【1分間読了∣掌編小説】薄羽蜉蝣

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第1話 薄羽蜉蝣

 東京出張の夜、ふと温かいものが欲しくなった。洋食ではなく、出汁の湯気に包まれる和食だ。


 ホテル近くの博多料理の店に入ると、煮詰めた鶏ガラの匂いが迎えてくれる。炭に落ちた脂が弾ける音が、身体の奥に少しずつ火を灯した。


 カウンターに座り、地元の酒の飲み比べを頼む。すると隣に座るショートカットの女性が声をかけてきた。


「日本酒、好きなんですか?」


 初対面とは思えないほど明るくて、人懐っこい笑顔だった。普段はビールだけど地元の酒(福寿)があったから、と答えると。


 彼女は目を大きく開き、のぞき込むように「そうだよね!地元、大事」と少し大きく相槌を打った。


 その仕草がどこか軽すぎて、ほんの少しだけ虚ろの匂いがした。


「なんか人と飲むの久しぶりでさ。誰かと話したかったんだ」


 そう言いながら、彼女はグラスの縁を指先でなぞき続けていた。その細い指の動きが、火のゆらぎと妙に噛み合わなかった。


 店を出るころには、自然と彼女と並んで歩いていた。


 ホテルの部屋に入ると、薄暗がりの中で彼女の輪郭が柔らかく浮いた。ラリックのガラス細工のように美しく、影の方がむしろ彼女を際立たせていた。


 触れた瞬間、息をのんだ。


 暖房の効いた部屋なのに、手足が驚くほど冷たい。骨ばった肩を抱いたとき、その軽さに胸の奥に小さなざわめきが走った。


「私ね、食べない方が調子いいの。煙草だけでお腹いっぱいになるし」


 不自然な笑顔でそう言った。香水の甘い香りが、彼女の体温の薄さを覆い隠そうとしているようだった。


 夜の影の中では、その脆さが妖艶さに変わる。


 だが、その美はどこか“昼の光とは相容れない”気配を帯びていた。


 翌朝。窓辺に座る彼女に冬の光が落ちる。


 香水が薄れ、浮き上がった骨の影が、静かに真実を照らし出した。美しい——しかし、それは夜のためだけに形づくられた美だった。


「……君は、充分綺麗だよ」


 それが限界だった。


 彼女は淡く笑ったが、その笑みはどこにも届かず揺れていた。


 チェックアウトのために部屋を出る。街はもう昼の側にある。


 私はそちらへ歩いた。


 湯気の立つ店で見た、あの温かい光の方へ。彼女とは決して混ざり合わない、昼の世界へ。

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