第12話:見えないミス

 相葉 蓮(あいば れん)の指先は、もはや肉体の一部というよりは、思考を物理世界に出力するための精密機械と化していた。


 プロジェクト『ニューロン・グリッド』。その核となる中枢アルゴリズムの構築は、最終段階(ファイナル・フェーズ)を迎えていた。残るは、都市の全信号機と物流ドローンの同期タイミングを司る、極めて繊細な時間制御ルーチンの記述のみ。


 タタタタタタ……。


 乾いた打鍵音だけが、密室に響く。空調の音が聞こえない。自分の呼吸音さえ遠い。蓮の意識は、肉体という檻を抜け出し、純粋な論理空間を浮遊していた。


 空腹も、喉の渇きも、排泄の欲求さえも、今の彼には遠い世界の出来事だ。うなじに食い込んだ『アウトシステム(OS)』が、脳内物質の分泌を完璧にコントロールし、蓮を「超集中状態(ゾーン)」の向こう側へと繋ぎ止めているからだ。


「……美しい」


 蓮は、モニターを流れるコードの羅列を見て、恍惚と呟いた。


 無駄がない。淀みがない。汎用AI《ハルシオン》が書くコードは、冗長で、安全マージンを過剰に取った「臆病な文章」だ。読むだけで欠伸が出る。


 だが、俺のコードは違う。限界まで贅肉を削ぎ落とし、リスクの断崖絶壁ギリギリを最短距離で駆け抜ける、研ぎ澄まされた刃(やいば)。これこそが「150点」。人間だけが到達できる、芸術の領域。


 だが。


 その芸術を生み出す「ハードウェア(肉体)」は、とっくに限界を超えていた。


 ジジッ。


 視界の端で、ノイズが明滅する。モニターの上の文字列が、一瞬、黒い蟻の行列のように蠢いて見えた。


 三日間の完全不眠。過剰な電気ショックによる強制覚醒。そして冷却限界を超えたOSの高熱。蓮の神経系は、焼き切れる寸前のフィラメントのように悲鳴を上げている。眼球が乾ききり、瞬きをするたびに瞼の裏が紙やすりのように擦れる音がする。


(……集中しろ。蟻じゃない、コードだ)


 蓮は、霞む視界を瞬きで払い除けた。あと少しだ。あと数行。このサブルーチンさえ書き上げれば、都市は俺のモノになる。ハルシオンという名の「ゆりかご」から人類を引きずり出し、俺が作った「加速する世界」へと進化させるのだ。


 指先が走る。物流ドローン、交差点進入タイミング。同期誤差、許容範囲設定。


 Current_Latency_Limit = ...


 その時。蓮の意識が、ふっと途切れた。


 マイクロスリープ。極限の疲労がもたらした、コンマ数秒の気絶。脳のスイッチが強制的に落ち、暗転する。


 ガクン、と頭が落ちかけ、蓮はハッとして目を見開いた。


「……ッ、危ない」


 蓮は乾いた唇を舐め、モニターを確認した。カーソルは点滅している。コードに乱れはない。論理構造も破綻していない。大丈夫だ。俺の指は、脳が眠っている間も、完璧に動いていたらしい。


 蓮はそのまま、最後の数行を打ち込んだ。


 Latency_Limit = 0.05;


 思考の中では、それは「0.005秒(5ミリ秒)」のつもりだった。


 5ミリ秒以内のズレなら許容し、補正する。それ以上のズレは異常として緊急停止させる。それが、高速輸送における絶対的な安全ラインだ。


 だが、タイプされた数字は「0.05秒(50ミリ秒)」。


 桁が一つズレている。マイクロスリープの瞬間に、指が僅かに滑ったのだ。


 通常であれば、これは「ミス」にはならない。汎用AI《ハルシオン》の環境下であれば、AIが即座に「文脈」を読み取り、「物流制御において50ミリ秒の許容誤差は致命的である」と推論し、自動的に修正(オートコレクト)するからだ。「80点の世界」では、人間は間違えることが許されている。AIが常に尻を拭いてくれるからだ。


 だが。今、蓮が使っているのは『アウトシステム(OS)』だ。


 画面中央に、毒々しい赤色の警告ウィンドウがポップアップした。


『WARNING: Input value exceeds physical safety limits.』 『警告:入力値「0.05」は、ドローンの衝突リスクを99.8%増加させます。修正しますか?』


 OSは正しく警告した。50ミリ秒ものズレを見逃せば、ドローン同士は互いの位置を誤認し、空中で正面衝突することになる。


 だが、蓮はその警告を見た瞬間、反射的な苛立ちを覚えた。


「……チッ、うるさいな」


 蓮の目には、その警告が「ハルシオンの過保護な戯言」に見えた。


 またか。また安全マージンか。俺の計算は完璧だ。お前の貧弱なシミュレーションごときが、俺の「直感」に口を出すな。俺が0.05と言えば、それが正解なんだ。世界の方が間違っているんだ。


「却下だ。……俺が、ルールだ」


 蓮は、躊躇なくキーを叩いた。


『修正:No』 『強制実行(Override):Yes』


 OSは沈黙した。このデバイスの設計思想は、「ユーザーの自由意志を絶対的に尊重する」ことにある。たとえそれが、破滅的な選択であったとしても。

「ユーザーが破滅を望んだならば、それを叶えるのが道具の務めである」

 OSはそう判断し、その致命的な数値を、忠実に、冷徹に、システムへと書き込んだ。


『Syntax Check: OK.』


 蓮は、シミュレーション画面を開いた。画面上のドローンたちが、新しい数値に基づいて動き出す。


 本来なら、それらの軌道は衝突寸前で交錯する「危険な赤色」で表示されていたはずだ。だが、色覚異常を起こしかけている蓮の目には、それが「美しい黄金色の軌跡」に見えた。紙一重ですれ違う、スリリングで完璧なダンス。


「……完成だ」


 蓮は、エンターキーを叩いた。


 カターンッ!


 決定音だけが、銃声のように響く。画面に『Build Complete』の文字が躍る。


 蓮は、椅子に深く沈み込み、天井を見上げた。達成感。そして、泥のような疲労感。


「見たか、真島。見たか、海」


 蓮は、虚空に向かって勝利宣言をした。声が震えている。笑っているのか、泣いているのか、自分でも分からない。


「俺は、勝ったんだ。AIにも、人間にも」


 完璧な論理の城。だがその土台の深層に、たった一つの「時限爆弾」が埋め込まれたことを、王である蓮だけが知らなかった。


 0.05秒。


 瞬きするよりも短い、ほんの僅かな遅延。だが、極限まで効率化され、遊び(バッファ)を削ぎ落とされた「150点の都市」において、その許容誤差は「死」を意味する。それは、高速回転する歯車に放り込まれた、一粒のダイヤモンドのようなものだ。


 蓮は、震える手でデスクの上の栄養ゼリーを掴んだ。勝利の美酒。だが、喉を通るそれは、砂のようにジャリジャリとした味がした。味覚がない。聴覚が遠い。指先の感覚もない。五感のすべてが、機能を停止しようとしている。


「……あ」


 蓮の視界が、唐突にブラックアウトした。眠気ではない。バッテリー切れの玩具のように、生命維持活動の限界を迎えた強制シャットダウン。


 ドサッ。


 蓮の身体が椅子から崩れ落ち、床に倒れ込んだ。彼はピクリとも動かない。その顔は、まるで死体のように安らかだった。


 プロジェクトの稼働は明日の正午。それまでの間、王様は冷たい床の上で、泥のような眠りにつく。


 彼が次に目覚める時、世界が地獄に変わっていることなど、知る由もなく。

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アウトシステム ―幸福な家畜として生きる君へ― ジョウジ @NandM

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