雷雨の夜に拾った子猫は、千年私を待ち続けた守護者でした

tommynya

第1話 雷雨の夜に拾った子猫は、千年私を待ち続けた守護者でした


 残業帰りのしずくは、傘を忘れたことを後悔していた。


 二十二歳、社会人一年目。急に降り出した雨に濡れながら歩いている。

 今日も頼まれた仕事を断れなかった。


『雫さん、これもお願いできる?』

『……はい』


 いつもそうだ。断れない。女子社員で一番新入りだし、断ったら嫌われる気がして。


 スマホを見ると、母からのメッセージが。

『今度の休み、帰ってこれる? お父さんが会いたがってるよ』


 返信を打ちかけて、やめた。

 実家に帰っても、居場所がない気がする。両親は平凡な雫には、特に期待はしていないだろうけど。


 どこにいても、雫は「誰かのための雫」でしかない。


 いつもの公園を通り抜けようとしたとき、木の上で白い子猫が震えているのを見つけた。

 気づいていないのか、傘を持った人たちが足早に通り過ぎ、誰も立ち止まらない。


 子猫は寒そうに震え、雨に濡れた毛がぺたんと張り付いている。ニャアニャアと鳴く声が、雨音に混じって微かに聞こえる。


「……馬鹿だな、私」


 呟きながら、木に登った。木に登るのは子供の時以来だ。でも、ほっておくことなんて出来なかった。


 ――なんで私、こんなことしてるんだろう。


 でも、見捨てられなかった。

 あの子猫が、自分と重なって見えた気がして……。


 雨に濡れた枝は滑るし、不安定で、何度も落ちそうになる。ローファーで登るのは流石に無理があるけど、仕方がない。

 爪が割れそうなくらい幹にしがみつき、手を伸ばす。保護した子猫をコートのポケットに入れた瞬間――。


 背中に、雷が落ちた。


 雷光によって、頭が真っ白に。遠くで、シャランと鈴の音がした気がした。

 頭の中に黒い渦が広がり、視界も意識も漆黒に塗りつぶされていく。


 ――ここで私は死ぬのかな……。


 ◇


 水滴が、ポトンと落ちる音が聞こえる。

 子猫のニャアニャアという鳴き声と、頬にはスリスリと柔らかい毛の感触。


 雫は薄らと目を開けると、そこには見たことのない景色が広がっていた。

 湖のほとりのウッドデッキのような場所に、倒れていたみたいだ。少し身体が痛い。

 この湖からの光景は、まるで異国、いや、異世界のどこかの国のようであった。


 蛍光色の蝶がヒラヒラ飛んでいる。空の色が鮮やかで、日本とは違う。

 カラフルな花畑が風に揺れ、湖面がキラキラ光っている。


 ――もしかして、ここは天国なのかもしれない……。


「……ここ、どこ」


 傍らに、あの白い子猫がいた。

 毛並みは乾いていて、ペットショップで見たラグドールのように美しい。ふわふわの白い毛に、耳と尻尾の先だけ淡いグレー。

 首に、古びた銀の鈴がついていた。


 ――さっき見たとき、こんなのあったかな?


 子猫が頬をすりすりしてきて、ゴロゴロと喉を鳴らす。

 その振動が、妙に心地よかった。ゆっくりと起き上がり、子猫を抱いて撫でてあげると、満足気にニャアと答えてくれる。


「……生きてる、のかな。私」


 その時、グーとお腹がなった。昼から何も食べていない事に気づく。


「あーお腹空いたな……コンビニとか……あるわけないか」


 雫は子猫をコートのポケットに入れて、辺りを散策することにした。


 ◇


 湖の周りに住居はなく、永遠に花畑が続いている。蛍光色の青い蝶に着いて行くと、煙突から七色の煙を吐く古屋に辿り着いた。


 ――もう、異世界決定だ。


 恐る恐る扉をノックすると、皺だらけの老婆が顔を出した。


「いらっしゃい。よく来たね。入りなさい」


 雫は恐る恐る足を踏み入れた。乾燥したハーブが沢山吊るされて、色とりどりの薬草が入った瓶が棚にズラッと並んでいる。香草と煮込み料理の匂いが混ざって、不思議と落ち着く空間だった。


 ――なんだか、魔女の家みたい。


 老婆の名はミレーナ。

 ここはレストランのようで、ボルシチという東欧風の真っ赤なスープと黒いパンを出してくれた。赤い野菜はビーツというらしい。

 お腹が空いていたから、一瞬で完食した。子猫用のミルクも注文して、ポケットの中の子にも飲ませる。


 その時、気づいた。財布を持っていないことに。雷に打たれた時、バッグを落としたようだ。スマホも無い事に気づく。


 ――どうしよう? 食事代だけ働かせて貰おうか……。


「あの、お金がなくて……」


 ミレーナは微笑んだ。


「この子に連れて来られたんでしょう? なら、お代はいらないよ」


 ポケットからするりと抜け出した子猫を撫でながら、ミレーナは続ける。


「でもね、この子をよろしくね」

「……え?」

「この子には、時間がないからね……」


 意味がわからなかった。

 でも、異世界だから深く考えてもしかたないか。

 ミレーナはそれ以上説明せず、湖畔の廃屋を宿として使うようにと、案内してくれた。


 ◇


 二日目の朝、廃屋のベッドで目を覚ました。窓辺にはカラフルな小鳥が集まり、その鳴き声が歌のように聞こえる。清々しい朝だ。窓からは朝陽が差し込み、心地よい暖かさに包まれる。


 ふと隣を見ると、銀髪の少年が眠っていた。


「っ……!誰」


 雫は飛び起きると、少年も目を開ける。


 朝陽に照らされた銀髪。透き通るような白い肌。曇りのない青空みたいな碧眼。整った顔立ち。まつげが長く、鼻は高く鼻筋が通っていて、唇は薄く桜色で、綺麗な形をしていた。

 首元には、あの銀の鈴が。


 ――なんだこれ。


 心臓がうるさい。雷に打たれたときより、ずっとうるさい。


 ――まさか……この子。


「……おはよう、雫」


 声も綺麗だ。低すぎず、高すぎず、耳に心地よい。

 名前を呼ばれただけなのに、背筋がぞくっとした。


 ――なんで、私の名前を、知っているの?


「だ、誰……!?」


 声が裏返った。恥ずかしい。


「僕だよ。ずっと一緒にいたでしょ?」


 少年は微笑んだ。あどけなくて、でもどこか寂しげな笑顔。

 子猫が見せていたのと、同じ表情だと気づいた。


「僕の名前はラグナ。この湖の守護者……だったものだよ」


 ラグナが語り始めた。

 千年前、この湖の底から災厄が溢れ出し、彼は自らの魂を剣に縫い付け、災厄を封印した。


 でも、封印は永遠じゃなくて、少しずつ綻んでいる。

 人の姿を保つには「雷雨の夜に、自分だけを見てくれる人」が必要だった。


「千年探して、やっと見つけたんだ。君の心の声が、僕には聞こえていたから」


 ラグナは雫の手を取った。冷たくて、でも確かに温もりがある。


「濡れた子猫を助けようとする人。他の誰でもなく、僕を見てくれた人」

「……僕を見つけてくれて、ありがとう」


 ――違う。


 雫は思った。

 助けられたのは、自分のほうだ。

 でも、なぜそう思うのかわからなかった。


「私、元の世界に帰れるの?」

「……七日後には帰れるよ。今日が二日目だから、あと五日後かな。封印が完全に解けるから」

「解けたらどうなるの?」


 ラグナはそれには答えず、ただ、笑うだけだった。

 その眼差しは揺れているように見える。


「それまで、一緒にいてくれる?」


 軽く頷くしか出来なかった。


 ◇


 午前中は、ラグナは人の姿のままだった。


「日が昇っている間は猫に戻るんだ。夜になると、人の姿でいられる」


 朝食はミレーナの店でもらったパンとチーズ。

 ラグナは美味しそうに頬張っている。


「雫、これ美味しい」

「……よかったね」

「雫も食べて。僕のあげる」


 銀髪の美少年が、パンを雫の口元に差し出してくる。

 碧い瞳がきらきらと輝いている。綺麗だ……。

 雫は口をゆっくりと開いた。


 ――この子は、私を殺す気なのかもしれない。


 昼になると、ラグナは子猫に戻った。

 銀髪が白い毛並みに変わり、碧眼だけがそのまま残っている。


 歩いていると、足元の花がふわりと開き、雫の足に触れるたび色を変えた。


「……なんで?」


 ラグナがいた場所を通ると、花は淡い青に染められていく。

 この世界が自分の存在に反応しているようで、不思議な気持ちになった。


 ――どこにも居場所がなかったのに、この世界では”歓迎されている”みたいだ。

 そう思ってしまう自分がいた。


「ニャア」


 足元にすり寄ってくる。尻尾がぴんと立っている。


「……可愛い」


 思わず呟いてしまった。

 さっきまで美少年だった相手に「可愛い」はどうなんだろう。

 でも、可愛いものは可愛い。


 ◇


 夜になると、ラグナは人の姿に戻った。


「雫、撫でて」


 ラグナが膝の上に頭を乗せてくる。

 銀髪がさらさらと指の間を流れて絹みたいだ。


「……猫のときも撫でてあげたでしょ」

「猫のときは、こうやって話せないから」

「話さなくていいよ。撫でるだけなら」

「……雫の声、聞いてたいんだ」


 胸の奥がどくどくと脈打つ。

 なんでこの子は、こういうことをさらっと言うんだろう。


 ラグナが目を細める。喉を鳴らすように、くぅ、と小さく声を漏らした。

 猫のときの癖が抜けてないんだと思う。


 雫がラグナの頭を撫でて、その手が耳の上あたりに触れた瞬間――。


「……っ」


 白い三角のものがふるっと現れた。


「え、耳……出てる……?」


 ラグナが慌てて頭を押さえる。顔が真っ赤だ。


「……出ちゃうんだ。恥ずかしいと……」


 うつむくラグナの、白い猫耳がぴこぴこ動いた。


 ――可愛い。困る……可愛すぎる。


「……寝なさい」

「雫も一緒に寝る?」

「……好きにすれば」


 もう諦めた。ラグナが嬉しそうに笑う。空色の瞳が三日月みたいに細くなった。


 布団に入ると、ラグナがするりと近づいてくる。

 背中に、ひんやりとした感触が触れた。


「……っ」

「抱きしめたまま、寝てもいい?」

「もうしてるでしょ」


 ラグナの腕が、雫の腰に回された。一回り大きい身体は、雫の全てを包み込む。

 触れてしまった足先が冷たい。でも、しばらくすると、じんわり温かくなってくる。


「雫、あったかい」

「……当たり前でしょ」


 その瞬間、何かふわりとしたものが腰に触れる。

 振り返ると、白い尻尾がそっと雫の腰に巻きついていた。


「……ラグナ、尻尾」

「……あ」


 慌てて引っ込めようとするが、尻尾はゆらゆら揺れたまま。


「無意識なんだ……ごめん」

「別にいいけど……」


 背中越しに、耳と尻尾がぴこぴこ揺れているのがわかる。

 背中に押し付けられた顔が熱い。


 心臓が暴れている。眠れる気がしない。変な気持ちになりそうだ。普通の男女なら普通じゃいられない状況。

 でも、ラグナの呼吸が規則正しくなって、寝息が聞こえてきた。


 ――寝るの早すぎない? よくこの状況で眠れるな……。


 首元にかかる寝息が、温かくて心地よい。

 雫は笑みをこぼし、目を閉じた。


 ――不思議と、悪い気分じゃない。誰かに必要とされるのは、久しぶりだったから。


 ◇


 夕食は、ミレーナに教わったボルシチもどきにした。

 ビーツがなかったから、トマトで代用した赤いスープにディルを添える。


 陽が落ち、夜になったので、ラグナが人の姿に戻る。


「美味しい」

「……本当に?」

「うん。雫が作ったから」


 胸がきゅっとなる。


 ――この子は、私を喜ばす術を熟知している。


 猫みたいに甘えん坊だから、距離が縮まっていくのも早い。

 雫はラグナといると、自然と笑っている自分に気づいた。


「私、こんな自然に笑えるんだな……」


 仕事では笑顔を作るのが上手いけれど、それは、作り物で心から笑っていない。

 ラグナといるときの笑顔は、違う気がしていた。


 ◇


 外に出ると、夜風が少し強く吹き、湖面に小さな波紋がいくつも走っている。

 見上げた空には2つの月が浮かんでいた。大きな月は橙色で、小さなほうは白く輝き、ゆっくりと寄り添うように並んでいる。


「……こんな空、初めて見た」


 ラグナが横で微笑む。


「雫がいる夜は、湖が明るいんだよ」


 本気とも冗談ともつかない声に、少しだけ心が跳ねた。


 二人で湖を散歩していると、蛍光色の蝶が舞い、多数の蛍も飛び始める。その光景と、二つの月が水面に映る姿が合わさると、幻想的で、この世のものとは思えなかった。


「ねえ、ラグナ」

「なに?」

「封印が解けたら……ラグナはどうなるの?」


 沈黙が落ちた。ラグナの横顔が、月明かりに照らされ、碧い目が大きく揺れる。


「……消えるんだよ。僕は、魂ごと、ね」


 雫の心臓が止まった気がした。


「なんで最初に言わなかったの!」

「言ったら、雫は僕と一緒にいてくれなかったでしょ?」

「そんなことない!」

「……本当に?」


 ラグナが振り向き、雫を見つめる。その瞳は、千年分の孤独を湛えていた。


「雫は優しいから。僕のために何かしなきゃって、思っちゃうでしょ?」

「それの何がいけないの」

「僕は……僕のために、雫を苦しめたくなかった」


 雫は何も言えなくなり、涙がぽとぽと頬を伝う。ラグナはその顔から目を背ける。


 自分が何を感じているのか、わからない。

 ただ、胸が痛くて涙が止まらなかった。


 ◇


 あれから二日が過ぎて、五日目の朝。

 雫はラグナを起こさないように、廃屋を出て、湖畔を一人で歩く。


 ――私に何ができるの? もうすぐ元の世界に帰るのに。あの子のために何かしたいって思うのは、偽善じゃないの?


 花畑を抜ける風が頬を撫でるたび、ラグナの指先の冷たさを思い出してしまう。

 一緒にいた時間はほんの数日なのに、離れただけで体のどこかがスカスカになったように感じた。


「……こんな気持ち、知りたくなかった」


 誰かのために動いてばかりだった自分が、“誰かを失いたくない”と願っている。

 そんな自分に驚き、戸惑い、また涙がこぼれそうになった。


 花畑を進むと、ミレーナと出会った。何かを感じたように、雫の顔を見るなり、静かに語り始めた。


「あの子はね、千年間ずっと一人だったんだよ」

「守護者として誰かを守っても、誰もあの子を見ていなかった」

「あの子が欲しかったのは、『守る相手』じゃなくて、『一緒にいてくれる人』だったんだよ」


 ミレーナの言葉が胸に刺さった。


「あんたは気づいてるかい? あの子があんたを呼んだ理由」

「……理由?」

「守護者の義務じゃないよ。あの子の、私情さ」


 ラグナが自分を呼んだのは、世界を救うためじゃない。

 ただの、寂しさからなんだ……。


「あの子は、あんたと一緒にいたかったんだ。それだけだよ」


 雫は走り出していた。花畑を掻き分けながら進み、廃屋に向かって全速力で駆け抜ける。


 ◇


 廃屋に戻ると、ラグナが膝を抱えて座っていた。

 子猫の姿ではなく、まだ人の姿のままだった。猫でいる時間が短くなっているようだ。


「……怒ってる?」

「怒ってない」

「嫌いになった?」

「なってない」

「じゃあ、どうして」


 雫はラグナの隣に座り、彼の震える手を握る。


「私ね、ずっと誰かのために生きてきたのかも」

「頼まれたら断れなくて、自分のことは後回しで」

「仕事も、人間関係も、全部そう」


「……うん」


「でも、ラグナと一緒にいて気づいたの。一人より二人の方がいいなあって」

「私も、普通に誰かと一緒にいたかったんだよね。それに、自分のために、誰かを求めていいんだって、やっと気づいた」


 ラグナの空色の瞳が、大きく見開かれた。


「だから……ラグナがいなくなるのは、嫌」


 言ってしまった。告白みたいで、ちょっと恥ずかしい。

 自分でも驚くくらい、素直な言葉だった。


 ラグナの頬を、一筋の涙が伝い、キラキラと光って見える。

 彼が涙を流したのは、千年ぶりの事だった。


「……雫」

「なに?」

「僕も、嫌だよ。雫と離れるの」


 気づいたら、雫はラグナの頭を抱き寄せ、彼の銀髪を優しく撫でていた。

 その時――鈴が、小さく鳴った。


「……雫、あったかい」

「……当たり前でしょ」


 何かがぴこん、と手に当たる。


「……ラグナ、耳出てる」

「……うん」

「嬉しいの?」

「……すごく」


 耳がぴこぴこ揺れ、頬がピンクに染まっていく。


 ――この子、本当に可愛すぎる。心臓が暴れるのを止められない。


 ◇


 六日目。朝になると、湖が赤黒く染まっていた。

 封印の力が限界に近づいているのかもしれない。


 ラグナの身体が透明に見える時がある。存在が薄くなり始めていて、人の姿を保てる時間が減っているみたいだ。

 昼間も人の姿のままぐったりしていて、猫になる力も残っていない。


「もう、明日までしかもたない」


 夕方になっても力は戻らず、ラグナの声には力がない。


 雫は彼の手を、力強くぎゅっと握った。

 ひんやりとした氷のような冷たさだ。


「ラグナ、私にできることはないの?」

「……ある。でも、駄目」

「教えて」


 彼は、渋々教えてくれた。

 封印を完全に閉じ直す方法があることを。

 それには、新しい『核』、つまり誰かの魂を剣に繋ぐ必要がある。


「雫の魂を使えば、封印は閉じる」

「でも、雫は二度と元の世界には帰れない」

「この世界に、永遠に縛られるんだ」

「じゃあ私の魂を……」


「それは出来ない。雫には雫の人生があるんだから」

「私の人生は、私が決める」

「……駄目だよ。僕のために、雫を犠牲にしたくない」


 ラグナは背を向け、声を震わせる。

 彼は、本気で雫を守ろうとしているのだ。

 自分が消えることよりも、雫を帰すことを選ぼうとしている。


「犠牲じゃない」


 雫はラグナを後ろから軽く抱きしめる。


「私はね、初めて自分のために誰かを求めてるの」

「誰かのための私じゃなくて、ラグナといたいから選ぶの」

「今は、初めて”私の気持ちを優先したい”って思ってる」


「ラグナと一緒にいたい。それが私の望み」

「千年待ったんでしょう? なら、今度は私が一緒にいる番」


 ラグナは振り返り、雫の肩に顔を伏せ、しばらく何も言わなかった。

 小さく震える呼吸だけが伝わってくる。


「……僕ね、ずっと思ってたんだ」

「千年待ったのは、封印のためじゃない。ただ、一緒に泣いてくれる人が欲しかったんだ」


 雫はラグナをぎゅっと抱きしめると、ラグナは顔を上げ、弱々しい笑みを浮かべた。

 碧眼から、また涙がこぼれる。


「雫が選んでくれるなら……僕も、もう逃げないよ」

「……本当に、いいの?」


「いいよ。だって、私がそうしたいんだから」


 その夜、初めて正面から抱きしめあって眠りについた。二人とも泣き疲れていたが、今までで一番温かい夜だった。


 ◇


 七日目の朝。

 湖の中央に、小さな島が浮かんできていた。昨日までは無かったのに。

 そこに、錆びた剣が刺さっているのが見えた。封印の核だ。


 雫とラグナは、漂流されていた、木の小さな船で島に渡った。

 剣の前に立ち、ラグナが雫の顔を見つめていた。瞳が朝陽に透けて、淡い水色に見える。


「最後に、ひとつだけいいかな?」

「なに?」

「……キス、してもいい?」


 心臓が止まった。

 いや、止まってない。むしろ、うるさいくらい鳴っている。


 ラグナの瞳が、まっすぐ雫を見つめている。

 千年分の孤独と、七日分の温もりが、その眼差しには詰まっているように思えた。


「それ、私の台詞」


 言ってから、自分の言葉に驚く。雫はこんなに積極的だったのか、と。

自分から言うなんて、思ってもみなかった事だから。


 でも、嘘じゃない。初めて、自分から誰かを求めている。こんな気持ち初めてだ。自分のために、誰かに触れたいと思っているなんて。


 ラグナが目を見開く。それから、ふわりと笑った。

 その瞬間、猫耳がしゃきん、と立った。


「……じゃあ、雫からして」

「え」

「僕、したことないから。やり方、わかんない」


 雫は笑ってしまった。千年生きていて初めてなのか。

 いや、そうか。ずっと一人だったんだから。


 雫だって、こんな気持ちになったのは初めてだ。


「……そんな可愛い反応されたら、目、閉じられないよ」


 ラグナの耳がぴこぴこ揺れる。顔が真っ赤だ。


「……目、閉じて」

「うん」


 ラグナが目を閉じた。耳はまだぴんと立ったまま。

 長いまつげが、影を落とす。


 雫は、背伸びをして、そっと唇を重ねた。


 柔らかいけど、ひんやりと冷たい。でも、触れた瞬間、じんわりと温かくなった。彼の腕が雫の腰に回り、引き寄せる。


 なんとも言えない安心感。ふわふわと、心ごと浮かんでいるみたい。

 次第にラグナが唇の角度を変え、雫もそれに答えた。


 鈴が、澄んだ音を立てた。シャラン。

 光の水飛沫が二人の周りを舞っている。


 ――まるで祝福みたいだ。


 唇をそっと離した時、急に恥ずかしくなってしまった。


 ラグナの耳が、ぺたん、と倒れている。

 彼も同じ気持ちのようだ。耳までピンクに染まっている。


「……耳、倒れてるよ」

「……恥ずかしいから」


 その言葉に、雫も頭が沸騰した。


 数分後、気を取り直して二人で剣の前に立つ。

 雫の手の上からラグナが手を重ね、剣に触れる――。

 その時、銀の鈴が最後の光を放った。光の水飛沫が呼応するようにキラキラと飛び散る。


「ありがとう、雫」

「ありがとう、ラグナ」


 その時、水面が盛り上がり、水と光のトルネードが二人を包みこんだ。


 ◇


 あれから、半年が過ぎた頃。

 湖のほとりに、小さな家が建っている。

 ミレーナの家のすぐ近くに。雫が自分で建てた――というのは嘘で、ミレーナと近所の人たちが手伝って建てられた家だ。


 毎朝、小鳥たちの歌声で目を覚ますと、隣でラグナが眠っている。

 幸せそうな寝顔だ。


「……起きてる?」

「……ん」


 目を閉じたまま、ラグナが「起こして」と腕を伸ばしてくる。

 雫は当たり前のように、その手を取って笑う。


 こんな朝が、毎日続いている。


 ◇


 昼食の準備時間。

 最近、ラグナは料理の手伝いを覚え始めた。

 玉ねぎを切りながら涙目になり、雫にしがみつくのがいつもの光景だ。


「これ、人間には向いてない……」

「向いてるよ。美味しい料理には必要なんだから、ほら頑張って」


 そんな何気ないやり取りが、毎日少しずつ積み重なっていく。

 雫はそのたびに思う。


 ――ここで過ごす時間が、何より愛おしい、と。


「ラグナ、出来たからお昼にしよう」

「結局何つくったの?」

「ボルシチ。ミレーナに教わった本格レシピで」

「やった」


 ラグナが振り向くと、首元に、2つの鈴が音を立てる。

 1つは元からあった古い鈴。もう1つは、新しい銀の鈴。


 雫が消えなかったのは、魂を「縫い付ける」のではなく、「繋ぐ」方法をラグナが見つけたから。


 二人の魂は、1つの鈴で繋がっている。

 離れられないけど、一緒にいられるのだ。


「ねえ、雫」

「なに?」

「元の世界、帰りたくならない?」


 雫は首を振った。


「帰りたくない。私の居場所は、ここだから」


 ラグナが満面の笑みを浮かべる。無邪気で、でも千年分の孤独が溶けたような、柔らかい笑顔。


「僕も、千年待った甲斐があったよ」


 ◇


 その日の黄昏時。二人で湖を眺めていた。

 蛍光色の蝶が舞い上がり、夕陽に溶けていく。


 ラグナが雫の肩にもたれかかってくる。相変わらず甘えん坊だ。

 銀髪で首筋をくすぐられることにも、雫はもう慣れていた。


「ねえ、雫」

「なに?」

「好きだよ」


 ラグナのふわふわの尻尾がそっと雫の腰に巻きつく。

 もう耳は滅多に出ないのに、尻尾だけは正直だった。


 何度言われても、心臓が跳ねる。


「……知ってる」

「知ってても、言いたい」

「……私も……好き」

「ヘヘッ」


 ラグナは満面の笑みを浮かべ、雫をぎゅっと抱きしめる。


「あの雷雨の夜、木に登ってよかったよ」


 2つの鈴が、シャランと鳴った。

 まるで二人の心臓が、同時に鳴ったみたいに。


 ――千年の恋は、いつの間にか始まっていたのだ。



        ― Fin.―

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