空き地とホームレス

@isshobouzu

空き地とホームレス

 仕事を終えてアパートに戻ったのは、夜の九時を少し回った頃だった。

 三階建ての安アパートの外階段を上がると、共用廊下にはカレーと洗剤が混ざったような匂いがこもっている。俺は、社名入りの作業着の上着を片手にぶら下げたまま、自分の部屋の鍵を回した。


 六畳一間の部屋は、朝出て行ったときと何も変わらない。カーテンは閉じたままで、テーブルの上には朝飲みかけたペットボトルと、開封済みの宅配チラシが散らばっている。

 鞄を部屋の隅に置き、汗で少し重くなったを作業着をハンガーに掛ける。コンビニの袋からカップ麺を取り出し、電気ケトルに水を入れてスイッチを押す。湯が沸く音を聞きながら、油と埃の染みた作業ズボンを脱ぎ、部屋着のジャージに履き替える。湯が沸くと麺の上に注ぎ、スマートフォンのタイマーを三分にセットした。


 鳴り終わった通知音を指先で止め、ふやけかけた麺を箸でほぐしながら黙々と口に運ぶ。スープまで飲み干してから、どんぶりをシンクに置き、歯を磨き、顔だけ簡単に洗う。


 一連の動作を終え、タバコの箱とライターをポケットに入れてベランダに出る。アルミサッシの戸を開けると、冷えた空気が一気に流れ込んでくる。ベランダの手すり越しに見えるのは、似たようなアパートの外壁と、その向こうの国道を走る車のヘッドライトだけだ。

 俺は一本タバコを抜き、唇にくわえて火をつける。煙を吸い込み、ゆっくり吐き出す。


 白い煙が、街灯の明かりを受けて薄く散っていく。その筋を目で追っているうちに、胸の奥に昔の光景が浮かび上がった。


 ああ、そういえば──あの頃も、空気はこんなふうに冷たかった。



 俺が少年だった頃、学校から家までは歩いて二十分ほどだった。

 住宅街と古い商店街の境目を抜け、小さな川に沿って続く道路を歩く。舗装はされているが、道端には砕けたブロックや割れた瓦が積まれた空き地が残っていて、その向こうには、使われなくなった倉庫がぽつんと建っていた。


 本当は別の道を通りたかった。大通りに出て遠回りをすれば、車も人も多くて、安全だった。

 それでも、いつも川沿いの近道を選んでいた。どの道を通っても、結局どこかで見つかるのだと分かっていたからだ。

 いつも、ランドセルを背負ったまま、できるだけ早く足を運んでいた。

 靴の裏で砂利を踏む感触が、やけに大きく感じられる。


「おーい、また一人で帰ってるぞ。」


 前を向いたまま歩いていても、背中のほうで笑い声がした瞬間、誰がそこにいるのかは分かった。


 次の瞬間、足元に小石が転がってきた。

 俺が歩く速度を緩めると、その隙を逃さず、もう少し大きな石が脛をかすめていく。痛みは我慢できる程度だったが、ズボンの布に白い傷のような跡が残った。


「走ってみろよー」

「あははっ、おっせー」

「やっちゃえやっちゃえ」


 石だけでは済まない日。

 道端の土をつかんで投げつけられ、シャツに茶色い汚れが広がる。

 背中を押されて転び、手のひらと膝を泥で汚した。

 俺は反射的に腕で頭をかばいながら、できるだけ言葉を発さないようにする。何か言い返せば、それだけ長く続くと知っていたからだ。



 いじめは毎日少しずつ形を変える。


 その日の帰り道、空はもう薄暗くなりかけていた。低い雲が空気の湿気を押さえ込むように垂れ込める。


 いつもの空き地の脇を通りかかったとき、前方に人影が動いた。

 同級生の集団だった。奴らは俺を見つけると、わざとらしく笑いながら道の真ん中に広がった。


「おい、ちょうどいいやつ来た。」

「あははっ、相変わらずきったね」


 一人がそう言って、空き地のほうへと俺の肩を押した。抵抗しようとすれば簡単に腕をねじられ、ランドセルの肩紐が肩からずり落ちる。

 地面には、さっきまで遊んでいたのだろう、泥水を張った洗面器のような容器と、ひびの入った瓦のかけらがいくつも転がっていた。


「顔洗ってけよ。汚ねえから。」

「遠慮すんなって」

「ほら、はよせーや」


 笑い声と一緒に、後頭部をつかまれる。

 思わず顎を引いたが、そのまま容器のほうへと押し倒され、水面が一気に視界に近づいた。


 冷たい水が鼻と口をふさぎ、息を吸おうとしても吸えない。腕を振りほどこうとしても、背中と肩を押さえつける手の力は強かった。

 耳の中に水の音が入り込み、周りの声が遠くなる。頬に硬い縁が当たり、額のあたりがじんと痛む。苦しさと恐怖で、どこに力を入れればいいのか分からなくなった。

 ようやく頭を引き上げられたとき、冷たい水と一緒に、濁った泥が顔を伝って顎から落ちていった。息を吸い込もうとして咳き込み、視界がにじむ。目をこすろうとした手も、泥と水で滑ってうまく動かなかった。


「もう一回いっとく?」

「いいね、あと2周はしようぜ」

「うえ、こいつ鼻水出てるぜ、きっしょいなー」


 誰かがそう言って笑い、また背中に手がかかったそのときだった。


「おい、何やってんだお前ら!」


 よく通る声が空き地の端から飛んできた。

 いじめっ子たちの手が一瞬ゆるみ、俺は洗面器の縁にもたれかかるようにして顔を上げた。


 声のしたほうを見ると、ブロック塀の切れ目のあたりに男が立っていた。


 年齢はよく分からない。髪は耳のあたりで伸び放題で、あごには剃り残したひげがまだらについている。色あせたジャンパーの前はきちんと閉まっておらず、中からはよれたトレーナーの襟がのぞいていた。ズボンの裾には泥がこびりつき、スニーカーはどこかの廃材置き場から拾ってきたように擦り切れている。

 片手には、くしゃくしゃになったコンビニのビニール袋を提げていた。


 男は、いじめっ子たちから目を逸らさずに口を開いた。


「そいつから手ぇ離せ。」


 淡々とした声だったが、近くで聞くと喉の奥が枯れていて、言葉の端が少し擦れている。そのせいで、怒鳴っているわけでもないのに、どこか刺さる響きがあった。


「は? なんでおっさんに言われなきゃなんねえんだよ。」


 一人が吐き捨てるように言い、まだ俺の肩に手を置いたまま男をにらんだ。

 別の一人は、足元にあった瓦のかけらをつま先で転がしながら笑っている。


「関係ねえから黙ってろよ。ホームレスのくせに。」


 しかし、そう言ってみせるものの男との距離を保ったまま、これ以上近づこうとはしなかった。

 男はその様子を一度だけ見回すと、しゃがみこんで地面に落ちていた別の瓦片を拾い上げた。


 手の中で軽く重さを確かめるように持ち替え、次の瞬間、それをいじめっ子たちの足元めがけて投げつけた。

 狙いは正確で、瓦片は一番前に立っていた少年の靴のすぐ横に当たり、乾いた音を立てて砕け散った。


「い、いってぇな!」

「なにすんだよ!」


 口ではそう言いながら、本能的に一歩ずつ後ろに下がった。

 顔つきからは強がりが消えないが、目の奥に一瞬だけ、相手が「大人」であることを思い出したような戸惑いが浮かぶ。


 男は立ち上がり、瓦の破片が散った足元を指さした。


「次は靴じゃ済まさんぞ。お前らの親んとこ行って、今の全部話してやってもいい。ここで遊んでることも、”お友達”の顔を水に突っ込ませたことも、な。」


「はあ? 親とか関係ねーし。」


 そう言った少年も、言葉とは裏腹に視線をそらした。


 学校では先生に怒られることはあっても、こういう種類の大人は、どう扱っていいのか奴らには分からない。汚れたジャンパー、伸びた髪、どこに住んでいるのかも分からない相手。

 殴ってくるのか、怒鳴るのか、何をするのかが読めない。


「行こうぜ。くせえし。」


 一人がぼそっと言い、少年の肩から手を離した。

 残りの二人も、まだ何か言ってやりたいという顔をしながら、男と目が合うとすぐに視線をそらして空き地の出口のほうへ向かう。


「チクんなよ、分かったな。」


 去り際に、俺のランドセルを軽く小突くように叩いて、一人がそう言った。

 俺が何も返事をしないのを確認すると、小さく笑い声を上げながら、奴らは川とは反対側の路地へと走り去っていった。


 空き地には、水の入った容器と、砕けた瓦片と、ぐっしょり濡れた俺だけが残された。

 男はしばらく彼らの背中を目で追っていたが、やがて興味を失ったように肩をすくめ、俺のほうへ視線を戻した。

 それが、俺がそのホームレスと初めて出会ったときのことだった。


 俺は濡れた前髪を額から払って、ぎこちなく立ち上がった。

 ランドセルの紐を持ち上げる手が小刻みに震えている。ホームレスの男はそれを見るでもなく俺に近寄ると、空になった洗面器をつま先で遠くへ蹴飛ばし、鼻の奥で短く息を鳴らした。


「……怪我はしてねぇか。」


 そう言って、男はポケットを探り、ぐしゃぐしゃになったハンカチを取り出した。

 色も柄もよく分からないほど薄汚れていたが、水と泥で顔をぬぐえと言って、俺のほうへ差し出す。


 俺は一度それを見てから、自分の袖で頬を拭いた。


「いらない……」


 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。

 男は「そうか」と短く答え、ハンカチをまたポケットに押し込んだ。

 立ち去るのかと思ったが、その場から動こうとはしない。俺の視線は、男のジャンパーの裾や、破れかけたスニーカーの先ばかりをうろうろしていた。


「家、あっちか。」


 男は川の下流を顎で示した。

 少し間を置いてから、小さくうなずく。


「じゃあさっさと帰れ。風邪ひくぞ。」


 それだけ言うと、男は空き地の奥、使われていない倉庫のほうへ向かって歩き始めた。

 俺はしばらくその背中を見ていたが、やがて濡れた靴の中で指を丸めながら、川沿いの道を家のほうへと歩き出した。



 それから数日は、何も起きなかった。

 学校でのいじめは相変わらずだったが、空き地の洗面器は片づけられていて、その周辺ではいじめられなくなった。

 俺はなんとなく、できるだけ大通りに近い側を歩き、空き地のほうを見ないようにして帰った。いじめっ子とは別の意味で、あの男も当時の俺には十分怖い相手だったからだ。


 でも、一度体験してしまったものは、頭から完全には消えなかった。

 ランドセルの重さを肩で感じながら歩いているとき、ふと、倉庫の影のあたりに誰かの姿がある気がして、足が勝手に遅くなる。

 見なければ当然何もいない。だが見れば、あの汚れたホームレスが、そこにいるかもしれない。


 五日ほど経った帰り道、俺は立ち止まった。

 空き地の前で、ためらうように歩幅を狭める。倉庫のほうをちらりと見ると、ブロック塀にもたれて座っている男の姿があった。

 足を伸ばし、膝の上でコンビニのビニール袋をいじっている。


 男は俺に気づいたのかどうかも分からない顔つきで、袋の口を指で広げ、中身をさぐった。

 取り出したのは、小さなスナック菓子の袋だった。口を開け、自分で一つつまんでから、残りを軽く振って俺のほうに差し出す。


「いるか。」


 俺はその場で固まった。

 教室で「ホームレスは汚い」と笑っている声が、頭の片隅でよみがえる。


 それでも、足は後ろには動かなかった。

 俺はゆっくり近づき、距離を測るように男の前で立ち止まった。


 男は無理に目を合わせようとはせず、ただ袋を差し出したまま、川のほうを見ている。

 俺は、恐る恐る袋の縁に手を伸ばした。


 自分の指先と、スナックの袋の間に、空気の層がある。薄いが、はっきりとした境目。

 その境目を越えたとき、指先がポテトスナックのざらざらした感触に触れた。


「……ひとつだけ。」


 つぶやくように言って、指でつまんで口に運ぶ。

 塩辛さと油っぽさが口の中に広がる。いつもなら特別な味ではないのに、そのときは妙に味が濃く感じられた。

 男は「遠慮しぃだな」と笑ったが、怒った様子はなかった。


「どうせ余るんだ。もうちょい取ってけ。」


 そう言われて、俺はもう一つだけ取った。



 その日を境に、俺は放課後になると空き地のほうへ足を向けるようになった。

 毎日ではない。宿題が多い日や、親に買い物を頼まれた日はそのまま家に帰った。

 それでも、二日に一度、三日に一度は、川沿いの道を歩きながら、倉庫の影を気にするようになった。

 男は、たいていそこにいた。


 段ボールを敷き詰めた上にブルーシートをかぶせた簡単な寝床と、コンビニの袋、ペットボトル、空き缶。

 倉庫の壁際には、拾ってきたらしいプラスチックケースや、壊れかけた折りたたみ椅子が積まれている。


「今日は何持ってきた。」


 俺が近づいていくと、男はそんなふうに聞いた。

 毎回何かを持ってきているわけではなかった。

 ポケットに入るくらいの小さなチョコレートだったり、家で余った飴玉だったり、たまたま親が買ってきていたパンの耳だったり。


「なんもない日もあるぞ。」

「そういうときは耳だけ置いてけ。」


 男はよくしゃべった。

 自分が昔、どのあたりで働いていたか。工事現場が減ってから、どういう仕事がなくなっていったか。

 どこのスーパーの廃棄弁当は量が多いか。夜の公園で寝るときは、ベンチよりもすべり台の下のほうが風が通らないこと。


 俺は、最初のうちは相槌もろくに打てなかったが、次第に質問をするようになった。

「寒いときはどうしてるの」とか、「雨のときはどこにいるの」とか、そういう単純なことばかりだった。

 それでも、男は嫌がる様子もなく、面倒くさそうにしながらも、一つひとつ答えた。


 学校でのいじめは、少し形を変えた。

「あいつホームレスと仲いいらしいぞ」と噂され、教室で笑われるようになった。

 けれど、放課後、教室を出て空き地までの道を急いで歩いている間は、背中に石が飛んでくることはほとんどなくなった。

 俺は、その時間と場所だけを、自分の中で安全地帯として切り分けることができた。



 そんなある日のことだった。

 夕方、空き地に近づくと、倉庫の影から何かが走り出てきた。茶色い毛並みをした中型の犬だった。痩せているが、足取りは軽い。鼻先を地面に近づけて、どこかの匂いを追っている。


「こら、あっち行け!」


 倉庫のそばから、男の声が飛んだ。

 男は手元にあった空き缶を軽く投げ、犬の近くの地面に当てる。カン、と高い音がして、犬は驚いて身を引いた。

尻尾を下げながらも、完全には逃げず、少し離れた場所からこちらをうかがっている。


「なんで追い払うんだよ。」


 思わず俺の口から言葉が漏れた。

 男は肩をすくめる。


「こいつらに餌やると、キリがねぇんだよ。寄ってきて、増えて、また寄ってくる。」


 俺は犬から目を離せなかった。

 家ではペットを飼ったことがない。テレビの中や、公園で散歩している犬は見たことがあっても、こんなに近くで、首輪も何もつけていない犬と向かい合ったことはない。


「かわいそうだろ。」


 そう言うと、男は鼻を鳴らした。


「かわいそうだからって、全部面倒見られるか。腹減ってるのは分かるけどな。俺より貧乏なやつの面倒見る余裕はねぇよ。」


 言いながらも、男は完全に追い払おうとはしなかった。空き缶を拾ってまた元の場所に戻ると、倉庫の壁にもたれて座り直す。犬は、様子をうかがいながらゆっくりと動き、やがて倉庫の裏手のほうへ回り込んでいった。


 俺は、その後姿をじっと見送った。


 次の日も、その犬はいた。

 倉庫の角から鼻先だけを出し、こちらを観察するようにじっとしている。俺が一歩近づくと、少しだけ下がり、またじっとする。その繰り返しだった。


「近寄るなよ。噛まれても知らねえからな。」


 男はそう言ったが、俺は足を止めなかった。


 ランドセルを倉庫の壁際に置き、ゆっくりと犬のほうへ歩いていく。犬の目が、警戒と興味のあいだを揺れている。耳は立っているが、唸り声は聞こえない。


 手を伸ばせば届きそうな距離になったとき、俺は立ち止まった。

 犬は一度だけ、低く喉を鳴らした。それ以上は近寄るなと言っているようだった。緊張で胸が少し上下する。腕を伸ばしたまま、何も触れずに数秒が過ぎた。


 そのとき、倉庫の裏から、別の小さな影が転がり出てきた。

 視線が自然とそちらに引き寄せられる。


 そこから、ふらふらとした足取りで出てきたのは、手のひら二つ分くらいの大きさの子犬だった。まだ毛が柔らかく、目も完全には開ききっていないように見える。


「……子犬だ。」


 思わず声に出した。


 親犬が短く吠え、俺と子犬のあいだに身を割り込ませる。体を張るように立ちふさがり、歯をむき出しにして、いつでも動ける姿勢になっている。


「ほら見ろ。だから近寄るなって言ったんだ。」


 後ろから男の声がした。


 俺は振り返らなかった。ただ、親犬の背中越しに、倉庫の裏側をのぞき込む。そこには、古い木のパレットとコンクリブロックの隙間に、ぼろ布が敷かれていた。

 薄暗いその奥で、子犬が何匹ももぞもぞと動いている。白っぽい毛のやつ、茶色い斑のやつ、黒い耳だけが浮かんで見えるやつ。


 冷たい風が川の方から吹き上がり、少年の頬を撫でた。

 親犬の肋骨が、呼吸のたびに浮き沈みしている。痩せているのに、子犬たちのそばから離れようとはしない。その姿を見ながら、俺はその場から動けずにいた。



 次の日、家に帰る途中のスーパーで足を止めた。

 ガラス張りの自動ドアの向こうに、総菜コーナーの明かりが見える。

 財布は持っていないが、ポケットには、たまたま昼に使わなかった百円玉が一枚入っていた。母親から「何かあったとき用」に渡されたものだ。


 俺は少しだけ迷ってから、店に入った。

 ぐるっと売り場を回り、安いウインナーのパックを見つける。百円で買える、小さなものだった。

 レジで会計を済ませると、手の中に残ったのは、ぬくもりの抜けた小銭と、薄いビニール越しの冷たい感触。


 空き地に戻ると、男はいつもの場所に座っていた。

 俺がビニール袋を掲げると、男は眉を上げた。


「なんだ、それ。」


「犬にあげる。」


 俺がそう言うと、男は露骨に不満そうな顔をした。


「そういうのは俺にくれんかね。」


「ちょっとならあげる。」


 俺はそう答え、袋を開けてウインナーを一本取り出した。半分に折って男に差し出し、残りの半分を手に持って倉庫の裏へ回る。


 親犬はすぐに匂いを嗅ぎつけた。

 近づくと、最初は警戒して低く唸り声をあげたが、ウインナーの匂いに気づくと、鼻先を近づけてきた。

 俺は地面にそっと置いた。犬は一瞬だけ少年の手元を見てから、慎重にそれをくわえ、奥へ運んでいった。


 子犬たちも、まだよく分かっていない動き方で、その匂いに引き寄せられているようだった。

 俺は少し離れたところにしゃがみ込み、その様子を見ていた。


 それからしばらくのあいだ、俺のお小遣いの使い道は、ほとんど決まってしまった。

 コンビニやスーパーの安いソーセージ、パンの切れ端、時々は家で余ったご飯に少しだけふりかけをかけたもの。親に不審がられない範囲で誤魔化しながら、俺はそれらを手に空き地へ通った。


 男は文句を言いながらも、俺が持ってきたものの端をもらっていた。


「お前、太っ腹だな。犬と俺とで分け前が五分五分だ。」


「半分以上食べてるのはおじさんだろ。」


 そんな会話を交わしながら、俺は倉庫の裏にしゃがみ込み、子犬たちの様子を眺めるのが日課になった。


 初めて見たときには、ふらつきながら立ち上がるのがやっとだった子犬たちが、少しずつ足元をしっかりさせていく。短かった足が、気づかないうちに伸びている。耳も、最初はぺたんと寝ていたのが、いつの間にか半分だけ立ち上がっている。


 ある日、子犬の一匹が、よろめきながら俺のほうへ近づいてきた。

 鼻先を地面に押し付け、匂いをたどるようにして、靴の先に到達する。小さな舌で、靴のゴムの部分をぺろりと舐めた。


「かわいいなぁ。」


 俺は笑いながら、手を伸ばしてその頭を軽く撫でた。

 親犬はすぐそばでじっと見ていたが、その日は吠えもしなかった。代わりに、短く一度だけ鼻を鳴らした。

 倉庫の裏で、俺は何度も似たような光景を目にした。



 母犬が、子犬たちのお腹のあたりを舐めてやり、乳首を探すように顔を押しつけてくる子犬たちを受け入れている。ふやけたパンのかけらを、子犬には小さくちぎってやり、母犬にはそのまま渡す。


 子犬は、最初は一匹ずつだったのが、そのうち三匹まとめて俺の足元までやってくるようになった。

 尻尾だけを勢いよく振り、どこに向かっているのか本人たちも分かっていないような足取りで、それでも確実に、前より遠くまで来る。転んでもすぐに起き上がり、また前へ進もうとする。


 俺はふと、子犬たちの大きさを確かめるように、両手で一匹をそっと抱き上げてみた。

 最初に見たときには片手で持てそうなくらいだったのに、今は両手いっぱいに体が乗る。重さも違う。毛の下に、細い骨と筋肉の感触がはっきりとある。


 胸の中に、言葉にならない感覚がじわりと広がった。

 母犬の腹は、前より少し細くなっているように見えた。その代わりに、子犬たちの体が、日に日にしっかりしていく。


 そこでようやく、俺の頭の中で、当たり前のことがはっきりと形になった。


 そうか、当たり前だけど、犬だって子供は大人の犬から生まれて、子犬もいつかは大きくなって、そして大人の犬になってまた子供を作るんだ。そうしてたくさん増えていくんだ、と。



 川沿いの道を歩くとき、倉庫の影で寝転がる母犬の腹と、そのまわりで転がる子犬たちの姿を、毎日のように目で数える癖がついた。白いのが二匹、茶色いのが三匹、耳だけ黒いのが一匹。数が足りない日があると、倉庫の裏のほうまで回り込んで、狭い隙間の奥をのぞき込んだ。


 学校でのいじめは、相変わらずだった。

 教室では机に落書きをされたり、休み時間には廊下の隅で殴られたり、体育の時間にはわざとボールをぶつけられたりする。

 それでも俺は、空き地のことをずっと思い浮かべていた。倉庫の影と、段ボールのベッドと、母犬と子犬と、それを少し離れたところから眺めているホームレスの姿。そこへ着くまでのあいだだけ、なんとか我慢すればいいと自分に言い聞かせていた。


 その日も、同じように下校の時間になった。

 いつも通りランドセルを背負い、できるだけ無言で靴箱を抜ける。背中のほうで笑い声がしても、振り返らないようにして校門を出た。


 川沿いの道に差しかかると、遠くのほうがいつもより騒がしいのが分かった。

 人の声が重なっている。男のものとも女のものともつかない甲高い笑い声と、何かを追い立てるような叫び声。


 空き地の角を曲がったとき、状況が目に入った。


 いじめっ子たちがいた。

 いつものメンバーだけじゃない。その日は、同じクラスのやつらが何人か混ざって、七、八人の輪になっていた。輪の中心には、母犬と、少し大きくなった子犬たちの姿がある。


 誰かが瓦のかけらを投げつけ、別の誰かが足で空き缶を蹴り上げる。

 母犬は低い姿勢になって歯を見せていたが、子犬を守るように動き回るうちに、逃げ道を失っている。子犬の一匹が、怖がって母犬の腹の下から飛び出した。その尻に、誰かの足が軽く当たる。


「ほら、行った行った!」

「走れ走れ!」


 笑い声と一緒に、子犬が空き地の出口のほうへ走った。

 その先には、車の通る道路がある。


 俺は声を出す前に、体が前へ出ていた。

 ランドセルの紐が肩からずり落ちる。濡れたことのある土の匂いや、倉庫の壁のざらつきが視界の端を流れていく。


 道路のほうで、車のタイヤがアスファルトをこする一定の音がした。

 その音に、急なブレーキのきしむ音が重なる。


 子犬の小さな体が、道路の真ん中で跳ね上がった。

 続けて、遅れて飛び出した母犬は、車に鼻先をかすめる。運転手が既にブレーキを踏み、ハンドルを切っているのが見えた、間に合っていなかった。

 タイヤの陰に、茶色い毛の塊が沈む。後輪が塊をとらえ、段差を乗り上げるように車体はわずかに持ち上がる。

 車は短い距離を滑ってから止まった。


 時間が止まったように感じた。

 道路脇にいた俺の足元で、砂利が散る音だけがはっきり聞こえる。


 母犬は、道路の真ん中で横倒しになっていた。

 足が不自然な方向に曲がり、腹のあたりから毛並みが平らにつぶれている。子犬の一匹は、少し離れた場所で丸く固まったまま動かない。


 運転手がドアを開けて出てきた。

 遠くから「あぁクソッ!新車だぞ」「野良犬かよ」といった声が聞こえる。


 俺の耳には、別の声のほうが近かった。


「う、うわぁああ!」

「マ、マジで轢かれた。」

「……ぺちゃんこだ。」

「ど、どうしよう……」


 空き地の入口から、いじめっ子たちが顔を出していた。


 胸の中で何かが弾けたような感覚があった。

 けれど、その感覚が何なのかを考える前に、俺は走っていた。


 空き地から道路までの距離を、一息で詰める。

 足元に、さっきまで遊び道具にされていた瓦礫がいくつも転がっていた。そのうちの一つをつかみ上げる。手のひらに載せるには少し大きくて、角ばったコンクリート片だった。


 俺はそのまま、空き地の入口に立っていた一人の横に回り込み、振り返った顔めがけて瓦礫を振り下ろした。


「っな――」


 言葉になる前に、こめかみを抉る鈍い手応えが走った。

 瓦礫の角がぶつかり、相手の頭が後ろに弾かれる。膝から崩れ落ちた体が、その場に横倒しになった。


「何すんだよ!」


 もう一人が叫んで腕を振り上げる。

 俺はその腕に向けて、握った瓦礫を横殴りに叩きつけた。


 骨を固い棒で押し折るような感触が、手首から肘にかけて伝わる。

 相手は悲鳴を上げて地面にうずくまり、力なく腕を抱え込んだ。


「やめろって!」

「先生呼んでこいよ!」


 誰かの声がした。

 別の一人が後ろから俺の肩に飛びついてきたが、その手を振りほどきながら、俺はまだ倒れきっていないやつの顔めがけて二発、三発と瓦礫を叩きつけた。


 砂利と肉と骨の感触が一緒になって、手の中で混ざる。

 相手の頬が腫れ、口の端から血が垂れていくのが見えた。


 その声と一緒に、俺の顔にも殴打の感触がいくつも重なった。頬に一発、後頭部に一発、腹にも足が入る。地面に背中をぶつけた衝撃で、肺から空気が一気に抜けた。


 それでも、握った瓦礫だけは離さなかった。

 体をひねり、目の前にしゃがみ込んでいたやつの顔のほうへ、もう一度角を向けて振り上げる。


――狙っていたというより、振り下ろした場所にあった。

 瓦礫の角が、相手の目のあたりに当たる感触があった。

 鈍い音と一緒に、短い悲鳴が上がる。相手は両手で顔を覆い、その場にうずくまった。指の隙間から、赤黒いものがにじみ出ていた。


 そこから先のことを、どの順番で覚えているのか、自分でもはっきりしない。

 誰かが俺の腕を後ろにひねり上げた。首の後ろをつかまれ、地面に押しつけられる。車の運転手が何か叫んでいて、遠くで大人の足音が近づいてくる。


 結局、俺はその場で取り押さえられた。

 いじめっ子の一人は頬が腫れ上がり、別の一人は片目を押さえたまま泣き叫んでいた。もう一人は、ぶら下がった腕を押さえ込んだまま声も出せずにうずくまっている。

 道路の真ん中では、母犬の体がアスファルトに押しつぶされたまま、誰にも触れられずに残っていた。



 その日のうちに、俺は学校の職員室に連れて行かれた。

 固いパイプ椅子に座らされ、ランドセルは椅子の足元に転がっている。頬の絆創膏がつっぱって、しゃべるたびに皮膚が引きつれた。


 机の向こう側には、担任と教頭がいた。

 二人とも腕を組んだまま、しばらく黙って俺を見ていた。蛍光灯の白い光が、プリントの山と眼鏡のレンズに反射している。


「……状況は聞いてる。」


 先に口を開いたのは担任だった。

 声は抑えているのに、言葉の端だけが鋭い。


「お前が瓦を持って、相手の顔を殴った。片目の視力がほとんど出ていないそうだ。もう一人は腕の骨が折れている。」


 教頭が続ける。


「これは“ケンカしました”で済む話じゃない。大人なら、傷害事件で警察が来てもおかしくない。」


 俺は膝の上で組んだ手を見つめていた。

 指の間に、泥がまだうっすら残っている。


「……あいつらが、犬を追いかけて――」


 口に出しかけたところで、担任が遮った。


「事情は聞いた!」


 短く怒鳴り、机にボールペンを叩きつける。


「お前が”ちょっと”いやがらせを受けていたことも、野良犬を追い回していたことも、聞いた!だけどな、それと“人の顔を狙って瓦を振り下ろした”ことは、別の話だ。」


 教頭が、椅子の背にもたれたまま言う。


「『いじられました』『犬がかわいそうでした』ってな、君、人間の目と腕を潰しかけたんだぞ?君は目と腕をそいつらに潰されたか?それが事実なんだよ。」


 担任は俺の目を見た。


「お前は“被害者”じゃない。今日の件だけ見たら、完全に“加害者”だ。そこからは逃げられんぞ!」


 俺は歯を食いしばった。

 机の木目が、視界の中で滲む。


「犬のことは、別で考えろ。」


 教頭は淡々と言った。


「野良犬をどうするかは、大人が決めることだ。保健所に連絡して、捕まえてもらう。そこから犬を保護するか処分するかを決める。それが普通の手順だ。君はそこを飛び越えて、人に障害を負わせた。」


 そして、締めるように言う。


「今後の対応は、学校でも話し合う。場合によっては、外にも相談しないといけない。君はそれくらいのことをした……その自覚を持て」


 職員室の隅では、他の教師が書類をめくる音がしていた。

 誰もこっちを見てはいないのに、全部聞かれている気がした。


「今日はもう帰れ。」


 担任がそう言って、視線をプリントに落とした。

 俺は椅子から立ち上がり、ランドセルを持ち上げた。足元の床が、いつもより重く感じられた。



 家に帰ると、玄関を開けた瞬間に父の怒鳴り声が飛んできた。


「おい!」


 靴を脱ぎきる前に腕をつかまれ、そのまま居間に引きずり込まれる。

 テーブルの上には、まだ開けていない缶ビールと灰皿が置かれていた。母も立っていて、腕を組んでいる。


「先生から電話あった。」


 母の声は、いつもより低かった。


「人の目ぇ潰して、腕も折ってきたってな。お前、何やってきたん。」


 父は作業服の上着のまま、テーブルをどんと叩いた。缶ビールが揺れて、金属音がした。


「答えろ。」


 俺は口を開きかけて、声が出なかった。

 喉の奥が固まっている。


「……野良犬のためにやったってな。」


 先に言ったのは母だった。


「野良犬やろが。そんなもん、保健所に電話して連れてってもろたらええ話やろ。何でそこでキレ散らかして、人の子どもボコボコにしとん。」


 父が続けて怒鳴る。


「片目を見えないようにして、腕も折って、それで『犬がかわいそうやった』か。ふざけんな。ほんま正気か……お前。」


 俺は思わず言い返そうとした。


「でも、あいつらが犬を――」


「うるさい!」


 父の声が被さった。


「“でも”じゃない!野良犬がどうとか、その前にな、人間殴ったんだ。片目潰しかけたんだ。それだけで十分アウトなんだ!」


 母も一歩前に出る。


「何考えとん。犬なんか噛みつくかもしれん危ないもんやろ。悪さしとる野良犬なんて、本来捕まえてもらわなあかんほうや。それ追いかけてただけの子どもに飛びかかって、瓦で殴って、腕折って……頭おかしいやろ、それ。」


 父は額の汗を手の甲でぬぐい、そのまま壁を拳で小突いた。


「先生に言うとか、大人呼ぶとか、やり方はいくらでもあっただろうが。なんでいきなり半殺しみたいな真似してんだよ。お前……相当やばいぞ。」


 母は息を荒くしながら言葉を重ねた。


「“いじめられてたから”って、それで何してもいいわけちゃうんやで。こっちは近所にどう顔向けしたらええんや。あそこの家の息子は野良犬のために人殴る頭おかしい子やって、みんな思うわ。」


 俺は俯いたまま、拳を握った。

 さっきまで職員室で聞いていた言葉と、ほとんど同じような響きが頭の中をぐるぐる回る。


「いいか。」


 父が声を落として言った。


「”野良犬ごとき”のために目潰すやつは、”キチガイ”だ。普通じゃない。分かっとけ。」


 母も吐き捨てるように言う。


「ほんまや。野良犬がどうとか言う前に、自分がどんだけやり過ぎたか考えぇ!」


 何か言い返したかった。

 母犬が跳ね飛ばされた光景と、道路に転がっていた子犬の体が、頭の中でちらつく。

 でも、どんな言葉を探しても、口から出てこなかった。

 父は最後に、乱暴に椅子に腰を下ろした。


「明日、ちゃんと謝りに行け。向こうの家にも、学校にもだ。それが先だ。犬の話なんか、その後だ。」


 母は冷蔵庫から缶チューハイを引き出し、蓋を開けた。


「……はぁ。よりによって、野良犬なんかのために。」


 その一言が、耳の奥に刺さったまま抜けなかった。



 その夜、居間の隅に置かれた母のバッグから、俺は財布を抜いた。

 音を立てないようにチャックを開け、中の紙幣を一枚だけ抜き取る。汗で少し湿った指先に、紙の感触が張り付いた。


 次の日の放課後、スーパーでお菓子を山ほど買った。

 会計を済ませたビニール袋は重くて、持ち手が指に食い込んだ。


 空き地に着くと、男はいつものように倉庫の影にいた。

 段ボールの上にあぐらをかき、ペットボトルを片手に持っている。


「おう。久しぶりだな。」


 俺がビニール袋を掲げると、男はニヤッと口角を上げた。


「豪勢だな、おい。今日はどうした。」


 袋を足元に置き、俺はその横にしゃがみ込んだ。

 倉庫の裏からは、まだ何匹かの子犬がもぞもぞ動く気配がする。


 俺は、母犬が轢かれた日のことから話し始めた。

 いじめっ子たちが犬を追い回していたこと。

 道路に飛び出して、タイヤの下に消えていった光景。

 自分が殴ったときの感触。

 職員室で何を言われたか。親に何を言われたか。


 話しているうちに声がうまく出なくなり、何度か言葉が途切れた。

 それでも全部言い切ったときには、膝の上にぽたりと雫が落ちていた。

 男は、最初のうちは黙って菓子を開けていた。

 スナックの袋を破り、指にべっとり付いた油を舐め取る。それを繰り返しながら、俺のほうは見ない。


「これ、親の財布からだろ。」


 男がぽつりと言った。

 俺は顔を上げた。


「そんなに買えるわけねえもんな。……はっ、小学生の小遣いで。」


 男は鼻で笑った。

 それでも袋を自分のほうへ引き寄せ、スナック菓子を一つつまんで口に入れる。


 涙で視界がまたにじむ。


「これで、親にやり返した気か?……健気なこった。」


 男はそう言って、袋を指でつついた。

 笑ってはいたが、目はあまり笑っていなかった。


「…...昨日さ。」


 俺は、声を震わせながら言った。


「昨日、なんでいなかったんだよ。」


 男は眉をひそめた。


「は?」


「いつも、ここにいたくせに。なんで昨日だけ、いなかったんだよ。なんで犬、助けなかったんだよ。」


 男は、ペットボトルを一度地面に置いた。

 顎をかいてから、面倒くさそうに答える。


「昨日は、向こうの駅前まで行ってたんだよ。弁当の廃棄が出る日でな。飯探しに行ってた。ずっとここに貼り付いてるわけじゃねえよ。」


「でも、戻ってきてからだって……」


 言いながら、自分でも何を言いたいのか分からなくなった。

 喉が痛くて、うまく言葉が出ない。


「戻ってきてからだって、なんか……なんかできただろ。」


 男は肩をすくめた。


「無理言うなよ。俺が戻ってきたころには、もう誰もいなかった。」


「なんでそんな平気そうなんだよ。」


 自分でも驚くくらい、声が大きく出た。

 男の顔がわずかに強張る。


「犬、死んだんだぞ。母犬も、子犬も。なんだかんだ、お前もずっと面倒見てただろ。なんで、そんな……」


 男は舌打ちした。

 スナックの袋をぐしゃっと握りつぶす。


「……そりゃな。」


 低い声だった。

 けれど、すぐにいつもの調子に戻すように言葉を継いだ。


「いいか。あいつらだって、どのみち長くはもたねえんだよ。」


 男は倉庫の裏を顎でしゃくった。


「いずれ保健所に見つかりゃ檻の中。見つからなくても、腹減って、病気して、どっかでくたばる。お前がパン投げて、ソーセージちぎってやってる間だけが、そいつらにとってちょっとマシな時間なだけだ。」


 俺は唇を噛んだ。


「だからって……」


「だからって、何だよ。」


 男はこっちをにらんだ。

 目の下のクマがはっきり見える。


「お前、勘違いすんなよ。ここで犬に餌やってんのも、こうしてベラベラしゃべってんのも、全部、俺らの『お遊び』だよ。現実は汚ぇもんだ。いいか? 普通、増えた野良犬は、どっかでまとめて始末されるか、勝手に減るだけなんだよ。」


「お遊びじゃない!」


 思わず立ち上がった。

 脚に力が入りすぎて、砂利が靴の下でざりっと鳴る。


「俺は本気で……」


「本気だろうが何だろうが、世の中変わんねえよ。」


 男は言葉をさえぎった。

 タバコの箱をポケットから引っ張り出し、一本取り出して火をつける。


「ここで犬が増えようが死のうが、誰も数えちゃいねえ。むしろ減らしてぇくらいなんだよ。お前の親も、先生も、汚ぇ“野良犬ごとき”にここまで本気になってガキの目を潰すお前を“異常者”だと思ってんだ。俺は理解できるね。」


 灰を地面にはたき落としながら、男は続けた。


「俺は最初っから、『ああ、そういうもんだ』って距離置いて見てんだよ。」


 俺は何も言えなくなった。

 胸の奥が、さっきよりも重くなる。涙がまた勝手に出てくる。


「……それでもさ。」


 かすれた声で言った。


「だったら、なんであのとき、俺助けてくれたんだよ。水に顔突っ込まれたとき。あれだって、『どうせいじめはなくならない』とか言って見てればよかったじゃん。」


 男はタバコを口から外し、しばらく黙った。

 視線を川のほうに投げて、煙を長く吐き出す。


「……どうでもいいだろうがよ」


 ぼそっと言った。


「気分だよ、気分。たまたまあの日は、目の前でムカつくもんが見えたから、手ぇ出した。それだけだ。」


 そう言いながらも、男の声は少し荒くなっていた。

 握ったタバコの灰がぽろぽろ落ちて、足元の砂利に白い点を作る。


「お前に説教される筋合いねえよ。こっちは、自分のことで精一杯なんだ。」


 しばらくのあいだ、二人とも黙った。

 川の音と、遠くを走る車のエンジン音だけが聞こえる。


 男は「はぁ……」と、胸の奥の空気を押し出すように息を吐いた。

 タバコを吸いきると、地面にねじ込んで火を消した。

 膝に置いた両手をじっと見つめる。


「……なあ。」


 かすれた声が、もう一度空き地に落ちた。


「俺もな、ガキの頃、そこそこひどい目ぇ見てきてんだ。」


 男は膝の上で組んでいた指をほどき、片方の手で小石をつまんだ。指先で転がしながら、川のほうを見たまま続ける。


「家は貧乏でよ。服もいつもよれよれ、給食費も滞納ぎみ。まぁ、分かりやすいカモだわな。ガキなんて、そういうの見逃さん。」


 小石が指の間から滑り落ちて、段ボールの端をかすめて地面に落ちた。


「あるとき、いじめがきつくなってな。机ひっくり返されたり、靴隠されたり。で、とうとう先生が気づいた。そん時は、ちゃんと止めてくれた。連中呼びつけて、説教もしてくれた。」


 男はそこで一度笑った。歯の隙間から、乾いた息が漏れる。


「それからしばらくしてだ。今度は、女子のグループが声かけてきた。『一緒に食べよ』とか、『男子といると怖いでしょ』とか、そんな感じでな。」


 俺は黙って聞いていた。


 男はペットボトルを持ち上げ、一口飲んでからまた膝の上に戻した。


「最初は、ありがたかったぞ。輪の中に席作ってくれて、話振ってくれて、『それでどうなったの?』とか相槌打ってくれてな。俺は勝手に、ああ、俺、”受け入れられたんだ”って思い込んだ。」


 男は自嘲気味に鼻で笑う。


「調子に乗った。『俺もけっこう人気あるんじゃねえか』とか、頭の中で思い始める。そんで、前よりしゃべるようにもなった。自分の話を、聞いてもらえるんだってな。」


 倉庫の影から、子犬の短い鳴き声がした。どれかが寝返りでも打ったのか、ブルーシートが少しだけ動く気配がする。


「でもよ。」


 男は指を一本立てた。


「そのうち、男子のほうの目つきが変わっていった。『女のとこばっか行きやがって』『キモい』『女々しい』。いじめっ子だけじゃなくて、それまで中立だったやつらまで、距離とるようになった。」


 男は視線を足元に落とし、スニーカーのかかとで砂利を押し広げた。


「しかも決定打があってな。女子のグループの中でケンカが起きた。些細なことで、派閥が二つに割れた。で、そっから先だ。」


 男はゆっくりと言葉を選んだ。


「どっちのグループも、俺にはほとんど構わなくなった。教室では席近いから多少しゃべるけど、放課後は誘われねえし、笑顔の裏側が急に冷たく見えた。『ああ、こいつら、最初から俺を仲間と思ってたわけじゃねえな』って、そのときようやく分かった。」


 俺は喉の奥を鳴らした。何かを言うタイミングを計ったが、男の話は途切れなかった。


「今思えば簡単な話だ。かわいそうなやつをほっとくのが嫌な子もいるし、そういうやつを話のネタにするのが好きな子もいる。俺はたぶん、その中間くらいの扱いだったんだろう。」


 男は口元を歪めた。


「俺がくだらねえ話したあと、微妙な空気になってたのも、今なら思い出せる。あん時は『女子は控えめに笑うもんだ』って勝手に解釈してたけどな。単に、俺の話が面白くなかっただけだ。」


 指先に残ったスナックの粉を、男は親指で拭って舐めた。


「気づいたころには遅ぇ。男子グループには戻りづらい、女子グループには煙たがられる。で、俺はそこから、ほとんどずっと一人だった。」


 男は肩をすくめる。


「たまに思い出す。あれがなかったら、男子と徐々に打ち解けてたかもしれねえな、とか。グループに引っ張り込まれなきゃ、『あいつはあいつで一人でいる変なやつだ』くらいの位置で済んだかもしれねえ、とか。」


 男はそこで俺のほうを見た。


「そうやって考えると、俺はあいつらのせいで余計こじれたんじゃねぇか、って気もする。……お前から見て、どう思うよ。」


 急に投げられた問いに、少し戸惑った。


「もしあいつらが俺に構わなけりゃ、俺はもっとマシな人生だったと思うか。」


 俺は膝を抱え直し、川のほうに一度視線をやってから、答えた。


「男子なんて、たいしたもんじゃないぞ。」


 男の眉がわずかに動いた。


「教室見てりゃ分かる。いじめっ子でもない普通のやつらはさ、ガキ大将の機嫌ばっかり伺ってる。つまらなくても笑って、持ち上げて、怒らせないようにしてる。あれが”男子コミュニティ”ってやつなら、別に混じれなくても大した損じゃない。」


 そこまで言って、一呼吸おく。


「話が面白いやつは面白いやつで、道化みたいにいじられてる。自分らだけが笑うんじゃなくて、遠巻きに見てる周りを笑わせるように仕向けられて。お前にとっては”もしもの居場所”に見えたかもしれないけど、あれはあれで別の地獄だ。」


 男は黙って聞いていた。


「少なくともさ。」


 俺は倉庫のほうを見てから、男に視線を戻した。


「かわいそうだからって相手してくれた女子には、感謝しといたほうがいいと思う。動機がどうだろうが、完全に放っとかれるよりマシな時間もあったんだろ。」


 男はしばらく黙り込んだ。喉の奥で短く息を吸い、吐く。


「……そうか。」


 低い声が出た。


「そうだよな。そういう見方もあるわな。」


 男は自分の膝を見つめながら、ゆっくりとうなずいた。


「ありがとな。」


 顔を上げ、俺をまっすぐ見た。


「お前のおかげで、ちょっと整理ついたわ。ずっと、あいつらのせいにしてりゃ楽だと思ってたけどよ。まあ、そうでもねぇな。」


 口元に、かすかな笑いが浮かぶ。


「……どういたしまして。」


 自分で言って、少しだけ照れくさくなった。


 空き地に、短い沈黙が落ちた。


 川のほうから風が吹き、倉庫の壁に立てかけられたブルーシートを揺らす。裏手では、子犬が寝返りを打ったのか、かすかな気配が動いた。

 男はペットボトルのラベルを指でなぞり、どこか遠くを見る目をした。


「なあ。」


 さっきよりも、さらに声が低くなった。


「一緒に死なんか。」


 言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。


「……は?」


 思わず聞き返すと、男は淡々と続けた。


「生きてても、そんなに良いことねぇだろ。お前も見てきたろ。いじめられて、先生も親も碌な助けにならん。俺たちみたいなやつは、どこ行っても浮く。どう足掻いても、クソカスみたいな人生しか残ってねぇ。」


 男は片手を広げて見せた。指先に残ったスナックの油が、薄く光る。


「だったらさ、どっかで終わらせたっていいじゃねえか。川だって深い場所あるし、駅まで行きゃ線路だってある。やり方なんて、いくらでもある。」


 喉の奥がひりついた。


 俺は無意識に、倉庫の影を見た。そこには、まだ動いている子犬たちがいる。


「……やだよ。」


 かすれた声で、やっとそれだけ言った。


 男は、即座に否定するような顔はしなかった。むしろ、少しだけ考え込むような表情になり、それから言葉を足した。


「怖いか。」


 俺は何も言えずに、うなずきもせず、ただ男を見た。


「怖いなら、犬も一緒でいい。」


 静かな声だった。


「どうせ、こいつらはこのままだと飢えて、病気して、帰ってこねえ親を待ちながら、どっかの隅っこで惨めにくたばる。腹減らして、雨風しのげずに、な。」


 男は倉庫の裏を顎で示した。


「だったら楽にしてやろうぜ。抱えて、一緒に行きゃいい。苦しまねえようにな。」


 背中に、冷たいものが這い上がる感覚があった。さっきまで、川の音も車の音も聞こえていたのに、急に周りの音が遠くなったように感じる。


 俺は立ち上がった。


 膝に力を込める感覚を、自分で確かめるように、ゆっくりと体を起こした。

視界の端で、男の目がこちらを追う。


「……帰る。」


 そう言って、ランドセルの肩紐をつかんだ。指先が少し震えて、金具がうまく掴めない。それでも力任せに引き寄せ、背中に回す。


「そんな急がんでも――」


 男の言葉の途中で、俺は空き地の出口に向かって走り出した。砂利が靴の裏でずれる。

倉庫の壁、段ボール、男の姿、倉庫の影へ視線を向けている親犬のいない空間。全部が一瞬で視界の後ろに流れていく。


 川沿いの道まで出たところで、息が苦しくなった。けれど足を緩めなかった。ランドセルが背中で跳ね、肩に食い込む。耳の奥で心臓の音が響く。


 振り返らなかった。

 空き地のほうを見るのが、どうしてもできなかった。



 家に帰ったあと、何をしていたのか、細かいところはあまり覚えていない。

 飯を食ったのかどうかも曖昧で、布団に潜り込んでからもしばらく、川沿いの風景と倉庫の影が頭の中から離れなかった。

 目を閉じると、さっきの男の声がそのまま蘇る。


「一緒に死なんか。」


 息を止めて、布団の中で丸くなっていると、自分の鼓動だけがうるさく鳴っていた。

 眠ったのか、ただ時間が飛んだだけなのか分からないまま、朝になった。



 次の日の学校は、いつもと同じチャイムの音で始まった。

 教室では、いじめっ子たちが小声で何か話していたが、俺のほうを見ることはなかった。あいつらの笑い声も、いつもより少し上ずって聞こえるだけで、内容までは耳に入ってこない。


 放課後、ランドセルを背負って靴箱を抜けるとき、俺は一瞬だけ迷った。

 空き地のほうへ向かうか、そのまま大通りに出て家に帰るか。


 結局、足はいつもの川沿いの道を選んでいた。

 ただ、歩幅は自然と小さくなっていた。

 川沿いのカーブを曲がると、普段は人がいないあたりに、何人かの大人が立っているのが見えた。制服姿の警察官と、作業着を着た市の職員みたいな男たち。それと、好奇心だけで集まってきた近所の人間らしい影。

 川面には、オレンジ色のフロートと簡易なロープが張られていた。

 水の上に浮かんだビニールシートの端が、風でぴくりと揺れる。


「……人が流れてきたんだってさ。」


 後ろから聞こえた声に振り返ると、同じ学校の上級生らしい二人組が、こちらを見ずに川のほうを眺めていた。


「犬抱いてたってよ。全く犬のほうが可哀想だよな。」

「ニュースになるぞ、これ。」


 軽い調子の声だった。

 俺はその場に立ち止まり、川のほうを見た。

 ロープの内側で、長い棒の先に付いたフックが、水の中を探るように動いている。やがて、何かを引っかけた感触があったのか、棒がゆっくりと持ち上がった。

 水面から現れたのは、膨らんだ人の腕と、汚れたジャンパーの袖だった。

 その胸のあたりに、茶色い毛が見えた。

 小さな体が巻き付くように抱えられている。ぐったりとした足が、棒で引き寄せられるたび、水の中で揺れた。


 俺は、そこで視線を切った。

 川の匂いと、濡れた土の匂いが混ざった空気が、鼻の奥に張り付く。

 誰かが「行旅死亡人だな」と言った。

 意味はよく分からなかったが、口にした大人の顔は、淡々としていた。


 空き地のほうへ向かう気には、とてもなれなかった。

 その日はそのまま大通りに出て、信号を二つ渡ってから家に帰った。



 数日後、夕方のニュースで、その話題が流れた。

 小さなテロップで「野宿生活の男性 川で死亡」と出て、薄暗い川辺の映像と、ブルーシートで覆われた人影が映る。


『近くには子犬の死骸がいくつか散乱しており、男性が抱きかかえていたと見られます』


 アナウンサーがそう読み上げたあと、画面はすぐに別の話題に切り替わった。

 スーパーの特売情報と、週末のイベントの告知。

 そのニュースを、母は夕飯の支度をしながら横目で見ていた。


「全く、物好きな人もおるんやなぁ。」


 それだけ言って、特に何の感想も付け足さなかった。

 父はテレビには目もくれず、缶ビールのプルタブを引いていた。


 次の週のどこかで、その男の遺体は、市営の共同墓地に運ばれたとあとで聞いた。

 身元の分からない人間たちが、番号だけのプレートでまとめて埋められる場所だ。

 抱きかかえられていた子犬は、その場で処理された。

 他の場所で見つかった小さな死骸も、拾われてゴミ袋にまとめられたと、川沿いで立ち話をしていた大人が笑い混じりに話していた。


「犬のほうに豪華な葬式してやりてぇよ。」


 妙な冗談に、薄い笑い声が混ざった。

 俺は、その会話から少し離れた場所で、自販機の横に立っていた。

 ペットボトルの水を買っても、喉はあまり潤った気がしなかった。



 空き地には、しばらく近づかなかった。

 足がそっちのほうへ勝手に向かいそうになるたびに、大通りに出る道を選んだ。


 不思議なことに、帰り道を変えた頃から、学校でのいじめはほとんど姿を消した。

 机に描かれていた落書きはしばらく残っていたが、新しく書き足されることはなかった。体育の時間に、わざとこっちを狙って飛んでくるボールも、いつの間にか別の方向へ飛ぶようになった。


 廊下ですれ違うとき、あいつらは俺を見ないようにした。

 視線がぶつかりそうになると、わざとらしく友達のほうを向いて話に夢中なふりをする。背中を小突いてきた手も、ランドセルの紐を引っ張る指も、ある日を境にぴたりと止まった。


 その代わり、教室の空気は少し変わった。

 俺の席の周りだけ、半歩分だけ距離が空く。話しかけてくるやつが全くいないわけじゃないが、「あいつに関わると面倒くさい」とでも言いたげな気配が、薄くまとわりついていた。


 先生も親も、その変化を「いいこと」とは受け取らなかった。

 俺がちょっとしたことで声を荒げると、前より早く眉をひそめられる。


「一丁前に言い返すな。」

「人とうまく付き合え」

「大人を頼れ。」


そう言いながら、あの日まで俺がどれだけやり込められていたかについては、相変わらず深く聞こうとはしなかった。


 それでも、あの日、瓦礫を握っていたときと比べれば、俺の中で何かの線は引き直されていた。

 もう二度と、あそこまで踏み込むつもりはないにしても、「何をされても黙っている」側には戻らないと決めた。


 全員に仕返しするために生きているわけじゃない。

 かと言って、全部飲み込んで黙っているつもりもない。


 そうやって、「手を出されないように距離を置かれる場所」に、自分の立ち位置をなんとか押し込んでいった。



 時間が経つにつれて、クラスの空気も変わっていった。

 中学に上がると、小学校のときの「ガキ大将」は、それほど目立つ存在ではなくなった。

 背が伸びるやつと伸びないやつの差がはっきりして、スポーツの得意なやつ、勉強ができるやつ、話が面白いやつ、それぞれが勝手に自分のポジションを取り始める。

 小学校で威張っていたあいつは、背も伸びずに、ただ声だけが大きい面倒なやつになった。

 取り巻きだった中の一人は、背が高くなり、顔立ちも整ってきて、女子に名前を呼ばれる立場になった。笑いを取る役だったやつは、そのまま「面白いやつ」として、違うグループに重宝されるようになった。


 俺はといえば、工業高校に入る頃には、「バカにされると多少言い返すやつ」として、ほどほどの距離を取られる位置に落ち着いていた。

 誰かとべったりつるむわけでもないが、昼飯を一人だけで食うほど孤立しているわけでもない。

 教室の隅のほうで、ガラクタみたいな話を延々と続けるやつらと、くだらない冗談を交わすくらいの余裕はできていた。

 誰かが誰かを笑い者にしても、「それ、全然おもんないぞ」と言い返せる程度の太さが、喉のあたりに一本だけ通るようになった。



 高校を出てからは、そのまま地元の工場に就職した。

 ラインと点検を行き来する仕事で、肉体的にはきついが、給料は同年代の平均からすると悪くない。

 初任給の明細を見たとき、数字の並びをまじまじと見つめた。

 生活を回すにはギリギリだが、「生きるだけなら何とかなる」と思えるくらいの額だった。

 職場にも、いろいろな人間がいた。

 部品の数を数えるのが異常に速い先輩、休憩時間になると競馬新聞を広げる班長、子どもの写真をしょっちゅうスマホで見せてくる同僚。

 そこでの人間関係は、学校のそれとは少し違っていた。

 気に入らないやつもいるが、仕事を回すためには最低限の会話をしなければならない。殴り合いが始まるより先に、シフトと工程表のほうが問題になる。

 それでも、たまに思い出す顔がある。

 倉庫の影でタバコを吸いながら、犬のことを「お遊びだ」と言い切ったあの男の顔だ。



 ベランダの手すりに肘をかけ、二本目のタバコに火をつける。

 煙を吸い込んで、ゆっくり吐き出すと、白い筋が街灯の明かりの中で細く裂けていく。


 あのとき、もし俺が違う返事をしていたらどうなっていたんだろう、と考えることがある。

 男が「もしあいつらが俺に構わなけりゃ、俺はもっとマシな人生だったと思うか」と聞いてきたとき、俺が別のことを言っていたら。

 「ああ、お前はあいつらに潰されたんだ」とでも言って、全部あいつらのせいだと背中を押していたら。

 あの男は、自分の不幸の理由を、よりはっきり他人のせいだと言い切れたかもしれない。

 あの空き地で、自分の過去をぐるぐる反芻する代わりに、「全部あいつらが悪い」とだけ繰り返して、生き延びていた可能性だってある。


 そうなっていたら、俺のほうも違っていたかもしれない。

 残った子犬を無理やり家に連れて帰ろうとして、親と今以上に大喧嘩していたかもしれない。

 ホームレスのところへ通うための土産と犬の餌代を作ろうとして、もっと頻繁に親の財布から金を抜き取り、学校でも尖ったまま、”キチガイ”として過ごしていたかもしれない。


 まぁ、どれも実際には起きなかったことだ。

 あのとき俺が選んだ言葉と、そのあと空き地から走って逃げたことが、今のこの安アパートのベランダにいる俺につながっている。

 そう思うと、「あのときどう答えたか」という一点だけは、もう自分の中で動かしようのないものとして残ってしまった。


 ホームレスの男は、決して「いい人」ではなかったと思う。

 犬に餌をやる俺を「太っ腹だな」と笑いながら、しっかり自分の分を確保していたし、親の財布から抜いた金で買った菓子を、当たり前のように受け取っていた。

 最後には、子どもに向かって「一緒に死のう」と平然と言えた。


 あいつは、自分のことで手一杯の人間だった。

 他人のために何かを犠牲にするような聖人でもないし、きれいな言葉だけで生きていけるタイプでもない。


――それでも、あの空き地で過ごした時間は、当時の俺にとっては、確かに救いだった。

 水に顔を押しつけられたとき、そこに割って入ってくれたのは、親でも先生でもなく、汚れたジャンパーのホームレスだった。

 放課後、誰とも話さずに家に帰るだけだったはずの時間に、「今日は何持ってきた」と声をかけてくれる相手がいた。

 犬の話も、ホームレスとしての知恵も、いま振り返ればどこか雑で、自分本位なところが多かった。

 それでも、あの倉庫の影で、俺は初めて「誰かと一緒に過ごしている」と思える場所を持てた。

 結局、最後の最後まで、俺はあの男の「責任」を取れなかった。

 子犬を見捨てて逃げたし、男が眠る集団墓地に花を供えたこともない。


 川沿いのニュースを見て、黙ってテレビを消しただけだ。

 それでも、あの時間は、確かに俺の中に残っている。

 いじめられていることを「野良犬ごとき」と切り捨てられた日々の中で、あの空き地だけは、少しだけ違う空気が流れていた。


 今さら「ありがとう」と言う相手は、もうどこにもいない。

 墓の場所すら知らないし、知ろうとしたこともない。

 それでも、ベランダでタバコを吸いながら、ふと川沿いの風を思い出す夜がある。

 段ボールの上に座っていた男と、倉庫の影で転がっていた子犬たちの姿が、煙の向こうにぼんやり浮かぶ。

 タバコの火が指先の近くまで来ていることに気づき、フィルターの少し手前で揉み消した。

 灰皿に押し付けると、赤い火が静かに消える。


 手すりの向こうでは、国道を走るトラックのヘッドライトが、一定のリズムで行き来している。

 その光をしばらく眺めてから、俺はベランダの戸を閉めた。


 部屋の中では、テーブルの上に散らかったチラシが、朝のまま広がっている。 

六畳一間の空気は、朝出ていったときとほとんど変わっていない。

 ただ一つ違うのは、さっきまで灰皿の上で揺れていた、タバコの煙の匂いだけだった。

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