第57話 風の中に残る静けさ
目を覚ましたとき、部屋の空気は朝らしくないほど静かだった。
カーテンの隙間から細い光が落ちていて、昨日の静默場で見た光の筋みたいに薄くて、まっすぐで、痛くない。
ベッドから足を下ろすと、床に触れた瞬間の重心がやけに整っている。
昨日、先輩に「歩幅、散ってる」と言われたときの感覚が、体のどこかにまだ残っているみたいだった。
洗顔、歯磨き、水を飲む。
どれも動きに引っかかりがない。
コップを流しに置いたときの音さえ、“ちょうどいいところに落ちたな” と感じる。
朝食を食べ終え、椅子を押し戻したとき、脚が床を滑る音が静かに収まった。
その瞬間、今日一日の空気の形がなんとなく掴めた気がした。
靴を履く。
玄関で三秒ほど立ち止まる。
誰かを待っているわけじゃない。
ただ、動きが自然に“落ち着く”のを待つだけ。
扉を閉めるときの音が、静默場がほどけた瞬間の小さな音に少し似ていた。
角を曲がる頃には、公園へ向かうことにしていた。
理由は特にない。
足がその方向に向くのが自然だったから。
外の風は弱い。
頬に触れると、肩の力がすっと抜ける。
その感覚が、昨日、先輩が左側に立ったときに空気の重さがわずかに沈んだあの瞬間を思い出させる。
思い出そうとしているわけじゃない。
ただ、風が勝手に連れてきただけだ。
歩道の影がまっすぐ伸びていて、風に揺れると細い線が切れたり戻ったりする。
その断続の仕方が、昨日の静默場で光が揺れて、先輩がすぐ整えたあのわずかな動きに似ていた。
私はそのまま歩いた。
立ち止まる必要もない。
公園の入り口は、住宅街の外れにある細いレンガ道だ。
一歩踏み込むと、足音が外より半拍ほど軽くなる。
それだけで、場所が変わったと分かる。
公園の中は驚くほど静かだ。
遠くのベンチに老夫婦が座っているだけで、子どもの声も犬の足音もない。
風が通るたび、ベンチの影がゆっくり揺れる。
その弧の形が、昨日、光線を中央に戻したときの曲がり方に少し似ている。
私は近づきもせず、ただ横を通り過ぎただけだ。
足元の影がさっと広がって、また戻る。
体が先に「似ている」と判断して、頭は遅れて追いつく。
水辺に差しかかると、風が少し強くなった。
水面の光がひとつ跳ねて、それが指先をくすぐるように感じられた。
私は手を太ももの横で、ほんの少しだけ動かした。
光は出さない。
でも、その軌跡は昨日、先輩の袖ぎりぎりを光線が通ったときの形とよく似ていた。
自分の指を見ながら、そっと息を吸う。
「……まだ残ってる。」
懐かしむわけでも、求めるわけでもない。
ただ、身体がそう受け取っただけ。
風が前髪を払った。
自然に指が動いて戻す。
昨日、呼吸を合わせたときと同じ“無駄のない動き”だった。
自分で少し驚いたけれど、歩みを止めずに先へ進む。
公園の奥には、小さな坂がある。
今までは、こういう場所でよく歩幅が乱れた。
理由もなく、ただ上手くいかない日があった。
でも今日は違った。
影が坂の角度に合わせて伸びても、足は乱れなかった。
地面がまっすぐになったみたいに軽い。
風が背中を押したとき、私はそのまま一歩踏み出した。
迷いはない。
昨日、先輩がふいに歩き出して、私もつられて半歩進んだときと同じだった。
動きが先にあって、理由は後からついてくる。
出口に近づくと、木漏れ日の影が地面に散っていた。
踏むたびに光の粒が形を変える。
その変わり方が、昨日の静默場の“揺れのあとに落ち着く”感触に似ていた。
私はそこで立ち止まらず、そのまま外に出た。
今日の静けさは、誰かがいないから生まれたものではなくて、
昨日の静けさがまだ呼吸のどこかに残っているからだと気づく。
それだけで十分だった。
家に戻る頃には、朝よりも空気が柔らかくなっていた。
星盾庁の建物が遠くに見えても、私はそちらを確かめようとしなかった。
確認しなくても、明日になればまた会える——
その感覚が自然にそこにあった。
玄関の鍵を回す音が、朝よりさらに静かに感じられた。
部屋は外よりも静かだ。
私は外套を掛け、何となく手を前に出してみる。
空気がゆるんだ瞬間、細い光が一本だけ生まれた。
昨日より短い。
けれど、揺れなかった。
私は小さくうなずいて、光を消した。
灯りを落とすと、部屋が暗く沈む。
ベッドに倒れ込むと、枕の横の空気が軽い。
暗闇の中、そっと息を吐く。
「……また会えるし。」
約束でも願望でもない。
ただ、疑わなくてもいい事実としてそこにある。
目を閉じる。
今日の静けさは、ちょうどいい場所に落ちてくれた。
きらめく後輩と、静かに沈む先輩の日々 @khronoszz
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