第32話 恐怖のコスト(2)
風が一度、強く吹き抜けた。
鈍い金属の音と足音が近づいてきて、すぐ近くで止まる。
「……ずいぶんと、寒い顔してるな」
聞き慣れた低い声だった。
シュアラが顔を上げると、カイが塀の影に立っていた。
外套の襟を片手で押さえ、彼女と、切れた縄とを順番に眺める。
「ゲルトから、少しだけ聞いた」
「“少しだけ”という顔ではありませんね」
自分の声が、妙に乾いているのが分かった。
「また怒鳴られました。『人は数字じゃ動かねえ』と」
「……まあ、そう言うだろうな、あいつは」
カイは苦笑を浮かべる。
「俺も、最初にお前の床を見た時は似たようなことを思った」
「床、ですか」
「数字と石とパンくずだらけのやつだ」
彼は、霜を踏んでシュアラの近くまで来る。
いつものマグは持っていない。
かわりに、手袋越しに手を組んでいた。
「さっきの話、俺にもしてくれるか」
「どこからです?」
「お前の好きな、“ゲーム”の話からでいい」
促され、シュアラは手帳を開いた。
ゲーム3のページ。距離、対象、命中率、震え具合。
そして、その前のページには、死亡率の計算が並んでいる。
「恐怖を、“戦力の損失”として扱うことにしました」
彼女は、静かに言った。
「恐怖のせいで矢が一本も撃てないなら、それは実質的に兵力ゼロです。
ならば、どこまでなら矢を撃てるのか、その境界を数字で測るべきだと」
「理屈は分かる」
カイは、ページを覗き込んだ。
『死者六人→四人(期待値)』
という行に目を留める。
「リオに、これを見せたのか」
「はい。彼の矢が飛ぶことで、“死なずに済む兵が二人増える”と」
「そりゃあ……押しつぶされるだろうな」
カイは、わずかに顔をしかめた。
「そんなにおかしなことを言いましたか」
「おかしくはない」
彼は即座に否定した。
「間違ってもいない。
ただ、“いきなり全部見せすぎた”んだろう」
冷たい空気の中で、カイの息が白く曇る。
「俺だって、最初の戦で斬ったのは一人だ。
数字にすりゃ、“敵軍の兵のうちの一”に過ぎねえけど……寝られなかったぞ」
シュアラは、目を瞬いた。
彼が自分の過去を話すのは、珍しい。
「何日も何日も、あいつの顔だけが頭の中で繰り返される。
誰も、『あれで村の死者が何人減った』なんて数字を教えてはくれなかった」
カイは、少し息を吐いた。
「多分、教えられてたら、余計眠れなかった」
「……どうしてです?」
「“俺が斬らなきゃ、その分村人が死んだ”って話になるからな」
カイは、雪のような霜を靴先で払いながら言う。
「お前の計算は、そういう話だろ。
“撃てば守れる命がある。撃たなきゃ死ぬ命がある”」
「ええ」
それは、彼女が何度自分に言い聞かせた理屈でもあった。
「俺たち指揮官は、それを頭に叩き込んでおかないと、判断を誤る。
どこかで誰かを切り捨てねえと、全員死ぬことだってある」
カイは、シュアラをまっすぐ見た。
「でも、それを“そのまんまの形”で兵に渡すかどうかは、また別の話だ」
「……では、偽るべきだと?」
「いや」
即座に首を振る。
「嘘はつくな。あいつらは、すぐ見抜く。
ただ、“どこを見るか”だけは選んでやれ」
シュアラは、手帳を見下ろした。
数字の列。死者の期待値。恐怖のコスト。
「俺がさっき見たお前のページには、『死ぬかもしれねえ二人』の数字がある」
カイは、指先でその行を叩いた。
「けど、リオの頭ん中にいるのは、“肩を撃たれたあいつ”一人だ。
お前があいつに見せるべきなのは、多分、『新しく増える二人』じゃなくて――」
そこで言葉を切る。
「『お前が守れるかもしれねえ誰か』のほうだ」
シュアラは、カイの顔を見た。
「守れるかもしれない、誰か」
「あいつ、村の子どもと話してるとき、ちょっとだけ顔が柔らかくなるの、見たろ」
カイは、思い出したように笑った。
「この前、粉引き婆さんの家で、荷物運ぶの手伝ってた時とかよ」
「……はい」
思い当たる光景が、頭に浮かぶ。
大きな袋を一人で持ち上げられず、リオが黙って支えていたあの時。
「あいつに、“撃たなきゃ二人死ぬ”って言うんじゃなくてさ」
カイは、霜の上に指で簡単な図を描いた。
一つの丸。その横に、小さな点をいくつか。
「“お前が撃たなかったら、この婆さんが斬られるかもしれねえ”とか、“あの子どもの親父が帰ってこねえかもしれねえ”とか。
そういう“顔つきの誰か”で考えさせてやるほうが、多分あいつには効く」
それは、数字には載らない話だ。
「……“撃つことが正しい”と説くのではなく、“撃たなかったときに誰が死ぬか”を一緒に考えろ、ということですか」
「そうだ」
カイは頷いた。
「お前の計算式の中に、名前を入れてやれ。
リオに、『自分がどの死なら背負えるか』を選ばせてやれ」
「どの死なら……」
シュアラは、思わず繰り返した。
「敵か、味方か。
見知らぬ誰かか、昨日パンを分けてくれた誰かか。
選びたくない選択を、あいつに押しつけることになる」
カイは、言葉を選ぶように続ける。
「でも、“選ばせてもらえないまま”矢を握らされるよりは、まだマシだ」
シュアラの胸の奥で、何かが変な音を立てて動いた。
恐怖のコスト。
今まで、それは「死者の増減」としてしか見えていなかった。
けれど、カイの言葉は、そのコストに「顔」と「名前」を付けることを求めている。
「……それは、非合理です」
口をついて出た言葉は、半分だけ本音だった。
「誰か一人の顔を特別扱いすれば、判断が揺らぎます。
公平性が失われ、全体の最適解から外れる可能性が――」
「お前はもう、何人かの顔を特別扱いしてるだろ」
カイが静かに遮った。
「最初に門番に毛布をかけた時からな」
喉の奥が熱くなるような感覚がした。
「……それは、最低限の資産保全です」
「そういうことにしておけ」
カイは、薄く笑った。
「お前がどう言い繕っても、現場の人間は知ってる。
嬢ちゃんは“誰でもいい誰か”じゃなくて、“今目の前にいるこの一人”を生かすために走ってるってな」
言葉が出ない。
「だから、その“甘さ”を、たまには数字の中に混ぜてやれ」
カイは、冬空を見上げた。
「恐怖のコストってのは、多分、“誰かを失うのが怖い”ってことだ。
それをただ“損失”として削るんじゃなくて、“守りたい対象”として計算に入れてみろ」
シュアラは、ゆっくりと手帳を見下ろした。
距離、対象、命中率、震え具合。
死者六人、四人。
そこに、名前は一つも書かれていない。
「……難題ですね」
ようやく、それだけが言えた。
「俺には計算式なんざ書けねえ。そこはお前の仕事だ」
カイは、そう言って肩をすくめる。
「ただ、さっきのリオの顔を見ちまうとよ。
“恐怖のコスト”って欄に、あいつの全部を押し込めちまうのは、見てられねえ」
彼は踵を返した。
「昼までには、北の見張り台の交代に顔出す。
それまでに、少しあったまってこい。顔が真っ青だ」
「……はい」
カイの背中が遠ざかり、足音が消えていく。
射場に残ったのは、切れた縄の切れ端と、霜と、手帳だけだった。
日が傾く頃、シュアラの部屋には、また蝋燭の光が戻っていた。
床に散らばる紙の上に、“ゲーム3”のページを抜き出すように手帳を広げる。
昼間、ゲルトとカイの前で見せた計算式。
死者の期待値。恐怖のコスト。
彼女はしばらくそれを眺め、それから大きく息を吐いた。
「……これは、失敗ですね」
自分に向けた宣告だった。
ペンを取る。
計算式がびっしりと詰まった一枚を、綴じ目から丁寧に破り取った。
紙が裂ける音が、静かな部屋にやけに大きく響く。
破ったページの上部に、ただ一言だけ書き込む。
『失敗』
それから、その紙を二つ、三つに折りたたみ、火のついていない小さな炉の隅に押し込んだ。
燃やしはしない。
けれど、手元の「ゲーム3」のページから、その計算を切り離す。
新しく開いたページの一番上に、ペン先を乗せる。
『ゲーム3:狙撃手リオ(改)』
その下に、最初に書き込んだ。
『目的:仲間の死者数を最小化すること(死者ゼロを目標に)』
続けて、もう一行。
『前提:恐怖は“除去すべき誤差”ではなく、“守りたい対象がいる証拠”』
ペン先が震えた。
それでも、書き続ける。
『リオに提示すべき問い:
「撃つべきか」ではなく
「撃たなかったとき、誰が死ぬか/誰を守れなくなるか」』
名前を書く欄を、枝分かれするようにいくつか空けた。
『例:粉引き婆さん/門番の兵/ルバークリークの子どもたち ……』
(公平ではない。非合理です)
心のどこかが、そう呟く。
誰か一人を特別扱いすれば、数字は歪む。
最適解から外れる可能性もある。
けれど――
(あの子の恐怖は、“誰でもいい二人分”の数字なんかじゃない)
肩を撃たれた仲間の顔。
村の子どもたちの笑い声。
粉引きの老婆の、節くれ立った手。
それら全てが、恐怖というコストの内訳なのだとしたら。
(ならば、その内訳ごと、計算式に組み込むしかありません)
シュアラは、最後に小さく書き添えた。
『備考:人は数字どおりには動かない(ゲルトの指摘)→式に「名前」の変数を追加』
ペン先を離す。
蝋燭の火が、ページの上で揺れた。
冬は、ゆっくりと近づいている。
その冬を越えるために必要なのは、矢とパンと鉄だけではない。
恐怖と責任を抱えたまま、それでも指を動かせるだけの「理由」だ。
「……リオには、別の聞き方をしないといけませんね」
誰に向けるでもなく、そう呟く。
恐怖のコストを、ただ減らすのではなく、正しく支払うために。
シュアラは手帳を閉じ、指先で表紙を一度撫でた。
静かな音が、また冬の空気の中に溶けていった。
次の更新予定
死んだことにされた悪役令嬢、辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します チャーハン@新作はぼちぼち @tya-hantabero
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。死んだことにされた悪役令嬢、辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直しますの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます