アンラベル・パーク ―雨に弾ける夜で―
匂宮いずも
雨に弾ける夜で
青い蝶が、暗い部屋の中を舞っていた。
私は、捕まえようと手を伸ばす。届かない。
アラームの音が鳴ったとたん、蝶は姿を消した。
布団から、鉛のように重い身体を引きはがす。
カーテン越しに、窓を叩きつける雨音が響いていた。
最近、調子がおかしい。
止まらない涙が床を濡らし、
会社に行こうと玄関に行っても足が止まる。
病院に行った。
「精神的な疲れによるもの」と言われた。
その言葉すら現実とは思えなくて、
頭を素通りしていった。
会社には休職を伝えた。
上司からの業務指示はひどかった。
曖昧な指示に、ヒステリックな野次。
「成果も出せないのにミスするとか何様だ」
鼻で笑われた声が、少しずつ心を蝕んでいった。
緊張して手が震え、体と心の疲れが溜まった。
もう限界だった。
メールで上司に休職を伝えた。
「体調崩したのは自分のせい、自己管理ができてない」
「そのまま出社してこなくていいよ(笑)」
そんな無神経な言葉が、揺れる画面に綴られていた。
最近まともに寝た日を覚えてない。
散らばるペットボトル。
タバコの吸い殻が溢れた灰皿。
食べ残した弁当の残骸。
これが今の私の生活のすべてだった。
必死に働いてきたのに、残ったのはこの生活と
ボロボロになった心。
片づける気力もなく、動けない体を
布団にしばりつけて丸まっている。
生活リズムも崩れて、薬も出された。
これを飲むと泥のように眠れる。
その代わり、よく悪夢を見るのだ。
医者に訴えても、
「今のあなたにこれ以上の薬は出せない」と言われた。
こんな薬で、私は生かされている。眠っている。
そして今夜も、薬を飲んで眠る。
――夢を見て目が覚めた。
植物になって嘆く夢だった。
まだ頬には流した涙が残っている。
ぼやけた時計。
今は深夜の二時らしい。
天井を眺める。何も考えられず、
見えない将来。
酒を取りにキッチンに行く。
ついでに換気扇を回して
タバコも一服。
酒を飲む。
何者かになりたい、
でも何者にもなれない。
そんな無力感に苛まれる。
タバコと酒で、
「今」を煙に巻く。
飲みながらスマホを見る。
画面には、明日の天気が出ていた。
明日も雨らしい。
あと迷惑電話の着信履歴。
SNSを開く。
無数の投稿が目につく。
どこか旅行に行った。
彼女ができた。
今が幸せ、とか。
――自分にはまったく縁のない世界。
幸せを謳歌している奴らが
憎くてたまらない。
私だって、幸せになりたくて
頑張ってきたのに。
どこで間違えた、なにがダメだった。
頑張って、頑張って、耐えてきたのに。
どうしてこんなことに。
生きる気はないが消える勇気もない。
酔いに任せて布団をかぶった。
今度はなんの夢も見なかった。
目が覚めた。時計を見る。
午後を少しいったところだ。
外は雨がしとしとと降っている。
昨晩食べ残した弁当を口に運ぶ。
味がしなくて、砂を食べているようだった。
動画を見て、酒を飲んで、SNSで
「消えたい」と書き込んで。
また悪夢を見る薬を飲んで布団にもぐり込んだ。
――夢を見た。
私は薄暗い木々に絡みついている。
空は雨上がりのようで、少し湿気を帯びていた。
いつもの夢。ただ、いつもとは違っていた。
周囲がなんだかざわついている。
「花を咲かせない植物が『音色のお祭り』をやるらしい」
「音色って聞いたことないぞ」
「お祭りってなんだ…?」
周りの葉が風でざわめく。
音色のお祭り……?
なんだ、なにが起こっている?
でも、私たちにはどうせ関係がない。
嘆くだけで精一杯なのだ。
「それをやっても活きづらいだけ」
誰かが言った。
応えるように、静かな声が風のように
滑り込んできた。
「そうですね…」声の主は、少し間を開けた。
「その通り。活きづらさはなくならないです」
続けて言う。
私はまるで空気のように、音が抜けていく。
「僕は一夜だけ花が咲く植物なんです」
周りが怒ったようにざわめく。
「活きているのが嫌になる」
そう声の主が言った。
一瞬、空気が詰まる。
「皆さんも活きづらさに差はあるけど、きっと同じ感覚でしょう」
「皆さんも僕も活き苦しくて、
もがいている」
「だから、せめて一夜だけ。この活きづらい世界で一緒に咲いてみませんか?」
咲かない花はそう言い終えた。
夢うつつの中で、私は思う。
たかが音色で。そんなものを響かせたところで。
何が変わる。
ただ身勝手な同感をされて、身勝手だ。
活きづらさは、変わりはしない。
変われないんだ。
――湿り気を帯びたひんやりとした空気に変わるころ。
「それでは――ひと晩だけ、
音色のお祭りをしましょう」
「音色のお祭り」が、勝手に始まった。
ざわつく空気の中、「音色」が、世界を満たした。
風やざわつく音に混じる、雑音まみれの「音色」。
でも、その音色は一方で、不思議と安らぎを与えた。
少なくとも、いまここの世界では活きづらさを超えて、確かに響いている。
「音が響く」共通点。
月下美人の花が咲いてきた。大きくて、美しい花。
花の香りが音色に乗って運ばれてきた。
周りの植物も音色に合わせて、風に身を預けたり、揺らす植物が出てきた。
野原が少しずつ、一つになっていく。
それでも。それでも、だ。
――口に出さずにはいられなかった。
「苦しみはそんなものでは
変わらないのに」
私の言葉が聞こえたかのように、
一瞬空気が凍り付く。
しかし、その言葉すら
音色は包み込んだ。
否定せず、曖昧にせず。
野原に染み込んでいった。
徐々に夜は眠りにつき、
朝日が目覚めてきた――
――目が覚めた。
時間は朝の10時。ちょっと寝すぎた。
どうせやることもないのだが。
お湯を沸かし、カップラーメンにお湯を注ぐ。
出来上がるのを待ちながら、昨夜の夢を思い返す。
普段は嫌な気分だけが残るのだが、妙に生々しい感覚があった。
「音色、か…」
湯気の中つぶやく。音楽も最近聞いていない。
ラーメンを食べながら、音楽を検索する。
気づかない間にミュージシャンが増えた気がする。
試しに聴いてみる。なにも響かなかった。私の心には。
あの不思議な夢は見なくなった。
悪夢は依然として見るが。
深夜に目が覚め、タバコを吸いながら少し考える。
あの「音色のお祭り」。
音色というなら、会社のかすれたBGMで30年くらい前の音楽を聴いていた。
まあそれも、忙しさの中の雑音でしかなかったのだが。
なにかが心の中で引っかかっていた。
生きづらさは変えられない。
幸せな奴らは妬ましく思うし、たまたま運が良かっただけ、とも思える。
でも音色で響いていた間は、その「音」に没頭していた。
認めたくないが。
でも、そこから何かが変化した、ということもない。
――夕方。買い物がてら、駅前を散歩してみる。
私が住んでいる街は、かつて有名ミュージシャンがデビューしたという。
なので、夕方くらいから路上ライブをやる人が多い。
あちこちから色んな曲が流れてくる。だいぶ騒がしい。
――そのとき、薄暗いところからきれいな音色が聞こえた
なんでそんなところで、みたいなビルの陰で、
何かのカバー曲を弾き語りしているバンド。
誰にも見られず、ただライブしている。
私も通り過ぎようとした。早く家に帰りたい。
頭に、「境界を超える」という言葉がよぎった。
確か夢の中で聴いた言葉だ。
路上ライブのバンドと私は、違う世界を歩んでいる。
片方は夢に溢れたバンドマン、
片方は壊れ切った社会人。
二つの住んでいる世界は違うだろうが、
音が「境界」を超えている。
気づけば、バンドのライブが終わるまで、座って聴いていた。
お金を払おうとすると、
「いやいや、僕らの曲をここまで聴いてくれただけで感謝しています」
「ありがとうございます!」
と言われた。
そういうものなんだ。
家に帰りながら一人考える。
私は、適応障害と診断された社会人で、
彼らは路上ライブのバンドマン。
生きづらさはお互いあるはず。
でもあのライブは、音を通して生きづらさを超えて、
「音楽が好きな人たち」になったのでは?
とすると、私は、もしかしたら。
なんだか救われた気がした。
どんな薬より、言葉よりも、「音色」が沁みた。
数日後、私はギターを買っていた。
あの路上ライブもとても良かったのだけど、
ギターを弾いてみたいと思った。
私も音色を、指から味わってみたいと思ったのだ。
買ったのはアコースティックギター。
中学の音楽室に置いているような、
懐かしいギター。
参考書を読みながら、弦を弾く。
――じゃらーん。
「…ははっ」
あまりにも間が抜けた音に、思わず笑ってしまった。
でも。ぎこちないながらも、音が出た。
あの夢の音色には似ても似つかないし、音程も音色も雑だけど、
確かに私が弾いたギターから音が紡がれていく。
動画サイトを見ながら、ギターの弦に指を押し込む。
だんだん痛くなってきた。少し強めに押し込んでいたらしい。
でも、その痛みすら新鮮な感覚だった。
なんだか弾ける気がしてきたので、参考書に出てきた練習曲を弾いてみる。
「むっず」
なんだこれ、楽譜を読みながら弾くってかなり難しい。
しかも音は出てるけど、曲として聞こえていない。雑音に近い。
――やっぱり私には無理なのかな
そんなことが浮かんでくる。
でも、あの路上ライブのバンドが頭に浮かんだ。
彼らだって、最初から上手かったわけではない。
自分が出したい音を出したくて練習したのだ。
またギターを手に取る。
『上手く弾く』のではなく、『音を楽しむ』ことを考えた。
食事も忘れるほど……と言いたかったが、身体を動かすと食欲が出る。
ギターを弾いた後のご飯は、びっくりするくらい美味しかった。
練習して、部屋を片づけて、食事をする。
そんな生活になっていった。
――ある日、会社から着信があった。
一瞬身体が固まる。冷たい汗を感じる。
なんだろう…上司からではなさそうだ。
スマホを手に取る。
「はい、もしもし」
「もしもし、良かった、元気そうだね」知らない声だ。
「どなたですか?」
聞いてみる。以前の上司の声ではない。
「ああ、はじめましてでしたね。人事異動で新しく着任しました」
「私は中田と言います、よろしく」
人事異動。深く聞いてみると、こんなことだった。
私が休職したあと、中田さんが臨時の上司として来た。
休職者がいることが気にかかり、私の上司に確認したようだ。
なんでも、上司のパワハラが発覚して本社に呼ばれ、出社停止になったとか。
なので中田さんが臨時で直属の上司になった、とのこと。
「引き継ぎはあったんだけど、君がかなり回していたと聞いたから、
ゆっくりでいいから戻ってほしい。よろしくお願いします」
そう言われた。
少し……いやだいぶ驚いている。
同時に、少し安心した。
とりあえず路上ライブの動画を検索する。
次はこれに挑戦してみたくて、調べていたのだった。
ギターを弾いているのが精神的に良いのか、
少しずつ薬がなくても悪夢を見ずに眠れるようになってきた。
……まぁ治ったわけではないし、生きづらさはそれほど変わらないけど。
でも以前ほど、幸せな人たちを妬む、というのは少なくなっていた。
そして数週間後、会社に復職した。とはいってもテレワークだが。
医者からの判断で、「すぐに出社するにはリスクがある」と
診断書を書いてくれたのだ。
とても助かる。ついでに薬も変えてくれたら良かったのだけど。
仕事が終わると、ずっとビルの陰でやっている、路上ライブのバンドを見に行く。
最近は彼らに路上ライブについて教わったり、
一緒にライブを見に行ったりしている。
私にとっては人生を変えたような恩人だが、
彼らにとっても音楽に自信を無くした頃らしく、
お互い会うたびに盛り上がる。
今度、ミュージック・バーで音楽ライブをするとのこと。
私も行ってみようか。料理も美味しいらしい。
――ある夜。仕事で少し無理をした。
寝やすくなるために薬を飲み、布団にくるまった。
また、あの野原の夢を見た。
私はヤドリ群の中にいて、周りと一緒に嘆いている。
「枯れたい」
「ほかの植物になりたい」
「野原の植物が憎い」
その中で、ふと路上ライブを思い出した。
音色の出し方が分からず、なんとか葉をこすり合わせて音を出す。
ぎこちないながらも、一応「音色」を奏でることができた。
今日は新月らしく、空は暗い。星々が光って見えた。
ぎこちない「音色」を奏でていると、下のほうから声をかけられた。
「いい音色ですね」
暗い色をした花で、新月の闇に埋もれているように見える。
なのに、妙に存在感があった。
まるで、ビルの陰でライブをやっていたバンドのように。
その暗い色の花が、私に聞いてきた。
「珍しい音色を奏でていますね、好きな音色」
嬉しそうに葉を動かしている。
「私、いま月下美人という友達の音色を聴いているんです」
どこかで聞いた名だ。その花は続けた。
「もし、良ければなんですけど」
一拍置いて、暗い花は誘う。
暗くて静かな夜空を、青い蝶が美しく舞っていた。
「今度、『音色のお祭り』をするんです」
「一緒に音を咲かせてみませんか?」
アンラベル・パーク ―雨に弾ける夜で― 匂宮いずも @Daisy_Pink
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