あなた、優しいのね

十日町拓郎

あなた、優しいのね

 昼下がりのオフィスは、喧騒に包まれていた。

 年度末特有の忙しさはいつものことだが、今日は一段と空気が張りつめていた。


 鳴り止まない電話。

 紙が山積みになった複合機。

 苛立ちを隠さない社員たち。

 肩に受話器を挟んだままキーボードを叩く者がいれば、書類を睨みつけて頭を抱える者もいる。


 そんな設備部の一角で、宮浜みやはま凪沙なぎさはひっそりとため息をついた。

 胸元まで伸びた黒髪は、きちんと手入れされているにもかかわらず、今日は少し元気がないように感じられる。


 眼鏡の奥に見える、色の落ちた視線の先。

 彼女のデスクのモニターには承認待ちの申請データがずらり。

 原因は昼前に起こった社内システムのトラブルだ。

 なんとかバックアップから復旧したものの、今朝からせっせと入力した内容はすべて虚空へと消えてしまった。


(はぁ……ほんと最悪……今日は定時退社は無理そうかな)


 隣の席からも「あーもう無理……」と、泣き言が時折聞こえてくる。

 嫌気がさした同僚がまた一人、タバコを持って席を立つ。


(席を立つ口実があるのって、ちょっとだけ羨ましい)


 凪沙は肩をすくめ、モニターから視線を逸らすと、椅子にもたれかかった。

 現実逃避をしていても、状況が好転することはない。

 手を動かさなければ、いつまで経ってもタスクが終わることはないのだ。

 そんなことはわかっている。

 だが、一度終えたはずの面倒な作業をもう一度やるためには、自分を奮い立たせる時間が必要だった。


 凪沙は小さく息を吐き、覚悟を決めて背もたれから身体を起こした。



 ✣ ✣ ✣



 定時を過ぎて電話が鳴り止んでも、オフィスの空席は数えるほどしかなかった。

 凪沙はようやく終わりの見えてきた作業を前に、一度肩の力を抜いた。


「一息つこっと……」


 呟きながら立ち上がると、軽い立ちくらみに襲われた。

 最後に席を立ったのは何時間前だっただろうか。


 このまま続けても最後まで集中できそうもない。

 凪沙には、ほんの一時でも休息が必要だった。


 設備部を出てエレベーターに乗り込み、上階のリフレッシュスペースへ向かう。

 共用の休憩室のドアを開けると、室内の半数ほどの席が埋まっていた。

 凪沙にとっては珍しい残業だが、他の社員からすれば日常なのかもしれない。年度末のこの時期なら尚更か。


 自販機でコーヒーを買い、空いている椅子に腰を下ろす。

 深く息を吐いたところで、パーティション越しに女性たちの会話が聞こえてきた。


「ねぇねぇ、ニュース見た? 例の行方不明……また増えてるらしいね」


「えー? あれって、マジなの? 原因不明なんでしょ?」


 無意識に耳を傾けていた凪沙の脳裏に、ニュースの映像が思い出される。


(そういえば、今朝もそんなニュースが流れてたっけ……)


 市内で連続して起こっている行方不明事件。

 今年に入ってからたまに耳にするようになった。


「今月だけで三人目だよ? 流石に怖くない?」


「あれさ、ニュースでは原因不明って言ってるけど、裏サイトとかで結構考察されてるんだよね」


「へぇ? 何か有力な情報があるの?」


「実は、今回の事象にそっくりな都市伝説があるんだって。声をかけられた時、答えちゃいけないみたいなやつ」


「あー、なんかそういうのあるよね。でも、それって幽霊とかじゃなかった? さすがに荒唐無稽すぎない?」


 どこかバカにしたような会話に、凪沙は思わず眉をひそめた。


(幽霊? そんなの、いるわけないじゃん)


 パーティションの向こうでは今も会話が続いており、くすくすと笑い声が聞こえてくる。


(というか、事件をそういうふうに茶化すのって、ちょっと不謹慎じゃない?)


 凪沙は呆れ気味に心の中でつぶやいた。


(どうでもいいや。別にこの人たちに突っかかる意味ないし、私まで低俗に思えてくる)


 凪沙は残ったコーヒーを流し込み、休憩室を出ることにした。

 パーティションの向こうでは、かしましい会話が絶え間なく続いている。

 都市伝説の話題には飽きたのか、今度はプレゼントがどうのと盛り上がっているようだ。


 年度末目前。季節の変わり目で少し寒い日が続いている。

 暖房の効いているはずの休憩室は、なぜだか妙に肌寒く感じた。



 ✣ ✣ ✣



「……ふぅ。やっと終わった」


 時刻は二十三時。

 凪沙はなんとか山積みのデータを処理し終えた。

 最後のメールを送信し、即座にパソコンを閉じた。

 鞄を手に取ると、凪沙はすぐにオフィスを出た。

 オフィスにはまだ何人か残っていたが、挨拶する気力すら残っていなかった。


(はぁ……せめて明日が休みだったらよかったのにな)


 今から十時間後には、またここに来ることになる。

 そんな状況でも、オフィスから出ればなんだか少しだけ晴れやかな気分になった。


(くよくよしてても仕方ないもんね……そうだ。姪っ子の誕生日プレゼント、そろそろ買わないと)


 一度買おうと思い立った際、ちょうどいい物が見つからなくて、なんとなく後回しになっていた。


(なんなら今日、買って帰っちゃおうかな……あそこのお店なら、まだ開いてるだろうし……)


 なぜ、わざわざこんな日に買いに行こうと思うのか。凪沙自身にも謎だった。

 でも、気分屋なところのある凪沙からすれば、思い立ってしまうとそうせざるを得なかった。


 外の空気はひんやり冷たく、夜風が身を震わせる。

 駅までの道のりにある商店街は、シャッターの閉まった店が並ぶばかり。

 一本だけ脇道にそれると、目の前に明かりの灯った看板が現れた。


 二十四時間営業の雑貨店。その店内は閑散としていた。

 雑多な店の中を軽く物色する。

 すぐによさげなメイキングトイが見つかったので、なんなく買い物は終わった。

 包装してもらった玩具の入った紙袋を片手に、凪沙は店を後にした。



 ✣ ✣ ✣



 電車を降りる頃には、ちょうど日付が変わっていた。

 いつもはそれなりに人通りのある帰り道も、今日は静寂に包まれている。

 街灯もまばらで、十分とはいえない光量に、凪沙は若干の不安を覚えた。


 灯りの消えた民家が立ち並ぶ住宅街。

 コツコツと、パンプスが地面に触れる音だけが響く。


(遠回りでも、大通りから帰ったほうがよかったかな……?)


 あまり出歩いたことのない時間帯。

 夜道は思った以上に暗かった。

 治安は悪くない地域だが、特別いいとも言い切れない。


(でもまぁ……大丈夫でしょ……)


 不安を振り切るように足早に帰宅しようとした――その時。


「それ、プレゼント?」


 急な背後からの声に、凪沙はびくりと身体を震わせた。

 振り向くと、暗がりにスーツを着た女性が立っていた。


(びっくりした……他にも人がいたんだ……)


 肩までの黒髪に、細身のシルエット。

 顔は完全には見えないが、こちらをじっと見つめている。


「それ、プレゼント?」


「えっ?」


 女性は立ち止まったまま、再び同じ言葉を投げかけた。

 彼女の指先が、凪沙の持つ紙袋に向けられている。

 凪沙は思わず袋を握りしめ、一歩後ずさった。


「え、あの……」


(知らない人……だよね?)


 息がつまり、鼓動が速まる。


(不審者……? それとも、酔っ払いとか?)


 走って逃げようとする凪沙の脚は思ったように動かない。

 女性が一歩、前へ踏み出した。


「プレゼントじゃ……ないの?」


 プレゼントだとしたら、なんだというのか。

 さっさと答えて、この場を去ろう。

 無視をして激昂されるほうが恐ろしい。凪沙はそう考えた。


「姪へのプレゼントですけど……」


 凪沙の言葉を聞いた女性は、目立った反応を示さなかった。

 ただ、薄暗い闇の中で、彼女の口元が喜色に歪んだように見えた。


(気味が悪い……もう、逃げよう)


 凪沙は女性から視線を外さず、後ずさる。

 女性から動く気配は感じない。

 凪沙が振り返ろうとした瞬間、女性の声が響いた。


「あなた、優しいのね」


 その声を聞いた瞬間――凪沙の視界は暗転した。


 

 ✣ ✣ ✣



 凪沙が目を覚ますと、自室のベッドの上だった。


「……あれ?」


 いつもどおりの時刻。

 聞き慣れたアラームを止めて起き上がる。

 記憶が曖昧で、じんわりと頭が痛む。


(昨日は……そうだ、仕事でトラブルがあって……)


 久々の長時間の残業。

 システムトラブルで消えたデータの復旧は苦痛だった。


(そのあと、雑貨店に寄って……電車に乗って……)


 暗い夜道を一人寂しく帰路についたはず。

 そこまでははっきりと覚えている。


(その後は……?)


 凪沙には、家に帰るまでの記憶が欠如していた。


 着ているのはいつもの寝間着。

 玄関の鍵は閉まっている。

 メイクも落としているし、昨日着用していた服は洗濯カゴにまとまっている。

 何もかもいつもどおりだ。


(お酒を飲んだ覚えもないけど、うぅ……頭が痛い……)


 違和感がないことが違和感だった。

 仮にお酒を飲んだとしても、記憶を失くすようなひどい酔い方をしたことはなかった。


(そういえば、雑貨店で姪へのプレゼントを買ったはず)


 けれど、買ったはずのプレゼントの入った紙袋がどこにも見当たらない。


(……?)


 凪沙は買った時のことをしっかりと覚えていた。

 ビーズを使ったアイテムが作れるメイキングトイ。

 この春で年長になる姪にちょうどいいかと思って選んだプレゼント。


(ほんと、自分で思ってるより疲れてるのかしら……?)


 なにか自分では気づきづらい病気の兆候なのかもしれない。

 一度、病院に行ったほうがいいかもしれないな、と小さく息を吐いた。


 その時、部屋のテレビがついた。

 突然のことに、びくりと身体を震わせたが、凪沙はすぐに冷静さを取り戻した。


 なんてことはない。ただオンタイマー設定でテレビがついただけだ。

 アラームの保険に、いつも同じ時間につくように設定している。


 テレビに視線を向けると、ローカルニュースが流れていた。

 話題は昨日、休憩室でも聞いた行方不明事件についてだ。


『ただいま最新の情報が入りました。今月で四人目の被害者と思われる――』


 画面には一人の写真が映されている。

 肩口で切り揃えられた黒髪の、凪沙と同年代の女性。


「あれ? この人……」


 凪沙の脳裏に何かがよぎった気がした。


(どこかで見たことがあるような、ないような……)


 名前も報じられているが、心当たりはない。

 少し気にはなったが、こめかみがずきりと傷んだことで思考が途切れた。


(というか、はやく支度をしなきゃ! 遅刻しちゃう!)


 それなりに余裕を持った時間に起きてはいるが、長々と考え事をしていられるほどのゆとりはない。

 顔を洗ってメイクを済ませると、勤務用のカジュアルな服に着替える。


(プレゼント、もう一度買いに行かないとな)


 無くしてしまったものは仕方がない。

 レシートも一緒に袋にいれたままだったはず。あとからみつかれば、返品も受け付けてくれるかもしれない。

 記憶がないことはショックだったが、冷静な思考ができていることに安心を覚えた。


 朝食を定期購入している野菜ジュースだけで済ませて、凪沙は部屋を出た。



 ✣ ✣ ✣



 オフィスは昨日同様、ピリついた空気に満ちていた。

 トラブルがあろうがなかろうが、この時期はそもそもやることが多い。


 通勤途中、気づけば凪沙の頭痛は消えていた。

 むしろ、妙に頭がすっきりしていて、身体も軽く感じる。


 同僚たちと軽く挨拶を交わし、何事もなく業務が始まる。

 今日も今日とて平常運転。

 昨日のトラブルの影響は少なからず残っているようだが、凪沙のタスクには関係ないだろう。


 仕事を始めると、時間はあっという間に過ぎた。

 今日は残業もなく帰れそうなことに、凪沙はホッとする。


 定時に席を立ったのは、設備部では凪沙だけだった。

 同僚たちに挨拶をしてエレベーターに乗り込むと、先客が一名。

 同期の豊森とよもり寛太かんたがいた。


「よっ、宮浜。おつかれ。設備部、昨日は大変だったらしいな」


「うん、まぁね」


「こんな時期に不運だよな。年度末の忙しさって、何回経験しても慣れるもんじゃないし」


「ほんとにね。余力がある時でも、トラブルは勘弁だけど」


 エレベータの中で、二人は小さく笑い合う。

 寛太は同期の中でも出世頭。

 成長意欲が高く、責任感も強い。

 営業部のホープとして期待されている。


「豊森くん、いつも忙しそうだけど今日は定時退社なんだね」


「ん? あぁ、今日はちょっと予定があってな」


 その時、ふいに胸の奥がざわめき始めた。

 凪沙の視線が、寛太の手元に吸い寄せられる。

 彼の手には、紙袋が握られていた。


「それって、プレゼント?」


「えっ?」


 紙袋の中身は凪沙からは見えない。

 なぜプレゼントだと思ったのか、自分にも説明できなかった。

 凪沙の視線は紙袋を捉えて動かない。


「その紙袋、プレゼントじゃないの?」


「あぁ……そうだけど? 甥っ子の卒園祝いのプレゼントだよ。この後、会う約束をしてるんだ」


 寛太の言葉を聞いた凪沙は、笑みをこぼした。

 凪沙の視線は紙袋に縫い付けられたまま、口元だけが歪んだ。


「あなた、優しいのね」


 凪沙の声が響いた時、エレベーターは一階に到着した。

 三機あるエレベーターはすべて稼働していて、他のエレベーターからも退社する社員たちが次々と降りていく。

 オフィスのエントランスロビーでは、退社していく社員たちを警備員が見送っていく。


 凪沙の乗ったエレベーターのドアが開き、エントランスロビーの喧騒が流れ込んだ。

 到着したエレベーターの中には誰もいなかった。

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