自分に素直に

江賀根

天ぷら

実話です。

大学生の頃、小さな工場でアルバイトしていました。そこの社員にNさんという四十代半ばの男性がいたのですが、とても面倒見の良い方で、休憩のときにコーヒーを奢ってくれたり、帰りが同じときは、晩ご飯に連れて行ってくれたりしました。また、とても話し上手で、いつも周囲を笑わせている存在だったので、私はNさんのことをとても慕っていました。


そんなNさんが私に度々、ある天ぷら屋の話をしてくれました。聞くところでは、その天ぷら屋は安くてボリューム満点らしく、Nさんはことあるごとに「いつか、お前に食わせてやりたいなあ。すごいボリュームだぞ」と言っていました。私がアルバイトしていた2年間で、5回くらいは聞いたと思います。


しかし、その天ぷら屋は仕事帰りに行くには遠かったことと、慕っているとはいえ、二十歳そこらの私と四十代半ばのNさんが休日を一緒に過ごすという発想はなかったため、訪れる機会はありませんでした。


そして、私の卒業が近づき、翌日がアルバイトの最終日に迫った日のことでした。


「おい、明日天ぷら食いに行くぞ」


Nさんから、例の天ぷら屋への誘いを受けました。断る理由はありません。


そして翌日、最後の勤務を終えた私は、お世話になった方々への挨拶を済ませたあと、Nさんの車に乗り込みました。


天ぷら屋へ向かう道中でも、Nさんは私が何度となく聞いたセリフを言ってきました。


「すごいボリュームだぞ。びっくりするぞ」


そして、1時間ほどかけて、私たちは天ぷら屋に到着しました。


決して気取った天ぷら屋ではなく、Nさんのイメージにぴったりの、大衆食堂風の天ぷら屋でした。しかし、カウンター越しに大将が一品ずつ提供するというこだわりのスタイルで、次々に揚げたての天ぷらが運ばれてきました。


確かに、Nさんから聞かされていたとおり、ボリューム満点でした。


私たちは食事を終えると再びNさんの車に乗り、私は自宅まで送り届けてもらいました。車を降りる際、それなりにはお礼は伝えたものの、きっとまた会う機会があるだろうと思い、お互い軽い感じで別れました。


しかし、就職したこともあって、なかなかNさんと会う機会はありませんでした。(当時は携帯電話が普及し始めたばかりだったため、メールをするということもありませんでした。)


そして数年後、同じ工場でアルバイトしていた後輩から、Nさんが退社していることを聞きました。結局あの日以来、Nさんとは会っていません。しかし、私にはずっと心残りなことがあります。


あの日、天ぷら屋でNさんから「なんでも好きなの頼め」と言われた私は、天ぷらじゃなく生姜焼き定食頼んだんですよね。

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自分に素直に 江賀根 @egane

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