きてらい

俺の地元の村にはとても大きな滝がある。水量も多く落差は数十メートルを下らない、立派な瀑布だ。


惜しむらくはそれを鑑賞するための良い見晴台がないところだった。立地は山奥、観光名所として名は通っておらず、近所の村でひっそりと知られているくらいだった。


十四、十五の頃だろうか、俺は兄の伝手からある情報を仕入れた。曰く、村の北の山道を西に逸れて森に入っていくと、あの大滝をちょうど真正面から見ることが出来る。そこは断崖絶壁の上で柵もなく非常に危ないが、そこから見える大滝の眺望はかの華厳滝にも劣らない絶景であると。


その時の俺は勢い任せで、独りでその崖を見に行った。件の山道は北の隣村へ向かうときに通る道で、何度か通ったことはあったが、横に逸れるような道は知らなかった。小さな地蔵仏が目印だというのでそこを調べてみると、なるほど確かに、意識しなければ気付かないが微かな踏み分けがあった。獣道ではないようだった。


森の木々の中、藪を掻き分けて進むと、急に光が差して風景が開けた。慎重に姿勢を低くして明るい方へにじり寄ると、そこは断崖絶壁の上だった。足元は今にも落ちそうな急角度の岩で、真正面には巨大な滝が見えた。滝つぼにはうっすらと靄がかかり、巌の脇には虹が見えた。


死と隣り合わせの絶景。なるほどこれは、大人は子供に教えられない訳だ。俺は得心してしばらく見入り、その周辺を歩いていると、来訪者が己だけではないことに気付いた。


同じく断崖の上に、誰か居る。向こうも俺に気付いたようで、こちらを振り返ると、村では見たことのない顔だった。痩せた初老の小柄な男。隣村の者かもしれない。どうやら敵意はないらしい。


おいでおいでと手招きをするのでそちらに近寄って行く。「あんたも滝を見に来たのか」と聞くと、「そうだ」と答える。どうやら同じ目的の仲間だったらしい。少し会話をしてみると、やはり同じ村の人間ではなく隣村の人間だった。昔から何度も足を運んでいるらしい。


滝の絶景を前に、「ちと危ないが、ここは本当によく見えるな」と言うと、向こうも同意する。そして、「だが」と男は付け加える。

「もしもあの滝壺の中を、人が落ちて行ったら、もっと愉快だとは思わんかね」と言う。その顔にはにやけた笑みが含まれていた。

俺は少し考えて、「ま、知った顔じゃなけりゃ面白いかもしれんね」と相槌を打った。村の真っ当な大人たちであれば不謹慎だと言ったかもしれないが、俺は目の前の男に対して、近所の悪童たちと同じ心持で話すことにした。


男は言った。「私は、人を落としたことがあるんだよ。あの滝壺にね。」そういって男は思い出を語り出した。


――――


私が子供の頃だったかな。村に、大変なガキ大将がおった。気性荒く粗暴でやんちゃで、体格も大きいもんだから近所の子供たちはみんないじめられとった。おもちゃなんかみんな取られたり、何か気に食わないことがあれば理由がなくとも八つ当たりで殴られたりな。特に私は、昔っから体が小さかったから、良いように殴られとった。おまけに悪かったのは、そいつが村の庄屋さんとこの息子だったってことだな。親に言いつけても何にもならん。好き放題しとったわけさ。


その日も、俺は殴られとった。村のはずれでな。近くに川があることはみんな知っとったから、「調子乗ってっと川に落とすぞ。」つうのがそいつの口癖だった。


ほれ、あそこに、橋が架かってるのが見えるか。滝の上、川を少しだけ上流に遡った所だ。昔からある吊り橋で、グヨグヨ揺れるもんだから、子供心にはえらい怖いもんだった。そんでそのガキ大将が他の子供を渡らせて、その間に綱握って揺らして笑ったりな。ろくな思い出がない。


とにかくあの辺りで、私は責められとった。なんと言ってたか、確かお前の親父が遠出から帰ってきたから、何か美味いみやげもんでも買ってきてるに違いない、貢ぎもんとして俺にもよこせ、とか言うんだ。そんなもんない、というとまた殴る。理不尽なもんだ。


その日が違ったのは、そいつが俺の胸倉を掴んで本当に川に落とそうとしたことだ。言え、言わんと落とすぞ、ってな。背中に川の冷たい空気を感じて、こりゃ今日こそ本当に死ぬかもしれんと思った。顔中から血の気が引いたよ。


まあしかし、結局あいつも本気じゃなかったんだろう。そいつは下卑た笑いを浮かべて、私を川面にぶら下げるのをやめた。その程度のやつだったんだ。そんで胸倉掴んだまま下がろうとしたとき、濡れた落ち葉に足を滑らせて、いきなり転んだ。私はそいつの上に覆い被さる形になった。


そのときのそいつの顔ったらなかったね。今までずっと高笑いして好き放題してたやつが、「あっ、落ちるかもしれない」つうことに気付いたんだよ。体のバランスから、直感的にな。そんで私も直感的に気付いちまったんだ。こいつ、落とせるぞってな。


そんときの私は素早かった。今何もせんかったら一生良いようにされたままだと思った。足に思い切り力を入れて、蹴り転がしてやったんだ。自分でもびっくりする程の力だった。思い出しても笑いが止まらんね。でぶの体がごろんと転がって、岸も掴めずに、川に落ちたんだ。あの水量だから、泳いでも逆らえるもんじゃない。どんどん流されていって、滝に吸い込まれてった。


私は素早く滝壺に駆け寄った。覗き込んでもガキ大将の姿は見えんかった。私はとぼとぼと村に帰って、何かあったか聞かれても何もと答えた。


何日か後に、下流の村でそいつの死体が上がった。庄屋の親父は喚いていたが、村の誰もが知らぬ存ぜぬで通した。子供連中は、たぶん誰かがやったんだろうなとみんなが察していたが、大人たちの追求にはみんなにやにやしながらしらを切った。私もしらを切った。それで事件はおしまいよ。大人たちの間で何かあったかもしらんが、ガキの遊び場は平和になった。


私は思ったね。あの威張り散らしのガキ大将の人生は、あの落ちる瞬間、たった一度の落ちる瞬間のためにこそあったんだと。あの光景が目に焼き付いて離れない。高慢ちきのお偉方のバカ息子の全ては、その高いところから地の底に落ちるためにあったんだとな。私は世界で最も素晴らしいものを見たんだ。


たった一つの心残りは、あれがあの滝の中を落ちていく瞬間をこの目で見られなかったことだ。きっとその瞬間こそ、そいつが人生で、もっとも輝いていた最高の瞬間だったんだ。滝つぼの虹に彩られ、恐怖と絶望の顔で、あの高さを落ちていく。その瞬間を見られなかったことこそ、私のただ一つの心残りだ。だから私は、またいつの日かあの滝を誰かが落ちてきやしないかと、いつもここで見張ってるんだ。いや実に、実に惜しいことをした……。


――――


男は陶酔した目で話し終えると、再び滝に向き直った。

これは昔の思い出だ。あれからは真っ当に生きて育って、今ではカミさんも可愛い子供もいる。万が一にでも村で人殺しだとばれれば、これは大変なことだから、くれぐれも誰にも漏らさないよう秘密にしてくれ、と男は言った。


俺は話を聞き終えて、その滝と足元の断崖を見比べた。

「そうか」と言って、俺は男に背を向け、来た道に向かって戻るように数メートルの距離を進む。


そして俺は、きゅっと身を翻し、助走を付けて駆け進み、男の背中に渾身のドロップキックを食らわせた。

男がよろめいて落ちる。


俺は落ちていくその姿を両目に焼き付けた。

寸時の混乱の後、驚愕の顔をして崖の下に落ちていく。風に流れて立ち上る髪。恐怖と絶望に染まる顔。数十メートルを真っ逆さまに落ちていく。その目は涙を流そうとしているようにも見えた。


男は突き出た岩に一度バウンドし、そしてどぷんと、川底に落ちる。岩には血糊が付いている。

俺は、男の最高の瞬間を見届けて、村に帰った。


その日、決心した。

これからは立派に生きよう。きっと誰よりも偉くなって、誰もが羨む名士の地位に就こう。


そして何度も、何度でも、今日と言う日を忘れるまでこの断崖に来よう。


いつか来る日を、夢に見ながら。

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