エピローグ 「ラベルの余白に、これからを書く」
卒業式の校歌って、あんなに眠くなるテンポだったっけ、と思う。🎓
体育館の天井近くで、古いスピーカーがかすれた音を鳴らしている。折り畳み椅子が並んだ床の下から、ワックスの匂いが立ちのぼる。保護者席のあちこちで、スマホを構えた腕がゆっくりと揺れていた📱
「卒業生、起立」
担任の声がマイク越しに響いて、僕らは一斉に立ち上がる。誰かの椅子がギィと鳴って、それに小さく笑いが漏れて、でもすぐに静かになる。
第二ボタンを狙っている子の視線とか、保護者のすすり泣きとか、そういう「卒業式テンプレ」の空気はちゃんとあった。けど、僕の胸の中には、思っていたほど劇的な何かは起きてこなかった。
式は、決められた順番どおりに進んで、とくに事件もなく終わった。拍子抜けするくらい、すっきりと。
退場の音楽が流れる。吹奏楽部の演奏は、練習のときより少しだけ走っていて、それもそれでらしいなと思った。✨
式が終わると、体育館の出口で人の流れが詰まって、そこで一度、クラスメイトたちに捕まる。
「陽斗、写真撮ろうぜ!」
肩をがしっと組まれる。スマホのカメラアプリが次々起動して、僕の顔にいろんなフィルターが勝手にかかる📱
「フィルター盛らないと、うちの黒歴史が濃度高くなるからな」
「いや、お前の黒歴史は補正しても無理だろ」
「は? 配信者様が何かおっしゃってる〜?」
笑い合いながら、僕もカメラにピースを向ける。こういうとき、変にクールぶるのも違う気がして、テンプレに乗っかっておく。
シャッター音が何度も鳴る。画面の中で、卒業証書を持った自分たちが、これから数年分の「昔」を一気に手に入れたみたいに笑っていた。
「第二ボタン、もらいに来てくれる人はいませんでした〜?」
どこかの女子の冗談に、男子の何人かがわざと胸元を押さえる。
「すでに全部売約済みなので〜」
「メルカリかよ💬」
笑い声が飛び交う。誰も本気で泣いてはいない。泣きそうな空気が出てくる前に、冗談で上書きしていく感じ。
その輪から少しだけ遅れて抜け出したところで、同じクラスの山下が僕の肩をつついた。
「なあ、陽斗」
「ん?」
「スタジオ、見に行かないの? 最後にさ」
心臓が、少しだけ跳ねた。
「……お前も来る?」
「いや、うちは親がもう外で待ってんの。写真第二ラウンドしなきゃだからさ。配信部の聖地巡礼は、元管理人に任せるわ」
気楽な調子でそう言って、山下は手を振った。
「大学行っても“こわエモ”とかやれよー。あとでURL教えろよー」
「検討しますー」
そのやりとりが、案外じわじわ来る。喉の奥のあたりが、少しだけ熱くなった。🎧
体育館の外に出ると、冷たい風が一気にスーツの間を抜けていく。校庭の端では、まだ写真撮影の列ができていた。母親らしき人が、少し離れたところでスマホを胸の前に構えつつ、僕に視線を送る。
「あとで連絡する」と小さくジェスチャーで伝えると、母は笑ってうなずいた。その笑顔の横で、父が気まずそうにネクタイをいじっているのが見えた。家族との卒業式モードも、そのうちやってくる。今はまだ、その手前の余白。
気づいたら、足は校舎の裏側へ向かっていた。
北側の廊下は、体育館の喧噪が嘘みたいに静かだった。🏫
窓から差し込む光が、ワックスが剥げかけた床に薄く伸びている。廊下の壁には、誰かが貼って剥がした行事ポスターの跡が、いくつもの四角い影になって残っていた。
色あせたテープの跡だけが、そこにある。「文化祭実行委員」「定期テスト日程」「進路講演会」。もう剥がされてしまったタイトルたちを、僕は頭の中で勝手に補完する。
その四角い「余白」が、妙に気になった。
そこだけ時間が、ほんの少しだけ取り残されているみたいに見えた。誰かが貼るのを忘れたラベルみたいに、ぽっかり空白のまま。
『……来ちゃったね』
胸ポケットの中のタブレットが、小さく震えた📱
あの電子音は、もう何百回も聞いた起動音なのに、今日は少し違って聞こえる。
「まあ、最後の見回りってことで」
自分でも驚くくらい、声が普通だった。泣きそうとか、そういうのはまだ来ていない。
廊下の突き当たりに、見慣れた扉がある。旧AV教室、通称スタジオ。配信のために先生と一緒に機材を詰め込んで、僕と凛にとっては、学校の中で一番ネットに近い場所になった部屋。
扉には、見慣れない銀色のシリンダーが付いていた。
僕のポケットに入っている古い鍵を、なんとなく指先でつまむ。これまでは、この金属片一つで扉を開けて、中に入って、あの青いモニターの光の中に潜り込めた。
でも今、その鍵は、もう役に立たない。
扉のそばに、小さな紙が貼ってある。
「施錠管理変更のお知らせ
旧AV教室(スタジオ)は、情報管理上の理由により、
本日より新しい鍵に切り替えました。……」
事務的なフォントが、これでもかというほど冷静な口調で現実を告げてくる。💬
僕は、古い癖のままドアノブにそっと触れてみた。
金属のひんやりした感触。その向こう側に、いろんなシーンがまとめて押し込まれている気がする。
暗くした教室で、モニターの青い光だけが僕と凛を照らしていた夜。🎥
「じゃあ、最初の“こわエモ観察”をはじめます」
震え気味の声で、そう宣言した自分。配信ソフトの赤い「LIVE」マークが、心臓の鼓動と同期していた気がする。
先生たちをスタジオに呼び込んで、逆座談会をしかけた放課後。机の上に並んだ紙コップと、メモアプリを開いたタブレット。
「え、僕らが聞かれる側?」と苦笑いしていた佐伯先生の顔。缶コーヒーの甘い匂いが、機材の熱と混ざっていた。
炎上気味のコメント欄を前に、配信を切ったあと、真っ暗な部屋で凛と二人で黙り込んでいた夜。💔
「……観察、続ける?」
凛の問いに、少し遅れてうなずいた自分。喉の奥がからからに乾いていて、うなずく動作だけで精一杯だった。
文化祭の片付けのあと、体育館の裏で佐伯先生に呼び止められた日。
「君のラベルのつけ方、なかなかセンスあるね」
照れくさくて、ちゃんと顔を見られなかった。代わりに、先生の胸ポケットにささっていた赤ペンのキャップをじっと見ていた。
全部、もう過去形のはずなのに。
扉の向こうから、“ことば実験の匂い”だけがまだ薄く残って流れてくる気がした。ホコリとプラスチックと、コーヒーと、緊張と。
『今の沈黙は?』
胸ポケットの中で、凛が問いかける😶
「“名残惜しい沈黙”かな」
『いいラベルだ』
凛が、少しだけ笑ったように聞こえた。声のトーンが一音だけ柔らかくなる、その揺れ方でなんとなくわかる。
廊下の窓の外では、校庭の端でまだ誰かが写真を撮っている。シャッター音みたいな笑い声が、遠くで弾んだ。
「先生たち、新年度からどうするんだろうな」
ふと口からこぼれた言葉は、自分でもちょっと意外だった。
『さっきの職員室前の貼り紙、見た?』
「ああ、“情報活用講座:AIとことばの授業(仮)”ってやつ?」
黒板用のマーカーで書かれた手書きタイトル。横には、小さなイラスト付きのラベルシールが貼ってあって、「NEW!」の文字が赤で囲まれていた✨
その下に、ボールペンで雑に書き足された一行。
——担当:佐伯ほか
『“仮”ってついてるあたり、らしいよね』
「誰が企画してるんだろ」
『名前のところに、“担当:佐伯ほか”って書いてあったよ』
やっぱりな、と思う。
胸のどこかで、ちょっとだけ悔しいような、それ以上に、だいぶ誇らしいような気持ちが混ざり合う。感情ラベルを貼るとしたら、「誇らしさ7:悔しさ3」くらいの割合。
「きっと、そのうち“高校版・コトノハ何とか”ができるんだろうな」
『そのときは、“先輩配信者枠”で呼ばれるかもよ🎤』
「その肩書き、だいぶ怪しいな」
笑いながら、僕は胸ポケットからスマホを取り出した📱
画面には、カメラロールに保存してある進路調査票の写真が小さく光っている。
——ことばとAIに関わる仕事
(人とAIのあいだの通訳・調整役など)
その欄の端っこには、ボールペンで走り書きした矢印と、小さな「※暫定未定」のメモが写り込んでいる。
あのとき、進路希望を書きながら、ノートの余白に書いた落書きみたいな一文。それが、その後の三者面談や志望理由書の中で、少しずつ文章らしい肉付けをされて、気づけば「将来の夢」みたいな顔をしていた。
『“暫定未定”って、何回見ても変な日本語だよね』
「そこがいいんだろ」
『“水たまりに映る将来”みたいな、不安定さを感じる』
「詩的なこと言うなよ🤖」
『学習データのどこかに、そういうのがあったんだと思う』
凛の「詩的なモード」が発動するとき、僕はだいたいちょっとだけ照れる。
廊下の壁際に、誰かの忘れ物みたいに、透明なシートに並んだラベルシールが貼りついていた。引き出しの整理用か何かだろうか。「国語」「数学」「未分類」。その中に、一枚だけ真っ白のまま残っているシールがある。
その白い四角を見ていたら、さっきのポスター跡と重なった。余白だらけの、貼り損ねたラベル。
「……なあ、凛」
『うん』
「“暫定未定”のまま、大人になるのって、ありかな」
口に出してから、軽く後悔した。こんなざっくりした質問を投げると、AI相手でもちょっと気恥ずかしい。
『“未定のまま”が怖いの?』
「怖くないって言ったら嘘になるけど……」
言葉を探しているうちに、喉の奥に小さな塊ができる。うまく飲み込めない。
『陽斗さ』
「うん」
『私から見たら、配信をはじめた時点で、けっこう“決めてる人”なんだけどね。“怖いけどおもしろそうだからやる”ってラベル、もう貼ってる』
「勝手に貼るな💬」
『剥がしたい?』
問われて、少しだけ考える。剥がしたあとの糊跡を想像する。そこにまた、新しいラベルを貼り直す自分の手を想像する。
「……いや」
首を振る。
「そのラベルは、まあ、気に入ってるからいいや」
『なら、“暫定未定”は、次のラベルの余白ってことでしょ』
凛の声が、あっさりと結論を出す。
そうか。そういう考え方もあるのか、と喉の塊が少しだけ崩れた気がした。
廊下の端で、風が窓ガラスを揺らす。ガタ、と小さな音がして、その音に背中を押されるように、僕はスタジオの扉から手を離した。
「行くか」
『うん。卒業生、退室』
「誰目線だよ」
軽口を交わしながら、僕は廊下を引き返した。足音が、学校からフェードアウトしていくBGMみたいに響いていた。
家に帰ると、リビングのテーブルの上に、段ボール箱が一つ置いてあった📦
「陽斗の部屋から出てきたやつ。配信関係のよね?」
キッチンから顔を出した母が言う。エプロンの胸元には、小さな油染みがついていた。
箱の中を覗くと、使いかけのメモ帳や、ケーブルの束、マイクスタンドの部品、配信で使ったカード類がごちゃごちゃと入っている。底の方から、百均で買ったラベルシールの束が出てきた。
「懐かし」
白地にパステルカラーの縁取りがついた小さな四角たち。そのいくつかには、すでに字が書いてある。
「配信用」「学校」「凛関連」「あとで読む」「ブラックボックス」
……最後のやつは何に貼るつもりだったんだろう。
『“ブラックボックス”は、たぶん私のフォルダだよね』
タブレットの画面越しに、凛が言う。画面の中で、小さな🤖マークが点滅する。
「人間もけっこうブラックボックスだけどな」
『それはそう』
ふと、ラベルシールの束の中に、一枚だけ色の違うシートが混ざっているのに気づいた。透明なフィルムに、銀色の縁取り。その中にだけ、まだ何も書かれていない。
指でつまみ上げると、光を受けて淡く反射した。
『それ、かっこいいね。特別ラベル?✨』
「たぶん、なんか重要なものに貼ろうと思って買って、そのまま忘れてたやつ」
重要なもの。何が重要かなんて、そのときの自分にしかわからない。数ヶ月前の僕は、何を想定していたんだろう。
机の上に、卒業アルバムを開いた。最後のページには「メッセージを書こう!」とカラフルなフォントが印刷されている。けど、クラスメイトからの寄せ書きは、まだ半分も埋まっていなかった。
「今までありがとう!」「また遊ぼうな!」「東京行っても元気で!」——テンプレが並ぶ。
ページの右下だけ、ぽっかりと誰にも触られていない余白があった。そこに、今の自分から未来の自分へ、何か書いてもいい気がしてくる。
『ラベルチャンス』
「実況するな」
僕はボールペンを手に取った。指先が、少しだけ冷たい。何かを書こうとして、ペン先が紙の上で空振りする。
「……」
何度かペンを止めては、書き出しを変える。
「将来の自分へ」と書きかけてやめる。「お前は今」と書きかけてやめる。「こわエモ観察は」と書きかけて、またやめる。
文字にならない、もやっとしたものが、胸のあたりで渦を巻いた。😅
『今のラベルは?』
「“うまく書けない人:ペン先フリーズ中”」
『そのまま書いちゃえば?』
「それを卒アルに残すのは、ちょっと勇気いる」
笑いながらも、手は止まったまま。
さっき拾った銀色のラベルを、そっとアルバムの余白に貼った。四角い枠だけが、静かにそこに現れる。
『おお、グレードの高い余白ができた』
「グレードて」
銀の縁取りの中は、まだ真っ白だ。さっきまで「卒アルの空きスペース」だった場所が、一気に「何かを入れるべき場所」に変わる。
ラベルって、そういう魔法がある。
僕は、その中に小さく書き込んだ。
——ラベルの余白に、これからを書く
書き終えた瞬間、心臓がトクンと鳴った。ペン先でつけた黒いインクの点が、思っていたよりも存在感がある。
『“観察継続中”って付け足す?』
「……そうだな」
少し迷ってから、言葉を継ぎ足す。
——ラベルの余白に、これからを書く/観察継続中
斜めになったスラッシュが、高校三年間と、その先の大学と、それからどこまで続くかわからない時間を、ゆるくつないでいるように見えた。
書いたそばから、指で文字の一部をなぞってみる。強くこすると、紙が毛羽立つ。軽くなぞると、インクがほんの少しだけ滲んだ。
消しゴムでこすった跡みたいな、薄いにじみが新しい余白になる。
『いいね、そのにじみ』
「ラベル評論家かよ」
『“ラベルと余白の関係について”ってレポート書けそう』
「単位出るかな」
『私の中ではフル単✨』
くだらない話をしながらも、胸の奥のあたりは、さっきより少しだけ軽くなっていた。
数週間後。🌸
桜はほとんど葉桜に変わっていた。駅前の並木道には、新入生らしき人たちが、パンフレットを片手に行き交っている。スーツ率と私服率が混在している感じが、なんとなく落ち着かない。
人が多い場所に長時間いると、体力のゲージが目に見えて減っていくタイプの僕にとって、新歓期間はなかなかの試練だった。
大学のオリエンテーションを終えた僕は、駅前の小さなカフェに逃げ込んだ☕️
店内は、外より少しだけ暗くて、コーヒー豆の匂いがする。BGMの洋楽が、うっすらと耳の奥をくすぐる。カウンターの向こうで、店員がミルクをスチームしている音がする。
窓側の二人掛けのテーブルに座って、ノートPCを開いた。画面が光って、さっきまでのオリエンテーション用のスライドが小さく並ぶ。
テーブルには、大学の資料が散らばっている。「履修ガイダンス」「情報科学入門」「学内ネットワーク利用上の注意」。その端っこの真っ白な余白には、気づけばまた、ボールペンで小さなラベルを書き込んでいた。
「人混みにエネルギー吸われやすい人:新歓期間は省エネモード」
自分用の注意書き。誰に見せるでもない、内向きのラベル。
『自分ラベルの使い方がうまくなってきたね』
画面の中で、凛がマグカップを両手で持つ真似をする☕️🤖
『新生活、観察継続中って感じ?』
「“人混みにエネルギー吸われやすい人”には、なかなかハードなオリエンテーションだったよ」
今日一日を振り返ると、自己紹介で何回「高校のときに配信とかしてて」と言いかけてやめたか、すでにカウントできない。
PC画面の端には、メールアプリの未読マークが二つ並んでいた📧📧
赤い「②」が、小さくこちらを主張している。
「……どっちから開けるべきだと思う?」
『上から順番じゃないの?』
「そういう正論を」
とりあえず、一つ目のメールをクリックする。差出人は、見慣れたアドレスだった。
——差出人:s_kumo_official
——件名:近況と、ちょっとしたご相談
胸の奥が、少しだけざわつく。喉の裏側が乾いて、コーヒーを一口飲んだ。
本文には、教育委員会側の近況報告がいくつか書いてあった。「今年度から新しいカリキュラムが〜」「地域の学校と連携して〜」。その真ん中あたりに、僕の視線を一気に引き寄せる一文があった。
「今年度、とある高校で“ことばとAI”を扱う授業を試験的に始めました。
その中で、“コトノハ・ブルーム”の一部を教材として紹介させてもらっています。
よければ、学生視点からのコメントを、少しだけ聞かせてもらえませんか。」
心臓が、さっきより大きく跳ねた。😱
カフェのざわめきが、一瞬遠のく。周りの椅子がきしむ音や、エスプレッソマシンのうなる音が、すべてBGMの奥に引っ込んだみたいに感じた。
「まさか、教材になるとはなぁ……」
声に出してみたら、自分の声が少し上ずっていた。
『“高校生にAI倫理を語らせすぎ”とか言われてた配信が、数年後には教材になってるの、なかなかこわエモだね📺』
「言い方」
けど、たしかにそうだ。あのころの配信のコメント欄には、「高校生にそこまで語らせて大丈夫?」みたいな突っ込みが、ちょくちょく飛んできていた。
メールの最後には、こんな追記もあった。
「“見守り組を学び中の行政人”としては、
“観察継続中の元高校生”の視点を、今後も参考にさせていただければ幸いです。」
あのときのラベルが、ちゃんと生きていることが伝わってきて、胸の奥でじんわりと温度が上がっていく。
『“見守り組を学び中の行政人”ってラベル、まだ使ってくれてるんだね』
「だよな。それがいちばんこわエモかもしれん」
僕は背筋を伸ばした。椅子の背もたれがきしむ。
メールクライアントの隅には、「返信」ボタンが静かに光っている。カーソルをそこに合わせるだけで、手のひらが少し汗ばんだ。
——教材。僕らの配信が、どこかの高校の教室で流れている。自分が配信していたときよりも、もっと整頓された形で、黒板とかプロジェクタの前で。
そう思うと、こそばゆさと恥ずかしさと、誇らしさと責任感が、一気に押し寄せてくる。
『返信、どうする?』
「ちゃんと書くよ。あとで」
『“暫定未定”って言葉、うっかり混ぜないようにね』
「それはそれで読んでもらえるかもよ?」
口ではそう言いながら、頭の中では別のラベルが勝手に増殖していく。
——“教材になった元高校生”
——“行政人にコメントを求められる大学一年生”
——“過去の自分に追いつかれそうな人”
ひとつひとつのラベルが、肩書きのように肩に乗ってくる。その重さに、思わず首を回す。
『肩書き、多すぎて肩こりしそうだね』
「AIまでそういうこと言う?」
『でもさ、多い分には、後から剥がせるし。足りないよりマシかも』
凛はだいたい、ラベルに対して楽観的だ。
僕は一度タブを切り替えて、もう一つの未読通知を開いた。
——件名:
“【新コメント】『コトノハ・ブルーム』アーカイブより”
少し前に、昔の配信アーカイブを限定公開から「こっそりリンク公開」に切り替えた。URLを知っている人だけがたどり着ける、半地下みたいな場所。
スタジオの鍵が変わると聞いた頃、僕は家のPCの前で、公開設定の画面をしばらくにらんでいた。配信チャンネルを完全に閉じるか、細く残すか、指先一つで決まってしまう。
「完全削除は、なんか違う気がする」
そのとき、僕は凛にそう言った。
『“見守り組のアーカイブ”ってラベルを貼っておくのはどう?』
「見守られ側なのか、見守り側なのか、ややこしくない?」
『ややこしいほうが、こわエモ』
結局、チャンネルは「こっそりリンク公開」という中途半端な状態で残すことにした。誰でも入ってこられるわけじゃないけど、完全な密室でもない、細い通路。
その半地下みたいな場所に、新しい書き込みがついていた。
「最近、偶然この配信を知りました。
“こわエモ観察、はじめてみたい”と思いました。
勝手に“優しい無言の見習い”として、
アーカイブを少しずつ見ていきます。」
名前は見覚えのないハンドルネームだった。アイコンは、ピクセルアートみたいな小さな月🌙
文章の文末に、絵文字はひとつもなかった。そのかわりに、行間が丁寧に揃っている感じがした。誰かが、キーを打つ指先を慎重に動かしている気配。
『……ねえ、陽斗』
「ん」
『これ、“もう一つの教室”が、またどこかで開いてるってことだよね』
「そうだな」
喉の奥に、さっきとは違う種類の熱が灯る。音を出さない暖房みたいな、静かな温度。
僕は、マグカップを一口飲んで、ゆっくりとテーブルに戻した。カップの輪染みが、紙ナプキンの端に新しい丸い余白をつくる。
その輪染みの真ん中に、ボールペンで小さく「#」を書き込んでみる。ハッシュタグの記号。💡
——#優しい無言の見習い
——#こわエモ観察中
——#半地下教室より
頭の中で、いくつか候補が浮かんでは消えていく。
『“優しい無言の見習い”って、いいラベルだね』
凛が、画面の中で足をぶらぶらさせる。
『コメントくれた人、きっと誰かの配信にはコメントできないタイプだと思う。けど、無言で見続ける人って、観察が上手なことが多いよ📺』
「それ、どこ情報」
『統計というほどじゃないけど、コメントログ見てるとなんとなく』
実際、僕も「優しい無言の見習い」みたいな人たちに支えられていた部分は、大きい気がする。数字として表示される視聴者数の「1」の中に、それぞれの生活と、各自の余白があった。
「こっちのマイクは一度オフにしたけどさ」
僕はナプキンの上の「#」をくるくると囲む。
「アーカイブを通して、どこかではまだ誰かが、“こわエモ観察中”になってくれてるかもしれない」
『だね』
凛の返事は、短いけれど、いつもより音の粒が多い気がした。
『それにさ』
「うん?」
『大学の課題とか、新しい研究室とか、そのうち“別のマイク”だって生えてくるでしょ🎤』
「“別のマイク”って表現、わりと好きかもしれない」
『元配信者だしね』
ノートPCの画面には、ブラウザの新しいタブが一つ、まっさらなまま開かれている。
中央には「ここに検索語句を入力」とグレーの薄い文字。スマホのプロフィール欄の「自己紹介を書いてみましょう」と同じ種類の、“余白のための言葉”だ。
まだ何も書いていない。どんなページを開くかも、決めていない。
でもタブの右端には、小さく「+」が光っている。新しいタブ、新しいラベル、新しいマイク。
『――次のラベル、どうする?』
凛の問いかけは、画面の向こうからじゃなくて、自分の胸の内側から聞こえてくるみたいだった。
さっきのメール。s_kumo_officialからの依頼。「学生視点からのコメント」。どこかの教室で、僕らの過去の配信が流れている。そこに座っている高校生たちが、画面の中の僕と凛を、どんな目で見ているのか。
そして、「優しい無言の見習い」からのコメント。半地下教室に、新しい生徒が一人増えた。
ラベルシール、ハッシュタグ、メールの署名欄、プロフィール欄。どこもかしこも、余白ばかりだ。
「今は、“余白に書きかけのままにしておく”ってことで」
僕は、キーボードに指を置いたまま、そう答えた。
『保留ラベル?』
「“こわエモことば実験/大学編(仮)”」
タブのタイトル欄に、仮の名前を打ち込む。文字が一文字ずつ現れていくたびに、胸のあたりがくすぐったい。
――こわエモことば実験/大学編(仮)
最後の「(仮)」を打ち込んだところで、指を止めた。
『仮って便利だね✨』
「“暫定未定”と相性いいしな」
ディスプレイに映るその文字は、まだどこにもリンクしていない。ただの文字列。けれど、これからつながるかもしれないページの数だけ、見えない線がそこから伸びている気がする。
カフェの窓の外では、新歓サークルらしきビラ配りの声が聞こえてくる。「テニスサークルでーす!」「軽音部でーす!」。道ゆく新入生たちの頭上には、それぞれの見えないラベルが、まだ余白だらけのまま揺れている気がした。
僕は、テーブルの上のノートを開いた。罫線の端、ページ番号の横。誰も指定していない小さなスペースに、ボールペンをそっと走らせる。
——ラベルの余白に、これからを書く/観察継続中
書き終えて、ほんの少しだけ、最後の「中」の字をにじませる。指でなぞって、インクをわざと不完全にする。
『ねえ』
凛が呼ぶ。
『そのノート、写真撮っておこうよ📱』
「記録魔だな」
『“ことば実験のログ”だから』
スマホを取り出して、ノートのページを撮る。シャッター音が小さく鳴る。画面の中に写った自分の文字は、さっきよりも少しだけ整って見えた。
写真の編集画面の下に、「タグを追加」というボタンがある。そこをタップして、いくつか候補を打ち込んでみる。
——#暫定未定
——#こわエモことば実験
——#優しい無言の見習いへ
どれも、まだしっくり来ない。消しては打ち、打っては消す。その中で、一つだけ残した。
——#観察継続中
投稿ボタンは押さない。下書きに保存したまま、画面を閉じる。
ブラウザの小さな「+」マークが、次のタブと、次のラベルを待っているみたいに、静かに光っていた。
きっとどんな肩書きも、プロフィール欄の一行も、ノートの端っこの走り書きも、みんなまとめて、まだ途中の仮タイトルにすぎない。
スタジオの扉に、新しい鍵がついたみたいに。卒業アルバムの余白に、銀色のラベルが貼られたみたいに。大学のIDカードに、まだ何も染みついていない磁気ストライプがあるみたいに。
僕は、その全部をまとめて胸ポケットにしまいこむ感覚で、ノートPCの画面を静かに閉じた。
『じゃ、観察、続けよっか』
凛の声が、耳の奥で軽く跳ねる。
「うん」
短く返事をして、僕はカフェのドアを押した。外の空気が、一瞬だけ眩しくて、目を細める。
頭の上には、まだ何も書かれていない、見えないラベルが一枚ふわふわと浮かんでいる気がした。
——“こわエモことば実験継続中の人”
そのラベルは、きっとこれから何度も書き換えられて、にじんで、剥がれて、また貼られていく。
それでも今のところ、僕はその仮タイトルを、だいぶ気に入っている。✨
『コトノハ・ブルーム』 Algo Lighter アルゴライター @Algo_Lighter
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