紅梅の家

@kagerouss

第1話

この家を購入したのは、ほんの気まぐれだった。

都会での暮らしに疲れ、通勤できる範囲で静かな場所でのんびりと暮らしたいと思った矢先、偶然見つけた物件だった。築70年ほどの古民家。多少の修繕は必要だが、柱や床はしっかりとしていて、昔ながらの趣を残している。何よりも惹かれたのは、庭に立つ見事な紅梅の木だった。

枝いっぱいに赤い花をつけたその梅の木は、まるでこの家の守り神のように堂々とそびえ立ち、周囲の風景と調和していた。


 「春になると、もっと綺麗になりますよ」


不動産会社の担当者もそう言っていた。

私は、この紅梅の木に一目惚れしたと言ってもいい。この家を選んだ理由の半分以上は、この木の存在だった。

引っ越しを終えた日、荷解きを済ませ、玄関前に立った私は、再びその紅梅を見上げた。

赤い花が風に揺れ、ひらりと一枚、花びらが落ちてきた。

私は思わず手を伸ばし、それを掌の上で受け止めた。驚くほど冷たい感触だった。

太陽の光を浴びていたはずなのに、まるで冷え切った氷のように。

まだ寒い日もあるから、そのせいかもしれない。


新しい生活は順調だった。

昼間は鳥のさえずりが聞こえ、夜には静寂が広がる。都会の騒がしさとは無縁の、穏やかな時間が流れていた。

だが、ひとつだけ気になることがあった。それは、梅の香りが家の中まで漂ってくることだった。

私は花の香りが好きだし、窓を開ければ庭から匂いが流れてくるのも自然なことだ。けれど、窓を閉め切った部屋の中にまで、梅の香りが満ちているのは妙だと感じていたのだ。


特に夜になると、それがはっきりと感じられる。寝室で布団に横たわると、ふわりと甘い梅の香りが鼻をかすめるのだ。


「……まあ、いい香りだし」


特に害があるわけでもないし、気にしすぎることもない。そう思って、目を閉じた。

その夜、夢を見た。

暗闇の中に、ひとつの赤い影が揺れていた。

ぼんやりと霞んだ視界の向こう、紅梅の木の枝が風に揺れている。


いや、違う。


それは……何かがぶら下がっている。

風に合わせて、ゆっくりと揺れる白いもの。

人のような大きなものだ。


紅梅の枝に、誰かが首を吊っている。


「えっ?!」


息を呑んだ瞬間、視線が合った。ぶら下がっていたはずのそれが、こちらをじっと見つめていた。

その顔は、まるで私の顔にそっくりだった。

喉の奥から悲鳴を上げようとした瞬間、意識が引き戻されるように目が覚めた。


息が荒い。心臓が激しく打っている。

額には汗が滲み、喉はひどく乾いていた。

時計を見ると、午前2時過ぎ。まだ外は真っ暗だった。

夢……だよね?


冷静になろうと、ゆっくりと深呼吸する。だが、次の瞬間、異様な違和感に気づいた。

梅の香りが、異常に濃い。

窓は閉めている。それなのに、部屋いっぱいに充満するような強い香りが漂っていた。

不安になりながらも、もう一度眠ろうと布団をかぶる。

だが、その瞬間。

 

「……ふふっ……」


かすかに、女の笑い声が聞こえた気がしたがすぐに眠りに落ちていった。


翌朝、目覚めたときには、昨夜の出来事がまるで遠い昔のことのように感じられた。

梅の香りも消え、部屋には静かな朝の空気が広がっている。


「……夢よね?」


そう自分に言い聞かせ、身支度を整える。だが、寝室を出ようとしたとき、違和感に気づいた。足元に、梅の花びらが落ちている。それも、部屋の中央に。


窓を閉め切っていたのに、なぜ?

何かの拍子に運ばれてきたのかもしれない。不思議に思いながらも、特に気にせず、花びらを手のひらでそっと潰し、ごみ箱に捨てた。


その日、仕事から帰ってきたのは夜の8時過ぎだった。

家の鍵を開け、玄関に入る。電気をつけた瞬間、息をのんだ。

玄関の床に、梅の花びらが散らばっていたのだ。


「……え?」


花びらは数枚ではない。まるで誰かが撒き散らしたかのように、紅い花びらが一面に広がっている。

気味が悪くなり、急いで花びらを手でかき集める。玄関の扉を開けて外に捨てようとしたが、風もないのにひらりと花びらが舞い上がり、家の中へ戻るように落ちた。

嫌な感覚が背筋を這い上がる。

何かおかしい。

でも、これはただの花びらだ。ただの偶然のはずだ。

そう自分に言い聞かせ、違和感から目を逸らした。


その夜、再び梅の香りが家の中に漂い始めた。

寝室で布団に入ると、昨夜と同じように甘い香りが部屋を満たしている。

いや、昨夜よりも濃い。まるで梅の花が部屋の中に咲いているかのように、香りが充満している。


「……なんで、こんなに?」


窓は閉めている。扉も開けていない。それなのに、外よりも強く香るのはおかしい。そう思いながら、布団の中で身を固くする。

その時、聞こえた。「すすり泣くような声」が。


最初は遠かった。だが、耳を澄ませると、それは紅梅の木の方から聞こえている。


「……誰かいるの?」


そう思いながら、布団から出る。足音を忍ばせながら窓のカーテンを少しだけ開けた。

月明かりの下、紅梅の木が静かに揺れている。

だが、その根元に…何かが、いる。


紅梅の影に紛れるようにして、そこには白い着物を着た女が立っていた。夜の闇の中、ぼんやりと白い姿が浮かび上がる。

そして、その女がゆっくりと、こちらを見た。


その顔ははっきりとは見えなかった。だが、確かに赤い紅をさした口元だけが不気味に吊り上がっていた。

次の瞬間、電気もつけていないはずの部屋の中に、紅梅の花の香りがさらに強く満ちていく。


「なにこれ…なんの匂い?!」


反射的にカーテンを閉め、震える指でスマホを掴んだ。だが、スマホの画面には、何も映らない。真っ暗な画面に、自分の顔の後ろに何かが映った気がして、慌てて画面を伏せた。


心臓が早鐘のように鳴る。どうする? 警察に電話する? でも、こんな話を信じてもらえるはずがない。部屋の中には、まだあの甘く、どこか腐臭の混じったような梅の香りが漂っていた。

逃げるように布団を被り、目を閉じた。寝てしまえば、何も感じなくなる。


翌朝、目が覚めると、窓の外は快晴だった。

昨夜の出来事が嘘のように思えるほど、空は青く、風も穏やかだった。

しかし、部屋の空気にはまだ微かに梅の香りが残っていた。布団から起き上がり、寝室のカーテンを開ける。

庭にそびえる紅梅の木が、朝日を浴びて静かに揺れていた。

けれど、何かがおかしい。

昨日まで、あんなに濃く咲いていた梅の花が、今朝はほとんど散ってしまっていたのだ。

枝には、わずかにしがみつくように残る花びらがいくつか見えるだけ。


「……雨でもふったのかな」


血のように梅の木の根本に広がる花びらに背筋がぞわりと粟立つ。


「……考えすぎよね」


そう自分に言い聞かせ、そそくさと朝の支度をする。


その日も、仕事を終えて夜遅くに帰宅した。

玄関の扉を開けると、強烈な梅の香りが吹きつけてきた。

まるで家の中に花が咲いているかのように、濃厚な香りが鼻を突く。


「やっぱり……おかしい……」


花は朝にほとんど散っていたはずだ。それなのに、なぜこんなにも強く香る?

恐る恐る靴を脱ぎ、玄関を進む。

その瞬間、足元で何かを踏んだ感触がした。


「なに…?」


慌てて足元を見下ろす。

床一面に、紅梅の花びらが敷き詰められていた。

玄関だけではない。廊下にも、リビングにも、寝室の扉の前にも。


「……ありえない……」


こんな量、朝にはなかった。窓も閉まっているし、入ってくるわけがない。

恐怖が背筋を這い上がる。


「誰か、いるの……?」


声を震わせながら、寝室のドアに手をかけた。

ゆっくりとドアを開ける。

そして、息が止まった。

窓が開いていた。

いや、開いていたのではない。何かが開けたのだ。出かけるときは閉まっていた。

カーテンが風に揺れている。

そして、その向こう――

紅梅の木の枝に、誰かがぶら下がっていた。

白い着物の女が、梅の枝からぶらさがり、ゆっくりと揺れている。


「……うそ……」


目を疑う。でも、確かにそこにいる。揺れる女の体は、紅梅の枝と同じリズムで、ゆらり、ゆらりと風に揺れていた。

私は声も出せずに後ずさる。

その瞬間、女の顔がぐりっとあがりこちらを向いた。

口元が、異様に吊り上がっている。

紅梅の花びらが、ひらりと落ちる。

そして、次の瞬間、女の身体が、枝から落ちてきた。

「きゃっ!!」


私は思わず悲鳴を上げた。

でも、それが地面に落ちる音はしなかった。

恐る恐る窓の外を見る。

そこには何もない。

白い着物の女の姿も、枝も、すべて、ただの梅の木がそこにあるだけだった。


「……幻覚……?」


いや、そんなわけがない。今のは、確かに目の前で起こったことだった。

慌てて窓を閉め、鍵をかけた。

この家は、何かがおかしい。

私は決意した。もうここにはいられない。

すぐにでも引っ越す準備をしようと、荷物をまとめ始める。幸い、荷物もほとんどない。大型の家具は引っ越し業者とともに後日とりにくればいい。

スーツケースに服を詰め込み、貴重品を手提げバッグに押し込む。

しかし、急ぐほどに手が震え、思うように作業が進まない。指先が氷のように冷えてうまく荷物がまとまらない。


早く、早く……。


そんな焦りに駆られながら、リビングへと向かった瞬間だった。


「カタ……カタ……」


どこからか、食器が触れ合う音が聞こえた。

嫌な予感がしてキッチンの方を見る。誰もいない。

なのに、ガラス戸の向こうの食器棚の中で、皿やコップが微かに揺れていた。


「……っ!」


風なんて吹いていない。なのに、まるで何者かがそこにいるかのように、食器がわずかに震えている。そして――


「カタ……カタ……カタカタカタカタ!」


次の瞬間、食器棚が激しく揺れ出した。中の皿がカタカタと不気味な音を立て、今にも飛び出しそうな勢いで震えている。


「やめてっ……!」


私は叫びながら後ずさる。だが、その瞬間、足元の紅梅の花びらが一斉に宙を舞い上がった。そして、次の瞬間――


「あははは……」


背後から、かすかな笑い声が聞こえた。

凍りついた。

ゆっくりと振り返る。リビングの窓の外。紅梅の木の下に、さっきの白い着物の女が立っていた。いや、それだけじゃない。

その女は、こちらをまっすぐにじっと見つめ、にっこりと笑っていた。


「どこに行くの?」


その言葉が聞こえた瞬間、全身の血の気が引いた。

いやだ、いやだ。逃げなきゃ。ここを出なきゃ。

そう思って足を動かそうとするが、身体が動かない。

まるで何かに縛り付けられたように、全身が硬直する。


その間にも、女はゆっくりとこちらに近づいてくる。

紅梅の花びらが舞い散る中、白い着物の裾がゆらりと揺れる。


「来ないで……!」


声にならない声を絞り出す。しかし、女は止まらない。私は荷物をその場に放り投げ、玄関へ走った。ガチャガチャと玄関の鍵をあけようとするが、力が入らない。


カタっ


背後で音がした。おそるおそる振り返ると窓の外だったはずの女が、気づけばすぐ目の前に立っていた。

そして、私の顔を覗き込むように、すっと顔を近づける。

その瞬間、私は初めてその顔をはっきりと見た。

その顔は…私の顔だった。

 

「なんで…」


息を呑む間もなく、女の顔がぐにゃりと歪む。

口が裂け、目が真っ黒になり、肌がひび割れていく。

そして、その口が、私の耳元で囁いた。


「ずっと、ここにいてね」


次の瞬間、視界が真っ暗になった。ふっと意識が白くなっていく。


どれくらいたったのだろうか。目を開けると、あたりは静まり返っていた。

何もかもが、まるで最初から何もなかったかのように、静寂に包まれている。


私は、ゆっくりと身を起こした。

そこは、リビングだった。

床にはもう、紅梅の花びらは落ちていない。


窓もきちんと閉じられている。

食器棚の中の皿も、何も揺れていない。

まるで、最初から何もなかったかのように。


「……夢?」


そんなはずはない。あの紅梅の木の下に立っていた女の顔。私の顔とそっくりな、あの恐ろしい微笑み。あれが夢だったとは思えない。

でも、もし現実だったなら…私は、今、生きているのか?

それを確かめるために、ゆっくりと立ち上がる。

おかしいところはない。

明日、不動産屋に問いあわせよう。そして、引っ越ししよう。

私は無理やり布団にもぐった。


翌朝、近所の住人が紅梅の木の下に落ちている何かを見つけた。

それは、服だった。その横には旅行用の大きなバッグが落ちている。


玄関には鍵がかかっておらず、家の中には誰の気配もない。先日引っ越してきた若者は失踪したらしい。

もう何人目だろうか。この家で人が失踪するのは…。不動産屋もこんな物件早く取り壊したらいいのに。


住民はそう思いながら梅の木を通り過ぎる。美しい満開梅の花が揺れている。


その日以来、この家の前を通ると「知らない誰か」がリビングの窓からこちらを見ているという噂が流れ始めた。


「誰も住んでいないはずなのに、白い服を着た女が家の中から外を見ていた」


「夜になると、紅梅の木の下に誰かが立っている」


「でも、近づくと、誰もいないんだ」


誰も住んでいないはずの家。

しかし、その窓の奥から、じっと外を見つめる女がいる。その男は、まるでそこで暮らしているかのように、紅梅の木を見つめ続けていた。

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