宝石
滝岡尚素
本編
五月初めのある夜。
街外れにひっそりと建つ高校は全ての窓が真っ暗で、人の気配は皆無だった。校舎を取り囲む高い塀の前に、全身黒ずくめの人影が立っていた。だぶだぶの黒のズボンと大きめのパーカーを羽織りフードを被っている。人影は辺りを窺うように何度か左右を見回した後、軽く腰を沈み込ませると地面を蹴って跳躍し、二メートルはあろうかという壁を難なく飛び越え、学校の敷地内に音もなく着地した。素早く壁から離れると校舎に近付き、四分の一ほど回り込んで南側の中庭に出る。影はそこから校舎を見上げると、最上階、四階の角の教室の窓に視線を据えた。見上げたまま校舎の壁に近付き、今度は先ほどより深くしゃがみ込んで跳躍し、四階の下部に取り付けられている庇にすんなり降り立った。すぐさま腰を起こし、すいすいと庇の上を端まで歩いてそこにあった窓に指をかけ、引いた。窓は少し乾いた音を立てて苦もなく開く。ここの鍵が壊れたままであることを事前に知っていたのだ。転落防止の鉄柵を跨いで越え教室の中に入る。動作の途中でフードが外れ、顔が露わになった。
黒髪、ショートカット、あどけない顔立ちの少女は慌ててフードを被り直した。教室の廊下側の席に向けて歩き出す。
夜の道を、
「おい、中で何をやってたんだ」
相手を怯ませようと大きな声を放つ。フードの人物は何を思ったのか体勢を低くするとそのまま笠原めがけて加速する。脇を駆け抜けるつもりのようだ。舐めるなよ、咄嗟に両腕をあげてファイティングポーズを取り、向かってくる人間に鋭く右のジャブを放った。相手はスピードを落とすことなくのけ反ってかわす。笠原はさしてショックを受けた様子でもなく、軽やかにステップアウトして腰を捻り、こちらが本命だとでも言うように顔めがけて強烈な左ストレートを繰り出した。摩擦で空気が焼けるのではないかと思えるほどの凄まじい拳速。本気で当てる気はない。ただ、びびって地面に尻餅くらいはつくだろう。その隙に取り押さえて――。
拳が空を切る。不審者が高く跳んでかわしたのだ。大振りしたせいで笠原はバランスを崩してよろめく。人影は彼を悠然と飛び越え、目もくれずあっという間に遠ざかり、春の夜の闇に溶け、すぐに見えなくなった。
「かわした? あれを?」
何度も相手をマットに沈めてきたフィニッシュブローだ。信じられない思いで握りしめたままの拳を見つめた。周囲には仄かに、柑橘系の匂いがした。
朝、駅を出て高校に向かう。辺りは同じ制服を着た同年代の男女で溢れている。大きな欠伸が出たので慌てて手で覆う。目尻に滲んだ涙をこっそりと拭った。校門の傍で教師が二、三人立っていて、生徒の服装をチェックしているようだった。一人の女性教師が少女を見咎めて声を飛ばす。
「
周囲の注目を軽く浴びながら瑠珂はリボンを結び直し、教師に会釈して校門を抜けた。どうもいけない、昨日、あんなことがあったせいだ。
夕べは大変だった。宿題に必要な教科書を学校に忘れたことに気付いたのが夜の七時。家族にコンビニに行ってくると適当に言い訳をして家を出て、高校に着いたのが八時頃。教室に侵入して教科書をゲットしたまでは良かった。塀を飛び越え、あの男に出くわすまでは。
少女は目を閉じて軽く首を振った。あの男のことは忘れよう、どの道、もう会うことはないはずだ。あんなことはそう何度もあるわけじゃない。
放課後、一人でゲームセンターやらカラオケで時間を潰した。毎日ではないが週に二、三日はそうやって過ごすのが少女の常だった。とは言え八時を回り、さすがに帰ろうと駅へ向けて歩き出す。遠ざかるにつれて人の気配もなくなっていき、しばらくは自分の足音のみを聞きながら歩いた。途中、母校を通過する。あのUFOキャッチャー、設定厳しすぎ、などと考えていると瑠珂の表情が凍りついた。前方から走ってくる男に見覚えがあった。止まっては不自然なので歩き続け、男とすれ違う。何事もなく通り過ぎていく。ほっと息をついたら、背後で男が足を止める気配があった。きっと自分とは関係ないことで止まったのだと言い聞かせ、足早にそこを去ろうとする。
「なあ、あんた」
声が聞こえ、瑠珂がそちらを見た。少し肩で息をしながら、男が佇んでいる。月明かりに照らされたのは、ジャージ姿で、上にトレーニング用の化繊のパーカーを羽織り、二十代前半だろうか、優しげな目元が印象的な、どこにでもいる、普通の若者だった。
「何ですか」思わず瑠珂は返してしまう。しまった、無視して行けば良かった、と思っても後の祭りだ。
「昨日、俺と会わなかったか」
会った、間違いなく。
「いいえ、人違いじゃないですか」
短く言い放って踵を返し、足早に去ろうとする。男が、「待ってくれ」、とやや性急な様子をはらんで瑠珂の前に回り込んだ。改めて男の目を見た。冗談や適当な感情はそこになく、あったのは真剣な眼差しだった。
「頼む、本当のことを言ってくれないか。大事なことなんだ」
言葉に詰まる。なぜ、こんなにも確信を持っているのかが分からなかった。顔は見られていない、体型からも、女だとは分からなかったはずだ。「ですから、本当に知りませんよ」、更にとぼける。
「君から夕べと同じ匂いがするんだ。何と言うか、柑橘系か、それに近くて、それでいてどこか不思議な」
ああ、そっちかと納得する。確かに、体質で身体から微かに匂いを放ってはいる。
「香水なんてたくさん売られているじゃないですか」
男は無言で瑠珂に近付き、ノーモーションで右のジャブを打った。即座に首だけ傾けてかわす。それで、全ては終わりだった。いや、笠原にとっては始まりだった。
「……私に何の用なんですか」
観念したように呟いた。男は腕を引きながら口を開く。
「頼みがあるんだ。きっと、君にしかできない」
ああ、面倒臭いことになった。
瑠珂は一人、自分の部屋でベッドに横になっていた。
彼は駆け出しながらプロのボクサーで、来月の下旬に試合を控えているそうだ。弱小ジムでプロは彼一人、今のところ四戦四勝で、将来を期待されている。しかし、このところ壁にぶつかっているのだと言う。前の試合は辛くも判定勝ちだった。彼は一撃必殺のハードパンチャーだが、そのパンチを避けられることが多くなったらしい。自分としてはいつも通り、正確な軌道を描いて拳を使っているつもりなのだが一拍、あるいは二拍、僅かな差で相手に当たらない。それをどうにかしたいとずっと考えていた。ジムのコーチは気のせいだ、このままでいいと言ってくれるが笠原は納得していない。「俺はもっと強くなりたい、そのためには、KOの取れるパンチが必要なんだ」、と力説する。瑠珂が何の協力をするのかと言えば、彼の練習台としてパンチを避け続ける。あの夜、笠原の打撃を鮮やかに避けたのを見て確信したらしい。これに当てることができれば、俺は一段、階段を上がれる。瑠珂にしてみれば迷惑な話だ。だいたい、女子高生を本気で殴ろうとするなんてどういう了見だと憤る。でも、高校に侵入したことを見られている以上、彼の頼みを無碍にも出来なかった。
ジムを訪れたのは翌日の夜だった。川沿いに建っていて、窓からは川面にかかる月がよく見えた。瑠珂はジャージ上下に着替え済みだ。笠原はTシャツに短パン姿。
「悪いな、付き合ってもらって」
「いいけど、一日、一時間だけだからね」
それで充分だと笠原はバンデージを巻いた両手を軽く閉じたり開いたりした。ジムには他に誰も居らず、どうやら人払いをしたらしかった。彼にしても女子高生とトレーニングなんて説明が難しかったのだろう。
「さ、とっとと始めるか。時間がない」
中央のリングに上がる。リングロープをこじ開け、瑠珂が上がり易くした。
「まずは三分、肩慣らしで」
笠原がグローブを嵌めて困ったように瑠珂を見た。ああ、グローブの紐かと察し、それくらいはサービスしてやるかと結わえてやる。笠原が軽く何度か飛び跳ねる。瑠珂はヘッドギアを被って対峙する。彼は肘を曲げて構え、きろりと睨みつけた。殺気が飛んでくる。さながら抜刀した侍のようだ。長く息を吐いて集中する。大丈夫、ただの人間に、今の私は捉えられやしない。
上下に、小刻みに跳ねていた笠原が流水のように前へ出る。先ずは右、左のワンツージャブ。瑠珂にはそれらの拳が止まって見える。敢えて紙一重の距離でかわす。またジャブを放つ。瑠珂は後ろへ跳んで距離を空けた。冷静に追い縋る笠原。瑠珂の顔面に右ストレート。少女は首を傾けて男の腕を見送る。彼が笑っているように見えた。男は大きく右足を踏み込んだ。瑠珂の顔めがけて渾身の左フックが飛んでくる。風を切る音がはっきりと聞こえた。当たれば死ぬんじゃないか、と思いながら更に後方に下がって躱す。そこがリングの端で、背中にポストが当たった。もうこれ以上、下がって避けることはできない。狙いはこれか、笠原は瞬時に間合いを詰めると右腕でアッパーを放った。これではしゃがんで避けることは出来ず、かと言って後ろにも行けない。捉えた、と笠原は思った。その拳が虚しく空を切る。背後に気配を感じて振り返った。どうやったのか、目にも止まらぬ速さで瑠珂が後ろに回り込んでいた。男はめげずに少女との距離を詰める。スマホのタイマーが鳴った、三分だ。
「今のは中々よかったよ」
息一つ乱さず瑠珂は涼しい顔だ。片や笠原はやや荒い呼吸。なんて奴だ、と内心舌を巻く。同時に闘志が湧き上がる。望むところだ、こうでなくては、面白くない。
「休憩にしよう」
笠原がリングを降り、少女も続いた。スポーツドリンクのペットボトルを受け取り、三分の一ほど飲んだ。笠原はと見れば、彼はあまりペットボトルには口を付けずに、ファイティングポーズのままぶつぶつと何かを呟き、イメトレをしているようだった。
「そう言えば、訊かないんだね。私がなぜ、こんなに身軽なのか」
「正直、興味はある。でも、それ以上に俺は試合に勝ちたいから、君の機嫌を損ねることはしない」
「それはありがとう。でも、どうしてそんなに、試合に勝ちたいの」
笠原は天井に目を遣り、答えを探して視線を彷徨わせた。
「勝ちたいからに決まってるだろ。勝って、勝って、勝ちまくって」
答えになっていない。と、急に彼は思い付いたのか、
「多分、俺は、負けたくないんだ。だから、勝ちたいんだよ」
彼の目鼻は真剣だった。
特訓は続いて五月の終わりになった。笠原は一つの疑問を抱くようになっていた。少女の避けるスピードが日に日に落ちているのだ。昨日などはもう少しでヘッドギアに拳が当たるところだった。笠原には、自分の技術が上がったわけではないと分かっている。少女の疲労を疑ったが、彼女自身がそれを否定した。
夜になっていつものように瑠珂がやってきた。申し訳なさそうに、「ねえ、悪いんだけど、今日はやめにしてくれるとありがたいな」。笠原は瑠珂の顔をまじまじと見た。今の少女の顔はとてもではないが笠原のパンチをかわせるようには見えず、どこまでも普通の高校生だった。
「分かった。次はどうする? しばらく――いや、もうやめておくか」笠原なりに気を遣ったつもりだった。
「ううん。最後までやらせて。でも、次は一週間後とかでいいかな」
やはり疲れていたのだろうか。
「分かった、じゃあ、また来週な」。
ほんとにごめんね、と言い置いて、瑠珂は帰って行った。
ジムを出て駅前へ。瑠珂の顔は浮かない。笠原の試合は来月末なのに、一週間ほど役に立てない自分がもどかしかった。最初は嫌がっていたのに、気付けば笠原とのトレーニングが楽しくなっていた自分が何だか奇妙に思われてちょっと笑った。
川沿いの道を歩く。今夜は新月。月がなく、街灯もないこの辺りは薄暗くて足元が覚束ない。湿度が高く風はじめじめしている。家には友達の家で勉強して来ると言ってあるので、こんなに早く帰ると逆に疑われるかもな、などと考えていると右手から何人かの男が土手の階段を上がってきて目の前に立ちはだかった。若い男ばかり、四人。彼らの表情はにやにやとした笑みで、あまり健全には思えなかった。
「最近、この辺りでよく見かけるけど、何してるの、男の家からの帰り? ね、そんな奴なんかより俺らと遊ばない?」
一人がそう声を掛けてじりじりと間合いを詰める。微かにアルコールの臭いがした。手には缶ビール。居酒屋に行く金もない、暇を持て余した貧乏大学生と言ったところか。間合いを取ろうにも、逃げ出そうにも、いつの間にか四方を囲まれてどうにもならない。男の一人が飛びかかる。反射的に身体を捌いてやり過ごした。
「こいつ、大人しくしろよ」
背後から羽交い締めにされた。身長差で軽く浮き上がる。足をばたばたさせて抵抗するが力の差は歴然としていた。喚声を上げて他の三人が迫るのを、瑠珂は憎々しげに睨みつけた。くそ、いつもなら、こんな奴ら軽々と投げ飛ばし、走り去れるのに。と、背後の圧力が不意に消滅して、瑠珂は羽交い締めにされた体勢のままでゆっくりと着地してから尻餅をついた。その脇を何かが駆け抜けたかと思うと残りの男達を次々に殴り飛ばした。呻き声一つ上げずに、静かに崩れ落ちていく。
「大丈夫か」
ロードワークの格好で、フードを目深に被った笠原が見下ろしていた。途端に少女の目尻が潤む。恐怖と、安堵と、それらがない交ぜになった名状しがたい感情を一気にねじ込まれ、処理しきれなくなって激しくしゃくり上げた。
「悪かったな、すぐに助けてやれなくて」
しゃがみこんだ笠原が瑠珂の頭を軽く撫でた。
「ごめん。助けて貰うなんて、私、駄目だね」
涙を拭き、顔を上げて彼を見た。笠原はきょとんとして、
「何言ってんだ、お前はただの高校生だろ、俺が助けなくてどうするんだ」
今度は瑠珂がきょとんとした顔を返し、それから笑い出した。ああ、私はいつも、自分の力を当てにして、誰に頼ることもなく、一人で何でも出来ると思い込んでいた。そうだ、彼の言う通り、今、私はただの、非力な女子高生だ。
「偉そうに、私にはかすりもしないくせに」
悪態交じりに立ち上がると、軽くよろめいた。
「お、おい、ほんとに大丈夫か」
大丈夫よ、何でもない、と言いながら足元を見た。気を失い倒れ込んでいる四人の男達。指をさし、笠原に問いかける。
「これ、殴って良かったの? ほら、プロライセンス的に」
笠原は腕組みをして溜息を吐く。
「駄目に決まってるだろ。でもまあ、顔を見られていないし、何とかなるだろ」
一週間が経ち、訓練が再開された。
いつもの、夜のジム、リングの上で二人はまみえる。
「この間はありがとう。あの後、何もなかった?」
瑠珂の問い掛けに笠原は笑う。二人はあの後、いちおう、匿名で警察に通報したのだ。その後、瑠珂は母親に迎えに来てもらった。
「ああ、問題なかった。あいつらだって女子高生にちょっかいを出したら誰かに殴られましたなんて言えないだろ。それより、身体の調子はもう戻ったのか?」
「うん、まあやってみようよ。やれば分かるからさ」
笠原はにやりとして、軽くステップを踏んで拳を蓄え、前へと進んだ。
飛んできた右ストレートを難なくかわす。彼はとにかく、当たるか、当たらないかはお構いなしに、体力の続く限り手数を繰り出す作戦のようだ。右ストレート、左アッパー、フック、ワンツーと多彩な拳種を使い瑠珂に休ませる暇を与えない。笠原は彼女が休んでいる間もロードワークなどで体力を増強してきた。瑠珂はと言えば、何もせず、時間が経つのを待っていただけだ。次第に、瑠珂のスピードが落ちてくる。くそ、そう言う作戦かと気付いたがもう遅い。笠原が大振りした右フックを跳躍でかわしたが、着地で体勢を崩してよろめく。男は力強く踏み込んだ。彼のシューズがマットを叩く鋭い音と、同時に放たれる強力な左ストレート。瑠珂の額をヘッドギア越しに叩いた。ヒットの直前に彼が力を抜いたのか、尻餅をついただけで済んだ。
「っしゃあ」笠原がガッツポーズで感情を爆発させる。同時にスマホのタイマーが鳴った。
「ああもう、あとちょっとだったのに」
瑠珂が悔しげにこぼす。
「どうあれ俺の勝ちだ。ありがとうな、今まで付き合ってくれて」
グローブを脱いだ笠原が手を伸べる。それを取り、瑠珂は引っ張り上げられた。目の前の男は私のように体質持ちじゃない、ただの人間で、それなのに、私を捉えた。何て奴だ、後半にパンチを避けられることが多くなったって言ってたけど、それって多分、パンチがどうこうじゃなくて、スタミナ切れだったんじゃないの。
「じゃあ、これでもう、特訓は終わり?」
「まあ、そうだな。後は自分でやるよ」
笠原はリングを降りた。瑠珂はちょっと寂しくなる。彼の試合まで、まだ時間はある。
「ねえ、実は私さ、まだ本気じゃないんだよね」
笠原が振り返る。冗談だろ、俺はもう限界だよ、と呟いた。その呆気にとられた顔につられるように、
「ねえ、これ、秘密なんだけどさ、言っていい?」
「何だよ、勿体ぶるなんて、珍しいな」
「ええとね、私……リカントロープなの」
「リカント――なに?」
「わかりやすく言うと、狼男」
マットの上で瑠珂は胡座を掻く。笠原が反射的に窓から空を仰ぎ見た。その瞳に半分の月が架かる。目をぱちくりとさせたボクサーが瑠珂を見て、呆然と口を開いた。
「え? 何だよそれ」
次に何を言うのだろう、瑠珂はぎゅっと目を閉じる。
ああ、お願いだから、私を――怖がらないで。
苦い思い出がある。
小学生の時、夜、近所の公園で
「え? 私、出来るよ」
瑠珂が放った一言が、最初にこの話題を持ち出した男子の表情を唖然とさせた。すぐにはやし立てるように大袈裟に笑って、「ばか言うなよ、あんなの、小学生にできる訳ないだろ」、周りの子らも同調する。瑠珂は今晩が満月なのを知っていたから、「じゃあ、やってみせようか」、と応えた。あの頃は、自分の力のことを知って欲しくて、これでやっと皆に見せられる、くらいに思っていた。瑠珂は純粋な気持ちからの応答だったが、その男の子は売り言葉に買い言葉、と受け取ったのだろう、苛立ちを隠さぬ表情で舌を鋭くした。
「じゃあ、やってみろよ、今夜。逃げるなよ」
逃げたら言いふらすからな、と勝ち誇った顔だった。
その夜、満ち足りた月下。瑠珂は集まった四、五人の同級生の前で両腰に手を当てて胸を反らした。あの男子を筆頭に、彼らは腕組みをしてせせら笑う。
「言っとくけど、今更出来ませんとか、なしだからな」
「分かってるわよ。じゃあ、もうやるからね」
深呼吸する。目を見開いて助走し、踏み切った。少女の身体が高々と舞い上がり、他の小学生が唖然と、首が痛くなるほど見上げる。後方に向かって少女の身体がひねられながら二度、くるくると回り、最後にもう半分だけ回転してきれいに着地した。瑠珈のスニーカーが地面を捉える音がいやに大きく鳴った。
「ほら、簡単でしょ?」
同級生たちを見回し、にこりとする。男子達は、口をあんぐりと開けたまま動かなかった。リーダー格のあの男の子が、震える指で瑠珂を指差し、「何だよそれ」、と恐ろしげに言った、まるで怪物を見る目だった。果たして彼はこう言った。
「ば、化け物」同級生たちは我先にその場から逃げ出した。
結局、その小学校にはいられなくなり転校した。
あの日から、瑠珂は誰にも能力のことは話さず、人目を避けるように生きてきた。
「――てことはお前、満月になったら変身するの?」
身構えた瑠珂に投げかけられたのは素朴な疑問だった。思わず吹き出す。「いやいや、変身なんてしないよ。満月とかも関係なくて、ただ、月の影響で身体能力が向上するだけ、そういう体質なの」。
笠原は神妙な顔で腕組みをした。胡坐を掻いた少女をじっと見る。
「つまりあれか、その、満月になれば、お前は最強になる、ってことか」
瑠珂はこくりと頷く。
「でも、そんな風には見えないな」
笠原がまたリングに上がって、瑠珂の前で同じように胡座を掻いた。首を突き出し、瑠珂が思わず目を逸らすほどにまじまじと見つめる。
「俺にとってお前は、ちょっとすばしっこいだけの、ただの高校生なんだがな」
瑠珂はちょっと戸惑った後、声を上げて笑った。狼女の私をつかまえて、『ちょっとすばしっこいだけ』、だなんて。言っとくけど私、ムーンサルトだって跳べるからね?
「で、何でそれを俺に言うんだ。秘密なんだろ」
「さあ、何でだろ。そんなの、私にも分かんないよ。ただ、あんたには言いたくなっただけ。ほら、私はいま負けたけど、それは半分の力だったんだよ、ってのをきちんと分かって欲しかった、っていうか」
瑠珈は照れ隠しに頭を掻いた。じんわりと、鳩尾の辺りが温かくなる。まるで、寒い夜に、リビングで湯気の上がるコーンスープを飲んだように。
「一応、誰にも言わないでね」
「分かった。じゃあ、その代わりと言っては何だが」
熱っぽい眼差しが少女に向いた。
「満月の夜、勝負しよう」
子供のように笑った。
二人が待ち焦がれた満月の夜は生憎の雨だった。瑠珂の力は無くなる訳ではないが全力には程遠いので勝負はお預けとなった。
『残念だな、全力のお前とやってみたかったよ』
瑠珂は自室のベッドの上でスマホを耳に当てている。
「まあしょうがないよ。それに、満月は次もあるんだから。それより、試合、どうなの? 勝てそう?」
電話の向こうで笠原が軽く息を吸うのが分かった。躊躇うような間の後、『分からない、試合は水物って言うしな。でも、最大限、努力はする』
謙虚な言葉の割には自信に満ちた声音だった。
「頑張ってね。当日、見に行っていい?」
『ああ、チケットはまたジムに取りに来てくれ』
そう言えばボクシングに限らず、スポーツ観戦なんて初めてだ。
『なあ、いつだったか、俺に訊いただろ、どうしてそんなに、試合に勝ちたいの、って』
覚えている。あの時は、負けたくないから勝ちたい、とか、よくわからないことを言っていた。
『俺、今度からは、お前のために勝つよ』
どきりとする。こんなくさいことを言う奴だったのか。
『じゃなきゃ、コーチであるお前に悪いからな』
ああ、そういう意味か、瑠珂はほっとして、同時に少し、寂しくもなる。
『でも、ちょっと待てよ』、と笠原が言った。
『試合当日は新月だぞ、この前のこともあるし、一人で出歩いて大丈夫か』
何のことを言われたのかすぐには分からず、やがて気がついてちょっと笑った。そうだ、新月の夜だけは、私はただの女子高生なのだ。
『気をつけろよ。あ、なんだったら、試合終わりに俺が送って行ってやるからな』
「何それ、馬鹿にしないでよ。それに、まずは試合に集中しなよ」
笠原が笑う。『そうだな、そうするよ』。短く言って電話が切れた。瑠珂はスマホをベッドに投げ出して仰向けに天井を見上げた。試合のことを考えた。対戦相手のことはよく知らないがきっと彼が勝つと思った。だって、月の力を受けた私を負かしたのだから。
試合を見に行って、あいつが勝ったら、それから。
彼に送ってもらうのだ、普通の女子高生として。帰り道には下らない話を沢山して、声をあげて笑うのだ。そうだ、もしもあいつが奢ってくれるって言うなら、どこかで夜ご飯を食べるのもいいな――。
それは、体質を抱えて生きてきた少女にとって、今までどんなに憧れても手を伸ばしても届くことのなかった、まばゆく光り輝く、きらきらとした宝石のような行為に思えた。
瑠珂はちょっとにやけ、勢いよく寝返りを打ち、思い切り壁に頭を打ちつけた〈了〉
宝石 滝岡尚素 @takioka_honest
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます