うたかたの傘
西織 藍
うたかたの傘
高校生になれば中学はまるで遠い昔のように思われる。数学で何を習っていたのか、体育祭で何の競技をやっていたか。ほとんどの記憶は薄れ、鮮明に覚えているものはほんのわずか。そのわずかな記憶だって、常に覚えているわけではない。ある日ふと思い出し、忘れ、また思い出し、忘れる。
退屈な化学の授業。特に意味もなく、窓際の席から降り続ける雨に目をやっていた。そしてある記憶を鮮明に思い出す。これもまた、頭の中で浮き沈みを繰り返す過去の一つだ。思い出す度に僕の心を締め付ける、そんな過去の一つ。
夜の学校は新鮮だ。寒さも極まる冬のうちは、五時すぎと言えども暗さはかなりのものだ。部活に入るでも、教室でだべるでもない僕は、いつも帰りの会が終わったらすぐに下校するわけで、今、こんな時間まで学校に残り青春を送る人たちを目の当たりにし、来なければ良かったと半ば後悔していた。
家に帰りゲームをし、スナック菓子を食べてまたゲームをし、トイレから戻り、も一つゲームを、と思ったところで母さんに咎められ、しぶしぶ勉強を始めたのが二十分ほど前のこと。さて、課題は何があったかと考えたところで英単語の小テストがあったことを思いだし、小テストが合ったことを思い出したところで単語帳を学校に忘れたことを思い出した。
そんなわけで、わざわざ学校まで来ていた。たかが小テストなんだから諦めて良かったかもしれないが、英語教師のヒステリック平川が八割以下は放課後再テストなどとのたまったため、無視するわけにもいかなかった。
教室がまだ空いてますようにと祈りながら中を覗けば、窓から光が漏れている。とりあえず安堵しつつも、こんな時間まで教室に残る真面目な人間は誰かと思い扉を開けば、それは
彼女は僕が扉を開けたことにも気づかず、読書に耽っている。俯いた顔に、簾のように艶やかな黒髪がかかっていた。隙間から覗くその黒耀の瞳は文字を追い、その度に、彼女のまつげが揺れ動く。
我に返って、あわてて自分の机に向かった。わざわざ声をかけるのもおかしなことだ。手を突っ込んで棚を漁ると、あった、僕の単語帳。
さてさっさと帰ろうというところで、勢いよくチャイムがなった。五時半を告げる鐘だ。あと三十分で学校を閉めるぞ、という合図。
その音に驚き、なんだチャイムかと思って顔を下げると、同じようにチャイムに驚いた権藤と目があった。
「
今初めて僕に気づいたようで、彼女は目を丸くする。その口から僕の名前が出て、思わずうろたえる。
「いや、単語帳。忘れたから取りに来たんだよ」
「ああ」
権藤はなぜか悲しそうに顔を歪める。
「帰らないの?」
「……分かんない」
彼女は窓を指差して続ける。
「傘、忘れたの。止むまで待つつもりだったんだけど。あと三十分じゃ止みそうにないね」
無意識にカバンを触る。傘なら、持ってきている。これは、かけるべき言葉があるんじゃないだろうか。
心臓の音が聞こえる。唾を飲み込んで、口を開く。
「僕、傘持ってるよ。入っていく…?」
「いいの?」
権藤が目を丸める。黒耀の、澄んだ瞳に吸い込まれそうだ。
肩と肩が触れあいそうで、心臓の音がバクバクなっていた。隣の権藤に聞こえていないだろうかと、そればかりが気にかかる。
「あの、日聖くん。ちゃんと入ってる?びしょびしょだよね、肩」
「だ、大丈夫だよ。それより道、こっちであってる?」
権藤は申し訳なさそうに小さくうなずいた。
「やっぱり、送ってもらうのは悪いよ。あとは走って帰るからさ」
「いいよ。どうせ帰ってもやることないし」
「単語テストがあるよ」
今はそんなことしてる場合じゃない!
肩と肩が触れあい、いい匂いが鼻をくすぐる。シャンプーだろうか。髪がとても艶やかだ。
「真っ暗だね」
「そうだね」
「世界が二人だけになったみたい」
それはどういう意図だろう。いや、意図なんて妄想するな。
彼女の瞳は宙を捉えている。ここにいるのに、どこか届かないような、触れば消えてしまうような脆さを感じた。
「……ほんとに、ありがとう。濡れて帰ったら怒られるから、困ってたの」
「お母さんに?厳しいね」
「私が悪いんだよ。傘を忘れた私が」
「そんなことはないと思うけど」
「ま、こんな時間まで帰らなかった時点で、怒られるのは確定なんだけどね。油売るなって。
濡れて帰ったら怒られる。止むのを待てども怒られる。じゃあ一体、どうしろって言うんだろうね」
「それは……」
こういうときに、気の効いた言葉が出てこない。
「日聖くん」
「な、なに?」
権藤が僕を見る。黒耀の瞳が、僕の頭を鈍らせる。
「日聖くんのお母さんはどんな人?話、聞かせてよ」
雨足が強まって、視界が狭まる。雨の先には何もない。地平線のなか、二人で孤立したような錯覚に陥る。
「母さん?」
「あはは、変だよね、こんな話。でも私ね、今さら気づいたの」
「何に?」
雷鳴が響き渡り、僕らの会話を遮った。今、権藤が何か呟いた気もしたが、現実とも言いきれない。
「うちの母さんは普通だよ。平均的に優しくて、平均的に口うるさい。勉強しなくていいの?とか、水筒さっさと出して、とか」
自分の母親の話はなんだか恥ずかしい部分に触れられるようで、意識せず早口になる。
雷に負けじと声を張る僕の話に、権藤はたまに相づちを打ちながら、何も言わず、じっと聞いていた。
「あ、もうすぐ家に──」
権藤が立ち止まったのは、突然だった。
「どうしたの?」
顔面蒼白で、手が小刻みに震えている。
「お母さんが……」
「お母さん?」
「立ってるの、家の前。まだよく見えないけど、あの赤い傘、間違いない」
彼女の視線を追って目を凝らす。
確かに、暗闇の中にぽつんと、しかし鮮明に真っ赤な色が浮かび上がっていた。
権藤は一人呟いている。その焦りが尋常ではないことに、ようやく気づいた。
「なにか、まずいの?」
僕の言葉にも気づかない。ただ呆然と赤い点を凝視している。嫌な感覚がして、胃の辺りがギュッとなる。
「権藤さん……ねえ、権藤さん!」
「あ、ごめん」
顔を上げた彼女の瞳は、水晶のように美しく潤んでいる。
「大丈夫?」
僕の口からでたのは、やはり気の利かない定型句だった。権藤は少し手で顔を覆うと、すぐに笑顔を作りうなずいた。
「うん、なんでもない。日聖くん、ありがとう。ここまででいいよ」
「え、でも」
稲光とともに、雷鳴が響き渡る。かなり近づいていた。
「いいから。お母さんに会ったら、日聖くんまでひどいこと言われちゃうだろうし」
君がひどいことを言われるのだって、僕は嫌だ。
「余計にヒートアップだから。ね、お願い」
その張り裂けそうな笑みをみて、僕は何も言えなくなる。なにか、僕には何かできないのか。自分はここまで無力なのか。
「日聖くん、また明日」
なんの決断も下せない僕を背に、彼女は雨の中を走り出した。追いかけることもせず、ただその姿をぼんやりと眺める。
遠くに、赤い傘をさす女がいた。
権藤はその女のもとまで走り、そして、女に頬を叩かれた。
女は家の中に入り、彼女はそれにゆっくりと続いた。
彼女の姿が消えたとき、僕は来た道を引き返した。
次の日の記憶はほとんど残っていない。権藤と話したのか、それとも見て見ぬふりを決め込んだのか。ただ、劇的な変化をもたらすことが出来なかったのは確かだ。それから数ヵ月のうちに、彼女はどこかへ越していった。一年ほど前に聞いた風の噂では、どうやら彼女は親からの虐待を受けていたことが発覚し、施設に引き取られたらしい。
僕はあの日、ただ彼女を見ていた。暗闇に飛び出し、真っ赤な傘に向けて走り出す彼女を、僕は止めることが出来なかった。そして、その記憶は今もたまに、僕を苦しめる。
半年に一度、もしくはもっと少ないか、僕は雨の匂いとともに彼女のことを思い出す。彼女がどこかで幸せであって欲しいだとか、少しロマンチックなことを考えて、でも、その雨も止まないうちに、僕は次の小テストに頭を抱えている。
うたかたの傘 西織 藍 @nishioriai
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