第二章

第十話 恐怖

 あの惨劇から、約三日が過ぎた。

 孤児院から旅立った私たちは、深く生い茂った森の中を歩き続けていた。


「ねえ、フィオナ」


 後ろから、ミラの声がする。ふと後ろを振り返ると、そこにはパンをこちらに差し出す彼女の姿があった。


「ねえ……もう何日も食べてないんだよ? ほら、少しだけでも……」

「やめて」


 そう言いながら、彼女はパンを渡そうとする。しかし、私はそれを払い除けた。湿った地面に落ちて、パンが汚れてしまう。

 少し前まで当たり前であったあの幸せは、もう二度と還ってこない、その現実を、心が理解していても、身体が受け入れてくれない。

 そのせいか、何かを口に入れようとするたびに、子どもたちの顔が脳裏に浮かんでしまってその一切が喉を通らなくなってしまった。

 

 汚れたパンを慌てて拾ったミラは、汚れていない場所だけをちぎって、再びそれをこちらに渡してくる。


「ねえ、ちょっとでいいからさ……」

「ミラ、その必要はない」


 その時、エリィが口を挟んだ。


「君もわかっているだろう……もうフィオナは人間ではない。食べることも眠ることも、可能なだけで、彼女にとっては既に必要ないんだ」

「エリィ……そんな言い方……!」


 ミラは思わず声を上げて彼女に反論しようとするが、何も言い返せないまま言葉を詰まらせる。彼女もわかっているのだ。私がもう人を捨てたんだと。何かを口に入れるのが苦しい。だがそれ以前に、もう食べるという行為自体、もうやらなくても別にいいのだ。


「でっ、でも……フィオナは……っ」


 その声は震えていた。冷酷な事実を否定したい。でも否定する材料も、証明する方法もない。そこにあるのは、ただ“人を喰らって自分を殺そうとした”という事実のみ。

 絞り出すような声。エリィは無表情を保ち続けていた。私はその場で俯いていた。何を言うこともできなかった。だって私は、化け物なんだから——


 その時だった。どさり、という何かが落ちるような音。そして、俯いた私の目に映った、地面に倒れ込む影——


「ミラ!」


 私は咄嗟に声を上げた。


「しっかりして!」


 そう言いながら右手を伸ばす私。ミラと一瞬目が合い、彼女もゆっくりと手を伸ばす。だが——


「ひっ」


 そんなミラの声が響く。そして、気づいた。私の手が、払い除けられたのだということに。彼女は、驚いたような表情をしながら涙を流していた。左手は彼女自身の首元を掴んだまま震えており、私を払い除けた右手は、だらりと地面に項垂れていた——。


 ミラが、私に恐怖心を抱いている。


 当たり前のことだ、私に殺されかけたのだから。でも、その事実を私は受け入れられない。受け入れたくない。怯えた子犬のような表彰を浮かべる彼女の瞳は、以前としてこちらを向いていた。その奥に“死”に対する恐怖が本能的に宿っていることなど明白であった。


「だ、大丈夫……ただ、ちょっと疲れただけ……」


 彼女は震え声でそう言いながら、自力で起きあがろうとする。だが、すぐによろけて地面に崩れ落ちてしまった。


「無理はしないほうがいい——ほら、肩を貸せ」


 手を伸ばしたまま立ちすくむ私の前で、エリィがそう言った。彼女がミラの腕を自分の肩に乗せた途端、ミラは意識を完全に失った。


「少し開けた場所がこの先にある。そこで一旦休息を取ろう」


 エリィがそう言う。私は静かに頷いて、彼女についていった。


「……ミラは、まだ発現していない」


 彼女は、エリィを担ぎながら独り言のように続ける。


「しかし、未観測なだけだという見方も可能だ。しかしその場合、どんな能力を持っているのかが把握できない。そうだな……例えばそれが、“自分を殺させる魔法”だったとしてもだ」


 その言葉で、私は顔を上げた。


「まあ、詰まるところ……全て君のせいだ、と断言するのは難しいと言うことだ。君の能力も未だ不明のまま。もしかしたら、人格が変わっていたのかも知れない。それほど、“なんでもあり”な力なんだ、禁忌魔法というのは」


 ああ——エリィは、私を励まそうとしているんだ。家族を見殺しにして、唯一生き残った相棒すらも手にかけようとした化け物のことを。


「とにかく、明日は休息を取ろう。一日もあれば、身体も元通りになるだろうしな」


 私は、黙って頷いた。


「あと、ついでと言ってはなんだが、魔法訓練を始めようと思う」

「訓練……? でも、ミラはまだ……」

「負担はかけない。成人したら誰でもやる、ただの適性検査だけだ」


 エリィがそう言いながら立ち止まった。それに気づいた私はふと、前を向く。そこには、生い茂る木々の中、取り残されたように広がる平野があった。少なくとも孤児院ほどの広さはあるそこの中心に、エリィはミラをそっと地面に横たわらせて私に言った。


「水を汲んでくる。君はミラの看病をしておいてくれ。この辺りには魔物もいるし、万が一だ」


 その直後、彼女の姿が音もなくかき消える。そして、ミラの寝息だけが、静寂の中響き渡った。空がだんだんと夜の帳を下ろし始め、たちまち辺りは暗闇に包まれ始める。


 私は、真横で眠るミラの頭をそっと撫でた。やってはいけないことをしてしまった後悔が、私の瞼から涙を押し出していく。


「ごめんね、ミラ……」


 私は、静かに泣き続ける。そしていつしか、彼女と共に深い眠りの底に落ちて行った。

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断罪のエクスタシア——家族を殺された少女は、禁忌を犯して魔女となる—— はまごん @Hama125

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