バカップルホラー「ここ惚れわんわん」

志乃原七海

第1話# バカップルホラー:ここ惚れわんわん

## バカップルホラー:ここ惚れわんわん


夜のとばりが降りたばかりの新宿の交差点。薄いブルーグレーの空の下、横断歩道のストライプが冷たく光っている。


そこに立っているのは、一見、目を引くカップル。だが、その光景はどこか異様だった。


タケル(30歳)は、全身真っ黒なシャツとパンツに身を包み、鋭いサングラス越しに冷徹な視線を投げかけている。その手には、一本の細長い革のリード。


リードの先、彼から数歩離れた位置にいるのが、ミサキ(26歳)。彼女はタイトなスカートにハイヒールというオフィススタイルながら、両手は背中で手錠に繋がれ、首元には太い革のチョーカー。そして、そのチョーカーにタケルの持つリードが繋がれていた。ミサキは、まるで無理やり引き止められているかのように、腰をかがめて苦悶の表情を浮かべている。


**「…タケル、もういい加減にしてよ。周りの目、気にならないの?」** ミサキがかすれた声で訴えた。


タケルは微動だにせず、ただニヤリと口角を上げた。


**「何言ってるんだ、ミサキ。これは俺たちの愛の試練だろ?『リードプレイ』。お前は俺に完全に服従し、俺はお前を完全に支配する。最高のエクスタシーだ」**


**「エクスタシーなわけないでしょ!痛いし恥ずかしいし…ただの露出狂だよ!」**


ミサキは、タケルが最近ハマり出したという「究極の愛の形」と称するこの遊びに、うんざりしていた。最初は秘密の部屋だけだったはずが、タケルはどんどんエスカレートし、ついに人通りの少ない夜の街でまで要求するようになったのだ。


タケルはリードをわずかに引き、ミサキを自分の方へ半歩寄せた。


**「うるさいな。わんわん。さあ、言え。『ここ惚れ、わんわん』って」**


**「はあ?なんで私がそんなこと…」**


**「言わないと、このまま会社の前まで散歩だぞ?それとも、あの角の交番に挨拶に行くか?」**


タケルの目は本気だ。ミサキは屈辱に顔を歪ませたが、観念したように小さな声で言った。


**「…ここ惚れ、わんわん」**


タケルは満足そうに笑った。


**「よし、いい子だ。だが、まだ足りない。俺に本当に惚れてるなら、もっと気持ちを込めて言えるはずだ」**


ミサキの頬に涙が伝った。彼が求めているのは、愛ではなく、彼女の魂の完全な屈服だ。


**「ねえ、タケル。あなた、いつからそんなに変わっちゃったの?昔は優しかったのに」**


**「変わったんじゃない。進化したんだ。お前を完全に手に入れたい、この衝動こそが、本物の愛だ」**


その時、ミサキの背後に、一台の車がゆっくりと近づいてきた。運転席の窓が開き、年配の男性が顔を出した。


**「ちょっと君たち!こんなところで何してるんだ!公然わいせつだぞ!」**


タケルは眉をひそめた。邪魔が入ったことに苛立ちながらも、一応、リードを緩めて男性に向き直った。


**「なんだおっさん。これは躾だ。俺たちの愛の形に口出しするな」**


男性がさらに何か言い返そうとした瞬間、ミサキの目がカッと見開かれた。


彼女は突然、渾身の力で背後の手錠を引きちぎった。金属が軋む音とともに、手錠のチェーンが砕け散る。


**「なっ…ミサキ!?」** タケルが驚愕した。


ミサキは解放された両手を広げ、タケルの方へ向き直った。彼女の顔には、もはや屈辱も悲しみもない。あるのは、冷たい、凍てつくような笑みだった。


**「…私は、もう**あなたの**わんわんじゃない」**


ミサキは素早く、道路に落ちていた砕けた手錠の片割れを拾い上げると、それをタケルの首筋めがけて突き刺した。


**「うぐっ…!」**


タケルは、愛する(と信じていた)ミサキの豹変に、最後の言葉を失った。


**「私が『惚れた』のは、あなたの弱点よ」**


タケルの体が崩れ落ちるのを見届けたミサキは、冷たいアスファルトの上で、首のチョーカーと血の付いた手錠の破片を、まるでゴミのように投げ捨てた。


彼女は血の付いた手を拭うこともせず、タケルのサングラスを拾い上げ、自分の目にかけた。


そして、交差点の信号が青に変わる。


ミサキは、黒いハイヒールをカツカツと鳴らしながら、何事もなかったかのように、一人、闇の中へと歩き去っていった。


彼女の背中に向かって、さっきの車の男性が震える声で叫んだ。


**「お、おい!今の女、どうしたんだ…!?」**


彼の問いかけに応える声は、もう、どこにもなかった。


(終わり)

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バカップルホラー「ここ惚れわんわん」 志乃原七海 @09093495732p

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