無音のエール

🐉東雲 晴加🏔️

無音のエール







 古めかしい玄関をくぐり、一礼して道場への敷居をまたぐと、そこにはすでに先客がいた。



 誰もいない、照明もついていない道場の真ん中で、外からの日差しを受け、道着の擦れる音だけを耳に残して綺麗に空を切る上段蹴りに目を奪われる。


 蹴りと一緒に飛ぶ汗が、まるで宝石みたいに輝いて散った。



(ムカつく)



 一枚絵を切り取ったかのようなその一瞬に、私は表情を変えずに心の中で呟いた。






「! ……伊織いおり。早いな」


 私に気がついた彼――賢征けんせいが、さっきまでの張り詰めた空気を一変させて道場の隅においてあるタオルを取りに私の傍に来る。

 アンタの方が早く来てんじゃん、と思いながら私は「大会近いしね」と答えてトートバックから上の道着を取り出した。


「――どう? 調子」


 スポーツドリンクを飲みながら、横目で賢征に尋ねられる。


「……まあまあだよ。去年のインターハイでは準決落ちしちゃったから、次は勝たないと」

「……だな。早いよなぁ……俺もお前も、始めた頃はこんなに小さかったのにさ」


 賢征と私は同じ道場出身で小学生の時からの付き合いだ。

 小さな頃は、「日本一の選手になろうな!」と二人で無邪気に笑いあったこともある。今だって、高みを目指し、同じ高校で同じところを目指している。


 ……けど。


 賢征の練習への姿勢も、実力も、成績だって確実に私よりも一歩先に進んでいる。



「次のインハイで勝たなきゃ……大学推薦してもらえない。勝たなきゃ」


 私は道場の畳の目を見ながら帯を締めた。


「……大丈夫だろ。お前なら」


 そう朗らかに笑った賢征に、私は刺すような視線を向けた。


「なにそれ、嫌味?」


 短くそれだけ言って、黙ってしまった賢征を置いて一人で黙々とウォーミングアップを始めた。






 賢征とは、性別が違うけれど、今でも仲は良い方だと思う。


 同じ所を目指して切磋琢磨するのは楽しかった。けれど、同じ高みを目指しているからこそ見えてくる違い。


 蹴りも、突きも、細かい技術も、賢征の方が格段に上だ。


 賢征と私は性別が違うから、同じフィールドで戦うことはない。けれど、いつも間近で練習していればわかる、実力の違い。


 解っている。差が出るのは、才能だけじゃない。


 練習への取り組み方や、意識の差が、二人の力の差を広げている。


 だから、賢征は全国に行っても上位に行けて、私は準決落ちなのだ。

 二年生のインターハイ。ここで結果が出なければ、大学進学を希望している自分の道はない。


 解っているのに――彼と同じ事を出来ない自分に腹が立つ。


 賢征は、こんな可愛げのない私にも声をかけてくれるくらい、いいやつなのに。



(そんなだから、一歩抜けられないんだ)



 長年、何を学んできたんだと自分に蹴りを入れたくなる。


 自分の弱さを振り切るように、私は前を向いてただ空を突いた。






 武の道は、己との戦いだ。

 どれだけ鍛錬し、力を磨いても、弱い心のままでは真の強さは得られない。


 賢征が強いのは、心が強いから。


 己に負けない強い心があるから、日々の鍛錬にもめげず、ひたすら前を向いて頑張る事が出来るのだ。


 自分の不出来さに落ち込む、私とは大違いに。



(賢征みたいに綺麗に。指先まで! ブレずに!)


 道場で顔を合わせる時は見ないようにしているくせに、練習中にいつも思い浮かぶのは、賢征の力強く美しい姿勢。


 一歩でも近づけるように、彼よりも美しくあれるようにと汗で道着を濡らした。



 賢征とは、インターハイまでほとんど口を聞かなかった。

 口を聞いてしまったら、嫌な自分か、弱い自分が出てきて、これ以上頑張れない気がして。


 時折、何か言いたげな賢征の視線が背中に刺さったけれど、彼も何か言っては来なかった。






 禄に賢征と口を聞かないまま迎えた、インターハイ決勝。


 私と賢征は共に決勝戦のコートにいた。

 会場の真ん中、ライトが明るく照らす四角いコートに、いよいよ私は立つ。


 今までの競技人生をかけて、やれるだけの事はやった。

 遊びも、食事も、恋心だって封印して、

 今、このコートに立つ、誰よりも練習したと言えるくらいの自負はある。


 なのに、


 二つ前の選手の演武中、係員に誘導されて待機場所を立った瞬間、何故か震えが止まらなくなる。


 もし、失敗したら――


 強くなったと思ったはずの心が、急に不安な音を立てた。



(――なんで)



 わなわなと身体が震えて、何故か涙が滲みそうになる。

 ハッハッと短く息を吐いて、息苦しさに下を向きそうになった。



 ふと、対面の男子の決勝戦のコートが目に入った。


 選手は皆、コートの真ん中で演武をしている選手を真剣に見つめている。

 ――なのに、一人だけこちらを見ている選手がいた。


「――けんせい」


 賢征は、私と目が合うと、ゆっくりと拳を握って自分の胸を叩いた。



 し・ん・じ・ろ!



 無音の声が、確かに耳に聞こえた。




「桐島実業高校、早崎 伊織選手!」


 呼名の声に、「ハイッ!」と力強く答える。

 さっきまであんなに暴れていた胸の音が、驚くほど凪いでいた。






 会場中に響いているはずの歓声が、現実味を帯びなくて、何故か遠くに聞こえる気がする。


 表彰台の上で、一番高いところにいる賢征と、横並びでちらりと目が合った。


 金色のメダルを首に掛けてもらっても、澄ました顔をしていたくせに。少し遅れて銀のメダルを首に掛けられた私と目が合うと、子どもの頃の様に賢征がくしゃっと笑う。


 その顔に、演武前の武者震いとは、胸が違う震え方をした。






 全てを終えて地元に帰り、同じ校区の私と賢征は荷物を抱えながら帰り道を並んで歩く。

 もう真っ暗になった帰り道、家の近くの公園に差し掛かったところで賢征が足を止めた。


「伊織」


 インターハイまで、ほとんど口をきかなかったのに、賢征の声はそんな事などまるでなかったかの様な温度で。公園のぼんやりとした街灯の下、少し掠れた声で「準優勝おめでとう」と彼が言った。

 私が無視していた事には気づいていたはずなのに、自分の事のように喜んでいる賢征に胸が熱くなる。


(今までのこと、謝らなきゃ――)



「……伊織、有り難うな」

「え?」



 ごめんと、言おうと口を開きかけた相手から、まさかの言葉が飛び出して私は目を見開いた。


 賢征は、はにかみながら私を見る。


「……俺、お前がいたからここまでこれた。お前が諦めずに頑張る姿を見て、俺も、絶対に負けるもんかって頑張れたんだ。だから」



 俺の優勝は、伊織のおかげ。




 賢征に、一歩でも近づきたいと思っていた。


 自分と比べて、泣いた日もある。

 賢征の強さを羨んで、肩を並べることが出来ないことが悲しくて。

 笑い合いたいのに、可愛くないことばかり言う自分が嫌で。


 けれど、


 彼の強さの理由わけに、自分も入っていたなんて。




 表彰式でも流れなかった涙が、一気に溢れて。子どもみたいに泣きじゃくった。


 夏の終わりの公園。ごめんねと、ありがとうを繰り返す私を、賢征は汗ばんだ熱い手のひらで、ぎゅっと静かに抱きしめた。


❖おしまい❖


 2025.11.22了

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