たとえばこの選択の先に

侘山 寂(Wabiyama Sabi)

たとえばこの選択の先に

 僕は大学院を出て研究所に入り、もう五年ほど経っていた。

 研究テーマは“人類の認知拡張”という基礎研究。

 派手さはなく、成果も出にくい。

 社会の役に立つかどうかも判断できず、予算も下りづらい。

 それでも続けたかった。

 根拠というより、意地に近かった。


 しかし、現実は残酷だった。

 論文は連続でリジェクトされ、申請し続けた研究費も通らず、教授には「方向転換も視野に」と遠回しに言われた。

 同僚からは「器用貧乏」と笑われた。


 焦りだけが蓄積していった。


 徹夜続きのある深夜。

 研究室の蛍光灯がやけに硬い光を放ち、机の上のプリントが白すぎて目が痛かった。

 画面の文字が滲み、コードは何度書き直しても前に進まなかった。


「……もう少し。あと少しでいいから」


 誰に向けた言葉でもなかった。


 その直後、視界がぐらりと揺れた。

 体が横に倒れ、背中が床に当たった。

 冷たかった。

 眠気の限界を通り越して、何か大きな塊に飲み込まれるような感覚があった。


 その視界の端に、“白”が立っていた。


 白い男。


 白衣とも違う、儀式服と呼ぶには生活感がなさすぎる、ただ光を反射しすぎる布の衣装。

 顔立ちは整っていて、輪郭はどこかぼやけていた。


「危険ではありません」


 乾いた声だった。

 淡々と結果だけを述べるような響き。

 そこに心配の気配はなかった。


 起き上がろうとしたが、腕が震えていた。

 男が無造作に額へ触れた瞬間、頭痛がすっと途切れた。

 治ったというより、痛みという現象ごと消えたような感覚だった。


「……お前は誰なんだ」


「あなたの選択に関わる者です」


 意味がわからなかった。

 だが、男はそれ以上を話す気がないように、静かにこちらを見ていた。


 気づけば、僕は椅子に座らされ、画面の前に戻っていた。

 意識は澄みすぎていて、不気味なほど冴えていた。


 そして翌週、落ち続けていた研究費が唐突に通った。


 そこから、いくつかの“良いこと”が続いた。

 学会で思わぬ注目を集め、教授が急に好意的になり、共同研究の誘いも受けた。

 どれも偶然と言える程度のことだったが、続く順番だけが整いすぎていた。


 僕が綾に出会ったのも、その延長にあった。


 乾いた空気のポスター会場で彼女は足を止め、言った。


「すごく良かったです」


 たったそれだけなのに、不思議と胸がほどけた。


 話してみると、彼女は僕の研究を丁寧に理解しようとし、距離の取り方も心地よかった。

 いつの間にか、会うのが自然になり、部屋を行き来し、夜を共に過ごすようになった。


 綾の寝息には、不思議な安心があった。

 研究より彼女を優先する時間が増えても、罪悪感より、安堵が勝っていた。


 あの白い男のことは、いつのまにか遠くに追いやられていた。


 ***


 雨の夜。


 アパートの前に綾が立っていた。

 その向かいに、白い男がいた。

 ふたりとも傘を差していなかった。

 街灯に照らされる雨粒が、輪郭を細かく揺らしていた。


 僕が声をかける前に、綾が小さく頷いた。

 誰に向けた頷きなのか、僕には見当がつかなかった。


 次の瞬間、白い男の姿は消えていた。


「今、誰と話してた?」


「……誰とも。ぼーっとしてただけ」


 その自然さが、逆に胸の奥をざわつかせた。


 その夜、綾の寝息を聞いても、心の奥は静まらなかった。


 ***


 数日後、研究室に白い男が現れた。


「選ぶ時です」


 淡い声だった。


「人類の未来か。

 幸せな生活か」


 言葉自体は重いはずなのに、声音には重さがなかった。

 昼食のメニューでも提示するかのような気軽さだった。


「……お前は、どっちがいいんだ」


 問いかけても、白い男は少しだけ首を傾けただけだった。

 答える気はなく、その理由を語る気もないようだった。


「決まったら、また」


 短く告げ、影が薄れるように消えた。


 胸にざらつきだけが残った。


 ***


 アヤに話した夜。

 彼女は長い沈黙の後、ぽつりと言った。


「……そんなこと言われたんだ」


 静かな声だった。


「ねえ、一つだけ言っていい?」


「うん」


「わたし、本当は……あなたにいてほしい。

 研究より、わたしを選んでほしいよ」


 責めるでもなく、押しつけるでもなく、ただ真っ直ぐだった。

 その一言が、何より胸に刺さった。


 僕は何も言えなかった。

 沈黙だけが答えになっていた。


 アヤは小さく笑った。


「でも、決めるのはあなた」


 そして、僕は決断した。


 ***


 朝の光。

 アヤが笑う。

 皿の音。

 休日の散歩。

 手をつなぐ。

 肩に寄りかかる重み。

 名前を呼ばれる声。

 眠る前に指を絡める感触。


 ——こういう未来も、あったのかもしれない。


 ***


 蛍光灯の白が、研究室を均一に照らしていた。

 紙の音。

 冷めたコーヒー。

 空調の風。


 現実はこちらだった。


 未完成のコードに指を置いたまま、しばらく動けなかった。


 背後に気配がした。


「決めたんですね」


 淡々とした声。

 そこに感情の色はなかった。


「……見てたのか」


「ええ。

 遠くからでも、分かりますから」


 白い男は机上のコードに目を落とし、ふと目を細めた。


「続けるんですね」


 その言葉には、人の痛みや喪失に対する理解が欠けていた。

 ただの確認作業のようだった。


「……勝手に言ってろ」


 小さく吐き捨てると、白い男は返事をしなかった。

 返す必要を感じていないような沈黙だった。


 しばらくして、彼は微かに笑った。


「では、また来ます」


 それだけ言い残し、ゆっくりと消えた。


 残されたのは白い光と冷えた空気だけだった。


 僕は指を動かした。

 ゆっくりと、押しつけるように。


 言われるまま動くつもりはなかった。

 期待に従う気もなかった。


 この先をどうするかは、僕が決める。


 それだけは確かだった。


 キーを叩いた瞬間、胸の奥で、

 わずかに心臓が跳ねた。


 小さいけれど、不思議と力があった。


 理由はまだ分からなかった。

 ただ、その一打だけが、

 この白い部屋のどこにもない“温度”を持っていた。

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