揚げよ! か◯億2 ~億三 ヒレカツ慕情~

黒冬如庵

揚げよ! か◯億2 ~億三 ヒレカツ慕情~

 世界を脂の名のもとに支配すべし!

 

──とまではいかないが、「ランチタイムの世界幸福度指数を千葉県トップに!」くらいの、ささやかな野望を胸に抱いている名店がある。


 千葉県某所・ちょっとした車道のある住宅街の片隅。

 

『とんかつ か◯億』。

 

 開店前のさほど広くない店内には、まだ客の気配はない。代わりに、ランチ前に油を温めるバーナーの低い音と、キャベツを刻むトントンというリズムだけが響いていた。

 今どきキャベツが手切りなのは店主の頑固なポリシーのため。


「──おい、億人(おくと)」


 カウンターの向こうから、親父こと店主・御徒 億三(おかち おくぞう)の野太い声が飛ぶ。

 頭にはいつもの手ぬぐいハチマキ。胸元には揚げ油のシミが都市迷彩を形作る白衣。誰がどう見ても「うらぶれた老舗の親父」か「油を舐める妖怪」のどちらかだ。


「なんだよ。まだ開店三十分前だぞ」

「今日のヒレ、切り方を変えろ」

「いきなりだな」


 億人は、ヒレ肉のブロックを持ち上げて目を細める。

 たしかに、いつもよりわずかに赤身が濃く、繊維もきめ細かい。肉屋の気まぐれなのか、あるいは──。


「──親父。今日は、あの肉屋さんのとこの奥さんが来る日か?」

「……なんで分かる」

「ヒレがちょっと“女の人が喜びそうな顔”してるから」

「お前の感性、たまに怖いぞ?」


 そのとき、店の引き戸が、がらがらりと音を立てた。

 まだ「準備中」の札は表に出ている。だが、その札を気にせずに開けてくる人物は、そう多くはない。

 とはいうものの、最近トンデモが増えてきた気がする。カスハラダメ、絶対。


「あの……御徒さん、早くにごめんなさいね」


 ふわりと、揚げ物屋には本来存在しないはずの、柔らかい香りと洗い立てのシャツの匂いが流れ込んでくる。

 立っていたのは、近所の精肉店「肉の五光屋」の未亡人、かな枝だった。


 黒髪をきちんとまとめ、地味目のワンピースを身にまとっているが、その目元には、まだ消えきらない艶と芯の強さ、そしてほのかな憂愁が宿っている。

 彼女の後ろには、エコバッグをぶらさげた少女が一人、ちょこちょことついてきていた。


「おっはよーございまーす!」

 ぱぁっと店内が明るく弾けるような声。

 元気少女──かな枝の娘、あかりだ。


 高校の制服姿。ポニーテール。目がくるくるとよく笑う。ついでに、よく食べる。それはもう。なぜ平日の昼前にうろついているかは永遠の謎。


「お、あかりちゃんも、いらっしゃい」


 億人が慌てて挨拶をすると、あかりはカウンター席にぴょこたんと腰掛けた。


「億人さん、この前の“滅脂ロース鳳凰撃カツ”のスナップ、友だちに見せたらめっちゃバズったんですよ! 『これマジで揚げ物?』って!」

「正式名称じゃないんだけどなあ、あれ……」


 親父がニヤリと口角を上げる。


「ほう、バズったか。闇大会で勝ち残ったかいがあったな」

「ネットに残ってほしいのは“いいね”で“、闇大会”のほうじゃないんだけどな……」


 かな枝が、控えめに微笑んだ。


「この子、最近ずっと『か◯億のロースが、ロースで一番美味しい』って言い張っててね。あの人のロースより、って」

「お母さん、ソレ、お父さん浮かばれないからやめて!?」


 あかりがわたわたと、出来の悪いおもちゃのように腕を振る。

 あかりの父親──亡き先代「五光屋」の店主は、千葉でも評判の目利きだった。彼の仕入れる豚肉は、脂と赤身のバランスが絶妙で、食い物屋たちがこぞって求めた。


 その先代が事故で急逝してから、もう六ヶ月が過ぎた。​


「──今日は、何か注文?」


 億人が聞くと、かな枝は少しだけ目を伏せて、手元の紙袋を差し出した。


「実はね、店の冷凍庫を整理してたら、主人が最後に仕入れた“特選ヒレ”が出てきたの。マイナス40度で冷凍してたから状態はいいんだけど、それでもそろそろ限界で……」

「つまり?」

「御徒さんの腕で、最後に“供養”してほしいのよ」


 親父・億三のどんぐり眼が、わずかに揺れた。

 包丁を持つ手が一瞬止まり、すぐにまた動きだす。


「……あいつのヒレか」

「ええ。いつもは“特選品”なんて仕込みする人じゃなかったから、ずっと冷凍庫の奥に仕舞い込んでいたんだけどね」


 かな枝は、目尻を落とし悲しげに笑う。

 

「そろそろ、前に進まないとって思って」


 億人は、そっと紙袋を受け取った。

 中には、丁寧にラップされた美しいヒレ肉が、静かに眠っている。冷気の奥から、どこか懐かしい脂の香りが立ちのぼる気がした。

 

「……億三さん。あの子、最近よく食べるのよ」

「結構なことじゃねぇか」

「でもね、時々心配になるの。父親の分まで食べようとしてるんじゃないかって」


 かな枝は、ふっと寂しげな影を作り、すぐに艶然とした「肉屋の女房」の顔に戻った。

 

「だから、億三さん。責任とって、あの子のお腹も心も、カツで満たしてあげてね?」

「……へいへい。高くつく注文だぜ」


 しんみりした空気が流れる。


「親父──」

「分かってる」


 億三は、包丁をまな板に置き、そっと手を拭いた。こんなふうに「手順」を止めるのは珍しい。


「かな枝さん」

「はい」

「今日は、限定ヒレカツランチを出す。“五光屋スペシャル・ヒレカツ慕情”。名前は今決めた」

「何その昭和歌謡曲」


 突っ込む億人を無視して、親父は続ける。


「そのヒレ、うちで揚げさせてくれ。“最後の一枚”じゃなく、“始まりの一枚”としてな」


 かな枝の目が、わずかに潤んだ。

 そして静かに頭を下げる。落ちた雫は見ないふり。


「……ありがとうございます」


 あかりは悲しみに食欲が打ち勝ったようだ。「スペシャルかぁ」とまだ見ぬ至高のヒレカツに思いを馳せている。

 若さとは振り返らぬこと。


◆◆◆


 開店時間になると、昼の常連たちが次々に店になだれ込んできた。

 スーツ姿のサラリーマン、近所の主婦、作業着の兄ちゃんたち。皆、掲げられたホワイトボードの「本日の限定メニュー」に目を留める。


 そこには、やたら熱い筆致でこう書かれていた。


『限定10食! 超特選ヒレカツ定食 ~五光屋スペシャル・ヒレカツ慕情・第一章~』


「第一章ってなんだよ」

「シリーズ化する気まんまんっス」


 常連サラリーマン三人組が、早速ガヤつく。


「若旦那! 限定って書いてあると頼むしかないじゃないですか!」

「前回の闇大会でロース勝ったんだから、次はヒレでしょ!」

「負けても値上げだけはやめてください!」


 怒涛のジェットストリームツッコミ!


「まだ何も言ってないだろ、値上げとか!」


 いや、でも最近の揚げ油の値上がりは実にこう……

 億人はカウンターの内側で苦笑しながら、超特選ヒレの包みを開いた。


──ああ、きれいだ。


 思わずそんな感想が漏れる。

 無駄なスジが少なく、繊維がまっすぐ通っている。脂身はクリーム色で極わずか。ヒレ特有の品のいい香りが、ふうわりと立ちあがる。


「あかりちゃん、お父さんのヒレ、覚えてる?」

「うん。小さい頃、誕生日のたびに『ヒレカツ・プリンアラモード』っていう意味分かんないの作ってくれた」

「──そ、それはだいぶ攻めたメニューだな」

「でも、美味しかったんだよ? お父さんのヒレ、軽くて、しっとり……。最後のひと切れ、いつもお母さんに譲ってた」


 かな枝は、少しだけ懐かしそうに遠くを見る。


「……あの人、億三さんのこと、『終生のライバルにして、良き友』って言ってたの」

「は?」

「“肉を託せる相手”って、そうそういないって。だから、あの人は嬉しそうに、億三さんの愚痴をうちで言ってたのよ」

「いや、愚痴って……褒めてたんじゃないのか」


 億三は、ふっと目尻を緩めた。


「思い出話はあとだ。せっかくのヒレが泣く」

「へいへい」


 億人は、全身の力を抜き呼吸を整えた。

 今、見分した極上のヒレを脳裏に描き、包丁の軌跡をイメージする。

 ロースとは違う。ヒレは繊細だ。脂に頼らず、肉そのものの旨味で勝負する。

 そして最後に脂のコクをひとひらだけ。


「……“滅脂”じゃないんだな、今日は」


 親父がぽつりと呟く。


「ヒレは、そもそも脂が少ないから。今日はむしろ“慈脂”かな」

「言い方が坊主じみてきたぞ、お前」


 茶化す億三。

 対して、包丁を握る億人の手は、まさに真剣だった。

 その包丁は関の刀鍛冶が日本刀と同じ玉鋼から鍛え上げた逸品だ。

 

 あるべき形を目指して、刃だけを立てる。ロースと基本こそ同じだが、切り口はほんの少しだけ斜めに、繊維をなでるように白刃を入れる。

 噛んだとき、歯が誘われるように肉に沈み込むように。


「──“慈脂ヒレ霞斬り(じしヒレかすみぎり)”」


 億三が慄くように呟く。


「勝手に技名を増やすな」


 薄くも厚くもない、絶妙な丸みのヒレが、次々とカットされていく。

 その断面を見て、あかりが「きれー」と声を上げた。


「お父さんのヒレと似てる。けど、ちょっと違う」

「そうか?」

「うん。億人さんのほうが、なんか“優しい”切り方してる」

「褒めてんだか、貶されてんだかよく分からないな、それ」


 薄力粉に米粉と片栗粉を混ぜた『か◯億シュパーブ』を薄くまとわせ、卵液をくぐらせ、細かめのパン粉をふわりとつける。

 ロースのときより、動きはさらに静かで、柔らかい。太極拳が“気功”になったような、そんな速度だ。


「若旦那、もっとグッときてガッといくもんじゃないの、カツ揚げって」


 常連が千葉出身の終身名誉監督ばりに冷やかす。


「ガッて揚げても、食べるのは“もぐもぐ”だからなぁ」

「ヒレカツの話だよね?」


 油の音が穏やかになり、いい頃合いを告げる。

 フライヤーの中、ヒレカツが静かに揺れ、細かな泡が衣を撫でていく。


 ジュワ……シュウウ……


 ロースほど派手ではないが、どこか上品で、控えめだが芯のある音だ。


「親父、温度、ちょい低め?」

「ヒレはな、焦らず騒がず、じっくり火を入れる。恋と同じだ」

「なにまたポエムしてんの?」


 だが、かな枝の頬が、わずかに赤くなったのを、億人は見逃さなかった。


◆◆◆


 最初の「限定ヒレカツ定食」がカウンターに並んだとき、店内の空気に緊張が滲んだ。


 衣は淡いきつね色。ロースよりもかなり色白で、さらりと端正な佇まい。

 断面からのぞく肉は、ほんのり桜色を残しながら、しっとりとはらぺこたちの視線を誘う。


「……うっわ。見た目からして上品。なのにエロい」

「これ、ランチで出していいレベルか?」


 常連たちがどよめく中、親父は一皿をカウンターの奥、かな枝の前へ、もう一皿をあかりの前へと置いた。


「二人が最初だ」

「いいんですか?」

「いいもなにも、そのヒレは元々、あのダンナのものだ。うちで揚げて二人が食べる。それが供養ってもんだ」


 かな枝は、箸を持つ手を震わせながら、一切れをそっと口に運んだ。味付けはシンプルな岩塩。


 ──さふり。


 カツに似合わぬ静かな音。そのすぐあとに、やわらかな肉の繊維が、歯の間でほどけていく。噛むほどに、ヒレ特有の澄んだ旨味が、舌にじわりと広がる。


「……あ」


 かな枝の目尻に、涙が一筋、光った。


「お母さん?」

「だめね、年取ると涙腺がゆるくて」


 笑いながらも、声が少しだけ震えている。


「どうだ」


 親父が問う。

 その声には、かつて肉屋と夜な夜な酒を酌み交わした男の、ぶっきらぼうな優しさが滲んでいた。


「──主人のヒレと、全然違う……」

「おーい」

「でも、ちゃんと“あの人の肉”の味がするの。億三さんの揚げた衣の中に、うちの店の……いいえ、“私たち家族”の味が、ちゃんと生きてる」


 かな枝は、両手で箸を握りしめた。


「ありがとう、億三さん」

「礼を言うのは、肉にだな」


 親父は、照れ隠しのように鼻を鳴らした。


「肉はな、使われないまま冷凍庫で眠るより、誰かの胃袋で花火のように、ぱあっといったほうが幸せなんだよ」


「花火ってなに? ヒレカツだよ?」


 あかりも、ぱくぱくとヒレカツを頬張っていた。

 噛むたび、飲み込むたびに表情が変わる。


「……うん。お父さんのヒレと違う。でも好き。どっちも好き」

「どっちも、ね」

「うん。お父さんは“たまのごちそう”って感じで、億人さんのは“がんばった自分へのごほうび”って感じ」

「それ、週2くらいで食べに来るやつじゃないか?」


 億人は頭をかきながら笑った。


 客席でも、次々に限定ヒレが捌けていく。

 サラリーマンの一人が、口の中で転がすように味わってから、真顔で言った。


「若旦那」

「なんだよ」

「これ、午後イチ会議で寝落ちしないどころか、やる気出るやつっす」

「エナジードリンク系評価やめろ」


◆◆◆


 昼のピークが過ぎ、店が一段落した頃。

 かな枝とあかりは、まだカウンターに残っていた。


「母さん、そろそろ帰らないと。仕込み、手伝わなきゃでしょ」

「ああ、そうね」


 そう言いながらも、かな枝はどことなく店から離れがたそうに、店内を見渡していた。


 脂の染み込んだ木のカウンター。

 擦り切れたメニュー表。

 奥のフライヤー前で、黙々と油を見つめる御徒親子。


 その背中をなんとはなしに眺めていたかな枝から、ぽろりと本音がこぼれた。


「……あの人がいなくなってから」

「うん」

「“肉を託せる人”がいなくなったのが、一番怖かった」


 その悲しみを億人が拾う。

 かな枝は、笑うとも泣くともつかない表情で続ける。


「この街には、とんかつ屋さんも、洋食屋さんも、他にいくつかあるでしょう? でも、どこも“お客さんとしては好き”でも、“あの人の肉を託す相手”には思えなかった」

「贅沢な悩みだな」

「そうかしら」


 親父が、ふと口を挟んだ。


「あいつが死んだとき、うちは、肉の仕入れ先を増やそうとはしなかった」

「え?」


 億人が目を丸くする。


「いや、ほら。最近はブランド豚も多いしさ。あちこちから取り寄せれば、もっとバリエーション出せたろ」

「うん。そういう話、業者さんからもよく来てたけど」

「全部断った」


 億三は、油を見つめたまま言った。


「“五光屋の肉がうちの肉だ。うちは浮気しねぇ”ってな」

「いや、そんなところだけ純愛貫くのやめてくれる?」

「うるせぇ。お前だって、他の肉で“滅脂ロース鳳凰撃”とか決める気にならねぇだろ」

「……まあ、そうだけどさ」


 かな枝は、小さく微笑んだ。


「億三さん」

「なんだい」

「ありがとう」


 短い言葉だったが、万感の重さが籠もる。


 そのとき、店の外から、見慣れた丸い影が近づいてくるのが見えた。

 闇大会での宿敵──「コレステロール将軍」こと阿久津 背脂である。


「……なんで来るんだよ、昼営業のあとに」

「人の縁ってのは、揚げ油よりもしつこいんもんだ」


 親父の妙に名言っぽい一言を背に、阿久津が引き戸をババーンと開けた。


「フハハハハ! いるか、“脱力の億”!」

「近所迷惑。声のトーン落とせ、将軍」

「あ、すまん──じゃなくて将軍呼ばわりはやめろと言っているだろうがァ!」


 阿久津は太い体をねじ込むとカウンター席にどかっと腰を下ろした。

 医者に減量でも命じられたのか、以前よりほんの少しだけ締まったように見える。それでも、床のきしみ具合は健在だ。


「聞いたぞ。ヒレを始めたそうじゃないか」

「誰から聞いたんだよ、情報早すぎ」

「闇ネットの“とんかつ速報板”をなめるな」


 そんな板、存在するのか。

 恐るべしネット社会。


「──で、将軍。今日は何しに」

「決まっておろう! “前哨戦”だ!」


 阿久津は、ドンとテーブルを叩いた。


「ヒレで決着をつけると言ったはずだ! その前に、お前のヒレの“味見”をしてやろうと思ってな!」

「普通に客として食いに来たって言えよ、もう」


 だが、億人の表情は、一気に引き締まった。

 この男は、脂に魂を売ったようでいて、味には誠実だ。彼に「旨い」と言わせれば、それは一つの真実なのだ。

 

 五光屋スペシャル試し。相手にとって不足はない。


「親父」

「分かってる。将軍一人分、特選ヒレ残しといた」

「将軍、完全に定着してますね!」


 伏兵あかりのツッコミ。


 阿久津用の特ヒレカツが揚がるまでの間に、カウンターの空気は静かな緊張感に包まれた。

 かな枝も、あかりも、無言のまま、その様子を見守っている。


 やがて──。


 ジュワァァァ……。


 先ほどと同じ、しかしさっきよりわずかに沈んだ油の音が響く。

 億人は、火力をほんの少しだけ落とし、揚げ時間を長めにとった。


「将軍仕様か?」

「奴の舌は、脂の次に“噛みごたえ”を求める。ほんの少しだけ、歯に主張する火の通し方にしてある」

「細かいカスタマイズだな」


 ヒレカツが油から上がる。

 再び宙を舞うカットの奥義。透過光と共に皿に盛られるヒレカツ。

 その一皿を、阿久津の前に置く。


「さあ、食え」

「フハハハ! では、遠慮なくいくぞ!」


 阿久津は、豪快な手つきでヒレカツを一切れつまみ、かぶりついた。


 ──サクッ。


 巨体に似合わぬ、軽やかな咀嚼音。

 脂肪に沈んだ阿久津の目が、ふっと細くなる。


「……ほおう」


 誰もが息を呑む。


「脂が足りん」

「ヒレカツだよっ!」


 すかさず、億人がツッコむ。


「だが──」

 阿久津の口元が、にやりと歪んだ。


「脂が足りんことを、欠点と感じさせぬ“滋味の深さ”がある。これは……“攻めない勇気”のヒレカツだ」

「なんかそれっぽい講評出た」


 阿久津は、二切れ目、三切れ目と、黙々と箸を進めた。

 いつものガハハ笑いはない。ただ、時折ゆっくりと頷くだけ。


 最後のひと切れを飲み込んだあと、彼はふうっと息をついた。


「認めよう、“脱力の億”」

「だからその呼び方ぁ」

「お前のヒレは──“毎日は無理だが、週二ならワンチャンいける”味だ!」

「リアルに微妙だな!?」


 店内に、どっと笑いが起きた。

 かな枝も、あかりも、おなかを抱えて笑っている。


「なあ、御徒 億人」

 笑いの余韻の中で、阿久津がふと真顔に戻った。


「なんだ」

「次の“闇の裏とんかつ大制覇王輪舞”……テーマはヒレになるという噂だ」

「やっぱりかよ」

「お前、出るんだろうな?」

 

 その問いに、なぜか親父がニヤリと笑った。


「当然だ。うちの息子が、ヒレでも“滅脂”するかどうか見届けてもらおうじゃねぇか」

「だから、ヒレは“慈脂”だって言ってるだろ」


 そう言いながらも、億人の胸の内には、静かな炎が灯っていた。


 五光屋のヒレ。

 か◯億の技。

 ついでに将軍の脂。


 それらがひとつのリングに集まるとき、また何かが変わるかもしれない。


◆◆◆


 その日の夕方、店じまいの準備をしていると、引き戸の前で、あかりがもじもじしていた。


「どうした、あかりちゃん」

「あ、あの……」


 あかりは、両手をぎゅっと握りしめる。


「今度、闇大会、ヒレでやるんですよね?」

「うん、まぁ、その予定だけど……」

「もしよかったら、その……」


 彼女は、顔を赤らめながら、早口で言った。


「わたしも、応援と試食に行っていいですか!」


 億人は一瞬きょとんとして、それからふっと笑った。


「応援って、それだけ?」

「それだけじゃ──ダメ?」

「いや、ダメじゃないけど」


 横から親父が割り込んできた。


「むしろ、億人のメンタル、応援ないと保たねぇからな」

「親父が変なプレッシャーかけてんだよ、いつも!」


 あかりは、恥ずかしそうに俯きながらも、勇気を振り絞るように、もう一言をつけ足した。


「……億人さんのヒレ、また食べたいから」


 その一言に、億人の胸がぐらりと揺れた。


「あー……その、なんだ」


 普段、脂と油と客のクレームを相手にしている男が、一番動揺するのは、こういう類の『一言』なのだと、全世界はもっと知るべきだ。


「じゃあ、勝って、またここでヒレ揚げるよ」

「はい!」


 あかりはぱあっと顔を輝かせた。


「そのときは、お父さんの写真、持っていくね」

「写真?」

「うん。闇大会の会場に、“五光屋の先代も見てるぞー!”って横断幕も」

「やめろ、余計にプレッシャーかかる!」


 夕闇に消えるあかりの背中を、親父と億人は、しばらく無言で見送っていた。


「……なあ、億人」

「何だよ」

「お前」


 親父は、ニヤリと笑った。


「ちゃんと“人の心”揚げられるようになってきたな」

「毎回ポエムかよ!?」


 でも──少しだけ、悪くない気分だった。


◆◆◆


 数日後。

 

 闇の裏とんかつ大制覇王輪舞・第15回大会準決勝開催のお知らせが、なぜかか◯億のポストに、手書きでねじ込まれていた。


 封筒の端には、油じみと、謎のヒレカツスタンプ。

 差出人欄には、ちまちまと丸っこい字でこう書かれている。


『実行委員会 & 顧問・阿久津背脂』


「顧問になってるじゃねーか、あの人」


 封を切ると、そこには、こう記されていた。


『テーマ:ヒレカツ』


『特別ルール:各自の“原点の肉”を一品、持ち込むこと』


 その文言を見たとき、億人は静かに視線を上げた。

 奥の冷蔵庫には、五光屋から託されたヒレの残りが、まだ大事に眠っている。


 親父が、くいっと顎を上げた。


「行くか、億人」

「ああ」


 億人は、いつもの前掛けをぐぐいっと腰に巻き直した。


「千葉のロースに続いて──今度は、“千葉のヒレ”も背負ってみますかね」

「言った! 今録音したから!」

「常連、どこにでも湧いて出るなあ!?」


 かくして──。


 とんかつ屋「か◯億」の若き代表・御徒 億人は、親父・億三と、肉屋の未亡人・かな枝、そして、その娘・あかりの想いをヒレに乗せて、再び、油煙と怨念と、ほんの少しの甘酸っぱさが渦巻く、闇のキッチンへと向かうことになったのだった。


 ヒレの一枚ごとに、誰かの想いが宿る。

 揚がるたびに、誰かの心が、少しだけ軽くなる。


 揚げよ、か◯億。

 ロースを超えて、ヒレへ。

 脂を超えて、愛へ。


──世界を脂の名のもとに支配――しなくても、


 千葉県某所の今日一日のランチタイムと、一人の少女の笑顔くらいなら、きっと、ヒレカツ一枚で守れるかもしれない。




-----------------------------


あとがき


今回は男はつらいよ風味。



※当たり前ですが、これはフィクションです※


実在の極厚ロースカツが大変美味しい店との関わりを疑われるのはごもっともですが、肉屋は完全にフィクションです。


──ほんとだよ?


どっとはらい。

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