしてその音を止めた。

「行きたくない」

 感情のままにこぼれ落ちた言葉は、どこに届くわけでもなく消えていった。机に足をぶつけながらなんとか起き上がり、身支度を整えていく。ある程度用意を終えて、机の上に散らばしたままの紙に目線を向けた。

 ああ、きっとこれのせいだ。あんな懐かしい夢を見たのは。蓋をしたはずの想いが溢れそうになっているもの、全部これのせいなんだ。

 知らない苗字にくっついた彼女の名前を、そっと指でなぞる。花淵美緒ではなくなる。その事実が喜ばしいことだと思えど、胸が苦しくなる。

 ――願いを見せる香水屋さん。

 もう顔も思い出せないクラスメイトの言った言葉が、頭で響いては消えていく。出席に丸をつけたそれを手に取って、いつも通り家を出た。道中に佇むポストに手を伸ばす。カコン、と赤いポストに吸い込まれていくそれをほんの少し眺めて、背を向けた。

 それらの行為を私の後ろから眺めている、あの頃の私がいる。うるさい、わかっている。そんな恨みがましく私を見ないでよ。お前だって何も出来なかったじゃない。

「遠藤」

「は、はい!」

「呆けてたのか? ったく。明日から有給だっけ? 結婚式と諸々、楽しんでこいよ」

 いつの間に会社に着いていたのか、上司がそう言うと私の肩を叩いて背中を向けた。溜まっていた有給を消費するために、結婚式に合わせて休みを取った。なんとなく、仕事に打ち込めないなと思ったから。

 淡々とキーボードを叩いていくも、思考が揺れて気が散って行く。スマホを開いて、検索画面を開いた。願いと香水屋の文字を打ち込んだ検索画面は、店の存在を証明している。

「割と、ここからは近いんだ。あの時は少し遠く感じたのに」

 ああ、そうだ。確かあの日から数日経った土日に、彼女とその香水屋に向かったんだった。生憎、店は閉まっていたのだけれど。美緒は残念がっていたな、と口元に笑みを浮かべた。

 隣にある駅を示すマップを眺めて呟く。営業時間を見れば、会社終わりに向かっても十分間に合う。残業がなければ、の話だが。大丈夫だろう、とスマホをしまい込み、今度こそ強い意志を持ってパソコンに向き直った。


 遠藤琴乃は、少し疲れた様子で店前に立っていた。木製の扉から、暖かな光が溢れている。光に手を伸ばすようにゆっくりと扉を開けば、森に来たような錯覚を覚えた。奥から足音が聞こえてくる。

「いらっしゃい」

 落ち着いた雰囲気の店の奥から、太陽が顔を覗かせているようだ。柔らかなブロンドの髪がそう感じさせる、美しい青年が此方に笑いかける。

「あ、あの!」

「ふふ、お急ぎですか?どうぞ、此方に」

 カウンターに置かれた椅子を引いて、目の前の青年は手招く。キラキラと眩い光に誘われるように、ゆっくりと足を進めた。

「こんな時間に、迷惑じゃないでしょうか……」

「いえいえ。お客様がいる限りは我々としても店を閉める気はないですよ」

 荷物置きを差し出されて、その中に鞄を閉まった。青年はカウンターの向こう側に座ると、またひとつ笑みを浮かべる。人好きのする笑顔だな、と思った。

「ああ、そうだ。紅茶は飲めますか? 良ければ」

 普段なら断っていたと思う。多分、目の前の男が美しく笑うから「飲めます」とひとつ返事を返してしまったんだろう。

「葵くん、紅茶をお願いしますね」

 扉の奥に声をかけた青年は、また此方に向き直った。そして、思い出したように後ろの棚から数枚の紙を取り出した。

「それで、貴方は願いを見に来たのでしょうか?」

「……あの、こう言った事を聞くのはあれなんですが。それはどういう意味なんでしょうか? きちんと調べてから来るべきでしたね。すみません」

 質問を質問で返すような真似をしたのにも関わらず、青年は変わらずに柔らかな笑顔を浮かべている。

「どうぞ」

「うわっ、すみません!」

 背後から伸びてきた手とカップに驚いて、思わず声を上げた。目の前の青年とは真反対に感じるほど、暗い髪の青年が紅茶を差し出していた。

「こら、葵くん。お客様を驚かせないで」

「すみません……。大丈夫でしたか?」

「あ、大丈夫です!こちらこそすみません……」

 ふわりと紅茶の香りが混じっていく。微かに香る、花の香り。

「バラ……?」

「あ、そうです。折角紅茶を飲むなら、今日の香りに花を混ぜてもいいなって思って。嫌いじゃないですか?」

「むしろ、好きです。よくあるバラの香りと違って、キツくなくて」

「そりゃ、よかったです」

 くしゃりと、黒髪の青年が微笑む。「俺は渡瀬わたせあおいです。こっちが舞草まいぐさしきみ」そう言って、彼自身と青年――舞草さんを指差した。

「樒です。夢を見る、という事についてでしたね。能力者が居る、と言うことは今現在では義務教育内で教わる事だとは思います。これも能力のひとつですね、簡単に言ってしまえば」

「へぇ……攻撃的なものでは無いんですね」

「ええ。そういった能力が目立つのも分かりますけどね」

 まだ緩やかに湯気を立てる紅茶に口付けた。ほのかな甘みが、気分を落ち着けてくれた。舞草さんが手元にあった紙をペン先でトンと叩いて私を見る。それが合図だった。

「では、あなたの名前を教えてください」

 薄い色をした瞳が、じぃっと此方を見ている。逸らせぬまま、名前を答えた。素敵な名前だ、なんて。そう呟いた彼の瞳が、一瞬輝いたように見えて。

「遠藤琴乃さん。さぁ、あなたの願いを聞かせて」

 甘い、甘い、花の香りがしたような気がした。




 始まりは、そう。高校生の時です。そう言って遠藤琴乃は、ポツリポツリと言葉を紡ぎ始めた。時折思い出したように笑顔を浮かべて、それからハッしたように此方を見て照れるように頬を掻いた。

 私と彼女は親友でした。少なくとも、彼女は今でもそう思っていると思います。あれは、夏でした。突然彼女から、好きな人が出来たと相談を受けたんです。その時に何故か心臓がギュッとなって。笑顔が引き攣ったようになりました。当たり前だと、思ってしまっていた。彼女の隣に居るのは自分なんだと。別の人が、私の代わりに彼女を幸せにすると思うと、どうしようもなく悔しくなる。それは今も変わらないんですけどね。

「お相手の彼女には、その気持ちは?」

「まさか。伝えてしまえば、きっと……私は親友という立ち位置も得られなくなってしまう」

 彼女のカップを握る手に力がこもっていくのが分かる。白くなっていく指先が弱々しく震えている。

「遅かった、なんて。この感情を伝えるつもりもない私が、何を言えるわけじゃないんですけど」

「ええ」

「……好きだった。美緒のことが、好きだったんです。私」

 抑え込んでいた感情が、蓋を開けてこぼれていくように言葉に変わる。大好きだった、そんな言葉と共に彼女の瞳から大粒の雫が落ちる。

「どこが、好き?」

 彼女に心の奥底を。大切な感情を引き出すように、尋ねる。柔らかな声で、ゆっくりと、警戒させないように。

「……お淑やかに見えて、猪突猛進なところ。みんなの事を振り回すの、あの子」

 濡れた瞳が優しく揺れて、笑顔を作る。歪なはずのそれは、ここに来てから浮かべた笑みの中で一番美しく思えた。人を想う、強い気持ちが。

「じゃあ、嫌いなところは?」

「あは、意地悪な質問。……私の知らない人と、幸せになっちゃうところ!」

 遠藤琴乃は笑う。美しく、強く。顔を上げて、涙を拭った。崩れた化粧も、濡れた頬も、全てがキラキラと輝いている。目の前の人物を輝かせる糧になっていた。

「その表情、素敵ですね。もしかして、願いは決まりましたか?」

「ええ」

「では、君の願いを」

「彼女を――美緒を、笑って送り出せるように。私の恋心に、終わりを与えてください」

 前を向けるように。そう言って、遠藤琴乃は立ち上がった。祈るように胸に手を当てて、出来ますか?と問う。

「かしこまりました。君の願いを叶える夢を」

 樒はそう言って紙に何かを書き始めた。ちらりと時計を見やると、少し困ったように笑った。

「格好つけて言ったのはいいんですが、流石にこの時間からですと帰るのが遅くなってしまいます。明日のご都合は?」

「あ、確かに……ふふ、すみません。テンション上がっちゃって。明日はお休みなのでいつでも大丈夫です!」

 なら、この時間で。そう言うと樒は小さなメッセージカードを差し出した。綺麗な字で書かれた10時という文字と、ほんのりと感じる爽やかな香り。

「駅まで送りましょう。葵くん」

「あ、大丈夫ですよ」

「駄目です。泣きはらした女性、と言うだけで声をかけてくるような方もいらっしゃるんですから」

 そう言うと、ハンカチを差し出して背後を示し、扉の前で葵が待っている。

「では、明日。お待ちしております」

「はい、よろしくお願いします」

 からんころん、とベルが鳴ってふたりは店から出て行く。それを見送って、樒はひとつ息をこぼした。

「さて、葵くんが戻るまでに何種類か、香りを決めておきましょうか。あとは……もう香りも流してしまおう」

 表にかけてあるプレートを裏返して、終わりを告げる。そのまま流れるように小さな小窓を次々に開け放った。森の香りが都会に溶けて、消えてゆく。踊るように、樒は次々に精油の入った瓶をカウンターの上に集めていく。導かれるように、迷う事なく。最後の精油の瓶をカウンターに置けば、店に漂っていた森の香りは微かに残る程度になっていた。

「よし、あとは彼の仕事だ」

 小窓を閉めながらそう呟けば、からんと扉が開いて葵が戻ってきた事を知らせる。

「葵くん、よろしくね」

「任せてくださいよ」

 そう答えると、精油の瓶を眺めて頷いた。ここからは、自分の独壇場だとでも言うように、ひとつひとつの香りを嗅いでいく。

「内容は決まってんすか?」

「うん。心残りを溶かす夢」

 へぇ、と息をこぼすように呟くと葵はその手に手袋をはめた。



「好き……。そう、好きなんだ」

 転がすようにその言葉を何度も口にした。一度言葉にして、出してしまえばもうそれは誤魔化しようのないくらい大きく膨れていく。幼い自分が、ほらね、とでも言うように私を見ている。

「知ってた。私はあの子に恋をしていた、愛していた。側にいたいと願って、それでも伝えるのは怖くて」

 ――この気持ちに蓋をして、誤魔化した。何年間も、ずっと。これは友愛だと、言い聞かせて。でも怖くて、なにも出来なくて。

 あの時伝えていれば、もしかしたら何かが変わったのかもしれない。そんな、もしもを思い浮かべて苦笑する。悪いほうに転がる可能性の方が高いのに、そんな勇気あの頃の自分にも、今の自分にも無いというのに。

「……ちゃんと、あの子の幸せを祈りたいの」

 溢れ出る思いをどこにもぶつけられないまま、あの子の結婚式になんて行けない。だから、願い縋った。不思議なくらいすんなりと、この感情を認めて話せたあの香水屋に。

「どんな夢を見るんだろう、明日」

 ベッドの上で、ゆっくりと瞬く。少しずつ間隔が長くなっていき、そのまま目を閉じた。


 *


 店には人が賑わっていた。昨日とは違うのはそれだけじゃなく、店内を包んでいた香りが無い。ほんのりと香るような気がするけれど、邪魔しない香りだ。恐らく、テスターを試せるようにだろう。まだ時間に余裕があるので、昨日は見られなかった店内を見渡した。香水のほかに、スティックタイプのルームフレグランス。サシェやポプリ、練り香水などが綺麗に陳列されている。

 様々な品を眺めていれば、レジで対応をしていた葵がこちらに気がついた。手元にあった小さなベルを鳴らせば、奥から樒が顔を覗かせた。

「あ、樒くん!」

 樒を見つけたお客さんが、わっと集まっていく。あの美しさだ、無理もない。樒は柔らかく、それでいて少しだけ眉を下げて微笑む。

「皆様、ようこそお越しくださいました。ごゆるりと香りを楽しんでくださいね」

「舞草くん、私にも香水を作ってちょうだい」

「ええ、ご希望とあれば。……ですが、申し訳ありません。本日は先約がございまして」

「あら、なら仕方ないわね」

 頭を下げた樒がまっすぐこちらに向かってくる。

「遠藤様、どうぞこちらへ」

 彼に先導されながら、棚を通り過ぎて扉の前に立つ。促されるまま、扉を開けた。

 花が咲いている。暖かな部屋で、黄色い花が咲き誇っている。まるでドレスのような花が。花畑の真ん中にいるみたいな景色に、思わず心が躍った。そんな私を見てクスリと笑った樒に、真ん中にぽつりと置かれた椅子を示され、促されるままに腰掛ける。左側から、樒がひとつの瓶を差し出した。

「葵くんが調香してくださいました」

 そう言うと、使った精油を並べて見せる。ベルガモット、ゼラニウム、ローズにアンバー。それを合わせた香水を、樒は手に取るとお願い事、と称して言葉を紡いだ。

「貴方の恋心に終わりを告げるために、貴方の心残りを溶かす夢を見せます。具体的には……いえ、実際に体験する方が早い」

 ゆっくりと背もたれが倒れていく。天井に飾られた黄色い花がゆらゆらと揺れている。徐々に部屋の明かりが暗くなっていく。

「ゆっくり、力を抜いて。瞼を閉じて。大丈夫ですよ」

 心地よい声が、緩やかに流れる。まだ起きたばかりで眠くないはずなのに優しい声とほんの少し聴こえる、何かも判断のつかないほど小さな音が一定のリズムを奏でている。

「体をゆっくりと預けて。四肢の力を抜いて、そう」

 プシュッと音がして、香りが広がる。爽やかで、それでいて少し甘いベルガモットの香り。

「良い香り……」

「よかった。じゃあ、呼吸に意識を向けて。胸が持ち上がるようにゆっくり、大きく息を吸って。それからゆっくりと力を抜いて」

 呼吸がいつもよりゆっくりになって、穏やかになっていく。空気に溶けていくように力が抜けていく。

「うん、良い感じです。……これから貴方は夢を見ます。夢、だから貴方の思うままに行動して。夢なのだから」

 ゆらゆらと意識が揺れていく。そう、これから見るのは夢だ。現実じゃない、夢。

「最後に大きく息を吸って、そう。……吐いて。――おやすみなさい」

 意識が、深く、深く、沈んでいく。黒い海を漂うように。沈んで、沈んで、光に落ちていく。眩しいくらいの白に、目を覆った気がした。


 風に揺れるスカートと、私を呼ぶ声が聞こえる。懐かしくて、恋焦がれた大好きな声。

「美緒……」

「もう、どうしたの?私何度も呼んだのに、琴乃ったらずーっと無視するんだもの」

 寂しかったわ、という言葉に胸がドクリと音を立てた。一度自覚してしまえば、もう駄目だった。心の奥底から、ごうごうと燃え盛る恋心が顔を覗かせている。

「ほら、琴乃。今日は海を見に行くんでしょ? はやくはやく」

 美緒の手が、私の手を包んで引っ張る。場面が、変わる。キラキラと光が反射して、彼女をより一層美しく魅せた。

「冷たいね。もう少ししたら海開きになるかな」

「そうだね。夏になったら海に泳ぎに行こう」

「行く! 海も行きたいし、夏祭りも行きたい……ふふ、行きたい場所がいっぱいね」

 裸足になった美緒が、海の上で踊っている。パシャリと水が跳ねて「塩辛いね」なんて笑う。手で掬った海水を、空に打ち上げる。空から帰ってくる水でまた濡れた。

「びしょ濡れだね」

 夕陽に照らされた美しい彼女の頬にかかった髪をよける。優しいね、なんて言う彼女は何もわかってないんだろう。無垢で綺麗な、ずるいひと。

「ねぇ、美緒。……好きよ」

 呼吸をするように口から溢れでた言葉は、彼女の耳にきちんと届いている。大きな瞳が、いつも以上にまんまるに見開かれてあふれてしまいそうだから。何度も瞳を瞬かせて、唇が音を作らないまま動いている。

「好き。愛してる。何よりも幸せになってほしいの、だから……私を拒んで」

 震えていく声を、誤魔化すように笑う。視界が揺れて、美緒の姿すら歪んでいく。海水と違って温かな何かが溢れている。見て欲しくなくて、足元を見る。水面が赤を映して揺れている。

「琴乃」

「お願い……拒んで」

「聞いて。私の言葉を聞いて」

 美緒の手が私の頬を包む。きっと酷いくらいぐちゃぐちゃな顔をしているのに、それを見て彼女は優しく笑う。

「まずは、ありがとう。その好意はとても嬉しいの」

 涙を優しい手つきで拭う。

「でも、ごめんなさい。私はその気持ちに応えられるほど、強い気持ちを持っていないの。拒むわけじゃない、でも応えられない」

 頬を包んでいた手がゆっくりと離れていく。拒んでほしい、と願っていたはずなのに、いざ拒まれれば泣きたくなるくらい悲しい。

 拒まないで。側にいて。――――私以外と幸せにならないで。

 拒んで。離れて。――――私を置いて幸せになって。

 真反対の感情が入り乱れて、ぐちゃぐちゃになっていく。

「気の迷い、なんて言うほどその感情が軽くないってわかる。だから、私も真剣に応えるわ。ごめんなさい」

 夢だから……いや、そんな事ない。きっと美緒は現実でもこう答えただろう。突拍子もない事を言うこともあるけれど、誰かを否定することのない子だったから。

「……うん、ありがと。ねぇ、美緒。幸せになってね」

 拭っても溢れてくる涙を無理やり拭い去って、笑みを浮かべた。

「うん、私きっと誰よりも幸せになるわ。だって、あなたがこんなにも強く想って、願ってくれるんだもん」

 きっと忘れないだろう。こんなにも美しく笑う彼女のことを。私の記憶にしか残らない、淡く儚い夢の景色を。

 幼い頃の私が、泣きながら笑う。あれはきっと、私の恋心だったんだろう。あの頃のまま止まった、私の想い。

「好きになってくれて、幸せを願ってくれてありがとう。これは酷いことなのかもしれないけど、あなたをとても大切な友人だと思っているわ。この先も、ずっと」

 ああ、もうそれだけでもいいのだ。嫌わないで、否定しないでいてくれるなら。伝えられただけ、幸せなのだから。そうだ、確かに私は彼女に――美緒に気持ちを伝えられたのだから。

 美緒の姿が、海に溶けていく。ゆらゆらと歪んで、回る。全てが吸い込まれるように消えていった。始まりと同じように黒い海を漂う。違うのは、あの頃の私が目の前にいる事だけ。私の恋心が、じっと見ている。

「わたしを、この恋を認めてくれてありがとう」

「……こちらこそ。ずっと奥底にいて退屈だったでしょ」

「ううん。認めてくれただけでも嬉しいのに、わたしを伝えてくれた。もう満足だよ」

 足元から光になっていく。すっきりしたような表情で私が笑う。ほんの少しの光を残して、私が消えた。それと同時に、意識が浮上するような感覚を覚えた。深く息を吸う。これは、バラの香りだ。でも華々しく気高く咲くバラではなくて、優しいバラの香り。

「目は閉じたままで。……あたたかいタオルを乗せますね」

 じんわりと、目元に温もりが感じられた。暖かくて、安心する。

「ゆっくり深呼吸をしましょう……うん、もう大丈夫」

 少し痛む目尻に触れながら、瞼を開ける。黄色い花と同じ、明るい髪色がぼんやりと暗い部屋に浮かんでいる。霞む視界が、徐々にハッキリとして深い眠りから覚めたような気分だ。

「おはようございます。お水をどうぞ」

「お、はようございます」

 自分が思うよりも掠れた声で、戸惑った。いつの間にか濡れていた頬を拭いながら、水を受け取る。ミントの浮かんだ水はスッキリとした味で、気分も同じようにスッキリとした。

「気分はいかがですか?」

「……伝えるって大事なんですね」

「……そうですね。きっと、一番大切なことなんだと思います」

 答えになっていない返答を口にする。自分の中で芽吹いた恋がきちんと咲いて枯れていくような気分で、悲しいけれど。それでもきちんと咲いた。

「ありがとうございました。舞草さんも、渡瀬さんも」

「はい。葵くんにも伝えておきます」

「……あぁ! スッキリした!」

 突然あげた大声にも驚くことなく、樒は笑みを浮かべている。ぐっと背を伸ばして、肩の力を抜く。不思議と体自体も軽くなっているような気がした。

「残りはどうぞ持ち帰ってください。夢を見る効果はこれ自体にはありませんが、香りは楽しめますので」

「わっ、ありがとうございます! ふふ、好きな香りだから嬉しい」

「それは良かった。葵くんも喜びます」

 小さな瓶に詰まった香りをぎゅっと握りしめる。なんとなく、これがあれば前を向いていける気がして。

「あ……そういえば料金とか聞いてなかったですね。お会計はレジで平気ですか? それともここでの方がいいですかね」

「はい、レジで平気ですよ。それに、夢を見せるのは僕の趣味と言いますか、仕事といいますか……この香りのお代だけで大丈夫ですよ」

 どうぞ、と開け放たれた扉を通り過ぎてレジ前に立つ。来た時よりも少しだけ人が減った店内を見渡す。それぞれが気にいる香りを求めて、手に入れて、幸せそうに笑う。

「今日は少し疲れたと思うので、ゆっくり休んでくださいね」

「はい、本当にありがとうございました」

 頭を下げながらそう言えば、差し出されたひとつの花。桃色の花。そこから手を辿って顔を上げれば、少し困ったような表情で葵が笑っている。

「良ければ持ってってください。花弁が開きすぎてるんで、もう香りには使えないんですよね」

「あ、ありがとうございます。綺麗……」

 息を深く吸い込めば、バラの香りが胸いっぱいに広がっていくようで。優しく胸に抱いた。

「また、いつか。香りを求めに来てくださいね」

「気をつけて帰ってくださいね」

 木製の扉を開けて外に出る。きらきらと眩しい光が、目を刺してくる。鞄に仕舞い込んだ瓶を取り出して、手首に吹きかける。瑞々しいベルガモットの香りが空気に溶けていく。肩の上で跳ね返っている髪を見る。少し傷んだ毛先を摘んで捻った。

「よし、髪切りに行こ!」

 そう決意すれば、心地よい風が吹いた。




「琴乃! 見て!」

「はいはい、もう綺麗だって! 何回も言ってるでしょ」

 御伽噺に出てくるお姫様のような美しい女性が、くるりとドレスを広げてみせる。純白のドレスが、ふわりと翻って踊る。それを黒い髪を短く切り揃えた女性が呆れたように見つめている。

「ねぇ、本当に私のでいいの? 幸せな夫婦から借りるのがいいって聞くよ?」

「いいのよ! 私は琴乃から借りたものがいいんだもの。その方がずっと幸せになれそうだし」

 花嫁の友人が、白いハンカチを差し出す。それを受け取った花嫁は、嬉しそうにそれを握りしめた。コンコンと扉が音を立てて、ゆっくりと開く。白いスーツに身を包んだ男性が、花嫁を見て幸せそうに笑う。

「綺麗だ……」

「ふふ。琴乃も貴方もそう言ってくれるなら、今の私は凄く綺麗なのね」

 夫婦が幸せそうに笑う。それを見て、友人も幸せそうに笑っている。

「じゃあ、また後で。式場で待ってるよ」

「うん。ありがとう、琴乃」

 手を振る花嫁と、控えめにお辞儀をする花婿。ふたりに背を向けて友人は式場へと向かう。座席に座って、細く息を吐いた。

 式は進んでいく。指輪の交換を終えたふたりは、照れくさそうに、それでいて幸せそうに顔を見合わせている。嬉しそうに泣いている両親の後ろで、友人は微笑んでいる。口元が小さく動いて、吐息に近い音が洩れる。

 花婿と花嫁の唇が重なる。

「世界で一番、幸せになってね」

 聞こえるはずのない声が、溶け切る前に。花嫁の視線が友人を捉えた。そして、くしゃりと笑った。友人の瞳には、それがとてつもなく幸せそのものに見えて、友人も優しく微笑んだ。


 *


 香りと対話する葵の姿を見つめる。カラン、とスポイトが机の上に放り出されたのを見て静かに近付いた。

「あまり、根を煮詰めすぎない方がいいよ」

 すっかり暗くなった窓の外を指しながらそう言えば、今気がついたとでも言うように立ち上がった。

「樒さんは?」

「僕はもう少し残るから。店の香りを逃して、部屋の花を見たら帰るよ」

「了解っす。戸締りと、電気消すの忘れないでくださいよ? あんた少し抜けてるから」

「ふふふ、心配性だなあ。大丈夫だよ」

 キャップを深く被った葵は、もう一度こちらに注意をすると店の外へ出ていった。それを見送って、扉に鍵をかける。葵の作っていた香りの残り香を逃すように窓を開け放つ。彼の書き綴ったレシピを眺めながら、香りを嗅いだ。

「バイオレット、ジャスミン、シダーウッド……。ヒヤシンスと微かにローズも、かな。うん、これからの季節に合う香りだ。葵くんらしい」

 雨に濡れた紫陽花が目に浮かぶような香りを楽しみながら、ノートを開く。

 帳簿の書き込みなどを終えれば、もう店内から香りは消えていた。窓を閉めて、戸締まりの確認を済ませた。店内の明かりを落として、奥の部屋に向かった。

「今日もお疲れ様」

 黄色い花を撫でるように触れた。風もない部屋で花が揺れてる。椅子と花以外何もない部屋で、壁にもたれかかった。下に向けたラッパような花がひとつ床に落ちる。

「貴方の息子は、今日も元気ですよ。だから、安心して見守っていてください」

 何もない空間にそう語りかける。当然、返答などないと分かっているのに。

 手慰みに、落ちた花に触れて目を瞑る。記憶の中で、ひとりの老人が慈愛という言葉が似合う表情を浮かべて樒を見ていた。ゆっくりと、ゆっくりと息を吐く。


 暗い店内とは裏腹に、外では日が昇りはじめようとしていた。

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