夜魚の住む町

辛口カレー社長

夜魚の住む町

 七月の湿った熱気が、アスファルトの照り返しとなって足元から這い上がってくる。

 品川駅のホームは、まるで巨大な蒸し器のようだった。ワイシャツの背中が張り付く不快感と、絶え間なく流れる発車ベルの電子音。視界の端を、無数の人間が無機質に流れていく。

 私は、その流れの中にあるひとつの石ころのようだった。転がされ、削られ、どこへ向かっているのかも分からないまま、ただ消耗していく。

 深夜一時過ぎ。誰もいないオフィスの、ブルーライトに照らされたデスクで、私はコンビニの冷え切ったパスタをフォークで突きながら、転職サイトをスクロールしていた。

 総務部から企画部へ異動になって半年。

「君ならできると期待しているんだよ」

 部長の言葉は、最初は誇らしかった。定時で帰宅し、趣味の映画鑑賞をして、自炊をする。そんな穏やかな「総務の私」から、バリバリとプロジェクトを回す「企画の私」への変身。それはステップアップのはずだった。

 けれど、現実は甘くなかった。

 終わりのない会議、クライアントの理不尽な要求、先輩社員の冷ややかな視線、そして何より、自分の無能さを突きつけられる毎日の敗北感。終電で帰宅し、化粧も落とさずにソファで気絶するように眠り、また朝が来る。

 私の生活からは、色が失われていった。

 辞めたい、とは言えなかった。逃げたことになるのが怖かった。でも、心は確実に悲鳴を上げていた。


◇◇◇

山奥の古民家で過ごしませんか?

モニター特別企画、1泊2日3,000円

※申込み多数の場合は抽選になります

◇◇◇


 それは、溺れるものが見つけたわらのようなものだった。

 そのバナー広告が画面の端にポップアップした時、私は考えるよりも先にクリックしていた。「逃げたい」という本能が、指先を動かしたのだと思う。

 都会から、逃げたかった。

 仕事から、逃げたかった。

 自分自身から、逃げたかった。

 一泊二日、たった三千円。場所は聞いたこともない山奥の集落。怪しさ満点だ。

 三週間前、「当選しました」というメールが届いた時、私はもしこれが新手の詐欺だったとしても構わないと思った。騙されて身ぐるみ剥がされるなら、それはそれで、会社に行かなくて済む理由になるかもしれない。そんな破滅的な思考すら浮かんでいた。


「あるものは、全部自由に使ってくださいね。では、ごゆっくり」

 私は今、東京から電車とバスを乗り継いで四時間、さらに山道を三十分ほど歩いた先にある、古い日本家屋の玄関に立っていた。

 目の前にいるのは、管理人の女性だ。年齢は私と同じくらいだろうか。麻のシャツに緩いパンツを合わせ、黒髪を無造作に後ろで束ねている。

 偏見かもしれないが、「山奥の古民家の管理人」という響きだけで、私は勝手に七十か八十くらいの、腰の曲がった老婆を想像していた。だから、こんなに若く、しかも肌の艶やかな女性が出てきたことに、少し驚いてしまったのだ。

 彼女はもう一度、にっこりと笑った。作り笑いではない、日向のような温かい笑みだった。つられて私も、ひきつった顔でどうにか笑顔を返す。

「ありがとうございます。お世話になります」

 私の声は、久しぶりに発したせいか、少しかすれていた。


 案内された部屋は、十畳ほどの和室だった。高い天井には太いはりが渡り、壁はすすで少し黒ずんでいるが、畳は新しく、い草の青々とした香りが満ちている。

 縁側のガラス戸は開け放たれていて、そこから見えるのは、圧倒的な緑だ。庭の木々、その奥に続く深い森。視界を遮るビルも、電線も、看板もない。

 荷物を畳の隅に置き、私は大の字に寝転がった。ひんやりとした畳の感触が、背中の熱を吸い取っていく。

 ――ふぅ……。

 重い息を吐き出す。肺の中に溜まっていた都会の黒いものが、少しだけ出て行った気がした。

 蝉の声が降るように響いている。ミンミンゼミの陽気な声と、ヒグラシのどこか寂しげな音色が混ざり合う。風が吹くと、軒先に吊るされた風鈴がチリンと鳴り、裏山の木々がサワサワと葉擦れの音を立てる。

 東京にいた頃、蝉の声は暑苦しい騒音でしかなかった。アスファルトの隙間で必死に鳴く彼らの声は、焦燥感を煽る耳障りなBGM以外の何ものでもない。

 でも、ここでは違う。

 この音は、風景の一部だ。圧倒的な自然の営みの中に、私が「お邪魔している」という感覚。自分がちっぽけな存在に思えてくる。それが、今は心地よかった。

 企画書の締め切りも、部長の嫌味も、受信トレイに溜まっていく未読メールの数々も、ここでは何の意味も持たない。

 まぶたが重くなる。

 三週間ぶりに、泥のような眠りではなく、風に揺られるような穏やかな眠気が私を包み込んでいった。


 目が覚めると、部屋の中は藍色に沈んでいた。畳の匂いが、昼間よりも濃くなっている気がする。

 体を起こし、縁側の方を見る。空は深い青から紫へのグラデーションを描き、山の端だけが残り火のように微かなオレンジ色を帯びていた。

 時計を見ると、十九時を回っている。三時間も眠ってしまったらしい。

 お腹が、ぐぅと鳴った。そういえば、ここに来る前に駅でサンドイッチを食べたきりだ。管理人の女性は「食事は出ませんが、台所は自由に使ってください」と言っていた。食材は持ってきていない。近くにコンビニがあるだろうか。

 寝転がったまま、ポケットからスマートフォンを取り出す。

「圏外」

 アンテナのマークは一本も立っていなかった。

 ――え、嘘でしょう?

 思わず上半身を起こして画面を凝視するが、表示は変わらない。Wi-Fiの案内もなかった。完全に、陸の孤島だ。不安が一瞬よぎったが、すぐに「まぁいいか」と思い直した。誰とも繋がらない。それは今の私にとって、最高の贅沢かもしれない。買い物は諦めよう。リュックの中に、非常食代わりのチョコレートとミネラルウォーターがあったはずだ。今夜はそれで凌げばいい。


 再び畳に身を預けようとした時、縁側の端に「何か」が置かれていることに気がついた。昼間はあんなもの、なかったはずだ。

 薄暗闇の中で、それはぼんやりと丸い輪郭を浮かび上がらせている。私は立ち上がり、畳を踏む足音を忍ばせて、縁側へと向かった。近づくにつれて、それがガラス製の器だとわかった。昔ながらの、フリルがついた金魚鉢だ。中には水が張られ、一匹の金魚が泳いでいる。

 ――へぇ、珍しい。

 私はしゃがみ込み、鉢を覗き込んだ。金魚といえば赤や朱色、あるいは白の斑模様が一般的だ。でも、この金魚は違った。

 深い、深い藍色。

 いや、黒に近い紺色だろうか。それは、夜空を切り取って魚の形にしたようだった。鱗の一枚一枚が、微かな月明かりを反射して、星屑のように瞬いている。尾ひれは長く、ゆらり、ゆらりと水の中でたなびく様は、ドレスの裾のようだ。

「きれい……」

 思わず独り言が漏れた。

 金魚は私の声に反応したのか、くるりと身を翻し、ガラス越しに私の方を向いた。

 小さく黒い瞳と、目が合う。

 その瞬間、ドクン、と心臓が大きく脈打った。視界が揺らぐ。めまいかと思ったが、違う。

 縁側の床が抜け落ちたような、あるいは重力が反転したような、奇妙な浮遊感が私を襲った。

 気がつくと、セミの声が消えていた。風鈴の音も、風の音も。

 代わりに聞こえてくるのは、ゴボ、ゴボ、という水の音。

 ――え……ここって、水の中?

 驚いて周りを見渡すと、私はいつの間にか水底に立っていた。呼吸をしようと口を開けるが、水が入ってくる苦しさはない。空気と同じように、自然に息ができる。

 私の髪が、服の裾が、重力を失ってふわりと舞い上がる。

 周囲は深い青色に満たされていた。けれど暗くはない。どこからともなく差し込む光の粒が、シャンデリアのようにきらきらと輝きながら、ゆっくりと降り注いでいる。それは、昼間に縁側で見た、木漏れ日のようでもあり、夜空の星のようでもあった。

 私の目の前を、さっきの金魚がすいと泳いでいく。鉢の中にいた時よりも、ずっと大きく見えた。私の手のひらサイズだったものが、今は猫くらいの大きさがあるように感じる。


『ついてきて』


 声が聞こえた。耳からではなく、頭の中に直接響くような、澄んだ鈴の音のような声だった。

 金魚が口をパクパクさせたわけではない。でも、直感的にそれがこの金魚の言葉だと分かった。怖い、とは思わなかった。むしろ、懐かしさに似た感情が胸を満たす。

 私は裸足のまま、水の底を蹴った。体は驚くほど軽く、一歩踏み出すだけで数メートル先まで進むことができた。金魚は私のスピードに合わせて、優雅に尾ひれを揺らしながら先導する。


 私たちは、底へ、底へと降りていった。光の粒が少なくなり、青が濃くなっていく。深海のような静けさ。

 ――どこまで行くんだろう。

 少しだけ心細くなって足を止めかけた時、金魚が振り返った。

『大丈夫よ。もうすぐだから』

 その声に促され、私は再び歩き出す。

 やがて、眼下に淡い光の群れが見えてきた。

 それは、街だった。水底に広がる、不思議な街。

 建物は全て、巨大な珊瑚さんごや貝殻でできているようだった。白やピンク、淡い黄色の有機的な形をした家々が、ぼんやりと自ら発光している。

 クラゲの群れが街灯のようにふわふわと漂い、その触手が描く光の軌跡が道を照らしていた。

「すごい……」

 街に降り立つと、そこには賑わいがあった。お祭りのような、夜市のような、屋台のようなものが並び、その間を行き交う「人々」がいる。いや、よく見ると、彼らは人間ではなかった。

 半透明の、影のような存在。輪郭はぼやけていて、性別も年齢も判然としない。でも、不思議と恐怖感はない。彼らは皆、どこか安らかな顔をしているように見えた。

『ここは、迷った心が集まる場所』

 金魚は私の肩のあたりを泳ぎながら言った。

『悲しみも、苦しさも、虚しさも、ここでは形を持って、そしてほどけていくの』

 私は影たちを眺めた。

 ある影は、重そうな石のようなものを抱えて歩いていた。しかし、一歩歩くごとにその石は砂のように崩れ、水に溶けていく。

 ある影は、体中に刺さった棘のようなものを、別の影に優しく抜いてもらっていた。

 ある影は、ただ静かにベンチのような珊瑚に座り、漂うクラゲを見上げていた。

 私も、彼らと同じなのだろうか。

 ふと、自分の胸元を見ると、そこには真っ黒なタールのようなものがへばりついていた。胸から腹にかけて、べっとりと。

 ――ああ、これは。

 これは、私が飲み込んできた言葉たちだ。

 「できません」と言えなかった弱さ。「助けて」と言えなかったプライド。「理不尽だ」と叫べなかった怒り。それらが積み重なって、固まって、私を息苦しくさせていた正体。

 それを自覚した途端、黒い塊はずしりと重みを増した気がした。

『出した方がいいわ』

 金魚が私の目の前で止まり、じっと私を見つめた。

『ここでは、誰もあなたを責めない。誰もあなたに期待しない。ただ、置いていけばいいの』

 金魚の黒い瞳に、私の顔が映っていた。疲れ切って、情けなくて、泣きそうな顔。

 私は震える手で、胸元の黒い塊に触れた。冷たくて、硬い。それを両手で掴み、引き剥がそうとする。

 ――痛い。

 心が千切れるように痛い。これは私の一部になってしまっていたから。でも、もういらない。

「う……あぁ……」

 口から、言葉にならない声が漏れる。それは、気泡となって立ち上っていく。

 私は力を込めた。

 企画部のデスクで、トイレの個室で、満員電車の中で、ずっと耐えてきた力を、逆方向に使う。

 ベリリ、と音がした気がした。黒い塊が胸から剥がれる。私はそれを、思い切り遠くへ投げ捨てた。

 塊は水の中をゆっくりと沈んでいき、地面に触れた瞬間、パッと無数の小さな泡になって弾けた。泡はきらきらと光りながら上昇し、やがて見えなくなった。

 軽かった。

 体が、心が、羽が生えたように軽い。

 涙が溢れてきた。海水の中で泣いているようなものなのに、熱い雫が頬を伝うのがはっきりと分かった。悲しいわけでも、嬉しいわけでもない。ただ、堰き止められていた川が、ようやく海に流れ着いたような、そんな安堵感だった。

『よかった』

 金魚が私の涙を吸い取るように、頬の近くをすり抜けた。

『もう、大丈夫ね』

 私は何度も頷いた。

 影たちが、私を見て微笑んでいる気がした。彼らもまた、そうやって何かを捨てて、軽くなった人たちなのだろうか。

 私はここで、いつまでもこうしていたいと思った。この優しい水の中で、ただ漂っていたいと。けれど、金魚は上の方へと泳ぎ始めた。

『帰りましょう。朝が来るわ』

 そうだ。私は帰らなければならない。でも、来る前とは違う。

 私は地面を蹴り、金魚の後を追って上昇した。光の方へ。水面の方へ。


 気がつくと、私は縁側で丸くなって眠っていた。

 肌寒さで目が覚めた。タオルケットもかけずに寝ていたのだから当然だ。

 空は白み始めていた。朝霧が庭の木々を包み込み、世界は乳白色に染まっている。

 鳥の声が聞こえる。チュンチュン、ピー、と賑やかだ。

 私は体を起こし、大きく伸びをした。体の節々が痛むかと思ったが、不思議と体は軽かった。昨夜のあの重苦しさが嘘のようだ。

 そして、視線を足元に落とす。そこには、あの金魚鉢があった。でも、中には水草と砂利が入っているだけで、金魚の姿はどこにもなかった。

 水面が、朝の光を受けて静かに揺れているだけだった。

「夢……?」

 私は呟く。

 あまりにも鮮明な夢だった。水の冷たさも、金魚の言葉も、黒い何かを胸から塊を引き剥がした感覚も、まだ肌に残っている。

 私は胸に手を当てた。そこにあったはずの重い石は、きれいになくなっていた。深く息を吸い込むと、朝の冷たく澄んだ空気が肺の隅々まで染み渡るのが分かる。

 こんなに深く呼吸をしたのは、いつぶりだろう。

 ガララ、と玄関の方で戸が開く音がした。私は部屋を出て、玄関へ向かった。そこには、管理人の女性が立っていた。手には籠を持っていて、中には採れたての野菜が入っている。

「おはようございます。よく眠れましたか?」

 彼女は昨日と同じ、柔らかな笑みを向けてくれた。

「はい……不思議なくらい、ぐっすりと」

 私は正直に答えた。彼女は「よかった」と言って、土間に上がった。

「朝ごはん、一緒にどうですか? 美味しい卵が手に入ったので」

 お腹が鳴った。そういえば、昨夜は何も食べていなかったのだ。

 台所の土間にあるテーブルで、私たちは向かい合って朝食を取った。メニューは炊きたてのご飯、豆腐とワカメの味噌汁、きゅうりの浅漬け、そしてだし巻き卵。何てことのない食事なのに、涙が出るほど美味しかった。だし巻き卵の甘さと、味噌汁の温かさが、空っぽだった胃袋と心に染み込んでいく。

「あの……」

 箸を置いて、私は気になっていたことを切り出した。

「昨日、縁側に金魚鉢があったんです。青っぽい、きれいな金魚が入っていて……」

 管理人の女性は、お茶を啜りながら小首を傾げた。

「金魚鉢? うーん、物置にはあるかもしれないけど、縁側には出してないわねぇ」

 ――やっぱり、夢だったのか。

 私が少し落胆した顔をしたのを見て、彼女は目を細め、悪戯っぽく笑った。

「でも、もしかしたら……『夜魚よるうお』じゃないかしら」

「よるうお?」

 初めて聞く言葉だった。

「ええ。この辺りの古い言い伝えなの。心が疲れきって、行き場をなくした人の前にだけ現れる、不思議な金魚。その金魚はね、迷った心を水底の都へ連れて行って、洗い流してくれるんだって」

 彼女はまるで、昨日の天気の話でもするようにさらりと言った。

 私はハッとして彼女の顔を見た。彼女の瞳は、あの金魚と同じように深く、何かを見透かしているようだった。もしかしたら、彼女も会ったことがあるのかもしれない。あるいは、彼女自身が――。

 一瞬、そんな空想が頭をよぎったが、私はすぐにそれを打ち消した。

 理屈なんてどうでもよかった。私が救われたという事実。それだけが確かだったから。


 身支度を整え、私は帰る準備をした。たった一泊二日。時間にすれば二十四時間も経っていない。けれど、来る時とは世界が違って見えた。

 蝉の声も、日差しの強さも、もう私を焦らせない。

「お世話になりました」

 玄関先で頭を下げる。

「必ず、また来ます」

 それは社交辞令ではなく、心からの言葉だった。ここが私の逃げ場所であり、帰る場所になったから。

 予約していたタクシーが、砂利を踏んでやってくる。乗り込もうとして、ドアに手をかけた時、背後から声がした。

「ねぇ」

 振り返ると、彼女が少しだけ身を乗り出していた。

「ここで、一緒に働かない?」

 唐突な提案に、私は目を丸くした。

「えっ……?」

「この古民家、私一人じゃ手入れが追いつかなくて。管理人の仕事、結構大変なのよ。草むしりとか、掃除とか。お給料はそんなに出せないけど、ご飯と寝床はあるわよ? どう?」

 彼女はニコニコしている。冗談を言っているようには見えない。

 私は絶句した。

 会社はどうする? プロジェクトは? 東京のマンションの家賃は?

 常識的な「大人の私」が、矢継ぎ早に冷静な反論を並べる。

 でも――。

 もう一人の私が、胸の奥で小さく跳ねた。あの水底で軽くなった私が。

 私は企画部での日々を思い出した。そして、ここの縁側で感じた風を思い出した。

 天秤にかけるまでもない。

 私が本当に求めていたのは、承認欲求を満たすことでも、高い給料をもらうことでもなく、ただ、自分らしく呼吸ができる場所だったのだ。

「少し、考えさせてください」

 震える声でそう答えるのが精一杯だった。彼女は満足そうに頷いた。

「ええ、待ってるわ。いつでも」

 まるで、私がなんて答えるかを知っているかのような、確信に満ちた笑顔だった。

 タクシーが走り出す。

 砂煙の向こうで、彼女が大きく手を振っているのが見えた。

 私は窓を開け、風を浴びた。

 スマートフォンを取り出す。相変わらず圏外だ。でも、駅に着けば電波は戻るだろう。そうしたら、まず誰に連絡しようか。

 部長に辞表のメールを送る? 親に連絡する?

 やることは山積みだ。面倒な手続きもたくさんある。だけど、不思議と不安はなかった。

 私の胸には、あの金魚がくれた静かな青色が、お守りのように残っている。


『答えは、もう出てるんでしょう?』


 ふと、耳元であの鈴のような声が聞こえた気がした。

 幻聴かもしれない。それとも、私の内なる声か。

 私はバックミラー越しに、遠ざかる古民家を見つめた。

 そして、小さく呟いた。


「ええ、そうね」


 私は目を閉じ、ふふっと笑った。

 夏草の匂いを含んだ風が、私の前髪を優しく揺らして通り過ぎていった。


(了)

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