あなたに手向けの花束を

花岡美菜

By Your Side

 目を開けて、静かに息を吐いた。


 そこは天井も壁も床も、全てが白に染まっていた。天と地の境界は曖昧で、狭い部屋なのか、広い大地なのか、瞳だけでは分かりようが無かった。


 アヤは瞬きをする。

 横たわった身体を起こし、辺りを見渡した。

 果てしなく続くような白の空間にはアヤ以外に誰もいない。ひとりきりの世界。


 ぼんやりと白い空間を見つめて、アヤは気付く。

 一枚の白い扉がそこにあった。

 白い空間に溶け込むように、最初からそこにあったかのように、扉は静かに佇んでいた。


 アヤはゆっくりと立ち上がり、扉に向かって歩き出す。足音は微かな音を立てることなく、ひたすら静寂の中に消えていく。

 扉の前に立つ。扉は枠も取手も全てが白く、微かな影を落としている。

 取手に触れる。床と同様に、冷たくも暖かくもない。


「……」


 アヤは静かに、扉を開いた。



 扉を抜けた先は住み慣れた家のリビングだった。

 温かみのある木のフローリング、ねずみ色のソファ、丸いテーブル、本棚に整然と並ぶ本。天井から柔らかな光が降り注ぎ、どこか遠い場所からは時計の秒針を刻む音が鳴り続けていた。


 アヤが部屋の中へと足を進めると、ふっと空気が変わる。


「お疲れ様、アヤ」


 ふわりと漂う微かな花の香り。


「冒険の旅はどうだった?」


 優しく、どこか懐かしい声がした。

 アヤは声の方向へ、ゆっくりと視線を向ける。


 そこに居たのは、アヤと瓜二つの容姿をした、アヤそのものだった。

 幼さの抜けきらない顔立ち、空に似た広く青い瞳、大人と子供の間を揺れ動く華奢な身体を制服で包み込んだ、何ら変わらないもう一人の自分。腰まで伸びた長髪と柔らかな表情だけがアヤとは異なり、アヤを見つめるその眼差しは慈しむような優しさで満ちていた。


「ふふっ」


 垂れた髪先を揺らめかせながら、少女が柔らかく微笑む。


「お茶会の準備できてるよ。今日はしっとり系にしてみたんだ」


 アヤを導くように、少女は丸いテーブルに向けて手を広げる。

 テーブルの上には西洋料理でよく用いられる、銀色の蓋が置かれていた。

 アヤが淡々と席に座ると、少女はテーブルの向かいに回り込み、蓋の取っ手を指先で摘まむ。


「開けてみたいでしょ~? 手、乗せて?」


 アヤも無言で手を伸ばし、少女の指先に自分の手を重ねる。


「いくよ? せーの!」


 掛け声と共に蓋が持ち上がり、空気の抜けるような音と共に隠されていた皿が露わになる。

 皿の上には、一枚のステーキが置かれていた。


「じゃーん、花びら! すごくおっきいでしょ?」


 少女が誇らしげに声を上げ、アヤに視線を向ける。

 程よく火の通った肉の香りが部屋に広がり、アヤの鼻腔を刺激する。


「喋るお花と会ってね、花びらを分けてくれたの。歯ごたえ抜群なんだって」


 少女は次々に言葉を投げかける。少女が微笑んで見守り、部屋の空気が穏やかに流れる中でアヤは静かにステーキを見つめる。


「……もしかして苦手だった? 嫌だったら遠慮しないで言っていいんだよ」


 アヤはステーキを見つめ続ける。そして、ナイフとフォークを手にとった。

 少女が嬉しそうに微笑む。


「花言葉ってお花の色ごとに違うんだって。このお花は赤以外にも色々あって、赤が『あなたを愛します』なんだって。もしかしたらあのお花なりのアプローチだったのかも」


 皿に乗せられた大きなステーキをフォークで抑え、ナイフを入れる。

 刃は肉の繊維に沿って滑り、皿の上で金属が軽く擦れる音を響かせる。

 赤みを帯びた中心からは温かな湯気が立ち上り、霧散していく。

 ほんの少しの時間が流れ、一口サイズにまで分け終えると、少女が声をかける。


「制服、似合ってるね。ピッタリで驚いちゃった」


 見守るような、温かな声。


「アヤがその格好で来ると思って私も同じ服にしたんだ。アヤと私でペアルック!」


 少女が背筋を伸ばして、両手を広げる。

 少女の服装を上目に見つめると、アヤは再び皿に視線を向け、ステーキを一切れ口に運んだ。口の中に心地よい肉の味が広がる。


「懐かしかったね、コウくん。私は小学生ぶりだったけど、すごくイケメンに育ってたね」


 少女は微笑みながら、ゆっくりと両手を膝に置いた。少し身体を前に傾け、穏やかな目でアヤを見つめる。


「入学式の時チラチラ見られてたの気付いてた? ずっとアヤのこと気にしてたよ」


 アヤは少女の顔を見て、何も言わずに再び手元の皿に目線を落とした。


「ふふっ」


 再び微笑み、両手を胸に添え、ゆっくりと瞳を閉じる。


「今日は本当に色々な事があったね……。女の子を助けたり、知らない人に囲まれたり、久しぶりに外に出るのは大変なことばかりだったと思う……」


 肩を小さく揺らしながら、寄り添うように、語り聞かせるように言葉を紡ぐ。


「でも、こうやって前に進めたんだもの。アヤなら大丈夫」


 手を重ねたまま静かに膝に戻し、穏やかに視線をアヤに向ける。


「怖いことはいっぱいあるかもしれない……不安な気持ちは止まらないかもしれない……。暗い感情はまだ消えないかもしれないけど、心配しないで。いつか絶対、楽しいことの方が多くなるわ」


 少女の声は落ち着きと温かさを持ちながらも、どこかしらに切なさを帯びて響く。静かな部屋に溶け込むような囁き。アヤは微動だにせず、その言葉をただ静かに聞いていた。


「……本当はね、今日あなたと会うか迷ってたの。私がきっかけであなたに重荷を背負わせて、引きこもる事になってしまったから……あなたに合わせる顔がないと思ってて……」


 ゆっくりと視線を落とし、指先でテーブルの端を撫でる。微かに自重するような笑みを浮かべ、それをすぐにかき消すように顔を上げる。


「でも今日は会ってよかった。あなたも私の事が嫌いじゃないって事が分かったから。私もアヤが大好きだよ」


 アヤの無表情だった顔が、少しだけその言葉に反応した。

 目を合わせて、少女は穏やかに微笑む。


「これはね……死んでから分かったことなんだけど、死と夢って領域が隣り合ってるの」


 少女は語りながら、指を組んで膝の上に置く。


「もちろん隣り合っているからといって簡単にはその境界を越えられないわ。でも、死者と生者の想いがお互いに強く繋がればその境界を超えて会える……そんな奇妙な関係なの。夢を見る人の目が覚めるとそこで繋がりは途絶えちゃうんだけどね」


 少女の瞳に、ほんの少しの寂しさが宿る。


「目が覚めたらあなたは今日会ったことを忘れてしまうかもしれない……。私と会えるのは今日が最後かもしれない……。だから、あなたの制服姿だけでも見れて良かったわ……思い出は消えないから……」


 言い終えると、少女はアヤ越しに遠くを見つめ、名残惜しそうに眉を下げる。


「……そろそろ時間みたい」


 そう呟き、静かに椅子から立ち上がる。

 下がった眉を戻し、真っ直ぐな瞳でアヤを見つめなおす。


「忘れないで。あなたが何歳になっても、あなたが望む限りずっと傍で見守ってる」


 少女の身体が光を帯びていく。


「だって私は、あなたのお姉ちゃんなんだもの」


 そして包み込むように、柔らかく微笑んだ。


 いつも傍にいて、優しく抱きしめてくれた存在。

 否定された気持ちになっていただけだった。


 初めての姉妹喧嘩で、叱られて、耐えきれなくて、もう仲良くなれないと、思い込んでしまっただけだった。


 少女は。

 姉は。

 あなたの愛した彼女は。


 いつまでも、あなたの事を思ってくれていた。


 少女と目を合わせると、いくつもの光の粒が二人の周りに漂い始める。

 蛍にも似た仄かな光はアヤと少女を控えめに照らし、影を和らげていく。

 やがて部屋一帯が光に包まれていき、視界が白く覆われていく。


 光の中で、声が響く。


「さようなら……彩芽。私の妹……」


 最期まで優しい、大切な人の声。


「高校、頑張ってね……」


 その言葉を聞き届けて、アヤは目を閉じた。


──────────────────────────────


 目を覚まして、静かに息を吐いた。


 暗がりに慣れない瞳はぼんやりと天井を映し出し、カーテンの隙間からは柔らかく温かい朝日が控えめ射し込む。

 一人きりのベッドから起き上がり、カーテンを開ける。

 ろくに眠れないまま朝を迎えて、大きく息を吸い込んで、空を見上げた。


 ただ広がっているだけの青い空に、少しだけ、安心した気持ちになった。


「……」


 開かれたクローゼットに手を伸ばす。


 私は、着古された、制服の架けられたハンガーを手に取った。

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あなたに手向けの花束を 花岡美菜 @Yamaaestar

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