月光茸
虹雷
第1話
人々の営みから遠く、遠く離れた森の奥深く。木々が生い茂る中、ぽつんと拓けた空間があります。そこには月光茸と呼ばれる、この森にしか生息していない茸が群生しています。それは月明かりに照らされ、イルミネーションのように幻想的に光っていました。そして、空間の中央に大きな切り株が鎮座しています。それはまるで無数の小さな星々の中に浮かぶお月様のようでした。
「ワァ…本当に、あったんだ。」
そこに、どこから迷い込んできたか、一匹の子猫がやってきました。彼女は、あたり一面の月光茸に見惚れている様子です。
「…おや。お客さんか。今年はやけに多いなあ。」
子猫に気付いて、森の住人が羽ばたいてやってきました。
「あなたは?」
「私?名前など無いよ。…あえて呼びたいなら、『番人』とでも呼んでくれ。」
「フクロウの番人さん、なのね!…えぇと…。」
「どうした?」
「聞きたいことは一杯あるはずなのに、何から話して良いか分からないの。」
「何も話す必要は無い。」
「…え?」
「ゆっくりとここで時間を過ごして、『その時』が来たら、それでおしまいだ。」
子猫は、まさかの展開にきょとんとして番人を見上げました。
「そんな…。とても長い時間をかけて、ここに来たんですよ?」
「だからこそ、だ。」
番人は断言します。
「ここまで来たら、キミに話すべき事も、やるべき事も残されていない。ただ、ゆっくりとキミの時間を過ごせば良い。」
「そう言われても…。」
子猫は、改めて周りを見渡します。月光茸は、色とりどりの光を放ち続けていました。
勇気を出して、その中に足を踏み入れてみます。
月光茸が揺れて、優しい光がふわりと舞い上がりました。
「きれい…。」
楽しくなった子猫は、大きな切り株の周りを、ぐるっと時計回りに歩いてみようと思いました。
夜の森だというのに、鳥や虫などの生物が発する音は一切聞こえません。代わりに聞こえるのは、木々のさざめきだけ。
それでも、子猫に不安はありません。ただひたすら、安心があるだけです。
穏やかな気持ちで、ポツ、ポツ、と歩いていく子猫を、番人は静かに見守ります。
「なんだろう…。懐かしい気持ち。」
少し歩いたところで、子猫の心の奥底で、暖かい何かがぽわりと動き、それに呼応するように月光茸からゆっくりと光が浮かんできました。光の中には、見ただけで暖かい気持ちになれる誰かの笑顔や、おいしそうな料理を囲む食卓が映っていました。それは、きっと子猫にとって大切なものです。
半周ほどしたところで、芯から冷えていくような風を感じて、スゥーっと吹き抜けていきました。そして、また月光茸から光が浮かんできました。その中には、暗闇に点滅するディスプレイや、何年も片づけられていないような汚い部屋が見えました。それは、きっと子猫にとって…不要なものです。
「…番人さん、泣いているの?」
いつの間にか、番人のまあるい眼には涙が浮かんでいました。
「…何でもない。いつもの事だ。さあ、歩き続けて。」
子猫は、番人の事が気になりつつも、ふぅん、と答えて前足を上げました。
その時、子猫は気付きました。少しだけ、足が軽くなっています。その気になれば一気に駆け抜けられそうです。
でも、子猫には分かっています。残りの半周も、ゆっくりと、歩いて進むべきだと。
「…。」
これまでの道のりと違い、暖かい気持ちが少なくなってきました。ひんやりと冷たくて、涼しくて…。
子猫は、思わず歩みを止めてしまいます。
「…進もう。」
楽しい気持ちがすっかり消えてしまいましたが、子猫は改めて進んで行きます。
そして、もう2、3歩で一周というところまで来た、その時。
一瞬、ぶわあっ、と音を立てて、突風が吹き荒れます。月光茸の光が、風に乗って遠くに消えていきました。子猫は、びっくりしてしばらく止まってしまいました。
このまま光が戻らないのかと心配しましたが、月光茸は月明かりを浴びてすぐに光を取り戻しました。
子猫は安心して、また歩き始めます。
「…あれ。」
また、子猫は何かに気付いたようです。
「…身体が、軽いわ。」
「…。」
番人は、子猫に背中を向けています。突風のせいか、羽根がぼさぼさになっています。
「ねえ、番人さん。」
…番人は、答えません。
「もう。…分かったよ。進めばいいんだよね。」
今日のお客さんは、物分かりが良いようです。
子猫は、タンポポの綿毛のように軽くなってしまった身体で、一歩一歩を噛みしめるように進んで行きました。
そして、ついに切り株の周りを一周しました。
ふうわっ、と、今度は森を包み込むような暖かい風が吹いて、子猫の姿は見えなくなりました。
番人は、しばらくその場で動けない様子でしたが、やがて飛び立っていきました。
そして、森の奥の、ちいさな空間に、また一つ。
月の光を浴びて、暖かな光を放ついのちが生まれました。
月光茸 虹雷 @Kohrai
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