檜扇

眼鏡犬

短編

揺り起こされる。縦、横、くわぁんくわん。視界が揺れる。目が開くとすぐに、筆が迫ってきた。拒否はできない。拒否ができる腕もない。逃げ出す足もない。生首だからだ。例えば、歯で抵抗することできる。しかし待っているのは不自由。面をつけるのは大変息苦しく、二度とつけられたくはない。喋るのも同じだ。できることは沈黙し、呼吸することだけ。

じょきん、じょきん。髪が切られている。長くなっていたのか。時間の感覚がない。今日が何年何月何日か、予想もできない。もう忘れた。必要ではない。買われ、飼われて、私の世界は固定された。珍しい展示物として、晒されるときにだけ、別の世界と繋がれる。悪趣味な展示だろうか。好評のようで、大勢の人間が来る。人間観察は楽しい。

今回は何だろうか。

博物館か美術館、独特の匂いと雰囲気。運ばれる途中、目だけで見える状況は雅やかだった。どうやら眼前の扇が目的の場所のようだ。檜扇、と読める。

近づいたガラス面。ぼんやり浮かぶ、白い肌に麻呂眉の平安貴族のような顔。自分の顔を探せない、いやそもそも思い出せなりつつある。性別があったことさえ、わからなくなってしまった。

予想通り、扇の側に置かれる。何度か位置を調整され、放置。やがて消灯。誰もいなくなった。

「世の中のありしにもあらずなりゆけば涙さへこそ色かはりけれ」

久しぶりに自分の声を聞いた。この錆色の感情を、隣の展示物はわかってくれるだろうか。ただただ、求められたときにだけ生きる私たちや。

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