家庭の自浄

小狸

掌編

 本当は、男の子が欲しかったらしい。


 13歳の誕生日のことである。


 私は、普通の家庭で、普通に愛されて育ち、普通に自己肯定感を育めたという自負がある。


 今、社会人として仕事をしているけれど、自分のことは、そんなに嫌いではない。


 思春期の頃は顔がコンプレックスだったし、体型が変わる自分が嫌で嫌でたまらなくなったし、消えないニキビに悩まされたりもしたけれど、今は落ち着いている。


 そして世の中には、そんな「普通」すら享受できない家庭があるということを、生育過程で私は知っている。


 考え直してみると、中学時代のクラスに1人、いやさ、学年に1人は、いた。


 機能不全家族や保護者から愛を受けずに育ち、既に中学生の時点で、人格が破綻してしまっている子。


 壊れてしまった子。


 当時は、ちょっと不思議な子、とか、あの子は変わってる、とか、そんな言葉でオブラートに包んでいたけれど、今考えてみれば、何ということはない――過酷な家庭環境が、彼ら彼女らを、そうさせてしまったのだろう、と思う。


 他人事のようにそう言えるのは、実際他人事だからである。


 私はきっと、恵まれているのだろう。


 そう思っていた。


 今でもそう思っている。


 否。


 そう思いたい、だけなのかもしれない。


 前述の通り、私の人生は、まあ人並みの問題はありつつも、それは人並みの範疇に留まるくらいのものではあり、到底物語の主人公なんて張ることはできないであろう、普通のものだと思っている。


 どこにでもいる普通の女の子、とまではいかないけれど、どこかに探せばいる、くらいの普通の女の子、だと。


 そんな私の。


 そんな私の、人生の瑕疵きずの一つ。


 私は一人っ子で、両親の寵愛を受けて育った――と思う。


 いや、それもまた、私が、そう思いたい、だけの話なのかもしれないが。


 その理由を、今から話そう。


 何、どこの家庭にでもある、良くある話である。


 団地の中の一軒家に、父と、母と、私の、三人で住んでいた。


 13歳の誕生日の日。


 その日は土曜日、学校は休みだった。


 両親は、いつものように私を祝ってくれた。


 一応は反抗期に突入していたものの、まだ反発の仕方が良く分かっていない時期だったので、照れくさくも、両親からの祝福を受け取り、嬉しかった。


 午前中に誕生日プレゼントを買いに行き、午後にケーキを食べた。


 幼い頃から苺が大好きなので、とびきり苺が詰まったケーキを選んだ。


 その日の夜のことである。


 夜中トイレに行った時、両親が話していたのを、聞いてしまったのだ。


 私の部屋は2階にあり、トイレは1階にあるので、階段を降りなければならない。


 幼稚園の頃などは、照明を付けていようとも、必然的に浮かび上がる暗がりを見て恐怖を抱いたものだったけれど、この頃の私は、もう何ともなかった。


 ただ――降りようとしたところで、リビングの方で両親の話し声が聞こえた。


 邪魔しないように静かに降りよう、と思ったのである。


 一段、一段、また一段。


 階段を下りるたびに、両親の声が、明瞭になってゆく。


 それは、こんな話だった。


「だから言っただろう。俺は息子が欲しかったんだ!」


 そんな、怒号のような父の声に。


 私の足は、止まった。


「どうして、どうして出生前に検査をしなかった」


「仕方ないでしょ。あの子ももう13だし、私も子ができやすい体質ではないって、あの時産婦人科の先生が話していたでしょ。妊娠が分かった時、一緒に喜んでくれたじゃない。このまま育てるしかないのよ」


「あの子が将来結婚したとして、苗字が変わったら、家名が途絶えてしまうだろう。先祖代々続いてきた由緒正しき家なんだぞ!」


「由緒正しきって、何時代に生きているの、今は平成、そんな古い考え方は捨てるべきよ。苗字が残って、何になるの。戦国武将じゃないし、別に家業とか、そういう受け継ぐものがあるわけでもないんだから、もう諦めなさいな」


 その先は。


 あまり、思い出したくはない。





「ああ、幼い頃にあの子がくれていれば、また男の子を産んで、やり直しができたのに」





「何ですって。あなたねえ、子どもを産むってことがどれくらい大変なことか分かってるの!」


「ああ、分かっている。俺は、お前の気持ちも誰よりも分かっている。俺が育児をサボったことがあったか。俺が家庭を蔑ろないがしにしたことがあったか。その証拠に、今日までも明日からも、俺は良い父親であり続けるよ。当たり前だろう。今、俺が言っているのは、所詮たらればの話だ。ただ、本当は男の子が欲しかったって言っているんだよ。言葉にもおくびにも出さす、そう思うことくらいは、自由だろう」


「それは、今生きているあの子の存在を否定してしまうことになる。絶対にあの子には言っちゃ駄目よ」


「じゃあ思想くらい自由でいさせてくれよ。ああ、なんであいつは、男じゃないんだろう」


 それから先、漏れ聞こえる両親の会話――というより喧嘩は、何も耳に入らなくなった。


 記憶に残っていないか、もしくはあまりのショックに記憶から強制的に消してしまったか、いずれにせよ、その先は覚えていないので、これ以上記述することができない。


 何というか。


 身体が芯から冷えていくような、そんな心地がした。


 そのまま息を殺してトイレを済まし、そっと階段を上って、私の部屋に戻った。


 不思議と涙は、出なかった。


 ただ――父の言葉が、延々と頭の中を反復横跳びのように繰り返し続けていた。


 男。


 私が男だったら、良かったのか。


 でもそれって、無理じゃないか。


 事実、私は、女だ。


 性別も女だし、身体も女だし、心も女だし、何なら生まれ変わっても人間の女が良いな、と思っている――そんな平凡な女だ。


 そこを否定されては、もう。


 どうしようもない。


 それこそ母の言うように、私の存在否定である。


 私の名前は――特定を避けるために敢えて記載は避けるが、男でも女でも通用するような名前である。


 そういうこと?


 あんな怖い口調で話す父を、初めて見た。


 本当は、父は、男の子が欲しかった?


 でも色々な理由で諦めて?


 でも――でもさ。


 私には、どうしようもなくないか。


 一生私はこのまま、望まれない子として、隠されて烙印を押されて生きてゆくのか。


 そう思うと、とても――とてつもなく。


 みじめになった。


 こういう状況の時。


 こんな煩悶はんもんの夜は一生続くのだ――みたいなバッドエンド的幕引きをする物語は数多くあるけれど、現実はそうはいかない。


 しばらくは眠れなかったけれど、いつの間にか私は寝ていて。


 当たり前のように、次の日の朝がやってきた。


 朝、食卓に集まる両親は、普通に会話していた。


 楽しそうに話して、私にも話題を振ってきた。


 まるで昨日の話なんて、無かったかのように。


 それを見て――私は本当に、


 自分の、心の中で。


 勿論もちろん理由は、である。


 人間には、自分の心を守るための機能が、複数用意されているという。


 その内の、どれか一つが働いたのだろう。


 13歳の誕生日から、3日前に至るまで、私の当時の記憶と共に封印された。


 お蔭で私は至極普通の、どこにでもはいないけれど、探せばどこかにいそうな子として、生きることができていたのだと思う。


 トラウマもなく。


 劣等感もなく。


 マイナス思考もなく。


 その話自体を、自分の心から、切り離したのだ。


 


 ただそれだけの、他愛もない話である。


 思い出した契機は、何ということはない。


 父が階段から転倒して頭を打ち、検査入院をすることになった――という報せが、母から来た。


 幸い父は片腕を打撲したのみで骨にも頭にも異常はなく、次の日には退院したらしい。


 ただ。


 、というキーワードが。


 私の頭の中の、どこかしらに引っかかって、封が解かれたという具合である。


 まあ。


 今さら何を言おうと、どうしようもないのもまた、事実である。


 10年以上前の夫婦喧嘩の詳細を突き詰めたところで、何にもならない。


 現在、夫婦仲も、家族仲も、良好である。


 両親はどういう受け止め方をしたのか、そんな決定的な言葉を吐かれてどうしてまだ両親の仲が良いのか、父はまだ私が産まれたこと生きていることを後悔しているのか、母はそれについて何を思っているのか、離婚しなかったのは私という子どもがいたせいなのか、もしあの時離婚していたら私はどちらについていけば良かったのか、祖父母は父に何か吹き込んだのか、それとも父だけが暴走したのか、あの時の父の様子はどうしておかしかったのか、どうして13歳の誕生日になってあんなことを言いだしたのか――考えれば考えるほど、問題があふれ出てくるけれど、昨日は仕事だったので、きちんと出勤した。褒めてほしい。


 1日明けて、次の日。


 昨日は一睡もできなかった。


 やはり一人では抱えきれる問題ではなかったらしい。


 仕事には休みの連絡を入れた。


 そして、こうして掌編小説としてまとめて、世に公開した、という具合である。


 この話は。


 一生私と、これを読んでくださった読者の方の中だけに秘めておくことにしよう。


 きっと私は、普通でありたかったのだろう。


 望まれない自分なんて、認めたくなかった。


 だからこそ、記憶ごと、封印した。


 そして普通であり続けようとして――成功してしまった。


 普通なだけの家庭なんて、どこにもないというのに。


 そんな救いようのない文章で。


 この物語を擱筆かくひつしよう。




(「家庭の自浄」――了)

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