妄想病棟
影森 蒼
妄想病棟
私は病とは呼べない得体の知れないものを患った。
うつ病と呼べるほど精神が擦り減っている訳でもなければ、身体的な不調も現れていない。
休みを一人で満喫しても、給料を貰っても、心に空いた穴から満たしていた何かが漏れ出てしまって何も残らないのだ。
救って欲しい。けれど、救われ方を知らない私は眠れぬ夜を過ごして、出勤日を待つしかなかった。
音も、色も、温度も何一つ感じなくなってしまった生活に慣れてしまう自分自身が怖かった。私はあるだけだった有給を使って、病院に行くことにした。
季節が冬ということもあって、発熱や咳で目が虚ろだったり、血色の悪い人で溢れていた。
間違いなく私だけが健康であったが、文化的であるかどうかは分からない。
「そうですね...診断名はありません。俗に言う五月病というものでしょうか」
当然すぎる返答に徒労を感じざるを得なかった。
高過ぎる無駄足代を支払って病院を飛び出すと、悪趣味なピンク色の広告が視界の隅に引っかかった。
普段は読み飛ばして終わりの何気ない広告。それでも医者にも見放され、このまま自分が壊れていくのを見ているだけにはしたくなかった。
ーーーーー
満たされることを知らないあなたへ。
最新医療による高度な心理療法!!
非医療法人社団 妄想病棟
ーーーーー
広告は暖かく、色もある。デザインの趣味や病棟の不透明性に目を瞑れば私に救いをもたらす天使の招待状のように思えた。
手放しに訪れて良い場所なのだろうか。
天使と悪魔のせめぎ合いを割って入るようにして検索窓に“妄想病棟 評判”と入力した。
口コミには治療を満足に受けられなかった者が書き込んだであろう低評価と支離滅裂な文章の高評価が散見される。
〜〜〜〜〜
★★★★★
最新医療による解毒と耳の奥深くに響くあのビリビリ...本当に癖になります。
病棟で過ごす離れない感覚が忘れられない...
★★★☆☆
孤毒って結局何なんですか?
よく分かりませんでしたが、音声作品としては十分に楽しめたと思います。
☆☆☆☆☆
この内容で約二千円は高すぎる。
セリフも少ないし、心地よさも感じない。
金の無駄でした。死ね。
※不適切な表現が含まれるため、評価は無効となりました。
〜〜〜〜〜
評価は差し引きで中程度と言ったところだろうか。
「まず、診察だけなら...」
珍しく無くなった独り言を口にして、不安に潰されそうな心を奮い立たせる。
足は自然と妄想病棟へと繋がる電車に向いていた。
運賃は二千円程度で安くは無いが、一度買ってしまえば無期限の定期券のように何度でも足を運ぶことができる。
改札は無かったが、代わりにイヤフォンを耳にはめ込んだ。
音のある電車は久しぶりで感動すら覚えたが、こんなにも静かだっただろうか。僅かな違和感は期待に掻き消されるようにしてあっという間に最寄り駅に着いた。駅名は、思い出せない。
悪趣味だった広告とは裏腹に病棟自体は清潔で緑もあり、いかにも清廉な外観だ。
中に入ると受付に身分証や保険証を出さなくていいと言う。広告の末尾に書かれていた非医療法人社団という不気味な文言を思い出した。どこか腑に落ちる部分もあったが、最新医療という言葉と矛盾している点はどう説明するのだろうか。
そもそも、医療行為とは何なのだろうか。それを考えている内に「お次の患者さんどうぞ!」と呼ばれて、診察室に入った。
「本日の治療を務めます。莉々香って言います。よろしくお願いしますね。一緒に治していきましょう!」
一緒に治す。
一緒に。
何度も反芻したくなってしまうこの言葉は、私を救うべくして天から舞い降りてきた天使のような言葉だった。音が聞こえなくなった生活で飽きるほど聞いた心音も高鳴っており、歓喜を示している。
しかし、物腰の柔らかい彼女の前では時計の秒針は音を刻んでいなかった。そんなことは気にもせず、久方ぶりの温かい会話に没頭した。
しばらくして彼女が寄越した診断書には”孤毒“という文字が書かれていた。
私は一人だった。
一人だということが分からなくなるほど毒されていたのだ。
「それじゃあ、治療して行こうね。患者さん」
診察台に横たわるように言われ、素直に頭を預けると、頭に謎の紐で繋がったチップを付けるよう指示された。
莉々香の説明によるとこれが最新医療というやつでチップから出る微細な電流を脳の中枢に巡らせて読み取ることで意識という形の無い物に干渉できるらしい。
私が音を無くしている間、世間は随分と発展を遂げているようだった。
「患者さん、付けるの少し難しいかな?私が手伝ってあげるね」
耳元から莉々香の声がする。透き通る様でいて紫煙のような重苦しさを感じさせるそれは恐れを感じている理性ではなく本能に訴えかけてくる。
「少し、不安かな?大丈夫、怖く無いよ...?」
不安と安堵の二重奏、今まで感じたことのない心地よさだった。私は目を閉じて、深呼吸をし、耳やチップから送られてくる言葉や呼吸を受け取る準備を整えた。
「じゃあ、これから毒を抜いていくね」
両耳に硬い質感の棒が侵入してくる。それが細やかな音を立てながら前後に揺り動く度に私の意識が何処かへ旅立ってしまいそうになった。
「今は何にも考えなくて平気だよ」
莉々香の言葉を聞いた瞬間、社会から完全に切り離された。
私にとっての救いは莉々香がくれたような無償の優しさなのかもしれない。
「付けてもらったチップから少しだけ、電流を流すね。怖かったら私の手、握ってもいいんだよ」
莉々香は私に生じていた僅かな不安すらも取り除いてくれた。差し出された手に縋る様にすると、どこまでも沈み込んでしまいそうな温度と柔らかさが伝わってくる。
軽快なスイッチの打鍵音と共に電流が流れた。
脳の内部で静電気が慎ましやかに爆ぜるような快感が左右を行き来して、少しずつ意識が奪われていくのを感じる。
その優しさは虚構なのかどうか疑う余地も無く、意識は闇の中へと潜り込んでいった。
「私は患者さんのこと、誰よりも分かっていますよ。だから、今日はもう安心してくださいね」
目覚めた。
見慣れた天井や家具のある寂れた自分の部屋だった。
莉々香はもう側には居なかった。
「大丈夫。また会える」
相変わらず独り言を呟いて出勤の準備を始める。
寝具にはほんの僅かな温もりだけが残されていた。
私は今日も色と音の無い生活を送った。それでも、昨日莉々香の放った言葉が内側で乱反射していて、それはかつて無いほどの熱を孕んでいた。
それは今日、社会で生活する権利を得るための義務を果たす原動力になり得たのだ。
さっさと会社を後にして帰路に着く。
他人のノイズなど割って入る余地も無く、妄想病棟行きの電車に飛び乗った。
昨日と同じ景色。
昨日と同じ音。
昨日と変わらない物の一つ一つが今日を頑張った実感と、莉々香に会える喜びを与えてくれた。
妄想病棟に入り、診察の順番を待つ。
数秒の待ち時間の後、診察室の仕切りが開く音がした。
「お次の患者さんどうぞ!」
昨日と一字一句違わぬ言葉に安心感を覚えながら部屋に入っていく。
「莉々香ちゃん、今日も来ちゃったよ。ごめんね」
昨日訪れたばかりなのに孤毒を抜いて貰う心地よさをすっかり覚えてしまった自分の照れ隠しで思わず、謝罪してしまった。ある意味、社会に毒されているのかもしれない。
「本日の治療を務めます。莉々香って言います。よろしくお願いしますね。一緒に治していきましょう!」
莉々香は昨日会ったばかりの私をすっかり忘れていた。そんなお茶目な一面も可愛らしくて癒される。
ただ、楽観的に捉えられるのもここまでだった。私の病名はおろか、作成した診断書の記憶まで無くしている莉々香には不気味さを感じざるを得ない。
変わらない孤毒の説明はまるで人を模した機械のようだ。
最新医療のチップが頭に付けられるまでの展開も不自然なまでに一致している。
「ま、待ってよ、莉々香ちゃん!こんなの絶対何かおかしいよ」
口ではそう言ってみたものの、莉々香からの提案を待たずして手を握らずにはいられなかった。
生じた小さな違和感は穴を少しずつ広げていくようにして大きくなっていく。
莉々香しか感じない世界で私は滴る冷や汗を感じた。
「じゃあ、これから毒を抜いていくね」
昨日と同じタイミングと声量で放たれた甘美な音は、滴った冷や汗が莉々香への恐怖ではなく、癒されなくなってしまいそうな自分への恐れであったことを理解した。
莉々香を疑ってしまった自分の愚かさに涙が止まらない。
きっと、繊細で変化に弱い自分だから孤独なのだろう。
頭の中では救ってくれた人を疑ってしまった自責と孤独感が渦を巻く。
孤毒の生産現場が垣間見えるような瞬間だった。
絡み合った思考を解くようにして、棒が耳の内側をなぞる感覚が伝わってくる。
きっとこの瞬間、莉々香から生じる違和感と快感の全て受け入れてしまったら元に戻ることは出来ない。
毒を毒で制するだけのことだと、他人事のようにそっと言い聞かせた。
吹けば飛ぶような理性は、静かに風を待ち侘びていた。
「今は何にも考えなくて平気だよ」
こそばゆい無声音が脳に響いた瞬間、思考回路に停止信号が走った。
今まで何を憂いていたのか、まるで思い出せない。
悲しくも無いし、怖くも無い。けれど、幸せでも無いような気がしている。
それでも、毒の生成は確かに止まっていた。
明かり一つ無い、闇が覆う部屋で音声の自動停止タイマーは残り五分を示していた。
「私は患者さんのこと、誰よりも分かっていますよ。だから、今日はもう安心してくださいね」
妄想病棟 影森 蒼 @Ao_kagemori
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