岩蝦魔雪崩石と鴉天狗の怨讐

岩蝦蟇 雪崩石

第一章:深夜の依頼人

新宿の雑居ビルの一室、家賃五万円の事故物件。ここが岩蝦魔雪崩石の事務所であり、住居でもあった。

深夜二時。普通の人間ならとっくに夢の中だろう時刻に、岩蝦魔はソファに寝転がり、缶ビールを片手にテレビの深夜番組を眺めていた。二メートルある巨体がソファに収まりきらず、足が大きくはみ出している。

パソコンの前に座る大願寺光魔導は、今月の収支報告書を作成していた。黒髪を後ろで一つに束ね、シンプルな白いシャツに黒のスラックスという装い。百七十センチの高身長に鍛え抜かれた肉体、それでいて顔立ちは整っている。クールな美女、という表現がぴったりだった。

「岩蝦魔、今月の収入、またギリギリね」

「知ってる」岩蝦魔は缶ビールを飲み干しながら答えた。「でも来月は大丈夫だろ。あの政治家の依頼、前金で五十万入るし」

「その政治家の素行、調べたわ。最悪ね。愛人が三人いて、そのうち一人に憑いてる悪霊を祓ってほしいって」

「俺たちの客なんてそんなもんだ。まともな奴は普通の寺に行く」

その時、事務所のドアがノックされた。

こんな時間に訪問者とは珍しい。岩蝦魔はソファから立ち上がり、大願寺も警戒の表情でパソコンから目を離した。

「開いてるぜ」

ドアが開き、入ってきたのは四十代後半と思われる男だった。高級そうなスーツを着ているが、顔色は青ざめ、額には脂汗が浮かんでいる。目の下には隈ができており、明らかに憔悴しきっていた。

「岩蝦魔雪崩石さん…ですか」

「ああ。で、あんたは?」

「黒羽…黒羽賢治と申します」男は震える声で名乗った。「紹介されて来ました。柳瀬組の若頭から」

「ああ、柳瀬のおっさんか」岩蝦魔は頷いた。柳瀬組は以前、事務所に憑いた悪霊を祓った縁がある。「で、何の用だ。こんな時間に」

「お願いします…助けてください」黒羽は膝から崩れ落ちそうになった。「このままじゃ、俺の組織が全滅する」

大願寺が立ち上がり、黒羽に椅子を勧めた。

「落ち着いて。順を追って説明して」

黒羽は椅子に座り、震える手でポケットから煙草を取り出した。火をつけようとするが、手が震えて上手くいかない。岩蝦魔がライターを貸してやった。

「ありがとうございます…」黒羽は深く煙草を吸い込み、それから話し始めた。「俺は…表向きは不動産コンサルタントですが、裏では半グレ組織のフィクサーをやってます」

「知ってる。続けろ」岩蝦魔の言葉に、黒羽はぎくりとした。

「二週間前、ある宗教団体から依頼を受けました。奥多摩の山中に、産業廃棄物の不法投棄場所を作ってほしいと」

「最悪な仕事だな」大願寺が眉をひそめた。

「その通りです…今は本当に後悔してます」黒羽は頭を抱えた。「俺の部下三人と重機のオペレーターを連れて、山に入りました。適当な場所を見つけて、ブルドーザーで地面を掘り始めたんです」

黒羽の話によると、掘削を始めて三時間ほど経った時、ブルドーザーの刃が何か硬いものに当たったという。

「最初は岩だと思ったんです。でも、掘り進めてみると…古い石塔でした。高さ二メートルくらいの、苔むした石塔」

「石塔?」大願寺が身を乗り出した。

「ええ。そして、その下には…」黒羽の顔がさらに青ざめた。「人骨がありました。十体以上。全部、子供の骨でした」

事務所に重い沈黙が落ちた。

「それだけじゃありません」黒羽は続けた。「人骨の隣に、鉄製の籠がありました。人間が一人、丸まって入れるくらいの大きさの。その籠の中に…黒ずんだ勾玉のようなものが入っていたんです」

「勾玉?」

「ええ。部下の一人が、『お守りになるかもしれない』って、勝手に持って帰っちゃったんです。俺は止めたんですが…」黒羽は煙草を灰皿に押し付けた。「その日の夜から、おかしなことが起き始めました」

勾玉を持ち帰った部下は、その夜から「黒い鳥に追われる」と叫びながら、アパートの中を走り回った。隣人が通報し、警察が駆けつけた時には、彼は包丁を持って窓から飛び降りようとしていたという。

「幸い、二階だったので大怪我はしませんでしたが…精神病院に入院してます。今も『鳥が来る、鳥が来る』って叫び続けてるそうです」

「他の二人は?」岩蝦魔が尋ねた。

「一人は勾玉を触っただけなんですが、三日後に車で事故りました。信号待ちしてた時、突然『鴉だ!』って叫んで、アクセル全開で交差点に突っ込んだんです。奇跡的に命は助かりましたが、両足骨折で入院中です」

「もう一人は?」

「昨日…」黒羽の声が震えた。「首吊り自殺しました。遺書には『鴉に食われる前に死にたい』と書いてありました」

大願寺が静かに立ち上がり、黒羽の正面に座った。

「勾玉は今、どこに?」

「俺が預かってます。こんなもの…」黒羽はジャケットの内ポケットから、布に包まれた何かを取り出した。

布を開くと、中から黒ずんだ勾玉が現れた。長さは十センチほど。表面には細かい文字が刻まれており、全体から不吉な雰囲気が漂っていた。

大願寺が手を伸ばそうとした瞬間、勾玉がかすかに震えた。

「触るな、大願寺」岩蝦魔が制止した。「こいつ、生きてる」

「生きてる…?」黒羽が目を見開いた。

「封印された何かだ。それも相当強力な」大願寺は勾玉から目を離さずに言った。「岩蝦魔、私の鞄から塩を」

岩蝦魔が塩の袋を持ってくると、大願寺は勾玉の周りに塩の円を作った。途端に、勾玉から黒い靄のようなものが立ち上った。

「っ!」黒羽が椅子から転げ落ちそうになった。

黒い靄は人の形を取ろうとしたが、塩の円に阻まれて形を保てない。やがて靄は勾玉の中に吸い込まれていった。

「岩蝦魔、『蝦蟇岩壁』を」

岩蝦魔が勾玉に向かって手をかざすと、彼の体から強力な霊的防御力が放たれた。勾玉の震えが止まり、黒い靄も完全に消えた。

「とりあえず、動きは止めた」大願寺が息を吐いた。「でも、これは一時的なもの。この勾玉に封じられている存在は、かなり危険よ」

「祓えるのか?」黒羽が縋るような目で二人を見た。

「調査が必要ね」大願寺は勾玉を布で包み直した。「この勾玉の正体、石塔の意味、そして子供の骨…全てが繋がっている。まず、石塔に刻まれていた文字を確認したいわ。覚えてる?」

「写真を撮りました」黒羽がスマートフォンを取り出し、写真を見せた。

画面には苔むした石塔が映っており、その表面に古い文字が刻まれていた。大願寺は目を細めて文字を読んだ。

「『天狗道ニ堕チタル者、永劫ノ闇ニ繋グ』…」

「天狗?」岩蝦魔が眉を上げた。

「修験道の用語ね。天狗道というのは、仏教における六道の一つ…というよりは、修行者が堕ちる魔道のこと」大願寺は写真を拡大した。「修験者が傲慢になり、力に溺れた時、天狗に堕ちると言われている」

「つまり、この石塔は…」

「天狗に堕ちた修験者を封じるための、処刑場の跡」大願寺は黒羽を見た。「あなたたちは、とんでもないものを掘り当てたわ」

黒羽の顔から血の気が引いた。

「じゃあ、俺たちは…」

「まだ手遅れじゃない」岩蝦魔が言った。「だからここに来たんだろ」

「お願いします…何でもします。報酬は…」

「二百万」大願寺がきっぱりと言った。「前金百万、成功報酬百万。それと、現地への案内と、必要な情報の全面的な提供」

「わ、わかりました!」黒羽は震える手で財布を取り出した。「今、五十万しかないんですが…明日、残りを必ず」

「いいわ」大願寺は五十万を受け取った。「それより、もう一つ聞きたいことがある」

「何でしょう」

「あなたに依頼した宗教団体の名前」

黒羽は少し躊躇したが、観念したように答えた。

「『天照光明教』という新興宗教です。教祖は自称・天照大神の生まれ変わりで、信者から金を巻き上げて…」

「知ってるわ、その団体」大願寺の目が鋭くなった。「三年前に霊感商法で摘発されかけたけど、証拠不十分で逃げた連中ね」

「ええ…俺も、本当は関わりたくなかったんですが、金が良くて…」

「後悔は後でしなさい」大願寺は立ち上がった。「今は生き延びることだけ考えて。それと、もう一つ」

「はい」

「あなた、一人で来たの?」

黒羽は首を横に振った。

「いえ…外に一人、待たせてます」

「誰?」

「琴音といいます。俺の…まあ、愛人です」黒羽は気まずそうに言った。「彼女も様子がおかしくて…何か聞こえるって言うんです」

岩蝦魔と大願寺は顔を見合わせた。

「連れてきて」

黒羽が外に出ると、すぐに若い女性を連れて戻ってきた。

二十代半ばと思われる女性。長い茶髪に、派手めの化粧。タイトなワンピースに高いヒールという格好だったが、顔色は悪く、目の下には隈ができていた。元キャバ嬢だろうか、と岩蝦魔は思った。

「琴音です…」女性は小さく頭を下げた。「お邪魔します」

「座って」大願寺が椅子を勧めた。「あなた、何が聞こえるの?」

琴音は座ると、不安そうに周囲を見回した。

「よく…わからないんです。でも、ここ数日、ずっと誰かの声が聞こえて…」

「どんな声?」

「最初は遠くで、ただの風の音かと思ってました。でも、だんだんはっきりしてきて…今は、言葉が聞こえるんです」

「何て言ってる?」

琴音は震える声で答えた。

「『帰って来い』って…『お前の血が必要だ』って…」

大願寺の表情が険しくなった。

「岩蝦魔、彼女に『蝦蟇岩壁』を」

岩蝦魔が琴音の背後に立ち、手をかざした。すると、琴音の体を包んでいた見えない重圧のようなものが、すっと消えた。

「あ…」琴音が目を見開いた。「楽になった…声が、止んだ」

「あなた、霊感が強いのね」大願寺は琴音をじっと見つめた。「生まれつき?」

「そう…だと思います。子供の頃から、時々変なものが見えたり、聞こえたりしました。でも、大人になってからは、あまり気にしないようにしてて…」

「それが裏目に出たわ」大願寺は溜息をついた。「あなたの霊感が、封印されていた存在を引き寄せている。いえ、逆かもしれない…」

「逆?」

「封印されていた存在が、あなたを探していた可能性がある」大願寺は黒羽を見た。「琴音さんは、奥多摩の現場に行った?」

「いえ、行ってません」黒羽が答えた。「俺が帰ってきてから、初めて勾玉を見せたんです」

「それなのに声が聞こえた…」大願寺は考え込んだ。「となると、血縁か…何か特別な繋がりがあるはず」

「血縁?」琴音が首を傾げた。「でも、私の家族は東京の普通の家庭で…」

「両親の出身地は?」

「母は…確か、奥多摩の方だったと思います。でも、若い頃に家出して東京に出てきたって聞きました」

大願寺の目が光った。

「それよ。あなたの母親の旧姓は?」

「え…白峰です。白峰…」琴音は言いかけて、はっとした。「もしかして、あの石塔と関係が…?」

「おそらくね」大願寺は勾玉を見た。「この封印を管理していた一族が、白峰家だったのかもしれない。そして、あなたはその末裔」

「そんな…」琴音は顔を青くした。「じゃあ、私がこの声を聞いてるのは…」

「封印されていた存在が、白峰の血を求めている」大願寺は厳しい表情で言った。「おそらく、復活するために」

琴音は震え始めた。黒羽が慌てて彼女の肩を抱いた。

「大丈夫だ、琴音。この人たちが何とかしてくれる」

「ええ、必ず」大願寺は立ち上がった。「でも、そのためには現地に行く必要がある。明日、奥多摩の現場を案内してもらえる?」

「はい、もちろん」

「琴音さんも一緒に来てもらうわ」

「え?」琴音が目を見開いた。「私も…ですか?」

「あなたの霊感が、手がかりになるかもしれない。それに」大願寺は優しい目で琴音を見た。「あなたを一人にしておくのは危険よ。封印されていた存在が、あなたを狙っている以上」

「わかり…ました」琴音は震える声で答えた。

「じゃあ、明日の朝十時に、ここに集合」岩蝦魔が言った。「俺の車で行く」

「ありがとうございます」黒羽が深々と頭を下げた。「必ず、残りの前金も明日までに」

「それより」岩蝦魔は黒羽を見た。「勾玉は俺が預かる。お前が持ってても、ろくなことにならん」

「お願いします」

黒羽と琴音が帰った後、大願寺は勾玉を厳重に封印した。塩の円の中に置き、さらに神垣衆の護符で周囲を固める。

「大願寺、こいつ本当にヤバいのか?」岩蝦魔が缶ビールを開けながら尋ねた。

「ええ」大願寺は真剣な表情で答えた。「この勾玉から感じる霊力…尋常じゃないわ。しかも、まだ完全に復活していないこの状態で、三人も犠牲者を出している」

「天狗に堕ちた修験者、か」岩蝦魔はビールを一口飲んだ。「そんなに強いもんなのか」

「天狗の力は、人間の想像を超えるわ。風を操り、空を飛び、山の全てを支配する。そして天狗に堕ちた者は、その力を我欲のために使う」大願寺は勾玉を見つめた。「子供の骨が十体以上あったということは…」

「人身御供か」

「おそらくね。自分の力を増すために、子供を喰らったんでしょう」

「最低だな」岩蝦魔は吐き捨てるように言った。

「でも、それだけ強力だったということ。そんな存在を封じるために、白峰家は代々、石塔を守ってきた」大願寺は溜息をついた。「それを、不法投棄のために掘り返すなんて…」

「まったくだ」岩蝦魔はソファに寝転がった。「だが、仕事は仕事だ。しっかり片付けてやるさ」

「岩蝦魔」

「ん?」

「琴音さん…才能があるわ」大願寺は静かに言った。「きちんと修行すれば、優秀な巫女になれる」

「お前の後継者にでもするつもりか?」

「考えてるわ」大願寺は微笑んだ。「だから、絶対に彼女を守らないと」

「わかってる」岩蝦魔は目を閉じた。「明日からが本番だな」

その夜、事務所の窓の外で、一羽の鴉が鳴いた。

不吉な、低い声で。

第二章:奥多摩の封印

翌朝十時、岩蝦魔の運転する黒いワンボックスカーが新宿を出発した。

助手席には大願寺、後部座席には黒羽と琴音が座っている。車内は緊張した空気に包まれていた。

「昨夜、琴音さんに変わったことは?」大願寺が振り返って尋ねた。

「声は聞こえませんでしたが…」琴音は疲れた表情で答えた。「夢を見ました。黒い鳥の夢を」

「どんな夢?」

「山の中で、たくさんの鴉が空を覆っていて…その中に、人間みたいな鴉がいました。赤い目をした、大きな…」

「人間みたいな鴉?」

「はい。鴉の体に、人間の顔がついてるような…気持ち悪い姿でした」琴音は身震いした。「その鴉が、私の名前を呼んでいました」

大願寺は眉をひそめた。

「封印が、想定以上に緩んでいるわ。石塔を壊したことで、完全に封印の力が失われつつある」

「やはり、俺たちのせいで…」黒羽が申し訳なさそうに言った。

「済んだことを言っても仕方ない」岩蝦魔が言った。「今は、どうやってこいつを元に戻すか…いや、完全に滅ぼすかだ」

「滅ぼす…んですか?」琴音が不安そうに尋ねた。「封印じゃなくて?」

「封印はもう無理よ」大願寺が答えた。「石塔は壊れ、管理者の白峰家も途絶えかけている。新しい封印を作るには、膨大な時間と人員が必要。それに…」

「それに?」

「封印されていた存在は、もう目覚めつつある。眠らせるより、完全に消滅させる方が確実」

車は中央自動車道を走り、やがて奥多摩方面へと向かった。都心の喧騒が遠ざかり、周囲には緑が増えていく。

「この先です」黒羽が指差した。「あの林道を入って、三キロほど」

岩蝦魔は車を林道に入れた。舗装されていない道がガタガタと揺れる。

しばらく進むと、突然、琴音が叫んだ。

「止まって!」

岩蝦魔が急ブレーキを踏む。

「どうした?」

「あそこ…」琴音は震える手で前方を指差した。「鴉が…」

道の先、木々の枝に、無数の鴉が止まっていた。

百羽以上はいるだろうか。全ての鴉がこちらを向いており、一斉にこちらを見つめていた。

「気持ち悪いな」岩蝦魔が呟いた。「普通の鴉じゃねえな、こりゃ」

「ええ」大願寺が目を細めた。「霊力を帯びている。おそらく、封印されていた存在の眷属」

「眷属?」

「天狗の配下よ。鴉天狗には、鴉を使役する力がある」

「じゃあ、石塔に封じられてたのは…」

「鴉天狗。間違いないわ」

岩蝦魔は車をゆっくりと前進させた。鴉たちは動かず、ただじっとこちらを見つめている。

車が鴉の群れの真下を通過する。その瞬間、全ての鴉が一斉に鳴いた。

「カァァァァッ!」

耳をつんざくような鳴き声。琴音が耳を塞いだ。

しかし、鴉たちは襲ってこなかった。ただ鳴き続けるだけで、車を通過させた。

「警告か?」岩蝦魔が言った。

「いいえ」大願寺は後ろを振り返った。「見張りよ。私たちの動きを監視している」

さらに十分ほど走ると、開けた場所に出た。

そこには、ブルドーザーとダンプカーが放置されていた。地面は大きく掘り返され、その中央に倒れた石塔が見えた。

「着きました」黒羽が言った。「あれが、例の石塔です」

四人は車から降りた。

辺りは異様な静寂に包まれていた。鳥の鳴き声も、虫の音も聞こえない。ただ、冷たい風だけが吹いていた。

「寒い…」琴音が腕を抱いた。「夏なのに…」

「霊障よ」大願寺が言った。「この場所全体が、強力な霊力に覆われている」

岩蝦魔は掘り返された地面に近づいた。倒れた石塔の周りには、確かに小さな骨が散乱していた。子供の骨だ。

「酷いことしやがる」岩蝦魔は吐き捨てた。

大願寺は石塔に刻まれた文字を調べ始めた。苔を払い、指で文字をなぞる。

「『天狗道ニ堕チタル者、永劫ノ闇ニ繋グ』…その下に、もっと文字があるわ」

「何て書いてある?」

「『迅雷坊、其ノ罪深シ。十二ノ童ヲ喰ラヒ、村ヲ恐怖ニ陥レタリ。故ニ此処ニ封ジ、二度ト世ニ出ヅルコトヲ許サズ』」

「迅雷坊…」岩蝦魔が呟いた。「それが、封じられてた鴉天狗の名前か」

「ええ」大願寺は石塔の裏側を見た。「こっちには年号が…寛政七年。西暦だと1795年」

「二百年以上前か」

「待って」琴音が震える声で言った。「十二の童を喰らった、って…子供を十二人?」

「そうよ」大願寺は琴音を見た。「この骨が、その証拠」

琴音は顔を青くして、口を手で覆った。

「何で…何でそんな酷いことを…」

「力を得るためよ」大願寺は厳しい表情で言った。「修験者が天狗に堕ちる時、最も手っ取り早く力を得る方法が、人間を喰らうこと。特に、穢れのない子供の命は、強力な霊力の源になる」

「そんな…」

「でも、迅雷坊は最終的に封じられた」大願寺は石塔を撫でた。「村人たちと、他の修験者たちが協力して。生きたまま籠に閉じ込め、魂を勾玉に封じて、この石塔の下に埋めた」

「勾玉に魂を…」黒羽が呟いた。「じゃあ、俺が持ってたあれは…」

「迅雷坊の魂そのものよ」

その時、突然、琴音が叫んだ。

「来る!」

直後、空が暗くなった。

見上げると、無数の鴉が空を覆っていた。先ほど林道で見た鴉たちが、全て集まってきたのだ。

「っ、囲まれた!」黒羽が叫んだ。

鴉たちは円を描くように上空を旋回している。そして、その中心から、一羽の巨大な鴉が降りてきた。

翼を広げると三メートルはある。全身が真っ黒で、目だけが血のように赤い。

そして、その鴉は人間の言葉を発した。

「ヨクゾ来タ、白峰ノ血ヲ引ク者ヨ」

低く、禍々しい声。琴音が悲鳴を上げた。

「コノ封印ヲ破リシ者達ニ、感謝スル」巨大な鴉は黒羽を見た。「オ陰デ、我ハ再ビ此ノ世ニ姿ヲ現スコトガ出来タ」

「貴様が迅雷坊か」岩蝦魔が前に出た。

「オオ、我ガ名ヲ知ッテオルカ」巨大な鴉は岩蝦魔を見た。「人間ニシテハ、強キ霊力ヲ持ツ。除霊師カ?」

「非正規のエクソシストだ」岩蝦魔は拳を握った。「お前を、この世から消す」

「ハハハハハ!」迅雷坊は高笑いした。「我ヲ消ス? 不可能ダ。我ハ二百年ノ封印ニ耐エ、今、復活シツツアル。完全ナル復活ヲ遂ゲレバ、貴様等如キ、一瞬デ喰ラウ」

「まだ完全じゃないってことか」大願寺が言った。「なら、今のうちに」

大願寺が両手を広げると、周囲に光の結界が展開された。

「神垣家門前!」

結界が迅雷坊を包み込む。迅雷坊が苦しそうに鳴いた。

「グゥッ…神垣衆ノ術カ! マダ生キテオッタカ、神垣ノ血筋ガ!」

「あなたのことは記録に残っているわ、迅雷坊」大願寺は厳しい目で言った。「かつては村を守る修験者だったのに、飢饉の際に狂気に陥り、村の子供たちを喰らった。その罪は、永遠に消えない」

「罪? ハハハ!」迅雷坊は笑った。「我ハ村ヲ守ル為ニ、力ヲ求メタダケダ! 飢饉ヲ終ワラセル為ニ、天ニ祈ル力ヲ! ソノ為ニハ、犠牲ガ必要ダッタ!」

「嘘をつくな」大願寺は叫んだ。「あなたは力に溺れた。子供を喰らうことで得た力を、自分の欲望のために使った!」

「…フン」迅雷坊は結界の中でじっとしていたが、やがて翼を大きく羽ばたかせた。

「グォォォォッ!」

強烈な風が吹き荒れ、大願寺の結界が揺らいだ。

「くっ…!」大願寺が膝をついた。

「大願寺!」岩蝦魔が駆け寄る。

「大丈夫…でも、予想以上に強い」大願寺は額に汗を浮かべた。「まだ完全復活していないのに、この力…」

「琴音ヲ寄越セ」迅雷坊が言った。「白峰ノ血ヲ持ツ者。彼女ノ命ヲ喰ラエバ、我ハ完全復活デキル」

「させるか!」岩蝦魔は迅雷坊に向かって拳を放った。

しかし、拳が届く前に、無数の鴉が岩蝦魔に襲いかかった。

「っ!」

岩蝦魔は「蝦蟇岩壁」で防御するが、鴉の数が多すぎる。次々と体当たりしてくる鴉を、岩蝦魔は拳で殴り飛ばした。

「うるせえ!」

一羽、二羽、三羽…岩蝦魔の拳が鴉を粉砕していく。しかし、倒しても倒しても、新しい鴉が湧いてくる。

「キリがねえ!」

「本体を倒さないと!」大願寺が叫んだ。

その時、琴音が突然前に出た。

「待って!」

「琴音! 何してる、戻れ!」黒羽が止めようとしたが、琴音は振り切った。

琴音は迅雷坊を見つめた。

「あなた…本当は、村を守りたかったんでしょう?」

「…何?」

「私にも、声が聞こえたの。あなたの心の声が」琴音は震えながらも、言葉を続けた。「苦しい、悲しい、許してほしいって…そういう声が」

「黙レ!」迅雷坊が叫んだ。

「あなたは、力を求めすぎて、道を踏み外した。でも、最初は村のためだったんでしょう?」

「黙レト言ッテイル!」

迅雷坊が琴音に向かって突進した。

「琴音!」黒羽が叫ぶ。

しかし、琴音の前に岩蝦魔が立ちはだかった。

「客に手を出すな」

岩蝦魔の拳が、迅雷坊の頭を捉えた。

「ガァッ!」

迅雷坊が吹き飛び、地面に叩きつけられる。

「今だ、大願寺!」

大願寺は両手を合わせた。

「言葉崖条!」

古代の祝詞が、現代の言葉となって響き渡る。

「過去ヲ語レ、真実ヲ明カセ、隠サレシ罪ヲ暴ケ!」

迅雷坊の体が光に包まれる。そして、その体から、映像が浮かび上がった。

二百年前の光景。

飢饉に苦しむ村。痩せ細った村人たち。そして、村を守ろうと必死に祈る若い修験者の姿。

それが、迅雷坊だった。

人間だった頃の、迅雷坊。

「村ヲ…守ラネバ…」

若き迅雷坊は、雨乞いの儀式を何度も行った。しかし、雨は降らない。村人は次々と餓死していく。

「何故ダ…何故、我ガ祈リハ届カヌ!」

絶望した迅雷坊は、禁断の術に手を出した。

人身御供の術。

最初は、すでに死にかけていた老人を捧げた。すると、わずかに雨が降った。

「効イタ…効イタノダ!」

迅雷坊は次に、病人を捧げた。また雨が降った。

そして、健康な大人を。さらに、若者を。

捧げる度に、雨が降り、村は潤った。

しかし、それでも足りなかった。

「モット…モット強イ命ヲ…」

迅雷坊の目は狂気に染まっていた。

そして、彼は子供に手を出した。

最初の犠牲者は、七歳の少女。

迅雷坊は少女を喰らった。すると、凄まじい力が体を満たした。

「コレダ…コレガ、真ノ力…」

それから、迅雷坊は次々と子供を襲った。

十二人目を喰らった時、村人たちがついに気づいた。

「迅雷坊様が…子供たちを…」

怒り狂った村人たちと、他の修験者たちが協力して、迅雷坊を捕らえた。

しかし、迅雷坊はすでに天狗に堕ちており、その力は凄まじかった。

戦いは三日三晩続いた。

最終的に、白峰家の祖先が特殊な結界で迅雷坊を閉じ込め、生きたまま籠に押し込んだ。

「許セ…我ハ、村ヲ…」

迅雷坊の魂は勾玉に封じられ、石塔の下に埋められた。

映像が消えた。

迅雷坊は地面に倒れたまま、動かなかった。

「我ハ…村ヲ守リタカッタダケダ…」

その声は、もう禍々しくなかった。ただ、悲しみに満ちていた。

「でも、あなたは間違えた」琴音が言った。「子供を犠牲にした時点で、あなたは村を守る者じゃなくなった」

「…我モ、ソレハワカッテイル」迅雷坊は小さく呟いた。「ダガ、止マレナカッタ。力ガ…我ヲ支配シタ」

「だから、封じられたのよ」大願寺が言った。「二度と、同じ過ちを犯さないために」

「…」

「でも」琴音は迅雷坊に近づいた。「あなたを、ずっと恨んでいたわけじゃないと思う」

「何?」

「白峰家は、代々、石塔を守ってきた。それは、あなたを封じ続けるためでもあるけど…同時に、あなたを弔うためでもあったんじゃないかな」

迅雷坊は静かに琴音を見た。

「我ヲ…弔ウ?」

「だって、石塔には花が供えられていたって、おばあちゃんから聞いたことがある」琴音は目に涙を浮かべた。「白峰家の人たちは、毎年、石塔に花を供えていたって」

「…」

「あなたは、確かに罪を犯した。でも、最初は村を守ろうとしていた。その気持ちを、白峰家の人たちは知っていたんだと思う」

迅雷坊の赤い目から、一筋の涙が流れた。

「許サレヌ罪ヲ…我ハ犯シタ」

「ええ」琴音は頷いた。「だから、もう休んで。二百年も苦しんだんでしょう? もう、楽になって」

「…琴音」迅雷坊は小さく呟いた。「白峰ノ血ヲ引ク者ヨ。我ニ、最期ノ慈悲ヲ与エテクレルカ」

「慈悲?」

「我ヲ…完全ニ滅ボシテクレ。モウ、二度ト蘇ラヌヨウニ」

琴音は岩蝦魔と大願寺を見た。

「できる…の?」

「ああ」岩蝦魔は前に出た。「俺の『雪崩石追砲』なら、こいつの魂ごと粉砕できる」

「ダガ」迅雷坊が言った。「我ヲ滅ボス前ニ、一ツダケ頼ミガアル」

「何だ?」

「喰ラワレタ十二ノ童タチノ魂ヲ…解放シテクレ」迅雷坊は子供の骨が散乱する場所を見た。「我ガ喰ラッタ時、彼等ノ魂ハ我ニ取リ込マレタ。我ガ消エレバ、彼等モ解放サレル」

「わかった」岩蝦魔は拳を握った。「一緒に、楽にしてやる」

「感謝スル…」

迅雷坊は目を閉じ、翼を広げた。

「来イ、岩蝦魔雪崩石。我ヲ、終ワラセテクレ」

岩蝦魔は深く息を吸った。全身の霊力を拳に集中させる。

「大願寺、結界を」

「わかってるわ」大願寺は最大の結界を展開した。「神垣家門前、最大展開!」

光の壁が周囲を覆う。これで、岩蝦魔の力が外に漏れることはない。

「行くぜ」

岩蝦魔は迅雷坊に向かって走った。

拳が光を放つ。

「雪崩石追砲!」

拳が迅雷坊の胸を貫いた。

瞬間、凄まじい光が爆発した。

迅雷坊の体が粉砕され、無数の光の粒子となって飛び散る。

その中から、十二の小さな光が浮かび上がった。

子供たちの魂。

彼らは岩蝦魔と琴音を見て、微笑んだ。そして、静かに天へと昇っていった。

「…ありがとう」

最後に、迅雷坊の声が聞こえた。

そして、全てが消えた。

迅雷坊も、鴉の群れも、冷たい風も。

辺りには、静かな森の空気が戻ってきた。鳥のさえずりが聞こえ、虫の音が響く。

「終わった…の?」琴音が呟いた。

「ああ」岩蝦魔は拳を下ろした。「完全に消えた」

しかし、次の瞬間、岩蝦魔の体がぐらりと揺れた。

「岩蝦魔!」大願寺が駆け寄る。

「大丈夫だ…いや、やっぱりダメだ」岩蝦魔はその場に崩れ落ちた。「石化が…来る」

「っ、予想以上に霊力を使いすぎたわ」大願寺は岩蝦魔を支えた。「すぐに『ぴんくはーと』を」

「ここで…やるのか?」岩蝦魔は苦笑した。

「仕方ないでしょ」

大願寺は古代の呪文を唱え始めた。すると、彼女の体がほのかに光り、サキュバスの気配が漂い始めた。

「ちょ、ちょっと」黒羽が慌てて琴音と共に目を逸らした。「こっち見ちゃダメだ、琴音」

「う、うん…」

大願寺は岩蝦魔に密着し、魔力を注入していく。彼女の頬が紅潮し、呼吸が荒くなる。

「岩蝦魔…もう少し…耐えて」

「お前が耐えろよ…」岩蝦魔は苦笑しながら言った。

十分後、ようやく術が終わった。

岩蝦魔の体は完全に石化せず、ある程度動けるようになった。

「ふぅ…」大願寺は岩蝦魔から離れ、乱れた髪を整えた。「これで、三日は寝てれば回復するわ」

「助かった」

「でも」大願寺は厳しい目で岩蝦魔を見た。「今回は想定以上の霊力を使ったわ。下手したら、一週間は動けなかったかもしれない」

「それだけ、あいつが強かったってことだ」

琴音と黒羽が恐る恐る近づいてきた。

「あの…大丈夫ですか?」

「ああ」岩蝦魔は立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、大願寺に支えられた。「ちょっと疲れただけだ」

「とりあえず、車に戻りましょう」大願寺が言った。「それから、この場所の処理をしないと」

「処理?」

「子供たちの骨を、きちんと弔わないと」大願寺は散乱する骨を見た。「それと、石塔も建て直す必要がある。今度は迅雷坊のためじゃなく、子供たちの慰霊碑として」

「わかりました」黒羽が言った。「それは、俺たちがやります。費用も全部持ちます」

「本当に?」

「ええ」黒羽は深く頭を下げた。「この事態を招いたのは俺たちです。せめて、最後まで責任を取らせてください」

「…わかったわ」大願寺は頷いた。「じゃあ、白峰家の末裔に相談しないと。確か、近くに集落があったはずよね」

「はい」黒羽が答えた。「そこに、白峰って名字の老女が住んでるって聞きました」

「行きましょう」

四人は車に戻り、集落へと向かった。

第三章:白峰の血

集落は、山の中腹にある小さな村だった。十軒ほどの古い家が点在し、人の気配はほとんどない。

「本当に人、住んでるんですかね」黒羽が不安そうに言った。

「煙が出てる家がある」大願寺が指差した。「あそこに行ってみましょう」

車を降り、煙が出ている家に近づく。古い木造の家で、手入れはされているものの、かなり老朽化していた。

玄関先で大願寺が声をかけた。

「すみません、どなたかいらっしゃいますか」

しばらくすると、中から老女が出てきた。

九十歳は超えているだろうか。小柄で痩せているが、目はしっかりしている。

「はい、何の御用ですか」

「白峰…ツルさんですか?」大願寺が尋ねた。

老女は驚いた表情を見せた。

「そうですが…どうして私の名前を?」

「実は、お話ししたいことがありまして」

ツルは四人を家に招き入れた。

狭い居間に、四人は正座した。岩蝦魔は体が大きすぎて、正座が窮屈そうだった。

ツルは熱いお茶を淹れてくれた。

「それで、何の御用ですか」

「あの…」琴音が言葉を選びながら言った。「私、白峰の血を引いているらしくて…」

「え?」ツルは琴音をじっと見た。「あなたが?」

「はい。母が白峰姓で、若い頃に東京に出たって聞いてます」

「もしかして…」ツルは震える声で尋ねた。「あなたのお母さんの名前は?」

「白峰…いえ、結婚して名字が変わって、今は川村ミサキです」

「ミサキちゃん!」ツルは目を見開いた。「あの子の娘さんなの!」

「ご存知なんですか?」

「当たり前よ。ミサキちゃんは私の孫の一人だもの」ツルは涙を浮かべた。「三十年前に家を出て、それっきり連絡がなくて…ずっと心配してたのよ」

「お母さん、元気ですよ」琴音も目に涙を浮かべた。「東京で、幸せに暮らしてます」

「そう…良かった」ツルは涙を拭った。「じゃあ、あなたは私の曾孫になるのね」

「はい…」

二人は抱き合った。黒羽が目を赤くして見守っている。

しばらくして、大願寺が口を開いた。

「ツルさん、実は…石塔のことで、お話があります」

「石塔?」ツルの表情が曇った。「まさか…」

「壊されました」大願寺は申し訳なさそうに言った。「不法投棄のために、地面が掘り返されて」

「なんですって!」ツルは立ち上がった。「迅雷坊様の封印が…」

「はい。そして、迅雷坊は一時的に復活しましたが…」大願寺は岩蝦魔を見た。「岩蝦魔さんが、完全に滅ぼしました」

「滅ぼした…?」ツルは信じられない表情をした。

「ええ。もう、迅雷坊が蘇ることはありません」

ツルはその場に座り込んだ。

「そう…ですか」

「申し訳ありません」黒羽が深く頭を下げた。「全て、私たちの責任です」

「いえ…」ツルは首を振った。「もしかしたら、これで良かったのかもしれません」

「え?」

「実は、私が死んだら、もう石塔を守る者はいなくなるところでした」ツルは寂しそうに言った。「息子は十年前に亡くなり、孫たちは皆、都会に出て行った。この村にいるのは、私を含めて五人だけ。皆、八十歳を超えています」

「そんなに…」

「だから、私が死んだ後のことを、ずっと心配していたんです。誰も石塔を守らなくなったら、迅雷坊様が復活してしまうんじゃないかって」ツルは安堵の表情を浮かべた。「でも、もう滅んだのなら…もう、白峰家の役目は終わったということね」

「迅雷坊は、最期に言ってました」琴音が言った。「白峰の人たちは、毎年花を供えてくれていたって。ありがとうって」

「…そうですか」ツルは目を閉じた。「迅雷坊様も、きっと安らかになれたでしょう」

「ツルさん」大願寺が言った。「私たちは、石塔を建て直したいと思っています。今度は、迅雷坊のためではなく、喰われた十二人の子供たちのための慰霊碑として」

「それは…良い考えですね」ツルは頷いた。「あの子たちも、ずっと苦しんでいたでしょうから」

「費用は全て私が出します」黒羽が言った。「それと、もし良ければ、この集落の維持費用も援助させてください」

「え?」

「この事態を招いたのは私です。せめて、この村が続いていけるように、できることをしたいんです」

ツルは黒羽を見つめた。

「あなた…良い人なのね」

「とんでもない」黒羽は苦笑した。「俺は、ろくでもない人間ですよ。でも、せめて償いはしたいんです」

「わかりました」ツルは微笑んだ。「では、お願いします」

その後、五人で山の現場に戻り、子供たちの骨を丁寧に集めた。

ツルが古い経文を唱え、骨を清めてから、白い布で包んだ。

「この子たちも、やっと安らかになれるわ」

そして、一週間後。

新しい石塔が建てられた。

「十二童子慰霊碑」と刻まれた石塔の前で、ツルが祈りを捧げた。

琴音、大願寺、岩蝦魔、黒羽も共に手を合わせた。

「これで、全て終わりだな」岩蝦魔が言った。

「ええ」大願寺は頷いた。「長い因縁が、やっと終わった」

その時、琴音がツルに尋ねた。

「おばあちゃん…私、時々、ここに来てもいいですか?」

「もちろんよ」ツルは嬉しそうに答えた。「いつでも来なさい。それに…」

「それに?」

「もし良かったら、白峰家のこと、あなたに教えたいの。私が生きているうちに」

「はい!」琴音は笑顔で頷いた。「教えてください」

大願寺が琴音の肩に手を置いた。

「琴音さん、あなた…神垣衆に興味はない?」

「神垣衆?」

「私が属している、霊的な組織よ。きちんと修行すれば、あなたは優秀な巫女になれる」

「私が…?」琴音は驚いた。

「あなたには才能がある。それに、白峰家の血も引いている。きっと、素晴らしい巫女になれるわ」

琴音は少し考えてから、答えた。

「やってみたいです」

「本当に?」

「はい。今回のことで、自分の無力さを感じました。もっと強くなりたい。誰かを守れる力が欲しい」

「そう」大願寺は微笑んだ。「じゃあ、私の弟子になりなさい」

「はい!」

黒羽が複雑な表情で琴音を見た。

「琴音…俺と別れるってことか?」

「ごめんなさい、黒羽さん」琴音は申し訳なさそうに言った。「でも、私…自分の人生、ちゃんと生きたいんです」

「…そうか」黒羽は寂しそうに笑った。「まあ、お前には勿体ない男だったよな、俺は」

「そんなことないです。黒羽さんには感謝してます」

「ありがとう」黒羽は琴音の頭を撫でた。「幸せになれよ」

「はい」

こうして、琴音は大願寺の弟子となることが決まった。

第四章:天照光明教

新宿の事務所に戻った翌日。

岩蝦魔は三日間の静養を経て、ようやく体が完全に回復した。

「やっぱり『雪崩石追砲』は体にくるな」岩蝦魔はソファでストレッチをしながら言った。

「あなたが無茶するからよ」大願寺はパソコンで何かを調べていた。「でも、見事だったわ。迅雷坊を完全に消滅させるなんて」

「大願寺の結界があったからだ」

「お互い様よ」

その時、事務所のドアがノックされた。

「おや、客か?」岩蝦魔が立ち上がる。

入ってきたのは、黒羽だった。手には大きな封筒を持っている。

「おう、黒羽」岩蝦魔が声をかけた。「どうした?」

「成功報酬を持ってきました」黒羽は封筒を大願寺に渡した。「百万円、確認してください」

大願寺が中身を確認すると、確かに百万円が入っていた。

「ありがとう。でも、わざわざ持ってこなくても、振込でも良かったのに」

「いえ、直接お礼が言いたくて」黒羽は深く頭を下げた。「本当にありがとうございました。あなた方のおかげで、俺も部下たちも助かりました」

「仕事だから」岩蝦魔は素っ気なく言った。

「それと…もう一つ、報告があります」黒羽は真剣な表情になった。「天照光明教のことです」

「ああ、あの不法投棄を依頼してきた宗教団体か」

「はい。実は、彼らは迅雷坊のことを知っていました」

「何?」大願寺が身を乗り出した。

「教団の幹部から聞いたんですが、彼らは古い文献で迅雷坊の存在を知り、その力を利用しようと企んでいたらしいです」

「利用?」

「迅雷坊を復活させて、『神』として祀り上げる。そして、信者に『神の力で願いを叶える』と言って、金を巻き上げるつもりだったらしいです」

「最低だな」岩蝦魔は吐き捨てた。

「しかも、迅雷坊が暴走して被害が出ても、『信仰が足りない』と言って、さらに金を搾り取るつもりだったとか」

「許せないわ」大願寺の目が冷たくなった。「そんな連中、放っておけない」

「それが…」黒羽は苦笑した。「もう手を打ってあるんです」

「え?」

「昨日、教団の本部に警察が入りました。霊感商法と、不法投棄の容疑で」

「警察が?」

「ええ。実は、俺が内部告発したんです」黒羽は言った。「教団の不正な会計資料や、信者から巻き上げた金の証拠を全部、警察に渡しました」

「あんた…」岩蝦魔は驚いた。「自分も捕まるかもしれないのに」

「覚悟の上です」黒羽は真っ直ぐに岩蝦魔を見た。「俺は、今まで悪いことをたくさんしてきました。でも、今回の件で目が覚めたんです。このままじゃダメだって」

「…」

「もちろん、俺も取り調べを受けました。でも、協力者として扱われて、執行猶予付きの判決になりそうです」黒羽は微笑んだ。「それに、琴音に言われたんです。『ちゃんとした人生を生きてください』って」

「琴音が?」

「ええ。彼女、今、大願寺さんの下で修行してるんですよね」

「そうよ」大願寺が答えた。「まだ始めたばかりだけど、覚えが早いわ。きっと立派な巫女になる」

「そうですか」黒羽は嬉しそうに笑った。「良かった。彼女なら、俺なんかより、ずっと良い人生を歩めるでしょう」

「あんたも、新しい人生を歩めよ」岩蝦魔が言った。

「はい」黒羽は頷いた。「今度こそ、まっとうに生きます」

黒羽が帰った後、大願寺が溜息をついた。

「まさか、黒羽さんがあんな決断をするなんてね」

「人は変われるってことだ」岩蝦魔はビールを開けた。「琴音の影響もあるんだろうな」

「ええ」大願寺は微笑んだ。「琴音さんには、人を変える力がある。きっと、素晴らしい巫女になるわ」

「お前の弟子だからな」

「ありがとう」

その時、大願寺のスマートフォンが鳴った。

「もしもし…はい、大願寺です」

電話の相手は、神垣衆の長老らしかった。大願寺は真剣な表情で話を聞いている。

「わかりました。すぐに向かいます」

電話を切ると、大願寺は岩蝦魔を見た。

「新しい依頼よ」

「もう?」

「渋谷の地下で、何か出てるらしい。神垣衆でも手に負えなくて、私たちに協力を求めてきた」

「面倒くさそうだな」岩蝦魔は苦笑した。

「でも、報酬は良いわよ。三百万」

「マジか」岩蝦魔は立ち上がった。「じゃあ、行くか」

「その前に」大願寺が言った。「琴音さんも連れて行くわ。実戦訓練になるでしょう」

「大丈夫か? まだ修行始めたばかりだろ」

「あなたが守ってくれるでしょう?」

「…まあな」岩蝦魔は頭を掻いた。「俺たちの客だしな」

「じゃあ、決まりね」大願寺は立ち上がった。「明日、渋谷に行きましょう」

「了解」

こうして、岩蝦魔雪崩石と大願寺光魔導の、新たな戦いが始まろうとしていた。

エピローグ

それから一ヶ月後。

奥多摩の集落では、白峰ツルの家に琴音が訪れていた。

「おばあちゃん、お茶持ってきたよ」

「ありがとう、琴音ちゃん」ツルは嬉しそうに微笑んだ。

琴音は以前とは違う雰囲気を纏っていた。神垣衆の修行を積んだことで、その霊力は格段に成長していた。

「今日は、白峰家の歴史について教えてくれるんだよね」

「ええ」ツルは古い巻物を取り出した。「これが、白峰家に代々伝わる記録よ」

巻物には、迅雷坊を封じた時の詳細な記録が書かれていた。

「白峰家の初代当主は、迅雷坊と同じ修験者だったのよ」

「え?」

「二人は若い頃、共に修行した仲間だったの。でも、迅雷坊が天狗に堕ちた時、初代当主は涙を流しながら、彼を封じたの」

「そんな…」

「それから、白峰家は代々、迅雷坊の封印を守ってきた。でも、それは彼を憎んでのことじゃない」ツルは優しい目で言った。「かつての友を、安らかに眠らせるためだったの」

「だから、花を供えていたんだね」

「そうよ。毎年、迅雷坊の命日には、彼の好きだった山百合を供えていたの」

琴音は目に涙を浮かべた。

「迅雷坊も、それを知ってたのかな」

「きっと知ってたわ。だから、最期に感謝の言葉を伝えたんでしょう」

二人は静かにお茶を飲んだ。

「おばあちゃん、私…白峰の名を継ぎたい」

「え?」

「今は川村琴音だけど、白峰琴音になりたいの。白峰家の歴史を、私が引き継ぎたい」

ツルは涙を流した。

「ありがとう、琴音ちゃん。本当に、ありがとう」

「これからも、この集落を守るために、私にできることをしたい」

「そうね」ツルは微笑んだ。「じゃあ、まずは修行を頑張りなさい。大願寺さんは厳しい師匠でしょう?」

「うん」琴音は笑った。「でも、優しいよ。岩蝦魔さんも」

「良い人たちに出会えて、良かったわね」

「うん。私、幸せだよ」

その頃、新宿の事務所では。

岩蝦魔がソファで昼寝をしており、大願寺がパソコンで次の依頼の下調べをしていた。

「岩蝦魔、起きて。次の依頼の打ち合わせよ」

「んー…後で」

「今よ」

「うるせえな」岩蝦魔は目を開けた。「で、どんな依頼だ?」

「某政治家の愛人に憑いてる悪霊祓い」

「あー、前に言ってたやつか」

「ええ。報酬は五十万。簡単な仕事だと思うわ」

「じゃあ、琴音の訓練にちょうどいいな」

「そう思ってるわ」大願寺は微笑んだ。「琴音さん、最近すごく成長してる。もうすぐ、一人前の巫女になれるわ」

「お前の弟子だからな」

「それに、岩蝦魔も良い師匠よ」

「俺は何も教えてねえよ」

「でも、背中で教えてるじゃない」大願寺は岩蝦魔を見た。「強さとは何か、守るとは何かを」

「…照れるからやめろ」

「素直じゃないわね」

二人は笑い合った。

窓の外では、東京の街が煌めいている。

どこかで、また新しい事件が起きているだろう。

どこかで、また誰かが助けを求めているだろう。

岩蝦魔雪崩石と大願寺光魔導は、今日もその呼びかけに応え続ける。

暴力と霊力で、全てを乗り切りながら。

そして、新しい仲間を得て、彼らの戦いは続いていく。


おまけエピソード:琴音の初陣

それから二週間後。

渋谷の地下、廃墟となった旧防空壕。

岩蝦魔、大願寺、そして琴音の三人が、暗闇の中を進んでいた。

「うわ…暗い」琴音が呟いた。

「懐中電灯、持ってるでしょ」大願寺が言った。

「持ってるけど…何か、嫌な感じがする」

「当たり前よ。ここには、戦争で亡くなった人たちの怨念が溜まっているから」

三人は奥へと進んだ。

すると、突然、目の前に黒い影が現れた。

「きゃっ!」琴音が悲鳴を上げる。

黒い影は、人の形をしていた。いや、複数の人間が絡み合ったような、禍々しい姿だった。

「怨霊の集合体ね」大願寺が言った。「琴音、あなたがやりなさい」

「え? 私が?」

「そのための訓練でしょう。大丈夫、岩蝦魔がついてるから」

琴音は震える手で、護符を取り出した。

「え、えっと…」

「落ち着いて。私が教えたとおりに」

琴音は深呼吸をして、護符を掲げた。

「悪霊退散! この場より去れ!」

護符が光を放つ。しかし、怨霊は消えない。

「くっ…」

「霊力が足りないわ。もっと集中して」

琴音は目を閉じ、全身の霊力を護符に集中させた。

すると、護符がより強く光り始めた。

「悪霊退散!」

光が怨霊を包み込む。怨霊が苦しそうに蠢いた。

「もう一押しよ!」

「はい!」琴音は叫んだ。「成仏してください! あなたたちは、もう苦しまなくていいんです!」

その言葉に、怨霊の動きが止まった。

そして、黒い塊がゆっくりと解けていき、無数の小さな光となって消えていった。

「やった…」琴音は安堵の息を吐いた。

「よくやったわ」大願寺が琴音の肩を叩いた。「初めてにしては上出来よ」

「ありがとうございます」

岩蝦魔も頷いた。

「悪くなかった。だが、まだまだだな」

「はい。もっと強くなります」

「その意気だ」

三人は防空壕を出て、地上に戻った。

夕暮れの渋谷。人々が行き交う街。

「お腹空いたわね」大願寺が言った。「何か食べて帰りましょう」

「賛成」岩蝦魔が答えた。「琴音、何が食いたい?」

「えっと…ラーメン!」

「了解。じゃあ、あそこの店に行くか」

三人はラーメン屋に入り、カウンターに座った。

「大盛り三つ」岩蝦魔が注文する。

「はーい」

待っている間、琴音が尋ねた。

「ねえ、岩蝦魔さん。どうして、この仕事を始めたんですか?」

「ん?」岩蝦魔は少し考えてから答えた。「特に理由はねえよ。ただ、悪霊をぶん殴るのが好きだっただけだ」

「それだけ?」

「それだけだ」

「嘘ね」大願寺が言った。「岩蝦魔は、昔、悪霊に家族を殺されたのよ」

「…大願寺」

「本当ですか?」琴音が驚いた。

「ああ」岩蝦魔は溜息をついた。「親父とお袋が、悪霊に取り憑かれて死んだ。俺が子供の頃だ」

「それで…」

「それで、悪霊が許せなくなった。だから、この仕事を始めた」岩蝦魔は拳を握った。「悪霊は全部ぶっ潰す。そう決めたんだ」

琴音は岩蝦魔の手を握った。

「辛かったですね」

「…まあな」岩蝦魔は照れくさそうに手を離した。「だが、過去のことだ。今は、この仕事が天職だと思ってる」

「私も」琴音は微笑んだ。「この仕事、好きになりました」

「そうか」岩蝦魔も微笑んだ。「なら、頑張れよ」

「はい!」

ラーメンが運ばれてきた。

「いただきまーす!」

三人は美味しそうにラーメンをすすった。

外では、夜の渋谷が輝いている。

どこかで、また新しい依頼が生まれるだろう。

でも、今は、この温かいラーメンを楽しもう。

仲間と共に。

明日への活力を蓄えるために。

岩蝦魔雪崩石と大願寺光魔導、そして新しい仲間となった琴音。

三人の戦いは、これからも続いていく。

暴力と霊力と、そして優しさで。


【完】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

岩蝦魔雪崩石と鴉天狗の怨讐 岩蝦蟇 雪崩石 @imaitetsuyuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る