彼女はもう引退したはずだったのに

天音紫子&霧原影哉

彼女はもう引退したはずだったのに

朝晩の空気がひんやりし始め、

外よりも部屋のほうがほっとする季節になると、

彼女のヨーグルト作りがひっそりと始まる。


たねと牛乳があればヨーグルトは作れる。

──けれど、“上手に”作れるかどうかはまた別の話だ。


発酵とは、気温と時間と気まぐれが織りなす小さな魔法。

焦るほど失敗し、忘れた頃にふいに成功したりする。



去年の初夏、彼女は団地に住む奥さまへ、

たねをひと匙だけ分けたことがあった。

ほんの小さな親切心だったはずが──


それから団地中でヨーグルト作りが流行してしまった。


最近では、“団地ヨーグルトマスター”という称号まで生まれ、

三代目が立派なぷるぷるを仕上げているらしい。


彼女自身は団地に住んでいないのに、


「本家マスターは一軒家の人らしい」


という妙な噂まで広がっている。

発酵の噂は風より速い。



本当は、彼女はもう引退したつもりだった。


それでも、時々こうして駆け込んでくる人がいる。


「また固まりませんでした……」

「今度は分離しちゃって……」


彼女は苦笑しながら、新しいたねを小瓶にそっと分ける。

頼まれたわけでもないのに、断れない。


どうやら発酵は、

彼女の知らないところでも静かに続いているらしい。



特別なことなんて何も起きていない。

けれど、彼女の日常にはたしかに

小さな変化と、ちいさな連鎖が宿っていた。


そして今年もまた、

牛乳とたねを手に瓶を揺らしながら思う。


──彼女はもう引退したはずだったのに。


発酵の季節だけは、どうしてもやってきてしまう。

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彼女はもう引退したはずだったのに 天音紫子&霧原影哉 @Yukariko_Kageya

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