甘さに触れて
海月いおり
冬といちご
今日の空気は、いちごみたいな匂いがする。
そう言ったら、きっと誰かに笑われると思う。
でも、冬の放課後のきりっと冷えた校舎の廊下には、甘さの気配が混ざっている気がした。
「……って、あれか。
「ん、何が?」
「いや、なんかいちごみたいな、甘い匂いがするなーって思って」
「そういうこと?」
ぴょんっと飛び跳ねると、チェック柄のスカートがふわりと揺れた。
誰もいない静かな廊下でふたり、職員室に向かって歩く。さっきまで、教室で琴子と勉強をしていた。琴子が苦手な数学を私が教えて、私が苦手な英語を、琴子に教わっていた。
「さっき教室にいたときは気にならなかったのに、なんで?」
「出る前に付けたからだよ」
「……そういうこと?」
琴子と同じような返答をすると、ふっと笑った彼女に優しく手を握られる。
小さな手はしっとりしていて、柔らかい。温かくて、心が落ち着く気がした。
「
「うん。好き」
「いちごの匂いがするハンドクリームだよ」
渡り廊下に差し掛かったとき、私たちは足を止めて、窓の外に目を向けた。
中庭に植えられている木々は落葉し、寂しげな茶色に白が降り積もる。
どこか寂しさを感じる風景に、切なさを感じた。
「卒業、もうすぐだね」
「……うん。こうやって過ごせるのも、あとすこし」
「寂しいね」
「寂しい」
琴子は私の肩に触れ、そっと体の向きを変えさせた。
私よりもすこし背の高い琴子は、覗き込むように見つめて、ゆっくりと顔を近づけてくる。
息がかかるほどの距離で小さく微笑み、優しく唇を重ねた。
「琴子……ここ学校」
「スリルがあってよくない?」
「……バーカ」
ペロッとわざとらしく舌を出した琴子に、今度は私がその口を塞ぐ。
いちごの匂いが、廊下に満たされていた。
◇
街は、すっかりクリスマスモードだった。
鈴の音が聞こえる軽快なサウンドに合わせて、キラキラとイルミネーションが輝く。
店先では空気の入ったサンタクロースが左右に揺れ、大きなツリーは夜の寒さを忘れさせるほどの存在感を放っていた。
琴子とは、腕が触れるほどの距離でゆっくりと並んで歩いた。
ときおり目につくショップで足を止め、クリスマス仕様のグッズに歓喜する。
お揃いのものが欲しいよね、そういって話していた。
キーホルダーにするか、アクセサリーにするか。まだ何も決まっていないけれど、琴子と並んで物を見る時間が、ほんとうに幸せだった。
「そういや、萌花。このあと時間ある?」
「え?」
「お母さんがいちごを買ってきてくれてるの。一緒に食べない?」
いちご。
その響きに、胸が躍る。
私は大きく頷いて、琴子の手を握った。そして「いちご食べる」と素直に告げると、「お母さんも喜ぶ」と言って、琴子は満面の笑みを浮かべた。
◇
「萌花ちゃん、いらっしゃい!」
「おばさん、こんにちはー」
琴子の両親は、私のことを実の子どものように可愛がってくれていた。
もちろん、私と琴子の関係は知らない。ただの仲が良い友達、くらいにしか思っていないはず。
私は手を洗って琴子の部屋に行き、可愛い水玉模様のラグに腰を下ろした。
丸いテーブルには皿いっぱいのいちごが置かれている。
「萌花、これ~」
「ありがと」
両手にマグカップを持って現れた琴子は、片方を私に差し出してくれた。
受け取ると、手から温もりを感じる。
マグカップに注がれたホットミルクは、琴子の家での定番だった。
「寒くない?」
「大丈夫」
琴子は笑いながらいちごに手を伸ばし、ひとつ掴む。そしてヘタを取って、私の口に差し込んできた。
「んっ」
「あーん」
言われるがまま口を開き、いちごを受け取る。
ゆっくり噛むと、いちごの甘さが口いっぱいに広がった。じゅわっと果汁が弾けて、幸福感に包まれていく。
「甘い」
「ね、甘いよね」
琴子はもうひとついちごを掴んで、ヘタを取る。それをまた私の方に差し出し、唇にピタッとくっつける。
「琴子も食べなよ」
「萌花が食べてるところを見たい」
「んっ」
私に有無を言わさず、いちごを口内に押し込む。
抵抗できずに受け入れてしまったいちごをゆっくり噛むと、また甘さが口いっぱいに広がっていった。
「甘い」
「甘いね」
マグカップを手に取り、ホットミルクを体内に流しこむ。
冷たかったいちごと合わさり、言葉では言い表せないほどの高揚を感じた。
それから私たちは、他愛のない会話をしながらいちごを食べ続けた。
山盛りあったいちごも、私と琴子によってほぼ空となる。途中でお母さんが持ってきてくれた練乳やチョコレートソースにより、美味しいいちごをさらに美味しく食べることができた。
「この時期になると、萌花に食べさせるんだーって、お母さんが張り切るんだよね」
「すごく嬉しいけど……なんで?」
「んー、わかんない。でも私は嬉しいよ? 家族に萌花のこと気に入ってもらえるの」
膝の上に置いていた手を握られ、琴子の体温を直に感じた。
目が合うと、どちらからともなく顔が近づいていく。お互いの吐息が肌に触れ、唇が触れる数センチ手前で——私たち止まり、そっと微笑んだ。
「萌花と友達になって、6年目。恋人になって、2年目。高校卒業しても、ずっと一緒にいてくれる?」
「……あたりまえじゃん」
高校を卒業したら、私たちはそれぞれ違う道に進んでいく。
琴子は近所の専門学校、私は東京の大学に通うことになる。
いつも明るくて元気いっぱいの琴子だけど、その裏で不安に思う感情を隠し持っていた。
直球な言葉では言わないけれど、琴子は私が東京に出て行くことに対して、常に不安そうにしている。
「……あ、決めた」
「えっ?」
「決めた。お揃いのもの」
琴子は何かひらめいたらしい。
大きな目をさらに大きく見開き、今度はニカッと微笑んだ。
「萌花、ペアリング」
「ペアリング?」
「うん。お揃いのリングを買って、常に付けときたい」
左手を高く掲げ、薬指をひらひらと揺らす。その指は違う気がするけれど、楽しそうな琴子を見ていると、そんなことどうでもよく思えてくる。
「……いいね、琴子。絶対買おう」
高く掲げられたままの手を掴み、そっと自身の指を絡める。
そしてそのまま、そっと唇を重ねた。
ついばむようなキスを繰り返し、手は絡めたまま体を密着させて抱きしめ合う。
長く続く愛情表現は、これから訪れる未来への誓い。
気づかないうちに流れたお互いの涙が、くっついた頬で混ざり合った。
◇
『萌花、
『……え? なんでそんなこと聞くの?』
『だって、鈴本先生ってオッサンだし。だいたい先生だし。好きでいても、何も始まらないよ』
『そうだけど……』
あの日も、冬の寒い日だった。
部活からの帰り道。
管理棟の廊下を歩いていたとき、ふと琴子がそんなことを言い出した。
当時の私は、国語の鈴本先生が好きだった。
先生が持っていた同じボールペンを買い、先生に認めてもらいたくて、テストも頑張った。結果、国語だけは90点以上を毎回とれるようになっていた。
『頑張ったな』
たしかに鈴本先生はオッサンだったけれど、その言葉が嬉しかったし、私は本気で先生のことが好きだった。
だから、琴子から突然放たれた言葉が、驚くほど心に引っかかった。
『なんで琴子が、私の恋愛感情に疑いをかけるの?』
『……好きだから。私、好きだからさ』
『えっ?』
鈴本先生のことをオッサンとかいうくせに、琴子も好きなの?
そう思ったけれど、疑問は一瞬でかき消される。
一歩踏み出した琴子が、私の頬にキスをしてきたのだ。
『……好きだからさ。萌花のこと』
『わ、私!?』
潤んだ瞳が揺れ動く。
真剣な表情の琴子は、けっして嘘を言っているようには見えなかった。
「琴子とは、中学生になったときに知り合って、そこからずっと友達だったじゃん。だから、友達以上の感情に触れたとき、正直怖かった。それを今、ふと思い出した」
あのときの怖さを越えて、私は今ここにいる。
そして隣にはずっと琴子がいる。
そう思うと、ますます愛おしくてたまらない。
「……だよね。私もあのときは、勢いだったからさ。申し訳なかったと思うよ」
琴子の家を出ると、雪が降っていた。
駅まで送ってくれるという琴子と手を繋いで、街灯だけが頼りの夜道を歩く。
「でも、今は琴子が大好き。今も鈴本先生に『頑張ったね』って言われると嬉しいけれど、それはもう恋愛感情じゃないって、自信を持って言えるよ」
「鈴本先生は恋敵だからなぁ~」
「もうなんも思ってないって~!」
握る手にそっと力を込めた。
そしてすぐに指先の力を緩めて、ふたりの指を絡め合っていく。
白い息が重なるたび、心の距離も近づく気がする。
「ずっと好きだよ、萌花」
「……うん、私も」
静かな道に、私たちの控えめな笑い声だけが響いた。
お互いから匂ういちごの甘さが、かすかに夜気に混ざっていた。
甘さに触れて 終
甘さに触れて 海月いおり @k_iori25
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