第11話:切れない接続

 週末のカフェテラス。


 汎用AI《ハルシオン》が「カップルのための最適解」として推奨する、陽光と緑に囲まれた特等席。そこで、相葉 蓮(あいば れん)は、腕時計の秒針を見つめていた。


(……到着まで、あと12秒)


 蓮がここに来た理由は、愛ではない。「処理」だ。


 あの日、ユミからの連絡を無視し、着信拒否に設定したにも関わらず、彼女は別の回線を使って執拗に連絡を寄越した。通知が鳴るたびに、蓮の思考(フロー)は0.5秒ほど中断される。


 その累積損失を計算した結果、無視し続けて彼女が自宅に押しかけてくるリスクを負うよりも、わずか数分の面会時間を割いて「関係の終了」を通告する方が、トータルコストが安いと判断したのだ。


 これはデートではない。不要なバックグラウンドアプリの「強制終了」プロセスだ。


「……ごめんね、待った?」


 息を切らして現れたユミを見て、蓮は無表情に秒針を確認した。


「いや。予定時刻ちょうどだ」


 目の前の席で、ユミが不安そうに尋ねてくる。彼女の瞳は潤み、小首を傾げる角度まで、AIが推奨する「庇護欲をそそるポーズ」そのものだった。


 以前なら、その仕草を愛おしいと感じたかもしれない。だが今の蓮には、それが高度にプログラムされたNPCの動作(スクリプト)にしか見えなかった。


 いや、それ以下だ。


 蓮の拡張された視覚野において、ユミの輪郭は不安定に明滅していた。


 肌のテクスチャが時折剥がれ落ち、その下に無機質なワイヤーフレームが見え隠れする。過剰な美肌補正と、定型化された表情筋の動きが、蓮の脳内で処理しきれずに「バグ」を起こしているのだ。彼女が笑うたびに、目と口のパーツが微妙にズレる。まるで、出来の悪い福笑いだ。


「……あのね、蓮くん。私、何か悪いことしたかな? 連絡、ずっと取れなかったし……」


「悪いこと?」


 蓮は顔を上げず、冷淡に答えた。


「いや。君の行動はハルシオンの基準に照らせば常に満点だ。模範的な適合者だよ」


「じゃあ、どうして……。先週の相性診断だって98点だったし、AIも『結婚の好機』だって……」


「俺の基準が変わったんだ」


 蓮は、ようやくユミを見た。彼女の顔の上に、無数のパラメータが表示されている。心拍数、体温、発汗量、そして会話の予測パターン。


 彼女が次に何を言うか、どの単語を選び、どのタイミングで涙を流すか。全てが予測可能だった。あまりにも、退屈すぎる。


「単刀直入に言おう。別れてほしい」


 ユミの表情が凍りついた。予測通り、3.2秒後に瞳から水分が溢れる。


「ど、どうして……? 先週の相性診断だって98点だったし、AIも『結婚の好機』だって……」


「……」


 蓮は眉をひそめた。彼女は今、まったく同じセリフを繰り返した。


 文脈を理解していないのか、それともパニックで思考ループに陥っているのか。まるで壊れたレコードだ。彼女は「蓮の言葉」を聞いているのではない。「AIの診断結果」と「現実」のズレに混乱しているだけだ。


「だからだ」


 蓮は苛立ちを隠さずに言った。


「AIのスコアなんてどうでもいい。問題なのは『生産性』だ。君と過ごす時間は、俺にとって知的刺激が皆無だ。会話は定型文の応酬、デートコースは予定調和の繰り返し。……君との関係を維持するために割くリソース(時間と感情)に対し、得られるリターン(成長や発見)がマイナスなんだよ」


「……え?」


 ユミは口を開けたまま固まった。蓮の言葉の意味が理解できないのだろう。恋愛を「生産性」で語る人間など、この80点の世界には存在しないからだ。


「君は悪くない。ただ、俺の速度についてこれないだけだ。……今までありがとう。慰謝料が必要なら、ハルシオンの規定額の倍を振り込む」


 蓮は席を立った。これ以上、ここにいる意味はない。滞在時間は予定通り4分30秒。これなら午後のタスクに支障は出ない。


「待って! 蓮くん、おかしいよ!」


 ユミが蓮の袖を掴んだ。その手は温かかったが、蓮にはその温もりさえも「不快な熱伝導」としか感じられなかった。


「仕事のしすぎだよ……! 顔色だって真っ青だし、変な汗かいてるし……。お願い、一度ハルシオン・センターで診てもらおう? 元の優しい蓮くんに戻ってよ!」


 悲痛な叫び。だが、蓮の目には、彼女の涙が「不自然な粘度を持った灰色の液体」に見えていた。ただの生理的な排出現象。そこに魂の重みなどない。


 蓮は無表情でその手を振り払った。


「『元の俺』? ……あれは、思考停止していた抜け殻だ。今の俺こそが、本当の俺なんだよ」


 蓮は、冷たい瞳でユミを見下ろした。そこには、かつて恋人に向けられていた情熱など欠片もなかった。あるのは、バグを起こした旧型機を見るような、無機質な観察眼だけ。


「邪魔しないでくれ。俺は、忙しいんだ」


 蓮は踵を返し、一度も振り返らずに歩き出した。背後でユミが泣き崩れる気配がしたが、蓮はすぐに『OS』の聴覚フィルタを調整し、その泣き声を「環境音(ノイズ)」としてカットした。


 世界が静かになる。これでいい。これでまた、思考に集中できる。


 ***


 自宅に戻った蓮は、シャワーも浴びずにデスクに向かった。


 プロジェクト『ニューロン・グリッド』の最終工程。都市の全インフラを制御する中枢アルゴリズムの構築。それは、蓮の脳髄そのものを都市に拡張するような作業だった。


 タタタタタ……ッ。


 打鍵音が響く。思考は澄み渡り、指先から神の摂理(コード)が紡ぎ出されていく。


 だが、肉体の限界は近づいていた。視界が明滅し、激しい耳鳴りがする。首元の『OS』は、冷却スプレーの霜で真っ白になりながらも、触れられないほどの高熱を発している。意識が飛びそうになる。強烈な睡魔。


「……チッ、落ちるか」


 蓮は舌打ちをした。これ以上は、物理的に脳が焼ける。一度クールダウンが必要だ。


 蓮は震える手で、うなじの接続プラグに手を伸ばした。これを抜けば、OSの負荷から解放される。熱も、痛みも、奔流のような情報の濁流も、すべて止まる。


 カチリ。ロックを外す音がした。あとは、引き抜くだけだ。


 だが。蓮の指が、凍りついたように止まった。


「……ッ、はあ、はあ……」


 呼吸が荒くなる。脂汗が噴き出す。抜けない。指に力が入らないのではない。本能が、全力で拒絶しているのだ。


(抜くな。抜いたら、終わる)


 脳内で警報が鳴り響く。もし今、この接続を切ったら?


 その瞬間に訪れるのは、「休息」ではない。汎用AIハルシオンが支配する、あの緩慢で、退屈で、何も考えなくていい「80点の世界」だ。


 判断のない静寂。責任のない安寧。かつてはあれほど心地よかったその温もりが、今の蓮には「死」そのものに思えた。自分という個が、巨大なシステムの中に溶けて消えてしまう恐怖。


「嫌だ……戻りたくない……ッ!」


 蓮は、ガタガタと震えながらプラグから手を離した。


 恐怖。圧倒的な恐怖だった。思考のスピードが落ちることが怖い。凡人に戻ることが怖い。あの「何も見えない、何も聞こえない」幸福な盲目状態に戻るくらいなら、脳が焼き切れる痛みの方がマシだ。


「……起こせ」


 蓮は、うなじの『OS』に向けてコマンドを打ち込んだ。『覚醒プログラム(Stimulant Mode):最大出力』。本来は緊急蘇生に使われる、脳への直接電気刺激。


 バチッ!!


「が、あアアアッ!!!」


 青白い火花と共に、蓮の身体がのけぞった。脊髄を雷が走り抜ける。白目を剥き、全身が痙攣する。肉が焦げる臭い。だが、そのショックで強制的に脳のニューロンが発火し、睡魔が吹き飛んだ。


「ハハ……ハハハ……」


 蓮は、口端から涎を垂らしながら笑った。痛みで涙が出ているが、意識はかつてないほど鮮明だ。


「まだだ……まだやれる」


 蓮は再びキーボードに手を置いた。接続は切らない。この熱(ペイン)だけが、俺を「個」として繋ぎ止めている。このケーブルは、もはやデバイスではない。俺の生命維持装置だ。


 ふと、サブモニターの隅で、通知ランプが点滅しているのに気づいた。

『Blocked Messages(ブロック済み)』フォルダに溜まった、受信ログ。送信者はすべて『四ツ谷 海』。件数は『99+』。


『蓮、頼む』 『戻れなくなるぞ』 『会ってくれ』


 海からの必死のメッセージ。だが、覚醒した蓮の目には、それらは無意味な文字列の羅列にしか見えなかった。過去からのノイズ。足を引っ張る重力。


 蓮は、表情一つ変えずに操作した。


『全件削除』 『ゴミ箱を空にする』


 一瞬でログが消え、画面がクリアになる。蓮は満足げに頷き、メインモニターに向き直った。


「……よし、最終フェーズだ」


 都市の制御権限を、全てこの『ニューロン・グリッド』へ移行する。蓮の指が、エンターキーを叩いた。


 モニターの中で、複雑怪奇なフローチャートが動き出す。美しい。完璧だ。


 だが、蓮は気づいていなかった。その輝く光の奔流の隅で、小さな赤い警告灯が明滅し始めていることに。


『Warning: Bio-Feedback Critical.』 『Mental Stability: Unstable.』


 部屋の隅で、脱ぎ捨てられた『アルシオーネ』が、虚しく明滅していた。そこには、AIからの最後の「休息推奨」が表示されていたが、蓮が見ることは二度となかった。

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