霧縁
@koooda
第1話 消雪
木々の影が長く伸び、山の空気が薄く、冷たくなっていく。諒はふらつく足取りで、斜面の細い道を降りていた。どこへ向かうのか、自分でもわからない。ただ、胸の奥を締めつける痛みから逃げるように、一歩、また一歩と足を前に出す。
雪がまだ溶け残る道は、冬の匂いを深く吸い込んでいた。踏みしめるたびに、やわい水気を含んだ音が靴底から返ってくる。諒はその音に合わせるように、歩幅を少しずつ調整しながら歩いた。ふらつきながらも、小さく息を吐き、自然な笑みを零す。
「……あー、こういう寒さ、なんか落ち着くな。昔から好きだった気がする」
だが、その“昔”がどんなものだったか、諒にはもう思い出せない。最後に覚えているのは──伯父の家から逃げ出した瞬間だけ。そこから今日までの約一年分が、丸ごと真っ白に抜け落ちている。身なりは整っていて、体調も悪くない。爪は切られ、髪は綺麗に揃えられ、身体には疲労以外の傷もない。誰かに世話され、どこかで安全に暮らしていたのだろう。それなのに、思い出せないという事実だけが、諒の胸に鉛のように沈んでいた。
倒れそうになるたびに黄金の瞳が光り、怜ヶが静かに体を支配した。
「……街まで行こう。人混みに紛れれば危険は減る……働ける場所もある……だいじょうぶ、僕が導く……」
りうは心配そうに尻尾をたらしながら、
「りょう……寒い? だいじょうぶ……?」
と必死に寄り添う。
狐は諒の胸奥で静かに腕を組みながら、
「……泣くな、りう。諒は歩ける。愚かではあるが、折れぬやつだ……」
と呟いた。
肩で息をしながら立ち止まると、風が衣服を揺らした。高い山の向こうは、もう振り返ることもできない。そこにどんな生活があったのか、誰がいたのか――肝心な部分だけが、霧のように指の隙間からこぼれ落ちている。
名前の思い出せない誰かの声。触れたはずの温度。笑った顔、怒った顔、泣いた顔。すべてが霞がかって、つかめない。
ただ一つ、胸の奥の重たさだけが確かだった。空虚とも喪失とも呼べない、深い穴。諒はその穴に怯えながらも、止まることはできず、ただ山を降り続ける。
やがて木々が途切れ、遠くに街の屋根が見えた。煙の匂い。人の声。獣でも怪異でもない、温かくて雑多な生活の音。諒はそのざわめきに、まるで初めて触れるもののように怯えた。それでも足は街へ向かい、山を離れていく。自分が何を失い、何を捨て、何を想ってここにいるのか――何ひとつ思い出せないまま。
ただ、胸のどこかでひっそりと疼く。
「もう戻れない」
その感覚だけが、諒をゆっくりと街へと押し流していった。
霧縁 @koooda
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