祖母の万年筆

けいりん

祖母の万年筆

 形見だ、と一本の万年筆が送られてきたのは、祖母が亡くなってからふた月ほどたった、十一月の寒い日のことだった。

 祖母の書き物机を整理していたところ、一冊のノートが見つかり、そこにはいくつかの持ち物について、誰に遺すかが記されていたのだという。つまり、この万年筆の相続人として指定されたのが、私だったというわけだ。

 祖母らしい用意周到な話に、私は頬が緩むのを感じた。

 思えば、私が文章を書き始めたのは、祖母の影響だった。

 祖母は小学校の教師だった。

 私が物心ついてすぐに定年を迎えたこともあり、実際にものを教えている姿を見たことはないが、祖母の家には、本や、かつて学校で使った資料などが溢れていた。

 友達との遊びにうまく馴染めなかった私は、長期休みや連休に祖母の家を訪れ、その蔵書に耽溺してすごした。時には間に挟まれた、変色したプリント類などを見つけ、そこから垣間見える昔の学校の様子に思いを馳せた。

 最近では見かけないような不思議なもの……小さな方眼のある、青い透けた紙を見つけ、なんだろうと首を傾げたこともあった。

「ロウ原紙だよ」

 祖母はそう教えてくれた。

「ガリ板刷りっていってね、昔はこういうものを使ってプリントやなんかを印刷していたんだ。やってみてあげたいとこだけど、道具がないからねえ」

 祖母は目を細めて、その「ロウ原紙」の表面を撫でた。

 印刷を実演する代わりに、祖母は代わりにガリ板で刷ったというプリント類を見せてくれた。それは時々本の間に見つけたのと同じようなものだったが、その不思議な青い紙を使って作られたと知って、それまでとは別の特別さを帯び始めていた。パソコンで打ち込まれた綺麗なフォントのプリントしか見たことのない私には、ざらざらした紙質も、手書きの文字も、何か見たことのない生き物のように感じられた。

 ガリ板刷り、というものについて調べてみようと思い立ったのは、もう少し大きくなってからのことだ。とは言っても親に借りた端末で検索しただけのことだったが。動画サイトには、実際にガリ板刷りを体験した様子を撮ったものもあった。私はそこに映る人物と想像上の若い祖母の姿を重ねてみた。一文字一文字、鉄筆で削って原紙に文章を削っていく祖母は、なぜだかとても生き生きとして見えた。

 脳裏に刻まれたそんな想像と、祖母の蔵書に埋もれた記憶が、私に、「文章を書く」ということへの憧れを芽生えさせた。

 小学校高学年の頃には、宿題もないのに作文帳を早々に埋め尽くしては、次のノートを求めるようになっていた。はじめのうちは日記のようなものを。そのうち、自分で考えた物語を。

 あの頃の私は、ノートに文字を書くことで、ロウ原紙を削る祖母を、なぞっていたのだと思う。

 中学、高校とあがる中で、パソコンに触れる機会が増え、自分のスマホも与えられるようになってからは、その手軽さと便利さに目覚めて、すっかり手書きで文章を綴ることは無くなってしまった。だが、その後大学を経て、事務用品メーカーに就職した今になっても、物語を書くことだけは続けていた。

 何度かは公募に出したりもしてみたが、思うような結果が出たことはない。WEB上の投稿サイトに載せている作品も、評価されることはおろか、読まれる数すら微々たるものだ。

 いつまで続けるのだろう。

 最近ではそんな想いが頭をよぎることもある。

 そのせいだろうか、書きかけのまま、手が止まることも多い。書いているのが良いものだという自信が持てないのだ。書き続けてどうなるっていうんだろう、などと考えてしまう。

 そんな時にとどいた、祖母の万年筆。

 私はしげしげとその万年筆を見つめた。

 華奢で小柄だった祖母の持ち物にしては、ずいぶんと大きい。重みのある太い軸は海のような深い青。クリップの金色は少しくすんでいる。キャップを外すと小さな爪のようなペン先が輝く。かすかなインク汚れの跡が、祖母の残した足跡のように感じられた。インクは入っていない。メーカーを確かめて、明日、仕事の帰りにカートリッジを買ってこようと決めた。

 それに……そうだ、原稿用紙も。

 久しぶりに手書きで物語を書いてみよう。

 子供の頃、初めてのお話を思いついた時のときめきが蘇ってくるのを感じながら、私は祖母の万年筆を灯りにかざして眺めた。


 翌日、家に帰るとすぐ、万年筆に新しいカートリッジをセットした。そのまま机の上に置き、インクが染み出すのを待つ間にコーヒーを淹れる。指でカートリッジを押したりするのは、急かすようで気が引けた。じっくり待つことが、祖母に対する礼儀のように感じたのだ。

 コーヒーを淹れてデスクに戻り、原稿用紙を広げると、万年筆を手に取ってキャップを外す。

 試し書きのつもりで、最初の文字を書こうとした、その時。

 想像しなかった感触が、ペン軸を通して、指に伝わった。

 ざくり、とでもいえばいいのか。

 それとも、ばさり、だろうか。

 今まで知らなかった感覚。

 原稿用紙に接したペン先を、私は慌てて引いた。原稿用紙を突き破ってしまったような気がしたのだ。

 だが、そんなことはなかった。マス目にはインクが残したブルーブラックのドットが微かに光を反射しているばかりで、穴などあいていない。ペン先に目をうつす。なんの変哲もない、金色のペン先が、疑問符のように私を見つめ返す。

 私は首を傾げ、おそるおそる、もう一度ペン先を原稿用紙に下ろした。

 ざくり。

 ざくり、ざくり。

 最初の感触に惑わされずペンを走らせる。原稿用紙に文字が書き落とされていく。そしてその都度、形容し難い、不思議な感触が伝わってくる。

 何かを掘り返しているようでもあり、それともなにか分厚い、紙のようなものをめくり返しているようでもあり。

 紙?

 わたしはまたペンを止める。

 そうだ、これは……ページをめくる感じと似ている。

 確かめようと、文字を書き始める。

 ざくり、ざくり。

 確かに、似ている。分厚いくて大きい、ハードカヴァーの書物を開き、一枚一枚ページをめくっていく感じ。だが、そのものではない。紙に突き刺さる、または沈み込むような独特の感触は、ページをめくる時には生じないものだ。

 最初は慣れない、その上得体の知れない手応えに戸惑い、また恐れすら覚えたが、気がついてみると、私はそれを楽しむように、追いかけるように、原稿用紙の上にペンを走らせていた。

 ざく、ざく、ざく、ざく。

 ほとんど耳にも聞こえてきそうなリズムに乗って、次々と、文章が生み出されていく。言葉が、自ずから成長するように、私の中から溢れ出していく。

 こんなに気持ちよく書けるのは久しぶりだ。

 他人の評価も、公募の結果も、出来上がった時の満足感すらも忘れ、ただこの不思議な感覚と、伸びゆく言葉そのものに導かれるように、私はペン先を踊らせた。

 音楽を聴くように言葉の波に乗りながら、私はふと気づく。

 そうか、これはまるで。

 この感触は、まるで、紙を耕しているようだ。


 あとになって、筆耕、という言葉があるのを知った。

 もっともそれは、筆で硯を耕す、という意味で、毛筆で文字を書くのを生業とすることを表す言葉らしい。文字よりは文章を書くことが目的で万年筆を使うのとは全く別のことだ。

 だが、祖母の万年筆で原稿を書く時の感覚は、紙を耕す、というのが一番しっくりとくるものだった。

 ペン先が実際よりも紙の中まで沈み込み、裏返すように、持ち上げて中外を入れ替える。そこに文字が植えられ、伸び育って、文章を形作っていく。

 もちろん、描かれるのは、間違いなく、私が考え、私から生じた言葉だ。

 だが、この万年筆で書いていると、それがあたかも自然なことであるような、言葉がおのずから成長していくような気がするのだ。

 試してもみた。これは単に、久しぶりの、 手書きでものを書くという行為に付随しているものではないのか、と。

 しかし、他のどんな筆記用具を使っても、そのような感覚がおとずれることはなかった。ただ、祖母の残したその万年筆だけが、私に、紙を耕すとしか表現しようのない感触と、そこに種撒かれたものが育って花を咲かせ実がなるような、言葉の自然な発露を、もたらすのだった。

 だとすれば、秘密はこの万年筆にあると考えるのが自然だ。

 そう思い、母や叔母などに聞いてみた。私がもらった万年筆はどういう由来の品なのか。祖母がそれについて、何か語ったり、書き残したりしてはいなかったか。

 だが、何もわからなかった。ただ、叔母が、「それで書いたかどうかわからないけど」という前置き付きで、おそらく万年筆で書いたと思われる短歌のノートが、何冊か見つかったと教えてくれた。 

『母さん、そんなの一言も言ってなかったのよ』

 電話口の叔母は言った。

『どうせ短歌書くなら、サークルにでも参加すればよかったのに。お仕事やめてからは、すっかり引きこもっちゃって』

「じゃあ、生きてた時は叔母さんも見たことなかったんですか」

『なかったわねえ。ひょっとしたら、父さんは知ってたのかもしれないけど』

「でもおじいちゃんって」

『そうね、わたしらがまだ子供の頃、死んじゃったんだけど。でも、その短歌っていうのがさ、まあ鳥とか花とかのがほとんどではあるんだけど、ときどき、情熱的っていうか……相聞歌っていうの? そういうのがあって。父さんに送ったのかなって』

「へえ」

 優しいながらも凛と背筋をのばした様子の祖母のイメージと相聞歌が結び付かない。

 私は今度そのノートを見せてもらえるように約束を交わし、電話を切った。

 もしかしたら。

 私は机の上に置いた万年筆を眺めて思った。

 もしかしたら、恋の歌といっても、祖父であれ他の誰かであれ、具体的な相手のことを考えていたわけではないのかも知れない。

 ただこの万年筆が耕した紙から生まれる言葉の育つべき姿が、そういうものだったのかも知れない。

 思えば、以前から、感じることがあった。

 言葉は心や頭から生じる、と皆考えている。私だってそのつもりでいる。自分が感じたこと、考えたことが言葉となって、口やキーボード、ペン先を通して出力される。それが日常的な感覚だ。

 だが、言葉は、そういったものたちとは独立に、私のうちに生じているのではないか。言葉は想いを映すのではなく、はじめに言葉があって、言葉の響きあうところに想いが生じているのではないか。

 最も調子よく書けていると思う時、そう思うことが、たびたびあった。言葉の流れに乗れている、と感じることが。

 祖母の短歌も、そうして生じた言葉たちなのではないか。

 この万年筆は、そんな状態を呼び起こす、触媒のようなものではないか。

 紙を耕す感覚にすっかり慣れた自分には、そう思えたのだった。


 やがて、その物語は完成した。

 過程だけ見ればまるで万年筆に書かされたようにも思えるその小説は、しかし確かに、自分で書いたものだという実感を伴っていた。

 書き上げた作品を、私は少しずつスキャナで読み取り、テキストデータに変換して、インターネット上で公開していった。

 そのまま公募に出すことも考えたが、土壇場で尻込みしてしまったのだ。

 初めのうちは、以前とあまり変わらなかった。

 ぽつりぽつりと閲覧者がいる程度。

 だが、五回目くらいの更新から、閲覧者は徐々に増え始めた。評価を示すボタンが押されるようになり、時には感想まで届き始めた。その多くは好意的なもので、私はそれに勇気づけられ、更新頻度を上げていった。

 時には過度に批判的だったり、攻撃的とすら言えるような内容のものもあったが、好評に比べれば問題にならなかった。

 ある時、届いた感想には、ひとつのURLが添えてあった。このお話のイメージです、そう書き添えてある。

 それが大手の動画サイトのものであるのを確認し、私は恐る恐る、URLをクリックした。

 それは、音楽だった。インストゥルメンタルだ。画面は深い青の静止画だ。

 タイトルは、「星から届いた音」。

 私はピンと来た。私の作品の冒頭。主人公は一人孤独に夜空を見上げ、星々の世界に想いを馳せる。それを踏まえたタイトルに違いない。

 弦楽器やフルートが響き合う、オーケストラ風の楽曲に、人の声のような電子音が加わる。果てしない広がり、そして神秘。まさに、遠い空の星から聞こえるようだった。

 耕された紙から芽生え、枝を伸ばした言葉たちが、はるかな高みから来た音と、今ここで、出会ったのだ。

 それは、私と彼の出会った瞬間でもあった。

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