世界の消去

不思議乃九

 私と妻の暮らしは、凡庸な日常の積み木のように積み上がっていた。

 しかし「日常」ほど疑わしい概念もない。昨日と今日が同じであるという保障など、本来どこにも存在しないのだ。


 異変が起きたのは、火曜日の午後三時だった。


「冷蔵庫という概念を消したの」


 妻は紅茶を飲みながら、新聞の四コマ漫画でも指すような調子で言った。

 私は当然、皮肉だと思った。「じゃあ私は、君という概念を消そうか」と。


 だが、キッチンには確かに“歪み”があった。

 本来そこに冷蔵庫があるべき空間だけ、空気が薄くよれている。壁紙がごく僅かに波打ち、視線がそこを通過すると、わずかにピントが狂った。


「どうやったんだ」

「わからない。ただ、『無くなればいい』と思ったら、無くなったの」


 水曜日、ソファが消えた。

 木曜日、家の中から「ドアノブ」という概念が消えた。

 扉は開くが、触れるべき形が存在しない。手を滑らせるたび、扉の輪郭が一瞬だけ水面のように揺らいだ。


 私は恐怖よりも先に、ひどく不謹慎な興奮を覚えた。

 妻の行動は、筒井康隆の短編のように、世界のルールを一つずつ剥がしていくようだった。


 金曜日。妻は庭の芝を眺めながら言った。


「今日はね、“隣の太郎さん”を消したの」


 隣家を覗くと、建物は残っているのに、住人の気配だけが完全に消去されていた。郵便受けには広告すら入っておらず、窓のカーテンの裏側には“暮らし”という影が一切なかった。

 そこには「誰も住んでいない」という事実だけが、異様な純度で漂っていた。


 そして、土曜日の夜だった。


「ねぇ、あなた」


 妻は静かな声で言った。その目は、平凡な生活者のそれではなかった。

 まるで、すでにこの世界の言語体系から逸脱した存在が、こちら側に一時的に滞在しているような眼差しだった。


「今日は、この家から“私”という概念を消すわ」


 次の瞬間、妻は消えた。

 その場に残ったのは、巨大な空気の歪み——まるで空間ごと血の温度が抜け落ちたような沈黙だけだった。


 日曜日。私は目覚めてすぐ、あの歪みを見た。

 そこに“妻”がいたはずなのに、私は彼女の顔を思い出せなかった。


 記憶が欠けたのではない。

 **“妻という概念”が、世界の辞書から削除されたのだ。私の脳は、その空白を埋める術すら持たない。**


 私は、その歪みの向こう側でかすかに鳴る音に気づいた。

 リビングの隅で、飼い猫のユラが静かに壁を見つめている。


 そこには“まだ名前もつけられていない歪み”がある。

 妻が最後に消去しようとしたものだろう。


 私は悟った。


 次に消えるのは、世界の側だ。


 なぜなら、この世界は初めから、

 **“私という概念”を必要としていなかった。**


 ただ、妻だけが——

 その不在を覚えていてくれたのだ。

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