私がわたしになったとき

夜市川 鞠

私がわたしになったとき


 私は昔から、想いを言葉にするのが下手な子だった。頭の中では常にものすごい量の文字が流れているのに、身体中に流れているはずの言葉が、私の喉元を通って、私の口から外へ出ていくことが、あまりにも少なかった。

 同時に、過剰な自己犠牲によって生きているところがあり、自分の気持ちよりも相手が喜ぶことを優先してしまうことの多い子ども時代だった。

 例えば、催しのビンゴでかわいいぬいぐるみが当たったのが、友達の欲しいものであったとき。それが私の欲しいものだったとしても、友達にあげて喜んで欲しいという気持ちが勝ってしまい、偽善的に「あげるよ」と言ってあげてしまう。そして、後で何であげたんだろうとひどく後悔して泣くようなことがあった。

 私の気持ちは、きっとどちらも本当だったから、私は自分自身の気持ちがわかっていなかったのだろう。どちらの気持ちに比重を置くべきなのか、わからなかった。今も時々、よくわからなくなる。


「なんで」とか「ほんとうのことを言って」と言われる度、なぜか私の口はダムのように言葉を堰き止める。そして、溜まり溜まった言葉は胃の中で消化されるばかりで、誰にも届くことはなかった。伝えようとして、何度もダムからの放流を試みたけれど、大抵は放流される前に、痺れを切らした相手から、言葉を巧みに操ることのできる大人から、「お前の口は何のためについているんだ」と言われてしまった。私は、泣きながら、私の口は、本当に何のためについているのだろうと思った。他の人と同じように、自分の思ったことを思ったように伝えられないのはなぜだろう。そして、同時に、どこかで、伝わるわけがない、とも思っていた。それまでにも、何を言っているのかわからない、と笑われたことが幾度もあったから。

 伝わるわけがない、は、いつしか私の中で、伝える意味がない、に変わっていた。私の想いは私だけのもので、誰にも理解してもらえない。それでいい、と思った。

 今の私には、伝える力がないけれど、それゆえに私の言葉は私の口から外へ出て行かないけれど、きっといつかは。私は私の言葉で伝えられるようになろうと思った。そのために、苦手だった読書を始めた。

 言葉を多く知らないことで、その意味を尋ねることの多かった私は、ある日、友達に「鞠ちゃんってさ、八方美人だよね」と言われ、いつものようにその意味を問うた。八宝菜みたいで美味しそうだね、と笑いながら。友達は、説明がめんどくさくなったのか、「イヤなひとって意味だよ」と引き攣った顔で私を見ていた。

 あとで意味を調べたところ、本当に良くない意味ではあったけれど、その当時の私は、大切な友達に「イヤなひと」のレッテルを貼られたことが何よりもショックだった。言葉を獲得し、伝える術を持たなければ、大切な友達にさえ嫌われてしまう。当時小学生だった私は自分の拙さを恨んだ。

 伝えるのは苦手だけれど、物語を書くことは好きだったので、思ったように書けない物語を何度も書いた。いいなと思った小説や映画を真似しながら。想いを伝えるために、読んで、書いてを繰り返してみた。

 高校生になってからは、伝えられなかった言葉の全てを、ノートにしたためてみた。伝えられない苦しみ、悲しみ、そして、怒り。その時の、感情を吐露した呪いのようなノートは、今も大切に持っている。

 高校生になった私は、私のしたためた言葉たちが、この世でどのくらいの価値を持つのか知りたかった。高校生になっても自分の気持ちを上手く伝えることのできなかった私は、私の書くものが評価されたならば、私の心の内に流れるものが意味を持つような気がしていた。昔に比べると感じたことをある程度は書けるようになっているという自負があったというのもあって、口には出せずとも、私の言葉にはちゃんと意味がある、というある種の証明が欲しかったのかもしれない。

 けれど、自分の力を信じて初めて小説を公募に出すとき、私は同じ過ちを繰り返すことになる。

 当時、パソコンを持ち合わせていなかった私は、親にパソコンを借りて、初めて小説の公募に出すことにした。住所などの個人情報を入れる必要があったので、応募フォームの最終チェックを、かつて「お前の口は何のためについているんだ」と言ったひとに頼んだ。それが間違いだった。

 当時、私は「瀬野つくる」というペンネームを自分に付けていた。大衆文学への入り口となった「瀬尾まいこ」さんの「瀬」と、物語の面白さを初めて教えてくれた「佐藤さとる」さんの雰囲気を纏ったペンネームにしようと考え、できたのが「瀬野つくる」だった。けれど、応募直前、住所の確認をしてもらうだけだったはずが、ペンネームを見たそのひとは、何だこの名前は、お前らしくない、と騒ぎ出した。考え直せ、と言われ、親に言われるがままに、本名に近い名前を考えることになった。結局、パソコンを借してもらっているという負い目があったからなのか、私は、1時間近く、本名に近い、親が喜んでくれそうなペンネームを考え、許可を得て、作品を提出した。私の中で、私が別の輪郭をもつために名付けた、言葉を上手に伝えることのできる「瀬野つくる」は、その時死んでしまった。

 信頼できる友達や、先生にも、いつか「瀬野つくる」としてデビューするんです、と話していたのに。絶対に覚えておくね、と言ってもらえたのに。

 応募後に、泣きながら、母に、本当は嫌だった、と震える声で伝えた。

「じゃあ何で名前を変えたの? 泣くくらい嫌なことなら、変える必要なかったんじゃない」

そう言われた時に、はっとしたのだ。確かに、私の行動はおかしかった。泣くほど嫌なことを飲み込む必要なんて、どこにもなかったのだ。パソコンを貸してもらっているからといって、その人の意見を尊重しなければいけないわけではなかった。私は、誰に何を言われようとも、私の思う形で作品を提出して良かったのだ。

 その時、私は、私の心に背くのを止めようと誓った。

 それから色々あって、私が小説を再び書くのは、その二年後になる。

 大学生になる前、私が上手く言えなくても、存在をまるごと受け止めてくれた大切な人が亡くなった。その人は、生まれて初めて私の文章を褒めてくれたひとだった。

 泣きじゃくったお葬式の帰り道、よく散歩に行った川のあたりを車で走っていると、ふと、「夜市川鞠」という名前が頭に浮かんだ。昔、大切な人と、よく歩いた、私にとって大切な場所の名前を含んだ名だった。

 この名前で、もう一度、小説を書こうと思った。

 それは、音にならなかった言葉の集積を、悔しいと泣いたあの日の自分を、救うための名前だ。私の言葉に意味はあったのだと、証明するための名前だ。

 それからの私の快進撃について、ここで語りたいのは山々だが、それはまた時が来たら書こうと思う。

 私の紡いだ言葉が、誰かに、私の思ったように伝わったらいいなと思う。同じような悔しさと、悲しみと、怒りをもつひとたちに、届いたらいいなと思う。

 そのために、今日も書く。














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