世界の消去
不思議乃九
*
私と妻の暮らしは、凡庸な日常の積み木のように積み上がっていた。
しかし「日常」ほど疑わしい概念もない。昨日と今日が同じであるという保障など、本来どこにも存在しないのだ。
異変が起きたのは、火曜日の午後三時だった。
「冷蔵庫という概念を消したの」
妻は紅茶を飲みながら、新聞の四コマ漫画でも指すような調子で言った。
私は当然、皮肉だと思った。「じゃあ私は、君という概念を消そうか」と。
だが、キッチンには確かに“歪み”があった。
本来そこに冷蔵庫があるべき空間だけ、空気が薄くよれている。壁紙がごく僅かに波打ち、視線がそこを通過すると、わずかにピントが狂った。
「どうやったんだ」
「わからない。ただ、『無くなればいい』と思ったら、無くなったの」
水曜日、ソファが消えた。
木曜日、家の中から「ドアノブ」という概念が消えた。
扉は開くが、触れるべき形が存在しない。手を滑らせるたび、扉の輪郭が一瞬だけ水面のように揺らいだ。
私は恐怖よりも先に、ひどく不謹慎な興奮を覚えた。
妻の行動は、筒井康隆の短編のように、世界のルールを一つずつ剥がしていくようだった。
金曜日。妻は庭の芝を眺めながら言った。
「今日はね、“隣の太郎さん”を消したの」
隣家を覗くと、建物は残っているのに、住人の気配だけが完全に消去されていた。郵便受けには広告すら入っておらず、窓のカーテンの裏側には“暮らし”という影が一切なかった。
そこには「誰も住んでいない」という事実だけが、異様な純度で漂っていた。
そして、土曜日の夜だった。
「ねぇ、あなた」
妻は静かな声で言った。その目は、平凡な生活者のそれではなかった。
まるで、すでにこの世界の言語体系から逸脱した存在が、こちら側に一時的に滞在しているような眼差しだった。
「今日は、この家から“私”という概念を消すわ」
次の瞬間、妻は消えた。
その場に残ったのは、巨大な空気の歪み——まるで空間ごと血の温度が抜け落ちたような沈黙だけだった。
日曜日。私は目覚めてすぐ、あの歪みを見た。
そこに“妻”がいたはずなのに、私は彼女の顔を思い出せなかった。
記憶が欠けたのではない。
**“妻という概念”が、世界の辞書から削除されたのだ。私の脳は、その空白を埋める術すら持たない。**
私は、その歪みの向こう側でかすかに鳴る音に気づいた。
リビングの隅で、飼い猫のユラが静かに壁を見つめている。
そこには“まだ名前もつけられていない歪み”がある。
妻が最後に消去しようとしたものだろう。
私は悟った。
次に消えるのは、世界の側だ。
なぜなら、この世界は初めから、
**“私という概念”を必要としていなかった。**
ただ、妻だけが——
その不在を覚えていてくれたのだ。
世界の消去 不思議乃九 @chill_mana
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