ホロロギ

第1話

 光のトンネルのただ中にいる。


 ここは暖かい。そして明るい。殺風景ではあるが、寂しさは感じない。


 他には誰もいないのに、静かすぎるわけでもない。なんらかの雑音がそよかぜのように耳朶をくすぐってくる。やかましい現代社会に、こんな穴場があるなんて思いもよらなかった。


 トンネルの先は長い。ここからでは奥まで見通せないほどだ。どこまでも同じような景色がのっぺりと続いている。


 終点はひょっとして天国なのではないか。すごい。夢のようだ。とても俗世間のただなかにいる気がしない。ここで何か食べ物を調達できるのなら、ぜひここに骨を埋めよう。


 何故もっと早くここへたどり着くことができなかったのだろう。理想郷があると知ってか知らずか、ここに足が向いていたら、俺の人生も若いうちから大きく変わっていただろうに。


 若造というものは、敵を敵と認識するだけの経験がないくせに、自信だけがむやみに膨れ上がっている。俺もかつては恐れるものが何もなかった。肩で風を切って目抜き通りを進む。その日だけでも口に入れる物をいくばくか手に入れればそれでいい。それ以上の欲を張らずとも、自分一人の面倒を見ることができた。


 望めばどこへでも行くことができたし、どこででも眠れた。露地だろうと、他人の家の軒下だろうと関係ない。そもそも俺は寄る辺のない身だ。自分の居場所を選ぶなんてことは、贅沢この上ないことだとわきまえている。


 ただ、アスファルトに這いつくばるのだけは避けたいものだ。這うだけならまだいい。通行人の靴底の紋様を、スタンプのように体に押してもらえる。自転車の細いタイヤにも、車の夏タイヤに踏みしだかれ、圧死できる。そんなのごめんだ。


 鳥につつかれる最期なんていやだ。いやだと言ったって、死に方などいつでも自分で選べるわけはないのだが、もし可能なら別の選択肢がいい。そう、例えばイカロスのように、焦熱を放つ紅炎に骨まで焼き尽くされてしまうとか。埃すらもたちまち灰燼に帰すほどの、すさまじい劫火に放り込まれ、消し炭になって弾け飛ぶとか。


 このトンネルは、石やコンクリートといった、ありふれた材料でできているわけではない。詳しくはわからないが、白濁し、つるつるすべすべの質感の材料でできている。不透明で特徴がないから、なんだか近未来的な造形に感じられるものだ。


 天井には太い蛍光灯が、古民家の梁のように渡されている。こんな間近で、むき出しの大型蛍光灯をまじまじと見る機会はそうそうない。まるで神社の鳥居などに張られる、藁の茎を太くねじった注連縄のようだ。それは、白昼の太陽を拝借してきたかのような、まぶしすぎない光と適度な温熱を、絶えず放ちつづけてくれている。光りと熱の恩恵は、トンネルの奥まで余さず行き届いている。


 じっとしていると、蛍光灯が、ジーッと控え目につぶやくのが聞こえてくる。それは単調な電子音のようでいて、頭の中のムードを一定に保ってくれるインストゥルメンタルのようだ。脳みそを体から持ち上げてくれるような気持ちにさせてくれる。


 都会をさまよい歩く旅人にとって、ここは実に理想的な宿だ。


 たどり着いたのは偶然だった。明かりを求めているうちにたどり着いた。ここは屋内で、雨風もしのげる。体の芯から温まることができる。俗世間で負った傷を存分に癒せる。


 今まで土くさい屋外にいたなんて信じられない。暗くて肌寒くて、とても生き物の住める場所ではなかった。陰翳の美なんて言うやつは現実を知らない。じめじめとした湿気の多いところに棲息するのを好むような手合いだ。俺とはとうてい馬が合わないだろう。


 この時、いきがって唾棄した俺が、重要なことに気づくのは、寸刻後。


 明るい場所を求める自分の生き方が、誤りだったことに気付かされる。


 途方もない空間を尊崇するあまり、見落としていた。この理想郷に充満する不穏なにおいに。


 ここは隧道の形をした、風葬の墓場。そう呼ぶのがふさわしい。


 俺と同じように招き寄せられたらしい、先鋒たちの成れの果てが、そこかしこにある。

何人も、体躯の小さな者から大きな者まで、累々と伏せている。微動だにしない。


 俺は息を飲んだ。彼らの中には、命を落としてからそれほど時間が経過していないものもあった。つぶらな双眸を大きく開けているのに、かけらも光を反射しない。


 もう二度と動きだすことはない。それなのに、今にも動き出すのではと、おぞましさを覚える。死のにおいをムッと醸し出し、それでいて造形美術のように完璧な、美しい死に様だった。油断すると、こちらの魂魄までひったくられそうなほど、あやしい魅力を放っている。


 こいつはひょっとすると警告かもしれない。俺もこのままでは、この土気色のミイラたちの後を追いかねないことを。


 心臓がバクバクと打ち始める。自分の体の底にある肉が、まるごと覆るような、うねりを感じる。


 怖い。


 いや大丈夫だ。


 どうする。どうしたらいい。


 落ち着け。まず落ち着こうじゃないか。


 繰り返し言い聞かせて、深呼吸する。深呼吸していれば、どんなに波立った心も平常に戻るものだ。


 ふうと息をつき、胸に手を添える。赤ん坊のげっぷを促すように、とんとんと優しく叩く。恐怖心なんてものは毒ガスみたいなものだ。呼気とともにすすいでしまおう。



 冷静になって考えてみると、俺は外から入って来たわけだから、ここには入口が確実にあるはずだ。さもないと、こんなところに入れるわけがない。


 それなら、記憶を頼りに、入口を探せばいい。



 しかし、入口がどこだったかなんて、すぐには思い当たらない。背後を振り返ってみても、目を凝らしても、同じような景色が続くばかりだ。のっぺりとして、すべすべ。行ってみれば思い出すというような都合のいい記憶力は、あいにく持ち合わせていない。


 ひょっとして、この真上にある蛍光灯は、光を浴びた者を前後不覚にする幻覚作用でもあるのだろうか。入口というと、あの辺りだったかも、などと首をひねってみる。しかしそこは虚空でしかない。注視したところで何もないし、動き出すものもない、がらんどうでしかなかった。


 どうやら俺は、どこか狭い隙間から体をねじ込んで侵入したようだ。辺りを目視しただけでは、わずかな亀裂すら見て取れない。都合よくドアがあるわけでもないし、うさぎの穴すらも見当たらない。


 だが、入り口は必ずどこかにあるはずだ。どうにかして突破口を探そう。こんなところにいても未来はないのだから。



 まずは隅から隅までよく調べてみることにしよう。トンネルの形状はだいたい把握できた。楕円で、壁と床は一体化している。繋ぎ目は湾曲している。どこからどこまでが壁だという区別をしにくい空間だ。


 ここに存在する物は、まず判然としない材料でできた壁、床、そして巨大な蛍光灯。これはずっと放電している。もう何時間も働き続けて、ごくろうさまだ。俺をここへおびき寄せた元凶でもある。


 それから、七体の仏さん。大小さまざまだ。大半がきれいな死に方をしている。あっと言う間に餓死したのだろう。


 それ以外にあるものというと、黒っぽい煤のような埃。これは何の役にも立たないだろうから、勘定には入れない。


 壁の方へ近づき、湾曲したところに足をかけてみる。ずるりと爪先が滑って、とても這い上がれるような地形ではない。さながらスケートボードの競技場のようだ。


 天井までは距離がある。上の方は、ネズミ返しのように、内側に小さなひさしが伸びている。這い上がる行為を妨げる仕掛けがほどこされている。あそこに到達するには、一計を案じなければならないだろう。


 壁から距離を取って仰ぎ見ると、天井と壁の繋ぎ目から、外の世界の景色がわずかに見て取れた。景色というよりも薄暗い空間が見える。トンネルの外も、ここと同じくらい明るいようだ。


 どうやって、あのひさしにたどり着けばいいだろうか。ハシゴなんて都合のいい物はどこにもない。一切の調度品が置かれていないこの場所で、足場にできそうな物といったら、あの七体の仏さんくらいだ。


 あれらを全部、壁際に運んでこようか。まとめて積み上げれば、やや不安定だが階段の代わりになってくれるかもしれない。こと切れて冷たくなった遺骸を素手でさわるという負い目を引き受けることができるのなら、そうする他に手立てがなさそうだ。



 その時、誰かの大きな声が聞こえた。


 くぐもった声だ。拡声器を通したかのように大きい。がなり立てるようで、てんで内容が聞き取れない。かろうじてわかるのは、男の声だということくらいだ。


 壁に耳をつけてみると、壁や床を隔てた向こう側に、たくさんの生き物の動く物音が聞こえる。人なのか動物なのかは推し量れない。複数人といった規模ではなく、かなりの数の息づかいがうごめいている。


 ぶしゅっ、と圧縮された蒸気が吹き出すような音が聞こえた。それとほぼ同時に、足音がいくつか、まとまって決まった方向へ流れていく。喧騒も大きくなり、ジリリ、とけたたましい電子音が響き渡る。


 どこかに大型の機械があるのだろうか。絶えず轟音を発している。大型自動二輪のような獰猛な排気音とはまた違う。まるで機関室にでも紛れ込んだかのように、区別できない音たちが海流のようになって交錯している。


 振動も感じる。微細なものではなるが、その振動にしたがって、天井が少しだけ震え、かたかたと軽い音を立てている。


 この軽い音というのは、大したものではないように感じるが、あまりみくびってもいられない。音がすると、俺の頭上にある蛍光灯が外れて落下してくるような危機感が湧いてくるのだ。


 もしかしたらこの音は、天井のボルトか何かがゆるんで、だらしなく蛍光灯が揺れる時に聞こえてくるのかもしれない。あるいはこの蛍光灯が、ソケットからあっけなく外れようとしているのかもしれない。もしもこれが落ちてくるようなことがあったら、たちまち脳天をかち割られる。


 どうにかして俺の存在を、外にいる人に気づいてもらわなければならない。一人でも二人でもいい。あの胡乱な、くぐもった声の男でもいい。気づいてもらえなければ、一生ここから出られないだろう。


 命の危機をはっきり意識すると、自分で思う以上の力が出た。壁を力いっぱい叩く。いや、こんなもんじゃ足りない。もっと渾身の力をもって掛け声を張り上げる。そこらじゅうを蹴りつける。地団駄を踏む。ひたいを打ちつける。助走をつけて体当たりする。何度も何度も、激しく四肢をばたつかせる。


 とにかく心の中で強く願う。誰か助けてください。この願いの強さだけは誰にも負けない自信がある。


 きっと気づいてくれるはずだ。困っている人に手を差し伸べることを、息をするようにできる、親切な誰かが。



 だんだん荒くなっていく呼吸を、すぐに整えきれなくなった。肩を大きく上下させ、ごくりと唾を飲み込む。


 短時間のうちに目いっぱい体を動かすと、あっという間に疲れて動けなくなった。喉もからからだ。一度息が上がると、なかなか元に戻らない。体が暑い。冷たい水が欲しい。


 だんだん呼吸が落ち着いてくると、反対に焦燥感がこみあげてきた。体を動かしたので汗をかくのは当然だが、変な汗が後から後から浮かんでくる。まるで体の芯に通った管から、生命維持活動に必要な油が余計に漏れ出ているかのように感じる。そのせいで全身がじっとりしてきて気持ちが悪い。


 頭が冷えるのが怖い。喧騒が不意に静かになるのが怖い。人の話し声が、靴音が、まったく聞こえなったらと思うと怖くてたまらない。何かに熱中しているうちはまだ注意がそれている。だが、休んでいると、何も変化のない現実がギロチンの刃を落とそうとしてくるかのようだ。


 諦めがちらついてくる。俺は一生このままなのかもしれない。むしろ無駄に足掻いた分、体力や気力を浪費しているのではないか。


 しっかりしろ。弱気になっている場合か。


 ほんの束の間だろうと、休んでいる暇などないのだ。生きるか死ぬかの瀬戸際なのに、休もうとする自分が嫌いだ。あざになるほど鞭で打ってやりたいくらいだ。


 一縷の望みを失わないためにも、とにかくSOSを出し続けた方がいい。束の間でも手をこまねいていると、その分気づいてもらえるチャンスを失うのではないか。一瞬、声をあげなかったせいで、その一瞬だけ耳をすましてくれた人がいたかもしれない。俺のSOSを聞き届けてくれた人がいたかもしれない。後悔に直結するようなことはすべきではないのだ。


 背水の陣で挑もう。次に立ち上がったら、さっきよりももっと頑張ろう。


 大丈夫だ。自分を信じていられる限り、俺はやれる。



 すうっと息を吸い込んだ時だった。壁を隔てた向こうから、若い男たちのだるそうな会話が聞こえてきた。


 「駅前の広場にねぇ、ものすごい数、死んでたよ」


 「ああ、ね。夏は増えるよな」


 「そういうもん? そういう習性?」


 「さあ。虫の生態とかどうでもいいし、興味ないから検索したことない」


 「駅前のはさぁ、死に方が、もうバラバラ殺人事件。やばいよ。連続殺人とかじゃなくて、大量虐殺。ただの死骸じゃなくて、バラバラになっててさ。翅とか頭とか、あちこちに散らばってんの。かなりの量」


 「怖いな。きっとこいつらを主食にしてる怪物でも巣を張ってるんだわ。でかい蜘蛛のモンスターとか」


 「そういうの、この前ゲームに出てきた」


 ボソボソと言い合ってから、会話は途切れた。


 くぐもった声の後、いくつかの足音が行き交う。遠くに、異国の言葉を甲高い声で話している女の声を聞いた。


 きっとこれからも、ずっとこうなのだろう。俺みたいなやつは、誰にも気づいてもらえない。誰にも振り向いてもらえない。こんな矮小な存在のか細い声を、聞き届けてくれる人がいるはずだなんて、とんだ幻想だった。


 どうしてなのだろう。どうして俺はこんな目に遭うのだろう。誰にも迷惑をかけていないのに、生きることすら認められない人たちが、この世にはいる。掃いて捨てるほどいる。


 これから改めて立ち上がり、一念発起したとする。努力してSOSを出す。そうしたところで、本当に助けが来るのだろうか。そんな公算がどれくらい見込めるのだろう。誰かが俺のシグナルに気づいたとして、果たしてその人は、俺を助けてくれるためのアクションを起こしてくれるだろうか。俺を見捨てるのではないか。俺の努力ではどうしようもない。相手の良心による。


 それに、助けてもらったところで、俺はお礼を言うことはできる。しかし金一封を用意することはできない。他に差し上げられるような金目の物なんて、何も持ち合わせてはいない。こんな貧乏人に手を差し伸べてくれる酔狂な正義漢が、現代にいるだろうか。



 そうか。誰も俺を助けようとしないのは、そういうことか。見返りがなにもないから。


 むしろ、助ける過程で、貧乏人のみすぼらしい服が接触し、自分の服やバッグが汚れたら不愉快だと感じるのかもしれない。汚れくらいなら、ちり紙で拭き取れば解決すると思うが、その人にとっては解決しない。この先ずっと、汚れや悪臭が落ちない。目に見えない不吉なきざしが刻まれてしまう。


 そうだったのか。深く合点がいった。


 俺は、ここから出ない方が得策なのかもしれない。生き延びて、誰かに迷惑をかけるよりもきっと閉じ込められたままの方がいい。顔を背けられたり、ふれた部分をちり紙で丹念に拭かれたりする、そんな屈辱を噛みしめるよりも。ここで苦しみながら一生を終えた方が、比較してみれば、幸せなのかもしれない。


 それに少なくとも、ここは外の世界よりも確実に安全だ。暴漢に襲われる心配もなく暮らすことができる。


 出口はどこにもない。外へ出るためのあらゆる手段が取り上げられている。薄汚く卑しい俺を閉じ込めておくには、うってつけだろう。



 ずっとこのままなのか、俺は。


 何かを成し遂げることもできずに死んでしまうのか。


 愛する人を抱くことも、生き甲斐を感じる職業に就くことも、気の置けない親友と呼べる仲間を持つこともできずに。


 こんなことになっても、しょうがなかったんだ。俺はそんな末路をたどる、その程度のやつだったということだ。


 どうしてだよ。俺はただ、光を目指してやって来ただけだったんだよ。


 暗いのはいやだ。凍えたくない。寂しい思いをするのは、もうこりごりだ。


 どうして俺の周りには、冷たくなった物しかいないんだ。こんなもの、こんなつらい環境、こんな悲しい社会を望んだわけじゃない。


 幸せになりたいと願っていた。当然だ。誰だってそうだろう。貧乏や不幸をありがたく感じる人なんて、頭のネジがひしゃげているようなやつだ。


 俺は他の誰よりも幸せになりたかった。いや、他の人と同等でもいい。ほんのちょっとでもいい。一日に一ついいことが起きるだけでもいい。自分で工夫して、なけなしの幸運を演出するのでも事足りたんだ。


 いったいどこで間違ったのだろう。


 こんなところで終わりたくない。もっと上に行ける。もっとすごいことを成し遂げられる。それを実現できるだけの器量もある。努力をする才能もある。ただただ環境が悪かったに過ぎない。俺自身になんの非もないんだ。



 そうだ。俺は悪くない。


 そう気づいた瞬間、俺の腹の奥にある内燃機関に、爆発的なエネルギーを生み出す燃料がくべられた。


 今ならきっと何でもできる。この分厚い壁や床を陥没させることだって造作もない。あの天井のわずかな隙間を、力ずくでこじ開けてやることだってできるだろう。


 外の世界に出たら、復讐してやる。俺の存在に気づいていながら、見て見ぬふりをした連中に、制裁をくだす。つまらない無縁社会を破壊しつくす。偉大で高潔なこの俺を、みすぼらしい物乞いだと切って捨てた、短絡的で薄っぺらい人類を、残さず粛清するべきだ。


 さあ、立ち上がろう。あの哀れな仏さんたちを掻き集め、踏み台にしてやらなければ。


 自分が生きるためなら、何をしたってかまわないじゃないか。生きている家畜の腹を掻っ捌いたって、弱者を完膚なきまでに虐げたって、とびきりの不幸をなすりつけたっていい。みんなやっていることだ。この世の大前提だ。なりふり構っていたら自分に災いが降りかかってくる。


 さっきまでの卑屈になっていた自分がバカみたいだ。俺が不幸になったら、この世はおしまいなのに。


 手近なところにある死体の首根っこをつかみ上げる。そいつをずた袋のように引きずっていき、トンネルの隅っこで放り捨てる。


 これでいい。もっとだ。もっとたくさん死体が要る。もっと足場を積み上げなければ、あの天井のひさしまで手が届かない。


 もう一つの死体を見つけ、足首をつかんで引きずっていく。丹田にぐっと力をこめ、根気よく進もう。


 気力も体力も十分だ。最初に運んだ死体の上に、手に持っている死体を被せる。できるだけ安定するように、位置とバランスを調整しなければならない。


 ふたたび来た道を戻り始める。少しだけ気分が悪くなってきた。何故だか胸がむかむかする。


 今、何時くらいだろう。深夜だろうか。季節は夏だから暑いのは当たり前だけど、異常なほど暑くなってきた。


 力仕事をしているせいもあるだろうが、一気に二酸化炭素が増えたような、蒸し暑い空気が押し寄せてくる。


 頭蓋が火にかけられたヤカンのように沸騰しそうだ。蛍光灯の熱が全身に入り込み、水分という水分を追い出しているかのように汗がふきでてくる。どんどん頭がもうろうとしてきて、どうにも防ぎようがない。



 今、どこに行こうとしていたっけ。


 こっちか。それともあっちか。それとも上に行こうとしていたのだったか。ええと……

視界にもやがかかったように、白くふわふわと浮き上がるような感じがする。正しい判断ができるか、自信がない。


 いや、他に道はなかった。一方通行のはずだ。


 思い出せ。確か死体を二つ積み上げたはずだ。隅に運んだのは間違いない。


 だとすると、こっちじゃない。反対側に進んでいたということになる。反対側へ進もう。あっちだ。


 徐々に足が重くなってきた。真夏の夜間の熱波のせいか、それとも熱中症になりかけているのかは判然としない。体温調節がうまくいかないのだ。



 もっと早く気づくべきだった。こんな砂漠のようなところで暮らせるわけがないと。


 水も食べ物もない。屋内だから雨の恵みも得られない。喉を潤すものをすぐに手に入れるのは諦めるほかなさそうだ。


 そろそろ体力の限界が近い。暑さと疲労感が、両の足首に枷をはめこんでくる。膝をついている暇などないのに、もう一人の自分が体の奥底でとめどなく悲鳴をあげている。


 しっかりするんだ。弱音を吐くな。こらえてみせろ。助けてほしいと言われたって、無理な物は無理だ。俺だって助けてほしいのだから。


 もう二つ、重なり合っている死体を新たに見つけた。


 いっぺんに運べるだろうか。やってみよう。


 ずるり、ずるりと鈍い音を立てながら、死体をつかんで進む。


 俺がこいつらを手にかけた加害者というわけでもないのに、どうしてこんなにも慚愧の念がこみあげてくるのだろう。どうもすみません、申し訳ないです。みっともない言い訳がうるさいくらい頭に浮かんでくる。


 途中、死体の一部がぼろぼろになり、床にこぼれ落ちた。おかげで、わずかながら軽くなった。いっそバラバラに解体してやった方が運搬しやすかったのかもしれない。


 だがそうすると、俺の中の図太くない虫が、もう諦めて白旗を上げようと言い出しただろう。死者を冒涜して恥ずかしくないのか。おまえは血も涙もないぞ。そんなふうに詰問されたら、俺は反論できるかわからない。


 あざとくなろう。自分のことだけ考えるんだ。



 やっとのことで、四つの死体を積み上げることができた。


 なかなか立派な足場ができつつある。もう二つくらいあれば、なんとかあの天井に届きそうだ。



 その時だった。



 突然、がくん、とつんのめるような衝撃が伝わってきた。


 まさか、と天井を見上げる。


 ひさしの上部に見えていた隙間が、くっきり視認できるくらい暗くなっている。


 外の照明が消えた。


 ここもじきに暗くなるかもしれない。そうなったらお手上げだ。


 もう脱出を試みるしかない。まだ準備は整っていないが、一か八か、壁際に積み上げた死体をバスケットボール選手のようにリズムよく踏み切った。


 いいぞ、隙間に手が届きそうだ。つるつるの壁を蹴り、渾身の力で這い上がる。


 指が届いた。ぐっと力をこめ、もう片方の手で隙間をつかむ。


 いける。ここぞとばかりに畳みかけよう。指がひん曲がってもいい。あばらが折れてもいい。この先にあるものが、ただの虚空であったとしても、諦めずにほふくしてやる。とにかく生き延びることさえできれば、何を失ったっていいのだ。


 力強く懸垂し、隙間に鼻先をねじ込む。半身がもげるような痛みが腰を突き刺してくる。背中に覚えた痛みが、大切なものをズタズタにされたような喪失感を脳に刻みつけてくる。


 犠牲がなんだ。けががなんだ。命あっての物種だ。生きている以上、無傷でいられない。何も失わずに大きな利益を得ようなんて、そんな虫のいい話はない。



 外は薄暗くはあったが、真っ暗でもなかった。広くて涼しい。ようやく息のしやすい場所に出た感覚があった。


 人はいない。空調設備も静まり返っている。大きな窓がいくつも並んでおり、外には明かりが見て取れる。窓ははめごろしだろう。しかし出入口ならばある。出入りしやすいように、頑丈そうな手すりが設えられている。古くさいが座り心地のよさそうなファブリックの長椅子もある。休むこともできそうだ。



 助かった。助かったんだ。


 脱出することができた。


 俺は生きて戻って来ることができた。これからは、今までよりももっと、はるかに自由に生きていける。


 自分の幸福は自分で作っていこう。人生を切り開いていく喜びを、これから存分に味わうんだ。



 そう思った直後、ばつん、と大きな音がした。



 明かりが消えた。


 真っ暗で何も見えない。


 なすすべもなく落ちていく。


 どん、と体が跳ね上がり、受け身も取れずに四肢をだらりと投げ出す。


 床にあお向けになっていると、頭上から煤のような埃がはらはらと降ってきた。俺の瞳の上に、音もなく舞い落ちてくる。


 こんな何の役にも立たない、勘定にも入れられないような埃が手に入ったって、三途の川の渡し銭にもならないのに。



 体を奮い立たせるだけの体力も気力も、もう残ってはいない。



 ひたすら明るい場所を目指した。だけど、終点まで行っても見当たらなかったよ。



 天国なんてもんは。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ホロロギ @holorogi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画