名前

小狸

掌編

 その筆名は何と読むのか――とかれるたびに。


 そう訊かれないくらいに有名になる、と自らを鼓舞してきた。


 仕事と休暇の合間に、飽きもせずに掌編しょうへん小説を始めとする陰鬱な私小説を小説投稿サイトにて執筆し始めて、4年目に到達しそうであり、またその総数も400作品が見えてきた、実際この文章が無事に投稿されれば380作品目となるわけであり、良くもまあ続いたなぁと、ありきたりな感想しか出てこない私自身の語彙力の無さに辟易へきえきするわけではあり、そしてやっとここまで来て今さらなのか、と思われるような内容を小説で書くことに、若干の羞恥を覚えることもあるのだが、それらは一旦払拭しよう。


 私は、さる動物の名に一文字加えた筆名を、小説投稿サイトでは用いている。


 ありふれた、田舎ならばあちこちにいる動物である。


 そして別名義でもう一つ、私は筆名を持っている。


 持っている、という表現が間違っているのなら、決めている、といっそ言ってしまった方が良いか。


 そちらは、小説投稿サイトで、小説の類を書く際に使っている、主流の筆名である。決めた順番は、先の動物の名に手を加えたものよりもこちらの方が先である。


 私の記憶が正しければ、高校の受験期が無事終わり、中学3年の卒業式の前日に、己に名付けたように思う。


 執筆活動を再開して、何とはなしに辞書辞典の類を閲覧していた時に、筆名の下の名前にあたる表現を、偶然発見したのである。


 検索エンジンで探せば、私の筆名の下は、ネット辞書にも掲載されていることだろう。


 少なくとも、私の電子辞書の『だいりん』には、載っていた。


 まあ、ありふれた表現でないことは事実である。


 少なくとも、日常生活を送る上でまず見る表現ではない。


 末尾の一文字に関して言うのなら、訓読みは知っていても、音読みの読み方すら分からないと思われても不思議ではない。


 故に、冒頭の「その筆名は何と読むのか」という疑問は、自然なものなのである。


 筆名の苗字のほうは比較的ありふれたものなので、恐らくほとんどの人が読むことができるだろう。


 ただ名前は、となると、初見で読める方は限られる――と思う。


 読めないということは、覚えづらい、ということでもある。


 遠い未来の夢物語かもしれないが、もし小説家として文壇に立つことがあった場合、他の作家先生よりも記憶に残りづらい、という危険性もはらんでいる。


 それでも。


 中学時代から、決めていた。


 もし小説家になったら、この筆名の、自分でありたい――と。


 誰に影響を受けようとも、誰の薫陶くんとうを受けようとも、誰に傾倒しようとも、誰を尊敬しようとも、私を私でいさせてくれたのは、この筆名なのだ。いつだって私を奮い立たせて、いつだって私と共にあり、いつだって私を励ましてくれた、私が私である証左。それくらいの思い入れのある、大事な筆名である。


 これからもきっと私は、その名を名乗るだろう。

 

 結果が出ようとも出ずとも、必ず私は、この筆名の私でいたい。


 だからこそ、せめてこの小説を読んでくださった方には、読みを明かしておこうと思う。


 その名は4文字で、8つの音で構成されている。


 飯島いいじま西諺せいげん


 私の、始まりの名前である。




(「名前」――了)

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名前 小狸 @segen_gen

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