【短編】『もう、顔も見たくない』と言われた日からループが始まったので、ツンデレなあなたの本心を見つけにいきます

月待ルフラン【第1回Nola原作大賞】

【短編】『もう、顔も見たくない』と言われた日からループが始まったので、ツンデレなあなたの本心を見つけにいきます

【第一部】




キーボードを叩く乾いた音が、規則的に響いていた。


リビングのローテーブルで、ルームメイトの橘千夏がノートパソコンに向かっている。画面を睨むその横顔は、彫刻のように整っていて、普段大学で見せる誰にでも優しい笑顔とは違う、真剣な空気を纏っていた。レポートの締め切りが近いらしい。




私はキッチンで、夜食のおにぎりを握っていた。炊き立てのご飯は、手のひらには少し熱い。塩水で湿らせた手で、ふわりと三角に整える。具材は、もちろん鮭。彼女が一番好きなものだ。




橘千夏。彼女との出会いは、大学の入学式の日だった。


広い講堂に、真新しいスーツに身を包んだ学生たちがぎっしりと並んでいる。新しい生活への期待で、誰もが少し浮足立っていた。私もその一人で、隣の席に座った女の子に、にこやかに「よろしくね」と声をかけた。それが、千夏だった。




彼女は、人形みたいに綺麗な顔を、緊張でこわばらせていた。私の挨拶に、かろうじてこくりと頷いただけ。そのあとは、背筋をピンと伸ばしたまま、舞台の一点を凝視して微動だにしなかった。その姿は、クールというより、むしろ今にも張り裂けてしまいそうなほど、脆く見えた。




式の途中で、隣から「ぅ……」と小さく呻く声が聞こえた。見ると、千夏が肩で浅い呼吸を繰り返している。顔は青ざめ、額には脂汗が滲んでいた。過度の緊張で、気分が悪くなってしまったのだろう。周りの学生は気づかないか、気づいても見て見ぬふりをしている。




私は、どうしようもなくお節介な性分なのだ。


「大丈夫?」と、できるだけ小さな声で尋ねる。


千夏は、驚いたように一瞬こちらを見たが、すぐに「……大丈夫、です」と、弱々しく首を振った。どう見ても、大丈夫ではなかった。




私は、彼女のスカートの上で固く握りしめられていた手に、そっと自分の手を重ねた。氷のように冷たい。




「ちょっと、失礼」




私はそう囁くと、彼女の手のひらに、自分の指先でゆっくりと「人」という字を三回書いた。「これを飲むと落ち着くんだって。迷信だけど、やらないよりマシでしょ」


千夏は、驚いて目を見開いていた。でも、抵抗はしなかった。私の指が離れた後も、彼女は自分の手のひらを見つめて、ぎゅっと、それを握りしめていた。




式の後、人混みを抜けようとする私を、千夏が呼び止めた。


「あの……ありがとうございました」


それが、私たちの最初の会話だった。




あの頃から、千夏は不器用で、一人で全部抱え込む癖があった。だから、私がそばにいてあげなくちゃって、自然と思ったんだ。その「私だけ」が知っている特別感が、私の心を温かく満たしていた。




私は完成したおにぎりを皿に乗せ、彼女の隣にそっと置いた。




「千夏、おにぎり。少し休憩したら?」




カタン、とキーボードの音が止まる。だが、千夏は画面から目を離さないまま、短く答えた。




「……いらない」


「え? でも、お腹すいてるんじゃ」


「いらないって言ってるの」




氷のように冷たい声だった。部屋の空気が、一瞬で凍てつく。何が彼女をそうさせるのか、全く心当たりがない。ただ、昼間から何となく、彼女の周りの空気が尖っている気はしていた。




「……何か、怒ってる?」


「怒ってない」




即答だった。その反応は、逆に何かを隠している時の彼女の癖だ。


私は、この気まずい空気を早く解消したくて、つい言葉を重ねてしまった。




「でも、そういう言い方……」


「絃は、いつもそうだよね」




千夏は、ようやくこちらを見た。その瞳には、何の感情も浮かんでいないように見えた。




「勝手に決めつけて、分かったような顔して。……ちょっと、お節介すぎるんじゃない?」


「おせっかいって……私、千夏のこと心配で」


「いらない、そんな心配! 鬱陶しい!」




鬱陶しい。その一言が、私の胸に鋭く突き刺さった。良かれと思ってしたことが、全部裏目に出る。カッとなった私は、言うつもりのなかった言葉を返してしまった。




「……何それ! 人がせっかく作ってあげたのに!」




売り言葉に買い言葉。もう、止められなかった。些細なきっかけから始まった口論は、お互いを傷つけるだけの不毛な言い争いに変わっていった。どれくらいそうしていただろう。千夏の瞳から、すっかり光が消えていることに気づいた時、私ははっと我に返った。




彼女は、私から目を逸らし、絞り出すような、か細い声でこう言ったのだ。




「……もう、顔も見たくない」




その瞬間だった。


世界が、ぐにゃりと歪んだ。


耳の奥でキーンという不快な音が鳴り響き、視界の端から黒い何かが滲んでくる。立っていられなくて、私はその場に――。




***




ぴぴぴ、ぴぴぴ、と無機質なアラーム音で意識が浮上する。体を起こすと、そこはいつもの自分のベッドの上だった。窓の外からは、見慣れた朝の光が差し込んでいる。




「……夢、か」




そうだ、夢だ。きっと、昨日の喧嘩を引きずったまま寝てしまったから、あんな後味の悪い夢を見たんだ。私は大きく伸びをして、まだ少し重い頭を振った。




だが、リビングへ向かうと、昨日と全く同じように、千夏がテーブルでトーストをかじっていた。テレビからは、昨日聞いたはずの星占いが流れている。私の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。




その日は、悪夢のようなデジャヴの連続だった。大学の講義、友人の言葉、そして夜、アパートに帰ってきてからの千夏とのやり取り。私は必死に喧嘩を避けようとしたが、まるで決められた筋書きをなぞるように、別の些細なきっかけから口論になり、最後には千夏の「顔も見たくない」という言葉で、意識を失った。




3回目の朝。私は、恐怖で叫び出しそうになるのを必死にこらえた。これは夢じゃない。現実だ。私は、この6月24日という一日に、閉じ込められてしまったのだ。




パニックに陥った私は、めちゃくちゃな行動をとった。大学をさぼり、漫然と街を歩き、映画を観た。千夏と会わなければ、喧嘉もしないはずだ。しかし夜、アパートに戻ると、心配した千夏に「どこに行ってたの」と問い詰められ、結局は口論になった。




5回目の朝を迎えた時、私はベッドの上で呆然と天井を見つめていた。


もう、何をやっても無駄なのかもしれない。




……いや。


本当に、そうだろうか?




ふと、私の頭に、全く別の考えが浮かんだ。


千夏と、大喧嘩した。そして、また同じ日の朝が来る。ということは、昨日の喧嘩は「なかったこと」になっている。




つまり、失敗が、リセットされる?


頑固で、意地っ張りで、本当の気持ちを絶対に口にしない、あの橘千夏。そんな彼女と、失敗を恐れずに、何度でも真正面から向き合える時間が与えられている?




そう思った途端、恐怖で凍りついていた心が、にわかに熱を帯び始めた。


絶望している場合じゃない。これは、神様がくれた、壮大な仲直りのチャンスかもしれないのだ。




「……そうと決まれば!」




私はガバッとベッドから起き上がると、クローゼットの奥で眠っていた、高校時代の日記帳を引っ張り出した。そして、真新しいページに、油性ペンで高らかにタイトルを書きつけた。




【対・橘千夏 完全攻略マニュアル】




なんだか、昔夢中になった恋愛シミュレーションゲームみたいだ。私は少し可笑しくなりながら、最初のページに、この奇妙なゲームのルールを整理して書き込んでいく。




<基本情報>


・プレイヤー:私(絃)


・攻略対象:橘千夏(クール系ツンデレ)。ただし、極度の緊張しいで、心を許した相手には不器用ながら甘える。


・ゲームの目的:喧嘩を回避し、6月25日の朝を迎えること!




<判明しているルール>


・千夏に「顔も見たくない」と言われると、ゲームオーバー(強制的に朝に戻る)。


・千夏は、前日の記憶を保持していない。


・つまり、何度コンティニューしても、向こうは初期状態。ずるい。




よし。まずは情報収集からだ。


私はノートを机の引き出しの奥に隠し、気合を入れ直してリビングへ向かう。6回目の挑戦が、今、始まる。




---




【第二部】




6回目の挑戦が始まってから、私の毎日は「橘千夏の研究」に費やされた。


大学の講義も、退屈な一般教養でさえ、今は貴重な情報収集の時間だ。私はノートの隅に、千夏に関するあらゆるデータを書き留めていく。好きな食べ物、好きなバンド、好きな映画監督。その一つ一つが、このループという名のゲームをクリアするための重要アイテムのように思えた。




「攻略マニュアル」は、日を追うごとに、失敗の記録で黒く埋まっていく。




<検証7:好きな音楽で心を開け作戦>


・彼女の好きなバンド『サイレント・ガーデン』の最新アルバムを流す。


・反応:「……別に。嫌いじゃない」(※これは、かなり好感触のサイン!)


・敗因:調子に乗って「今度、ライブ一緒に行こうよ!」と誘ったら、「……人混み、嫌いなの知ってるでしょ」と冷たく返され、そこから空気が悪化。ループ。


・反省:焦りは禁物。




<検証12:得意料理で胃袋を掴め作戦>


・千夏の好物、アボカドとエビを使ったチーズグラタンを振る舞う。


・反応:「……美味しい」(※最大級の賛辞!)


・敗因:隠し味に入れたマッシュルームが、彼女の数少ない苦手な食べ物だったことが判明。「……絃、私のこと、ちゃんと見てないんだね」と悲しそうな顔をされ、自己嫌悪でループ。


・反省:情報は正確に。思い込みは危険。




<検証19:とにかく褒めて伸ばす作戦>


・レポートの進捗、その日の服装、髪のツヤまで、ありとあらゆることを褒めちぎる。


・反応:「……何か企んでるでしょ」「お世辞はいい」


・敗因:あからさますぎて、逆に警戒心を煽ってしまった。最終的に「そんなに褒められると、自分が惨めになる」と泣きそうな顔をされ、ループ。


・反省:千夏は、自分の力で成し遂げたことを、本当に分かってくれる人にだけ、そっと褒めてほしいタイプ。




ループは20回を超えた。私の主観では、もうすぐ最初の夏休みが始まろうとしている。


小手先のテクニックは、もう通用しない。私はだんだんと気づき始めていた。喧嘩の原因は、もっと根深い、彼女の「感情」そのものにあるのだと。




そして、手詰まり感を感じ始めた32回目のループで、私はある危険な賭けに出ることにした。


これまで、喧嘩の原因はすべて、私と千夏の「二人の中」にあると思っていた。だが、もし、外に原因があるとしたら?




その日、私は夕食の準備をしながら、何気ないふりをして言った。




「そういえば今日、サークルの佐藤先輩に会ってさ。面白い人だよね、あの人」




佐藤先輩というのは、同じ学部にいる、ただの顔見知りだ。特に親しいわけでもない。




その瞬間、キッチンカウンターの向こう側で、千夏が読んでいた本のページをめくる手が、ぴたりと止まった。




「……ふーん」




返ってきたのは、温度のない相槌だけ。だが、空気が変わったのを、私は肌で感じた。




「今度、何人かで飲みに行こうって誘われたんだよね」


「……行けば?」


「え?」


「行きたいんでしょ、その飲み会。行けばいいじゃない」




千夏は本から目を離さないまま、吐き捨てるように言った。声が、低い。これは、まずい。完全に地雷を踏み抜いた。




その日の夜、私たちは史上最悪の喧嘩をした。千夏は「私のことなんてどうでもいいんだ」「勝手にすれば」と、普段は決して口にしないような、自暴自棄な言葉を繰り返した。そして、いつものセリフを、涙ながらに叫んだ。




「もう、絃の顔も見たくない!」




ぐにゃりと歪む世界の中で、私は雷に打たれたような衝撃と共に、一つの確信を得ていた。




33回目の朝。私はベッドから飛び起きると、震える手で「攻略マニュアル」を開いた。そして、新しいページに、はっきりとした文字で書き記す。




<重要:喧嘩の根本原因の特定>


・原因は「嫉妬」。


・私が、他の誰か(特に男性)と親しくすることに対して、強い拒否反応を示す。




33回目の朝。私は自分の立てた仮説をノートに書き込みながら、雷に打たれたような衝撃と、それから、どうしようもなく込み上げてくる愛おしさで、顔が熱くなるのを感じていた。あのクールな橘千夏が、こんなにも分かりやすく、私のことでやきもちを焼いてくれていたなんて。




嬉しくて、可笑しくて、私は一人で声を殺して笑った。




ならば、やるべきことは一つだ。


「千夏を、安心させてあげること」。


もう、不安にさせない。疑わせない。私が一番大切に思っているのは、他の誰でもなく、君なんだと、ちゃんと分かってもらうこと。




その日から、私の「攻略」は、新しいフェーズに入った。




<検証34:全力で誤解を解く作戦>


・「佐藤先輩とは本当に何でもないよ!」と、明るく、しつこいくらいに伝えてみる。


・反応:「……別に、そんなこと聞いてないし」と、ぷいと顔を背けられる。会話終了。ループ。




<検証35:特別感をアピールする作戦>


・「私は、千夏と一緒にいるのが一番楽しいな」と、目を見て伝えてみる。


・反応:一瞬、驚いたように目を見開くが、すぐに「……お世辞はいい」と疑いの目を向けられる。信頼を得られず、ループ。




ダメだ。全然、ダメだ。


私がいくら言葉を尽くしても、千夏の心の壁は、以前よりもむしろ厚くなっている気さえする。私の言葉は、彼女に届けば届くほど、「どうせお節介で言ってるだけ」「本心じゃないくせに」という疑念を増幅させてしまうようだった。




ループは40回を超えた。


私は、完全に手詰まりだった。嫉妬が原因だと分かったのに、その嫉妬を取り除いてあげることができない。自分の無力さに、久しぶりに本気で落ち込んだ。




その日のループでも、私は千夏にどう接すればいいか分からず、ただ無言で彼女の好きな鮭おにぎりを差し出した。千夏はそれを受け取ると、ポツリと言った。




「……なんで、分かるの」


「え?」


「私が、鮭のおにぎり、好きなの」


「そりゃあ、一緒に暮らしてるんだから、分かるよ」




当たり前のことのように答えた私に、千夏は、何か言いたそうに唇を震わせた。でも、結局その言葉は音にならず、彼女はまた、自分の殻に閉じこもってしまった。




その夜も、私たちは些細なことから口論になり、ループした。




41回目の朝。ベッドの上で、私は昨夜の千夏の言葉を反芻していた。


「なんで、分かるの」。


あの時の彼女の顔。それは、嬉しいとか、美味しいとか、そういう単純なものではなかった。もっと複雑で、切実な……まるで、迷子のような顔だった。




私は、はっとした。


そうだ。千夏は、安心したいのだ。


私が口先で「君が特別だ」と言うことによってではなく、彼女自身が「私は、絃にとって、本当に特別な存在なんだ」と、心の底から信じることによって。




私が与える「安心」じゃダメなんだ。千夏が、自分で見つけ出す「確信」が必要なんだ。




では、その「確信」とは、一体何だろう?


彼女が、自分の価値を信じられるような、絶対的な何か。


友情、親友……そんな言葉では、もう足りない。あの嫉妬の深さを考えれば、もっと、たった一つの、揺るぎない言葉。




そこで、私はノートの最初のページに書いた、この奇妙な現象のルールに立ち返った。




始まりは、千夏の「拒絶」の言葉だった。


「もう、顔も見たくない」。




もし、始まりと終わりが対になっているのだとしたら。


拒絶の反対は、肯定。


「顔も見たくない」の反対は、「ずっと一緒にいたい」。


そして、その最上級の言葉は……。




雷に打たれる、という表現では足りない。


まるで、ずっと探していたパズルの最後のピースが、音を立ててはまったような感覚だった。




私は、震える手で、ノートの最終ページを開いた。


そして、これまでの仮説を全て消して、たった一つの、究極の目標を書き記した。




<最終目標:ループ脱出条件>


・橘千夏からの「好き」という告白。




馬鹿げている。あまりにも、突拍子もない。


でも、不思議と、これしかないと思えた。


私たちのこの一ヶ月以上の奇妙な毎日は、全て、このたった一言のためにあったのだ。




ゲームの目的が、更新された。


難易度は、神の領域だ。




でも、もう迷わない。


私はノートを閉じた。もう、小手先の攻略法はいらない。


必要なのは、覚悟だ。彼女の本当の気持ちに、そして、私自身の本当の気持ちに、本気で向き合う覚悟。




次のループから、私の戦いは、本当の意味で、最終ステージへと移行する。




---




【第三部】




ループの最終目標が「千夏からの告白」だと定まってから、私の行動はがらりと変わった。


もう、彼女の機嫌を伺うような小手先のテクニックは、全て捨てた。ノートに新しい作戦を書き込むことも、喧嘩を恐れてびくびくすることもない。




私がやるべきことは、ただ一つ。


橘千夏という人間と、誠心誠意、向き合うこと。


そして、私自身の気持ちからも、もう逃げないことだ。




ループは50回を超えた。


私の主観では、季節はもう秋になろうとしている。同じ6月24日を繰り返しているはずなのに、私の心だけが、別の時間を生きていた。




その日のループでも、私はいつも通り、夜食のおにぎりを用意していた。でも、今日は鮭じゃない。おかかとチーズを混ぜた、少し変わったおにぎりだ。これは、ループ43回目の日に、千夏が雑誌を見ながら「こういうのも、美味しそう」と、ポツリと呟いていたのを、私が覚えていただけのもの。




「千夏、夜食。ちょっとだけ、いつもと違うやつ」




差し出すと、千夏は驚いたように目を丸くした。




「……なんで、これ」


「んー、なんとなく? 千夏が好きかなって思っただけ」




私は、もう「君の好きなものを知ってるんだ」というアピールはしない。ただ、私がしたいから、するだけだ。千夏は、何も言わずにそれを受け取ると、小さな口で、一口、また一口と、大事そうに食べた。




その夜、私は千夏のレポートを手伝うでもなく、ただ静かに同じリビングで、自分の本を読んで過ごした。無理に話しかけず、でも、拒絶もしない。ただ、同じ空間にいる。その心地よい沈黙が、これまでのどのループよりも、私たちの距離を近づけてくれている気がした。




だが、深夜。レポートに行き詰まった千夏は、やはり、溜め息をついた。そして、その矛先は、静かにしている私へと向かう。




「……絃は、いいね。気楽で」




始まった。いつもの、八つ当たりだ。


以前の私なら、ここで「そんなことないよ」とか、「何か手伝おうか?」と声をかけて、泥沼にはまっていっただろう。




でも、今の私は違う。


私は読んでいた本を閉じると、静かに彼女の正面に座った。




「……気楽じゃないよ」


「え?」


「私も、ずっと考えてる。千夏のこと」




まっすぐに彼女の目を見て、はっきりと告げる。もう、この瞳に絶望の色を浮かべさせはしない。その覚悟が、私の声を強くしていた。




「私が、他の誰かと話してると、嫌な気持ちになる?」




単刀直入な質問に、千夏の肩が小さく震えた。図星だったのだろう。彼女は、ぷいと顔を背ける。




「……自意識過剰じゃない?」


「そうかもね」




私は、彼女の言葉を否定しなかった。




「でも、もしそうだとしたら、私は、嬉しいなって思う」


「……は?」




虚を突かれたような顔をする千夏に、私は続ける。これは、賭けだ。でも、もう、この方法しかない。




「だって、私も同じだから。千夏が、私の知らない誰かと楽しそうにしてたら、胸のあたりが、なんか、もやもやする。すごく、嫌な気持ちになる」




私の告白に、千夏の瞳が大きく見開かれた。


「友情」とか「親友」とか、そんな曖昧な言葉のオブラートは、もういらない。私のありのままの感情を、ぶつける。




「私は、千夏がどう思ってるか、ちゃんと言葉で聞きたい。逃げたり、誤魔化したりしないで。お節介とか、鬱陶しいとか、そういう壁の内側にある、本当の気持ちを聞かせてほしいんだ」




これは、懇願だった。


50回以上のループを繰り返した私の、たった一つの、切実な願い。




沈黙が、部屋に落ちる。


千夏は、俯いたまま、何も言わない。長い、長い沈黙。


ああ、また、ダメだったのかもしれない。私の独りよがりだったのかもしれない。


そう思った瞬間、彼女の震える唇から、か細い声が漏れた。




「……うるさい」


「え……?」


「……だから、うるさいって言ってるの」




彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、決壊したダムみたいに、涙で潤んでいた。頬は、真っ赤に染まっている。




「あんたが……あんたが、先に気づかせるのが悪いのよ。毎日、毎日、私のことばっかり見て……そんなの、勘違いするに決まってる」




ぼろぼろと、大粒の涙が、彼女の白い頬を伝っていく。




「好きに決まってるでしょ、バカ……っ」




その言葉が、世界に響いた瞬間。


キーン、という、もう聞き慣れてしまった耳鳴りが、ぴたりと止んだ。


ぐにゃりと歪んでいた空間の輪郭が、まるでピントが合うように、はっきりとその形を取り戻す。




時間が、動き出したのだ。




私は、呆然と立ち尽くす千夏の腕を引いて、強く、強く抱きしめた。温かい。ちゃんと、体温がある。壊れ物を扱うように、でも、二度と離さないというように。




「……私も、好きだよ、千夏」




腕の中で、千夏の嗚咽が、少しずつ、穏やかな寝息に変わっていく。


どれくらいの時間が経っただろう。ふと、窓の外に目をやると、暗かったはずの空の向こうが、ほんのりと白み始めていた。




それは、私たちがまだ一度も見たことのない、「6月25日」の、美しい朝日だった。


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