「ヒヨリの残した夏」
RinNeko
夕暮れのバス停にて
「ねぇ……あの日、どうして死ななかったの?」
メイは、夏の匂いが微かに残る夕暮れのバス停で、ひとりつぶやいた。
夕陽はじりじりと沈み、セミの鳴き声が空気を震わせていた。
その風景は、ヒヨリが死のうとしたあの夏と、驚くほど同じ色をしていた。
ヒヨリが死を選びかけた日。
海風は清らかで、波のきらめきは世界中が彼女にスポットライトを当てているかのように眩しく輝いていた。
「ねぇ、今日の海、ほんとに綺麗だよ!」
そう笑っていたヒヨリは、まるで生きることに何ひとつ悩みがないみたいで、むしろ幸せそうに見えた。
その夜、
ヒヨリは静かに海沿いの断崖に歩いていき、その端に立った。
何度も足を踏み出そうとしては戻し、
最後まで――飛び降りることができなかった。
あんなにも美しい夏だったのに。
メイの記憶の中のヒヨリは、
誰よりも可愛らしく、凛として、明るく、
そして世界中の誰より幸せそうだった。
だからこそメイは、今も思ってしまう。
「あの時、あの子が死んでいたほうが、まだよかったんじゃないか」
そんな考え、思ってはいけないと分かっているのに。
まぶしい六月、
誰より幸せに笑っていたと断言できる七月、
夢のようだった八月は、容赦なく過ぎていった。
花が咲いたあと、あっけなく散るように、
あの日を境にヒヨリはゆっくりと壊れていった。
笑い方を忘れ、海を見ることすら怖がって、
そして最後には――
あの輝く夏とは似ても似つかない姿で、この世界を去った。
メイは空を見上げる。
今日の空は、どこかあの夏に似ていた。
胸の奥が裂けるように痛む。
「どうして……あんなに綺麗な日に、終われなかったの。
どうして、あんな惨めで、意味もなく死んでしまったの……ばか……」
その問いの答えは、もうどこにもない。
——いじめ。
簡単に言えば、一人や、弱い誰かを孤立させ、社会から排除する行為。
真夏の陽射しのように笑っていたヒヨリの微笑みを奪ったのは、
皮肉にも、未来を夢見て育っていくはずだった“学校”という社会だった。
ねぇ、ヒヨリ。
今でも信じられないんだ。
君が死んだことも、
私を置いていったことも。
寂しくて、苦しくて、
戻ってきた夏は、あの頃のように暖かくも、眩しくもなく、ただ空っぽで。
私のすべての色を、君が盗んでいったみたいで、世界はモノクロに見えた。
私の名前みたいに、
君の命の重さが、どうしようもなく重かった。
いっそ、私も連れていってよかったのに。
あの日、もう少し勇気を出して君に声をかけていたら、
あの断崖で、手を繋いで、笑いながら一緒に行けたのかな。
私の世界の色を全部奪って逃げた、悪い泥棒猫。
一生そう呼び続けてもいいから、せめてもう一度、ほんの一瞬でいい。
君を、ぎゅっと抱きしめたい。
ヒヨリの好きだった緑茶を飲み干し、メイは手を止めた。
書いていた手紙を丁寧に折り、
蒼いクジラと碧い海が描かれた封筒に入れ、しっかり封をする。
それを細く巻いて小さなガラス瓶に入れ、青い紐で結んで仕上げた。
この手紙は、君があの日、命に迷った場所へ。
君が一番美しく、輝いていた姿のまま、海へ流してあげる。
心配しないで。
君の遺言みたいに、私はしぶとく生きて、
生き延びて、この世界を見届けて、
それから――君のところへ行くから。
「ヒヨリの残した夏」 RinNeko @RinNekoko
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