有限状態彼女

鼬リンレ

有限状態彼女




 彼女はサークルの後輩だった。

 飲み会ばかりのどうしようもないサークルの中で彼女は周りと違って見えた。


 なんと言うか、考えている感じがした。そりゃ誰だって考えるだろうが、僕にとって世の中の人は何も考えてないように見えていた。

 でも彼女は考えていた。自分のこと、他人のこと、将来のこと、好きなこと、嫌いなこと。


 彼女は僕が初めて出会った人間だった。


 告白は僕からだった。下手なデートの誘い文句に彼女は少し頬を染めながら頷いて。それでサークルの飲み会の帰りに、ムードもへったくれもない夜の駅前で。


 恋人としてはうまくやれていた、と思う。お互い意思が強いからぶつかり合うことも多かったけど、仲直りもすぐだった。


 だから、今回の諍いもそんなありふれたもので終わると思っていた。


 きっかけは僕が高級な万年筆を買いたいとネットで調べてたところを見つかって、そんなの買うくらいなら旅行でも行きたいと言われたことだった。


 正直、仕事でうまく行ってご褒美という感じだったので、その時はイラついて、結構酷いことも言った。


 だから、次の日には謝ろう。そう思っていた矢先だった。


 事故だった。

 病院から電話が来て、寝巻の上にアウターを羽織って、車を飛ばした。

 病院に着いて、彼女が立っているのを見て、抱きしめた。


「良かったっ。本当に」


「はい」


 その無機質な声が彼女の口から出たのか、判断がつかなかった。

 違和感が脳裏を駆け巡った。


「なあ、大丈夫だったのか?」


「いいえ」


「どこか悪いのか、なんでさっきから」


 そんなに機械みたいな返答しか出ないんだ? それを聞く前に医者が横から声をかけた。


「特殊な失語症です」


 医師は眉間に皺を寄せて僕に言った。


「はい」


「現在、彼女は思考を回すことができない」


「いいえ」


「いえ正確に言えば、二つのことしか考えられないのです」


「はい」


 僕は手を開いたり閉じたりしながら、彼女を見つめた。無機質な瞳には、病院の白い壁だけが映っていた。


「それってどういうことですか? だって考えなきゃ、イエスかノーかなんてわからないでしょ」


「いいえ」


「いえ、実は言語で考えなくても無意識的に思考はできるのです。彼女に自意識はあるでしょう。しかし”我思う故に我あり“とはできていないでしょう。ある種の瞑想状態のようなものです」


「はい」


「回復の見込みは?」


「わかりません。何せ初めての症例です」


 僕はその後も何度も医者に説明を求めたが、ただ医者を苦しめるだけだと気づいてやめた。


 医者は何度も入院すべきですと言った

 しかし彼女はその度に「いいえ」と返した。僕は途方にくれて、医者にひとまず僕の家で面倒を見ますと言ってその日は帰った。


 彼女は至って健康そうに歩いた。しかし角を曲がろうとした時、「いいえ」と言って立ち止まった。


「どうしたんだ?」


「はい」


 僕は後頭を掻いて、すぐにハッとした。

 彼女は歩くことに「いいえ」と考えて停止することはできる。だけど、角を右に曲がろうと考えることができないのだ。

 僕は彼女の脇に手を通して、身体を持ち上げ、右に向けた。


「はい」


 彼女は歩き出した。

 冷や汗が出た。こんなのどうすればいいんだ。彼女は角を右に曲がることすらできない。


 医者の言う通り入院した方がいいのではないか。


「いいえ」


 そう問いかけると彼女は応えを返した。

 正直イラッとした。面倒を見るのは僕なんだ。じっとしておいて欲しい。


「いいえ」


 彼女は歩き続けてまた角で立ち止まった。


 その日から介護が始まった。

 角を曲がれない問題は、彼女の視界に矢印を書いた紙を設置することで解決した。右方向を「はい」とすれば右に曲がれるわけだ。


 僕が働きに出ている間、自分でできるように彼女の視界の入るところに色々な張り紙を貼った。「冷蔵庫からご飯を出す」「それを食べる」など様々だ。1ヶ月もすると張り紙の数は壁を覆い尽くすほどになった。


 ふとした拍子に仕事がしたいか訊くと「はい」と返されたので、彼女でもできそうな仕事を探した。AIの学習データのアンケートの仕事だった。

 PC上に出た写真に、この写真に〇〇はあるかと言う質問が出てきて、YES/NOを返す形式だったのでうまく行った。満足しているかを尋ねると「はい」と返ってきた。


 そのうち、分岐のある命令書を作ってそれを実行するか、という質問をすることによって、かなり自由度高く彼女が動けることがわかった。


 レシピ本を用意して、今からサイコロの目を振るか? と問いかけて、出た目の頁の料理を作れとかそんな次第だ。(実際はもっと詳細に作る必要がある)


 彼女はなんだってできた。仕事も家事も、なんなら男女の秘め事だってできた。


 そんなある日、僕は彼女にこう言った。


「君はこうなることが分かってて、あの日入院を拒否したの?」


「いいえ」


 僕はこうなることというのが曖昧な表現だったのかもと思って訂正した。


「君は今みたいに手順書を組めば普通の人と暮らせるとわかっていたから、事故にあった日入院を断ったの?」


「いいえ」


 ふむ、ということは別の理由があるのだろうか。


「じゃあなんだろう? 誰かに頼るのが嫌だったから?」


「いいえ」


「僕のことが大好きだからでしょ?」


「いいえ」


 彼女は無機質に応えた。

 僕は彼女の目を見た。僕の震えた唇がうつっていた。


「入院を断ったのは僕が好きだからじゃないの?」


「はい」


「じゃあ、なんだよ。今も嫌いってことか?」


「はい」


「……そうかよ。」


 僕は逃げるように外に出た。

 彼女は僕が嫌いだった。

 今までは面倒を見てくれる人間だったから一緒にいただけで、気持ちはあの喧嘩の夜からずっと離れていた。


 身体の関係も、介護が打ち切られるのが嫌で、仕方なく。

 それはただの強姦じゃないか。

 それじゃあ僕は最低じゃないか。


 でもにしたって、なんで僕は僕のことを嫌いな奴の面倒なんて見てるんだ。

 ふざけんなよ、こんだけ頑張ったのに。彼女の為を思って、慮って、想って。

 全部嫌がらせだったってわけかよ。


 近所の浜辺は、冬ということもあって人気がなかった。流木に腰掛ける。

 

 その時、背中に何かがぶつかって、振り返ると彼女だった。


「なんでこんなところに、ってそれ」


 彼女は「はい」と言って、手で掴んでいるものを僕に差し出した。


 いつか僕が欲しかった、万年筆だった。

 PCの検索履歴から購入したのだろう。お金は彼女が稼いだお金は使えるようにしていた。


「どうして……、くれるのか?」


「はい」


「わからないよ。なんで嫌いって言った後に、こんなことを。」


 彼女は黙っている。


「なあ嫌いなんだろ?」


「はい」


「ほんとうに、」


 わからないよ、そう言おうとした時彼女は声を被せて言った。


「いいえ」


「ほんとうは、好きってこと?」


「はい」


「じゃあなんで、、」


 そう考えて、僕は気づいた。そうだ、彼女は思慮深かった。


「もしかして俺の負担になりたくないから?」


「はい」


「この万年筆は、仲直りしたいってこと?」


「はい」


「そっか……そっか」


 彼女の瞳は相変わらず無感情だった。医者の言う通りなら今も何も考えてないんだろう。

 でも、僕は彼女に彼女を感じた。


 海風がびゅぅと吹いた。

 もうすぐ夜になる。


「帰ろっか」


「はい」


 僕は万年筆を持った彼女の手を優しく握った。


 


 

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有限状態彼女 鼬リンレ @rinre-iatachi

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