第拾漆話『ローマの石は血を吸い、フィレンツェの石は夢を見る』─芸の美の象徴、伊

B「あらゆる技巧が、現実に似すぎると現実になってしまう。だからこそ嘘が必要だと。

でもカノーヴァはそれでもなお美で現実を塗り直そうとした。アントニオ・カノーヴァは、ナポレオンの妹ポリーヌのヴィーナス像やナポレオン像で有名。彫刻における古典主義の終点でもあり、かつては現実を神話に戻す者とすら言われた人物。」

A「ダンテって、『神曲』の《地獄編》、読み直すとめちゃくちゃ現代的だよ」

B「読んだの?まさか、トスカーナ語で?」

A「笑えない冗談だ」

B「通じるだけましよ」

B「ローマの石は血を吸い、フィレンツェの石は夢を見るって、誰が言ったか知っている?」

A「知らない。で、それどこで仕入れた台詞?」

B「夢のなか。ではなく私が今この場で作り出した。」

A「つまり、それはB自身の寂しさから出た言葉ってことだね。」

B「ローマ帝国が栄えていた時代に、日本は主に弥生時代から古墳時代にかけての時代に相当するのよ。もちろんそれぞれに良し悪しはある。でも──文明の理って観点では、圧倒的なのよ」

A「『テルマエ・ロマエ』って、ある意味すごいよね。風呂ひとつで、帝国の誇りネタにした」

B「『テルマエ・ロマエ』で笑えるその感性こそ、イタリアの文化的意義の土壌の広さだわ、そもそも十六世紀に派生し、クレモナでアマティがいた。そこからストラディバリが現れた。これがなければ──あらゆるクラシック音楽、つまりバッハすら成立しないのよ。楽器という現実がなければ、音楽という理想は生まれなかった。

そう考えると、物づくりの歴史と功績これほど底から世界を変えた国って、他にある?論より証拠よ。全ての学際知のダ・ヴィンチ。再現性がない楽器を作ったストラディバリ。近代文学の金字塔『神曲』のダンテ。どれも歴史人物として再現性のない理屈を超えた実在の説得力があるわ。その意味では、ナポレオンもそうよ。」

A「え、だってあの人フランス人じゃないの?」

B「──歴史の悪戯ね。ナポレオン・ボナパルトは一七六九年、コルシカ島で生まれた。でも、もし彼の誕生がもう少し早ければ、彼はイタリア人だった。

その場合、彼の名前は、《ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ》。なんて芸術的なの。

歴史は、そう呼ぶはずだった名前を、すり替えてしまったのね。そもそも、ジェノヴァ共和国領だった時代に生まれていたとしたら、彼はよりイタリア的な文化の中で育ち、その影響を受けていた可能性は高いのよ。 もしかしたら、よりイタリア人的なアイデンティティを強く持っていたかもしれないという仮説も立てられるわ。なにより彼はやっぱりイタリアへの系統があった。これは彼が『ジル・ブラース物語』に没頭したことが彼の潜在能力を指し占めていたのと同様で、やはり生まれ故郷の味は消せないと現れだと思うの。だって、コルシカ島自体そもそもはイタリア文明圏だもの。フランス統治以前の一二八二年から一七六八年までのジェノヴァ共和国支配。ジェノヴァ共和国がコルシカ島を支配した期間は、実に五百年近くに及ぶわ。そんな末裔に生まれたのが「ナポレオン」という世紀の軍人。これは病跡学的知見だけど、「イタリア」的職人性と「フランス」的能動性の両方があったからこそ、彼の人生は大盤振る舞いだったのではないかしら。カリスマ性は顕在からはじまるのよ。」


A「そう考えると、ローマの血生臭を受肉し、パリの革命思考を纏った男ってことか。「ローマ」は古典・帝政・血統・栄光・暴力であり、「パリ」は啓蒙・革命・思考・理念・更新つまり、「暴と理」「血と法」「過去と未来」が一体になった男=ナポレオンという解釈が可能だ。全くフィクションみたいな人物だ。」

B「その矛盾と統合が、フランスでもイタリアでもない第三のナポレオンを生んだのね」A「実際問題として同時代を生きたベートーヴェンは交響曲3番を寄贈してどうこう、という噂話は聞くけどあれはどう解釈すべきなのだろうか?」

B「逸話。あったらいいな、という後続における「都合のいい」妄想というのがいい線。それは夏目漱石の「月が綺麗ですね」くらい、原文なる一次資料がない、しかし確かに「いいそう」というある種の文化的せん妄が集団に寄与した。一種のアンカリング効果的とも言えるわね。

人は聞きたいように聞き、見たいようにしかみない。これ、事実かどうかなんてどうでもいいと心の隙間で思っている。

そして文化的知見において、文豪や軍人といった超越的存在は「むしろそうであってくれ」という幻覚が、その人物の覇気故に起きてしまうものよ。オグリキャップという名馬は日本ダービーを「走れなかった」。が、走っていたらきっと一位だったことに違いない。こうした「幻想」を信じたいわけよ。客観的には空白だが、集団的信仰の中では最大値を持つ最大の存在。実在しない選択肢への最上位評価。話を戻すと、ただの偶然と処理したほうが不確定な情報に陥らないという意味では手っ取り早いわ。というか、ベートーヴェンクラスの作曲家、いや唯一無二の「楽聖」の名は伊達ではないわ。その意味では、彼が寄贈したか否かというこの命題自体が、正直どうでもいい。だってそんなこととは別に、世界中で演奏されている。芸術の真の証明はこちらにある。残りはただの偶像産物。」

A「まぁ所詮バラエティネタの一貫でしかない。そう割り切って考えるしかない。

楽器もそう。ストラディバリの聴き比べ含めそんなこと、ニコラ・パガニーニが自身の「大砲」=「Cannone」という名機の贋作との聴き比べでついぞ、聞き分けができなかった。パガニーニは一八三三年。パリに訪れた際、ヴァイオリン製作家ジャン=バティスト・ヴィヨームに会いに行っている。そしてヴィヨームが「イル・カンノーネ」の精巧なコピーを製作したことが記録に残っており、これすなわち「Cannone copy」。そしてこれをパガニーニは「聞き分け」できなかったと伝記にて記録されている。伝記自体は、存外薄い根拠ではあるが、これはさきほどの「不確か」ではなく「記録」として存在している必然性における結果からして妥当と見るべきだ。というよりも、結果的にCannone copyは、本物と並んで展示されている。この時点で価値として同列であるということであり、それすなわちパガニーニのアイデンティティという名の、楽器固有性を完全には識別できない証左である。よって、真面目に切るのであれば、違いが分かって当然だと思われていた天才=パガニーニが間違えた。その上で、ヴィヨーム製コピーは「本物」と同じ材料・設計思想・音響特性を再現していた。この事実の上での「ストラディバリは音が違う。絶対に分かる」という態度自体が、「パガニーニを超える耳」を持っていると信じる自己陶酔、本当に言っているはずがない故に、成立する「答えありきのナラティブ」、連続で当てられる、それが事実であったとしてもじゃあそれが一〇〇回連続で可能になり得るか?という話なわけだ。音響は演奏者・弓・ホール・録音機材・距離に強く依存する。端的にいえば、風呂場で歌えば響くだろ。それと同じ。結局言葉は悪いが、素養を持たないの譫言。だからこそ逆説的にバラエティでしか通用しない。畢竟、「ストラディバリは音が違う」と断言する者の多くは、その言葉を言える資格を問われるべきであり、仮に正答できても、それは再現性と因果が担保されていなければ意味を持たない。ゆえに、それは信仰であり、検証ではない。」

B「あら、随分と楽器に詳しいのね、私そこらへんは専門外だ。シンプルに思慮に感動したわ」

A「うん、だって自分、弾けるもん。」

B「ずるいわ、そういうところ。というか、もっと早く言いなさいよ。私にはない才能よ。」

A「それはどうも。こっちの手札で出せるのがパガニーニだった。そして重要なのは彼もまた「イタリア人」、クレモナにおける再現不可能性の楽器といい、パガニーニの悪魔的技巧といいといい、恐ろしいほど「影」があるね。まるでヴェネツィアだ。」

B「それもまた、イタリアよ笑」

A「そう。ここでようやくBが言っていたセリフ、つまりは「あらゆる技巧が、現実に似すぎると現実になってしまう。」という反証が効いてくるわけさ。だってもういい加減、絵画、彫刻は象徴だ。ミケランジェロにアルノルフォ・ディ・カンビオ、ティツィアーノ、ベルニーニ、アンドレア・デル・ヴェロッキオとその直弟子のレオナルド・ダ・ヴィンチら一派だろ。

例外的にアントン・ブルーデルやアルベルト・ジャコメッティといった存在はいるけれど。」

B「それこそ、再現性があるか、否かというわけね。ちなみに、ブルーデル、ジャコメッティは日本では清水多嘉示を通して、成田亨の文脈で回収される。そして彼らのボスはオーギュスト・ロダン。こうみると面白いわ。再現性、というよりも模倣や文脈継承されているのはあくまで一例とはいえ、ロダンから成田亨ラインは面白い。

逆にイタリアの場合はいずれも一代限りなのよね。だからこそ、天才として強烈に記憶される。でもそれは裏返せば、継承されない孤高ってこと。

ストラディバリも、ダ・ヴィンチも、ダンテも、ナポレオンですら──誰かの技術として体系化されたわけじゃない。方法じゃなくて、現象なのよ。ベートーヴェンをここで回収するのであれば、ドイツは構造と体系化の国よ。バッハからベートーヴェン、そしてシェーンベルクへと、バロックからロマン派、そして前衛へ──音楽の思想が、技術とともに継承されていく。一人ひとりが次を引き受けて、歴史を織っているの。思想の温床としては、フランスみたいなものね。デカルトからルソー、サルトルへと、社会と哲学が常に言葉で連なってきたわ。

それに対して──イタリアは違う。体系じゃない、技術の国。

もうね、惚れ惚れするわ。何百年も前に、あれだけの完成を見せて、それを誰も継がない。ダ・ヴィンチも、ストラディバリも、ダンテも、まるで一回性の神話なの。」

A「その意味では、ドイツのデュアルシステムって教育体系、あれは現代における継承の完成形だと思う。現場と理論、職人と学校、ふたつの現実が常に往復、知識が制度として維持されている。そりゃあバッハからベートーヴェン、シェーンベルクまで繋がるわけだよ。」

B「それに比べて、イタリアは受け継がせないことで、逆に伝説を守った。

だって、ストラディバリの再現ができないからこそ、今もそれが一番なんだもの。」

A「いつだって一番はイタリア、こと芸事においてこれほど否定できない事実はないね。」

B「ヴェネツィアのカーニバルにおける「仮面」もそうだし、結局「ピサの斜塔」もそうね。

自慢じゃないけど、私、九歳の時に家の都合でイタリアに定住していたことがあるけど、「ピサの斜塔」をおかげで登ることができたの。でも怖いのよあそこ。斜角が外見を上まる怖さ。しかも手すりが設置されていないの笑」

A「わかっていたけど、やはり、生い立ちからして「特別」じゃないか。全く、ヴァイオリンの才くらいはこっちに分があってしかるべきだ」

B「甘えだわ。いつだってどこにいようが自分が動けるかどうかが全てよ。」

A「きついこと言うなぁ。でも、イタリアを語るには、それくらいの言葉が似合う気がする。ここでいう没落は──まぁ、いわゆるスリの話だけどね、笑。」

B「両親がスられたのよ。悪しき記憶だわ。それでいて、そういう妙な習慣だけはちゃんと継承されているという──本当に、変な国」

A「飛躍しているけど実害を被った以上、否定はできないね」

A「で、なんでそこまでイタリア語れるの?」

B「さぁね、これはもうトスカーナの呪詛。呪いにかかった者の、運命岐路の宿命と言えるわ」

A「──ダンテのように、それが大罪へと昇華すると、笑。」


Music By. ヴェルディ.『Messa da Requiem: III. Dies iræ』

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ペダンティックに少年少女 堂筒廻 @syurium

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