第8話 笑顔の仮面

 その夜の商店街は、いつもより静かで、

 風が看板をかすめる音だけが細く響いていた。

 ミルは棚の上で目を細めながら、

 遠くの電車の音にひげをぴくりと揺らした。


 扉がそっと開き、スーツ姿の男性が入ってきた。

 笑っている――ように見える。

 だが、その目の奥には疲れた影があった。


「……ここ、相談できるって聞きました。」


 ミルはカウンターへ降り、

 椅子を前足でちょん、と押した。

 「すわるにゃ。よそゆきの顔をおろすにゃ。」


 男性はかすかに笑みを浮かべたが、すぐに消えた。


「笑ってるふり……もうクセみたいになってて。職場でも、友達といても、家族といても……本音を出すのが怖くて。

 誰と話していても“演じてる”感じがして、

 本当の自分がどこにいるか分からなくなるんです。」


 ミルは男性の手元を見つめ、

 そっと前足をぽふ、と触れさせた。


「にんげんはにゃ、

 長く仮面をかぶるほど“顔の筋肉”より

 “心の筋肉”のほうが先につかれるにゃ。」


 男性は目を伏せ、乾いた笑いをもらした。


「……分かってるんです。

 でも、仮面を外したら嫌われる気がして。

 誰にも本音を言えないまま……

 笑顔だけが勝手に張り付いてくるんです。」


 ミルは尾をふわりと揺らしながら言った。


「仮面が悪いにゃ。

 でもにゃ、その仮面を作ったのは“生き残るため”にゃ。

 にんげんは、弱さを守るために笑うときがあるにゃ。」


 男性の呼吸が少しだけ深くなる。


「……守るため、か……。

 確かに、昔から“弱ってると思われたくない”って、ずっと無理してました。」


 ミルは男性の肩にそっと前足をのせた。


「でもにゃ、仮面を外す場所が一つでもあれば、心はちゃんと息をするにゃ。

 全部の場所で素顔にならなくていいにゃ。

 まずは“ひとつだけ”楽に息ができる場所を作るにゃ。」


 男性はゆっくり顔を上げた。


「……ひとつだけで、いいんでしょうか。」


「いいにゃ。」

 ミルはきっぱりと言い切った。


「素顔のにんげんを受け止める場所は、

 多ければいいってものじゃないにゃ。

 ひとつあれば、心は倒れないにゃ。」


 男性の表情が少しだけほどけた。


「……ここに来てよかったです。

 なんだか、ずっと緊張していた頬がゆるむ気がします。」


 ミルは満足げに喉をころんと鳴らし、

 カウンターの奥から 魚型クッキーをぽろん、と押し出した。


〈仮面はにゃ、疲れたら外せばいい。

 顔より心を大事にするにゃ〉


 男性が店を出るころ、

 街の明かりはさっきよりやわらかく映っていた。


 ミルは棚に戻り、

 ひげをふるりと揺らしてからゆっくり目を閉じた。

 まるで「素顔で来ていいにゃ」と

 静かな夜へそっと手を伸ばすように。

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三毛猫ミルの深夜相談室 ねこの真珠 @nekonoshinjyu

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