ヤンデレ侯爵令息に守られて
久遠れん
ヤンデレ侯爵令息に守られて
「君を殺して私も死にたい」
恍惚の笑みと共にゆっくりと頬を撫でられる。
マティルドの婚約者ファブリスの変わった言動は今に始まったことではない。
いつもなら、適当に笑って終わりだ。けれど、この日のマティルドの頭にはとある四文字が浮かんだ。
それは『ヤンデレ』
病んだ人間がデレデレする。ネット用語だ。
今まで触れたことのない単語のはずなのに、やけにしっくりと頭の中に響いた言葉に、マティルドは大きく目を見開いて――倒れた。
保健室で目を覚ましたマティルドは混乱していた。一気に脳に流れ込んできた、自分ではない『誰か』の記憶。
ここではない世界で生きた女性の記憶だ。この世界よりずっと発達した暮らし。車や電車や飛行機という名の鉄の塊が走ったり飛んだりする世界。
「どういう……こと……?」
鉄の塊が一人で動くなんて信じられない。だが、それ以上にマティルドを混乱の渦に落としたのは前世の記憶と思われる女性の死因だった。
彼女は交際していた男性によって刺されて死んだ。恨みを買ったわけではないはずだ。
だって、死に際に目にしたのが「これでようやく君は俺だけのもの……!」という恍惚とした笑みと言葉だったから。愛されすぎて殺されたのだ。
「っ」
ざあ、と顔色が悪くなる。前世の死因で連想したのは婚約者のこと。
マティルドは婚約者であるファブリスに溺愛されている。
その溺愛具合はマティルドが他の男子生徒と話すことを許さず、どころか男性教員と喋ることすら許さないほどだ。女子生徒相手でも、会話が長いといい顔をされない。
「私だけがいればいいだろう?」
うっとりとした顔でそう言われた数はもう数えきれない。マティルドは頭を抱えた。
「いや……もう刺されるのは嫌……!」
ヤンデレとは縁を切りたい。前世で殺されたのだけでもう十分だ。
にこやかな顔で迫ってきて、少しでもマティルドが他の人間と話すと不機嫌になるファブリスをもう「可愛い」なんて思えない。
「わ、別れたい……! でも、別れたら殺される……!!」
前世の経験が告げている。別れを切り出せば絶対に殺されると。
あの笑顔を浮かべたまま、さくっと一刺しだと。あるいはあえて苦しめられて死に顔を満喫されるかもしれない。
どっちも嫌だ。絶対に嫌だ。
震える指先で顔を覆ったマティルドに穏やかな声がかけられる。
「目が覚めたんだね。よかった」
聞きなれた声はファブリスのものだ。
ひっ、と悲鳴を喉の奥に飲み込んだマティルドがそろそろと視線を彼に向けると、にこにこと微笑んだまま冷えた声が降り注ぐ。
「で、別れたいって、誰と?」
顔は笑っているが声は一切笑っていない。恐ろしい。
前世の死に際の恐怖を思い出して体が震える。
それでも必死にマティルドは笑みを作って言い訳を口にした。
「使用人の! メイドのマリーが恋人と別れたいって! いっていたなぁ、って……!!」
「そうか。私のことではないんだね?」
「はい! もちろんです!!」
返事をする声音は引きつっていたかもしれない。
だが、それでもファブリスは満足げに微笑んで、ベッドに腰を下ろした。
距離が一気に近づいて、端正な顔が目の前にある。
これでヤンデレでさえなければ……! とマティルドが考えているなど知らぬまま、ファブリスはうっとりとした様子でマティルドの頬に触れる。
「僕のマティルド……」
(うわぁぁぁぁん! 怖いよぉぉぉぉ!!)
笑みを浮かべたまま固まったマティルドを、ファブリスはずっと撫でまわしていた。
▽▲▽▲▽
マティルドの様子がおかしい。
ファブリスがそう思ったのは、目の前で倒れた彼女が保健室で目を覚ましてからだった。
それまでのマティルドはファブリスが何をしても何を口にしてもにこにこと笑っていて、少しだけつまらなかった。
家同士が勝手に結んだ婚約が不服だったから、ちょっと怖がらせてみようと思って束縛しても、ただ微笑んで流される。
だが、倒れてから目覚めたマティルドはまるで違った。
ファブリスの一挙一動を用心深く見つめ、彼が手を伸ばせば小動物のようにびくつく。
今までならまるで気にしていないという様子だったのに、今のマティルドは些細な言葉で怯えたように身をすくませる。
いったいどんな心境の変化だろうかと内心で首を傾げるほどに態度が変わっていた。
だが、別にそれはそれでよかった。
つつきがいのない玩具が遊んで楽しい玩具に変わったのだから、ファブリスとしては大歓迎だ。
愛の言葉に一番怯えるマティルドに愛を囁き、抱きしめ、時にはキスをする。
腕の中で小さくなる彼女の様子は愛らしく、ファブリスはすぐに夢中になった。
今までの人形のような態度から人間らしい反応をされて、楽しかったのもある。
そんな折、マティルドの悪口を言っている令嬢がいた。
教室の移動で吹き抜けの廊下を歩いているときに耳に入ってきた。視線を滑らせれば、庭園の端でなにやらこそこそと喋っている。
貴族学院には序列がある。
家の格がそのまま反映される序列で、ファブリスは侯爵令息でマティルドは伯爵令嬢だ。
格で言うなら、ファブリスは上から数えたほうが早くて、マティルドは中間あたり。
そんなマティルドの悪口をいっていたのは男爵令嬢たちだった。
身分が上のマティルドの悪口を口にするだけでも愚かだというのに、その内容は看過できなかった。
「ファブリス様はあんな女のどこがよいのかしら」
「見目は人形のようですから。愛玩にちょうど良いのでしょう」
少し前ならその通りだった。だが、今のマティルドは感情も豊かで本当の意味で愛らしいのだ。
ファブリスは隣を歩いているマティルドを置いて、その令嬢たちの方へと足を向けた。
今ままでなら放置できても、今は放置する気分になれなかったから。
「楽しそうな話をしているね?」
「ファブリス様……!」
驚愕の声を上げる令嬢二人に、にこりと微笑む。
ファブリスは自身の外見が整っていることを熟知している。この笑みを向ければ、たいていの令嬢は恋に落ちる。
案の定、先ほどまでマティルドの悪口を言っていた令嬢たちはファブリスに媚びるように両手を胸の前で組んだ。少し離れた場所にいるマティルドのことなど眼中にないのだろう。
「次に私の婚約者の悪口を口にしたら――殺すよ?」
「っ!」
「ひっ!」
ひたりと令嬢二人を見つめて真顔で告げる。
ファブリスの凍り付いた声音に令嬢たちは悲鳴を上げて、そのまま逃げるように去っていった。
彼女たちがいなくなった方角を無感情に眺めていたファブリスの傍に、マティルドが近寄ってくる。
「ファブリス様、いったい何を言われたのですか?」
「うーん、そうだね。私がいかにマティルドを愛しているか、かな」
にこ、と笑みを浮かべれば最近怯えつつもファブリスに心を開きつつあるマティルドは困ったように眉を寄せた。
「ほどほどになさってくださいね」
「ああ」
欠片もそんな気はないが一応返事をしておく。
マティルドの腰に手をまわすと、またびくりと肩をすくめる姿に愛おしいなぁ、と思いながらファブリスは歩き出した。
▽▲▽▲▽
(ヤンデレと穏便に離れる方法……ここにスマホがあればなぁ~!)
マティルドは唯一一人になれる学生寮の自室で頭を抱えていた。
最近、以前以上にファブリスが付きまとってきていて日中は一人になれない。
「……私のなにがそんなに気に入っているんだろう……」
ごろんとベッドに横になってぼやいてみるが、心当たりが一切ない。
はぁ、とため息を吐きして考えるだけ無駄かとマティルドは意識を手放した。
昼食をとるために、食堂に移動していた途中のことだった。
「ほのか!!」
誰も知るはずがない前世の名前。それを呼ばれたからと反射的に振り返ったのが失敗だった。
マティルドの視線の先には荒い呼吸を繰り返しているクラスメイト。いつも教室の端にいる目立たない男子生徒だ。
マティルドは会話どころか名前も知らない。
そんな男子生徒が手にはナイフを握っていて。頬を歓喜で赤く染めていた。
「ああ! やっぱり! ほのかなのか!!」
「っ」
だめだ、と脳が警鐘を鳴らす。ねっとりとした喋り方に覚えがあった。
前世でマティルド――ほのかの元恋人だった、彼女を殺した男だ。
(そうよ、私の記憶が戻ったのよ)
どうして記憶が戻ったのが自分一人だと思っていたのか。
彼女が死んだあと、元恋人がどうしたのかは知らないが、もし、後を追っていたとしたら。
記憶が戻るタイミングはほとんど同じかもしれないのに。
青ざめるマティルドの横でファブリスが怪訝そうにしている。
それはそうだ。彼からすれば『ほのか』などという名前は知らないだろうし、なにより聞きなれなくて人名として認識できているのかも怪しい。
「俺たちはまた一緒になれる! 神が俺たちを祝福している!!」
頭のおかしいことを並べたてている。だが、反論できない。
前世で、刺されたときの熱くて痛くて辛かった記憶がまざまざと思い出されるから。
じり、と一歩後ろに下がったマティルドの行動を目ざとく見つけた男子生徒が、絶望を顔に浮かべる。
「どうして逃げるんだ? こんなに愛しているのに!!」
そして、そのままナイフをもって突進してきた。逃げなくちゃ、と思うのに体は動かない。
恐怖が足を縛っている。悲鳴すら上げられずにマティルドが大きく目を見開いた瞬間。
彼女の前に隣にいたファブリスが出て、足払いで男子生徒を転がした。
「……え?」
間の抜けた声が出る。
男子生徒が転んだ拍子に手放したナイフを蹴って遠くに飛ばしたファブリスが、そのまま男子生徒を抑えるように上に乗る。
綺麗な動きで制圧した姿にマティルドが瞬きを繰り返していると、ファブリスが珍しく鋭い声を上げた。
「誰か教師を呼んでくれ。あるいは拘束魔法が使えるやつはいないか!」
「私、先生を呼んでくるわ!」
「拘束魔法なら俺が!」
ファブリスにのしかかられてじたばたと暴れる男子生徒に、呆気にとられていた周囲もバタバタと動き出す。
隣のクラスの男子生徒が拘束魔法をかけたことで、身動きは取れなくなった。
それでも暴れ続ける男子生徒の耳元にファブリスが口を近づける。そして、何やら囁いた瞬間、彼は完全に大人しくなった。
「ファブリス様……?」
「大丈夫だよ。マティルドは私が守るから」
にこりと浮かべられた笑みはいつもと変わらないはずなのに。
なんだかやけに頼もしく見えて、マティルドは思わずぽろりと涙をこぼしてしまった。
誰かが呼んでくれたことで教師が駆け付け、事情を聞きたいと別室に案内された。
マティルドは『前世の記憶』は伏せて、ただのクラスメイトで名前も知らないと主張した。
ファブリスもまた同じように口にしていて、男子生徒は気が触れたのだ、と処理されることになった。
教師から解放されて、遅い昼食を食べるか、授業に合流するか自由にしていいといわれたマティルドはとりあえず胃に何か入れたいと食堂の方へ歩きながら、ファブリスに問いかけた。
「ファブリス様、いったい何を言われたのですか?」
「ん?」
「耳元でなにか囁かれていたでしょう?」
マティルドの問いかけに、ファブリスが足を止める。
にい、といつもの意地の悪い笑みを浮かべて、彼が笑った。
影が差したせいで、いつも以上に恐ろしく感じる。
「マティルドは私のものだよ、って教えただけだよ」
「そう、ですか」
「ああ」
にこりと微笑まれるとそれ以上尋ねられない。雲が動いたのか光がさして、恐ろしさが軽減される。
納得しかねる気持ちを抱えたまま、マティルドは浅く息を吐いた。
「守ってくださって、ありがとうございます」
「私は君の婚約者だ。当然のことだよ」
頭を下げたマティルドの方にファブリスが触れる。
ぽんぽんと叩かれて顔を上げるよう促され、そっと視線を上げたマティルドは小さく笑った。
「本当に嬉しかったです」
前世では誰も守ってくれなかった。守ってくれる人もいなかった。
でも、ここではそうではない。ファブリスはちょっと怖いけれど、マティルドのために危険を犯してでも守ってくれる人だと知った。
それが、嬉しい。
笑み崩れたマティルドに、ファブリスが大きく目を見開く。
ふいっと視線をそらされる。口元を抑えたファブリスの顔は、なぜか真っ赤に染まっていた。
◤ ̄ ̄ ̄ ̄◥
あとがき
◣____◢
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