甘さに触れて

海月いおり

冬といちご

 今日の空気は、いちごみたいな匂いがする。

 そう言ったら、きっと誰かに笑われると思う。

 でも、冬の放課後のきりっと冷えた校舎の廊下には、甘さの気配が混ざっている気がした。

「……って、あれか。琴子ことこのハンドクリームか」

「ん、何が?」

「いや、なんかいちごみたいな、甘い匂いがするなーって思って」

「そういうこと?」

 ぴょんっと飛び跳ねると、チェック柄のスカートがふわりと揺れた。

 誰もいない静かな廊下でふたり、職員室に向かって歩く。さっきまで、教室で琴子と勉強をしていた。琴子が苦手な数学を私が教えて、私が苦手な英語を、琴子に教わっていた。

「さっき教室にいたときは気にならなかったのに、なんで?」

「出る前に付けたからだよ」

「……そういうこと?」

 琴子と同じような返答をすると、ふっと笑った彼女に優しく手を握られる。

 小さな手はしっとりしていて、柔らかい。温かくて、心が落ち着く気がした。

萌花もか、いちごが好きだったよね」

「うん。好き」

「いちごの匂いがするハンドクリームだよ」

 渡り廊下に差し掛かったとき、私たちは足を止めて、窓の外に目を向けた。

 中庭に植えられている木々は落葉し、寂しげな茶色に白が降り積もる。

 どこか寂しさを感じる風景に、切なさを感じた。

「卒業、もうすぐだね」

「……うん。こうやって過ごせるのも、あとすこし」

「寂しいね」

「寂しい」

 琴子は私の肩に触れ、そっと体の向きを変えさせた。

 私よりもすこし背の高い琴子は、覗き込むように見つめて、ゆっくりと顔を近づけてくる。

 息がかかるほどの距離で小さく微笑み、優しく唇を重ねた。

「琴子……ここ学校」

「スリルがあってよくない?」

「……バーカ」

 ペロッとわざとらしく舌を出した琴子に、今度は私がその口を塞ぐ。

 いちごの匂いが、廊下に満たされていた。



 街は、すっかりクリスマスモードだった。

 鈴の音が聞こえる軽快なサウンドに合わせて、キラキラとイルミネーションが輝く。

 店先では空気の入ったサンタクロースが左右に揺れ、大きなツリーは夜の寒さを忘れさせるほどの存在感を放っていた。

 琴子とは、腕が触れるほどの距離でゆっくりと並んで歩いた。

 ときおり目につくショップで足を止め、クリスマス仕様のグッズに歓喜する。

 お揃いのものが欲しいよね、そういって話していた。

 キーホルダーにするか、アクセサリーにするか。まだ何も決まっていないけれど、琴子と並んで物を見る時間が、ほんとうに幸せだった。

「そういや、萌花。このあと時間ある?」

「え?」

「お母さんがいちごを買ってきてくれてるの。一緒に食べない?」

 いちご。

 その響きに、胸が躍る。

 私は大きく頷いて、琴子の手を握った。そして「いちご食べる」と素直に告げると、「お母さんも喜ぶ」と言って、琴子は満面の笑みを浮かべた。



「萌花ちゃん、いらっしゃい!」

「おばさん、こんにちはー」

 琴子の両親は、私のことを実の子どものように可愛がってくれていた。

 もちろん、私と琴子の関係は知らない。ただの仲が良い友達、くらいにしか思っていないはず。

 私は手を洗って琴子の部屋に行き、可愛い水玉模様のラグに腰を下ろした。

 丸いテーブルには皿いっぱいのいちごが置かれている。

「萌花、これ~」

「ありがと」

 両手にマグカップを持って現れた琴子は、片方を私に差し出してくれた。

 受け取ると、手から温もりを感じる。

 マグカップに注がれたホットミルクは、琴子の家での定番だった。

「寒くない?」

「大丈夫」

 琴子は笑いながらいちごに手を伸ばし、ひとつ掴む。そしてヘタを取って、私の口に差し込んできた。

「んっ」

「あーん」

 言われるがまま口を開き、いちごを受け取る。

 ゆっくり噛むと、いちごの甘さが口いっぱいに広がった。じゅわっと果汁が弾けて、幸福感に包まれていく。

「甘い」

「ね、甘いよね」

 琴子はもうひとついちごを掴んで、ヘタを取る。それをまた私の方に差し出し、唇にピタッとくっつける。

「琴子も食べなよ」

「萌花が食べてるところを見たい」

「んっ」

 私に有無を言わさず、いちごを口内に押し込む。

 抵抗できずに受け入れてしまったいちごをゆっくり噛むと、また甘さが口いっぱいに広がっていった。

「甘い」

「甘いね」

 マグカップを手に取り、ホットミルクを体内に流しこむ。

 冷たかったいちごと合わさり、言葉では言い表せないほどの高揚を感じた。 


 それから私たちは、他愛のない会話をしながらいちごを食べ続けた。

 山盛りあったいちごも、私と琴子によってほぼ空となる。途中でお母さんが持ってきてくれた練乳やチョコレートソースにより、美味しいいちごをさらに美味しく食べることができた。

「この時期になると、萌花に食べさせるんだーって、お母さんが張り切るんだよね」

「すごく嬉しいけど……なんで?」

「んー、わかんない。でも私は嬉しいよ? 家族に萌花のこと気に入ってもらえるの」

 膝の上に置いていた手を握られ、琴子の体温を直に感じた。

 目が合うと、どちらからともなく顔が近づいていく。お互いの吐息が肌に触れ、唇が触れる数センチ手前で——私たち止まり、そっと微笑んだ。

「萌花と友達になって、6年目。恋人になって、2年目。高校卒業しても、ずっと一緒にいてくれる?」

「……あたりまえじゃん」

 高校を卒業したら、私たちはそれぞれ違う道に進んでいく。

 琴子は近所の専門学校、私は東京の大学に通うことになる。

 いつも明るくて元気いっぱいの琴子だけど、その裏で不安に思う感情を隠し持っていた。

 直球な言葉では言わないけれど、琴子は私が東京に出て行くことに対して、常に不安そうにしている。

「……あ、決めた」

「えっ?」

「決めた。お揃いのもの」

 琴子は何かひらめいたらしい。

 大きな目をさらに大きく見開き、今度はニカッと微笑んだ。

「萌花、ペアリング」

「ペアリング?」

「うん。お揃いのリングを買って、常に付けときたい」

 左手を高く掲げ、薬指をひらひらと揺らす。その指は違う気がするけれど、楽しそうな琴子を見ていると、そんなことどうでもよく思えてくる。

「……いいね、琴子。絶対買おう」

 高く掲げられたままの手を掴み、そっと自身の指を絡める。

 そしてそのまま、そっと唇を重ねた。

 ついばむようなキスを繰り返し、手は絡めたまま体を密着させて抱きしめ合う。

 長く続く愛情表現は、これから訪れる未来への誓い。

 気づかないうちに流れたお互いの涙が、くっついた頬で混ざり合った。



『萌花、鈴本すずもと先生が好きって、ほんとう?』

『……え? なんでそんなこと聞くの?』

『だって、鈴本先生ってオッサンだし。だいたい先生だし。好きでいても、何も始まらないよ』

『そうだけど……』

 あの日も、冬の寒い日だった。

 部活からの帰り道。

 管理棟の廊下を歩いていたとき、ふと琴子がそんなことを言い出した。

 当時の私は、国語の鈴本先生が好きだった。

 先生が持っていた同じボールペンを買い、先生に認めてもらいたくて、テストも頑張った。結果、国語だけは90点以上を毎回とれるようになっていた。

『頑張ったな』

 たしかに鈴本先生はオッサンだったけれど、その言葉が嬉しかったし、私は本気で先生のことが好きだった。

 だから、琴子から突然放たれた言葉が、驚くほど心に引っかかった。

『なんで琴子が、私の恋愛感情に疑いをかけるの?』

『……好きだから。私、好きだからさ』

『えっ?』

 鈴本先生のことをオッサンとかいうくせに、琴子も好きなの?

 そう思ったけれど、疑問は一瞬でかき消される。

 一歩踏み出した琴子が、私の頬にキスをしてきたのだ。

『……好きだからさ。萌花のこと』

『わ、私!?』

 潤んだ瞳が揺れ動く。

 真剣な表情の琴子は、けっして嘘を言っているようには見えなかった。


「琴子とは、中学生になったときに知り合って、そこからずっと友達だったじゃん。だから、友達以上の感情に触れたとき、正直怖かった。それを今、ふと思い出した」

 あのときの怖さを越えて、私は今ここにいる。

 そして隣にはずっと琴子がいる。

 そう思うと、ますます愛おしくてたまらない。

「……だよね。私もあのときは、勢いだったからさ。申し訳なかったと思うよ」

 琴子の家を出ると、雪が降っていた。

 駅まで送ってくれるという琴子と手を繋いで、街灯だけが頼りの夜道を歩く。

「でも、今は琴子が大好き。今も鈴本先生に『頑張ったね』って言われると嬉しいけれど、それはもう恋愛感情じゃないって、自信を持って言えるよ」

「鈴本先生は恋敵だからなぁ~」

「もうなんも思ってないって~!」

 握る手にそっと力を込めた。

 そしてすぐに指先の力を緩めて、ふたりの指を絡め合っていく。

 白い息が重なるたび、心の距離も近づく気がする。

「ずっと好きだよ、萌花」

「……うん、私も」

 静かな道に、私たちの控えめな笑い声だけが響いた。

 お互いから匂ういちごの甘さが、かすかに夜気に混ざっていた。





甘さに触れて  終

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甘さに触れて 海月いおり @k_iori25

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