第17話 修学旅行 ― 心が近づく夜 ―

修道院の白壁が柔らかく陽を返し、静けさがひんやりと空気を整えていた。

その前で、本隊の子どもたちがざわざわと談笑している。


そのざわめきを切り裂くように、颯太が大声で手を振った。


「おーーい!!雪杜ーー!!おっせぇ!!」


駆も隣で腕を組み、半歩遅れて言う。


「……やっと来た」


雪杜と並んだ咲良は、小さく肩をすぼめて息を整えた。


「ご、ごめんね……迷惑かけちゃって……」


莉子が心底ほっとした顔で近づいてくる。


「咲良ちゃん、落とし物は見つかった?」


咲良は胸元をそっと押さえ、笑顔を浮かべた。


「うん!雪杜くんも一緒に探してくれて見つかった。

 雪杜くん、ありがと」


彼女がさりげなくウィンクすると、雪杜の耳が一瞬で赤く染まる。


「い……いや、当然のことだし」


「ひゅー!雪杜かっけー!」


颯太がやんややんやと盛り上げれば、御珠は当然のように胸を張り、誇らしげに宣言した。


「雪杜は妾の伴侶じゃからな。

 当然“よい男”なのじゃ」


突然の“伴侶”ワードに周囲がぴくりと反応したが、颯太がすべてを肯定する勢いで笑う。


「よし!これで天野ファミリー勢ぞろいだなー!」


その賑やかさから少し離れた位置。

澄香が腕を組んで、深いため息を落とす。


「……はぁ。揃った途端にうるっさいわね」


透が肩をすくめ、軽い声で返した。


「まぁまぁ。賑やかでいいじゃない」


「ここ修道院なんだけど。静かに祈る場所なの!」


澄香は小声で怒るが、その目はどこか落ち着かない。


「はいはい。じゃあマリア様にでも祈ろうか」


透が茶化すように言うと、


「写真撮っとこ」


澄香は言葉とは裏腹にスマホを構えていた。


透は苦笑して横目でつぶやく。


(しっかり楽しんでるんだよなぁ……)


修道院前の静けさと、天野ファミリーの賑やかさが溶け合い、旅の続きが再び動き出す気配がしていた。


――――


修道院の庭は、風が通るたびに葉擦れの音をふわりと揺らしていた。

その静けさを一瞬で破るように――


「ちょっと!あなた達!静かにしなさいよ、ここ修道院なんだから!」


澄香の鋭い声が響いた。


しかし颯太はまったく悪びれず、売店の棚に視線を釘付けにする。


「へいへい。

 うおっ、売店の“マダレナ”めっちゃうまそう!」


莉子が小さくうなずく。


「こ、これ美味しいよ……前に来た時に食べた……」


その一言に咲良がぱっと表情を明るくした。


「じゃあ私、1箱買ってみる。みんなで食べよ!」


声が弾んだ瞬間、周りの子どもたちが一斉に棚へ群がった。

売店の温かな静けさが、小学生の足音でにぎやかに揺れる。


一方で、売店の外ではまったく違う空気が流れていた。


御珠は喧騒から少し離れ、聖母像の前に立っていた。

まるで像の奥にある“何か”を感じ取るように、長いまつげを静かに伏せる。


「……この像……“母なる祈り”を集めておるな」


雪杜は横で首をかしげる。


「母なる祈り……?」


御珠は像の前で両手を組むわけでもなく、ただ感触だけを確かめるように言葉を続ける。


「妾の祠とは質が違う。

 これは“守られたい者たち”の祈り。

 妾が受けるのは“委ねる祈り”。

 似ておるようで……根が違う」


雪杜は半分だけ理解したような、曖昧な表情を浮かべた。


「……そうなんだ」


「妾は……好かぬが、嫌いでもない。

 人の祈りとは……面白いものじゃ」


御珠の視線は像から離れ、ふっと空気を和らげた。


そのとき、咲良たちがマダレナの袋を揺らしながらこちらへ向かってくるのが見えた。


「雪杜くん!これ美味しいって!一緒に食べよ!」


颯太はもう口いっぱいに頬張っている。


「うめぇ!!もう一個くれ!!」


駆が横から、落ち着いた声でぽつりと言った。


「……あんまり食べると夕食、食べられなくなるよ」


御珠がその声を遮るように前へ一歩踏み出す。


「ぬ!?妾にも食べさせるのじゃーーーー!!」


咲良がいたずらっぽく笑い、袋を片手で隠した。


「えーどうしよっかな。

 全部食べられちゃいそうだからあげない」


御珠は文字通り“跳ねる”ほど反応した。


「咲良!?そなた調子に乗るなと申したではないか!!」


「なんのことー?」


咲良は軽やかにかわしながら歩き、御珠は小さく唇を尖らせる。

結局、じゃれ合いの末にひとつ手渡され、御珠はそれを誇らしげに受け取った。


その様子を見ながら、雪杜は胸の奥でこっそり息を吐く。


(咲良、なんだか御珠の扱いがうまくなった気がする)


そんな彼の横に咲良がまわり込み、小さく笑う。


「雪杜くんも。はい。あーん」


「えっ、あーん!?!?」


雪杜の声が裏返り、頬が一瞬で赤く染まる。


御珠は即座に飛び上がった。


「それは看過できん!!咲良!!許すまじ!!」


咲良はわざとらしく肩をすくめ、雪杜と御珠の反応を楽しむ。

御珠はぷりぷり怒りながらも、どこか満たされた表情で二人を追いかける。


修道院の静けさとは裏腹に、彼らの輪には柔らかい笑いと、旅の午後を彩るあたたかい空気が満ちていた。


――――


バスを降りて宿の中へ入ると、木の匂いがふわりと鼻をくすぐった。

点呼を済ませると、雪杜たちは透の班と合流し、そのまま六人の男子組に落ち着いた。


「男女は別部屋だぞー」という先生の声が響き、廊下では御珠が「嫌じゃ!」と盛大に騒ぎ、咲良が慌てて押しとどめている。

雪杜もなんとか宥めて女子側へ送り出し、ようやく場が落ち着いた。


扉がぱたぱたと開閉し、旅館ならではの“くつろぎ時間”がゆっくり流れ始める。


畳の匂いがひときわ濃く漂う部屋へ、男子たちがわらわらと雪崩れ込んだ。

積まれた布団の山が軽く揺れ、和室の空気に一気に賑やかさが満ちていく。


「和室きたーー!!なんか旅館って感じ!!」


颯太が跳ねるように声を上げ、駆は畳にそっと手をつけて、落ち着いた声でつぶやく。


「畳だ……いい匂い……」


透は周囲を見渡しながら、荷物の位置を整えるように促した。


「荷物はすみっこ置けよ、踏まれるぞ」


その横で、他の子たちが布団の山を見てざわざわする。


「布団まだ敷かれてないんだな」

「晩飯食ってる間に敷くらしいよ」


遠足特有のテンションと新しい部屋の空気が混じりあって、和室の広さが一気に騒がしさで満たされていく。


颯太が真っ先に適当な場所を陣取り、元気よく雪杜を呼んだ。


「おい雪杜!ここ座ろうぜ!!」


「え、あ……うん……」


雪杜は少し戸惑いながらも、颯太の隣に腰を下ろした。


駆がポーチからカードを取り出し、ちらりと周囲を見る。


「カードゲームやる?」


「やるやる!!修学旅行の夜って感じ!!」


颯太が即答した瞬間、透が軽く笑って付け加える。


「負けたら罰ゲームな」


「よっしゃ!

 雪杜に御珠とのあんなことやこんなことを、洗いざらい吐いてもらおうぜ!!」


颯太の悪ノリに、部屋中の男子が一斉に沸いた。


「え!?な、何もないよ……!?」


雪杜の声は完全に裏返っている。


その否定を、周囲は見事なハモりで潰した。


「「何もないということはなかろう?」」


雪杜の背筋がびしっと固まる。


(やばい。絶対負けられない……)


ちょうどその時、廊下から先生の声が飛んできた。


「すぐに夕食だぞー!」


部屋の空気が一瞬で切り替わり、子どもたちは荷物を置いたままわーっと扉へ向かっていく。

ゲームは自然と“後でな!”という空気のまま中断になった。


雪杜は胸を撫でおろし、そっと息を吐いた。


(ふぅ……助かったけど、どうしよう……

 とりあえず御珠は親戚の子ってことにしとくか……

 あと箱入り娘でちょっと常識が足りないってことにして……)


なんとか形になりそうな“御珠設定”を、雪杜は頭の中で大急ぎで組み立てはじめた。


修学旅行の夜はまだ始まったばかりだ。

それなのに――雪杜の胃だけは、すでに緊張で痛みはじめていた。


――――


畳の匂いがふわりと立ち上る広い部屋に、女子たちが次々と足を踏み入れる。

布団はまだ敷かれておらず、空間だけがぽっかり広がっていた。


その静けさを破壊する第一声は、もちろん御珠だった。


「ぬおおおおおおおおおお!!!」


入室した瞬間、全力で畳を転がり回る。


「ちょ、ちょっと!?何!?急に転がらないで!!」


澄香が慌てて距離を取る。


「御珠ちゃん!?危ないよ……!」


莉子も困惑して手を伸ばしたが、御珠は全く聞く耳を持たない。


「なぜじゃーー!!

 なぜ妾は雪杜と同じ部屋ではないのじゃーー!!」


畳をバンバン叩きながら、魂の叫びを上げる神。

周囲の女子たちはぽかんと固まり、思わず言葉を失う。


「男子とは別々でしょ……普通……?」

「え、えっ……どうしたの御珠ちゃん……」


遠巻きの声に、御珠はさらに荒ぶった。


「嫌じゃ!!妾は雪杜の部屋が良いぃぃぃぃ!!

 一緒じゃないと眠れないのじゃーー!!」


悲鳴と歓声が同時に上がる。


「えーーーーーー!」

「きゃーーーーー!」


まるで黒光するサプライズの生き物でも出たかのようだ。


澄香も顔を真っ赤にして叫ぶ。


「!!

 ふ、不潔! 不潔! 不潔!!」


完全にパンクした委員長。


御珠は畳の上でなおも転がり続け、不満を爆発させている。


「なんでじゃ!!どうしてじゃ!!おかしい!!」


咲良が慌てて駆け寄り、声を落とす。


「御珠ちゃん落ち着いて、ほら……転がらないで……」


言われて一度は座ったものの、落ち着く気配はほぼゼロ。

そわそわ左右に揺れて、今にも飛び出しそうだ。


「雪杜と……同じ建物におるのに……

 なぜ妾だけ別部屋なのじゃ……意味がわからぬ……!!」


莉子が困ったように指を合わせる。


「え、えっと……ルールだから……?」


「るーるが間違っておるのじゃ!!」


御珠は即答し、天井に文句を言う勢い。


澄香は息を荒げながら御珠へにじり寄る。


「貴様。今日という今日は許さない。

 その性根、叩きなおしてくれる!」


後ろの女子たちが小声でざわめく。


「委員長……口調……」

「委員長……口調……」


咲良は慌てふためきながら澄香を両手で制した。


「如月さんも落ち着いて!

 御珠ちゃんは一緒の部屋で寝てるだけで何もしてないから。

 そういう知識がないお子様だから!」


「ん?妾、いろいろ知っておるぞ?」


御珠がさらっと爆弾を落とした。


「御珠は黙ってて!話合わせて!!」


咲良が全力で口を押さえる。


澄香はこめかみを押さえ、震える声を落とす。


「いま何かやばい会話が聞こえた気がしたけど聞かなかったことにするわ。

 春原さんの顔に免じていまは見逃してあげる。

 後でじっくり話を聞かせてもらうから」


言いながらも、澄香の視線は御珠と咲良のあいだを何度も行き来していた。

口では叱っているのに、その目だけは好奇心の光を隠しきれていない。


咲良は内心冷や汗をかきながら、場を切り替えるように声を上げた。


「そ……そろそろごはんの時間みたいだよ」


御珠のぴくりと肩が跳ねる。


「……ごはん……?」


咲良はそっと微笑み、決定打を落とす。


「うん。

 ――雪杜くんに会えるよ」


その一言が届いた瞬間、御珠の体がびくりと震えた。

次の瞬間には、弾かれたようにすっと立ち上がっている。


「はやく行くのじゃーーーー!!!

 いま行く!!今すぐじゃ!!妾が一番乗りじゃ!!」


「こらぁぁ!!走るな!!」


澄香の怒号が飛ぶ。


「ちょ、ちょっと御珠ちゃん待って……!」


莉子が慌てて追いかけ、後ろで何人かの女子がぽそりと漏らす。


「かわいい……」

「急に元気……」


御珠は勢いそのままに部屋の出口へ猪突猛進。

他の女子たちが慌ててその背を追う騒がしい列になった。


ぽつんと残った咲良は、小さく息を吐いて畳に視線を落とす。


「……ふぅ。なんとか誤魔化せたけど、この後どうしよう……」


夜の“詰問タイム”は確実に避けられない。

その未来を思い、咲良の胃は緊張で痛みはじめていた。


――――


食堂に入ると、ずらりと並んだ御膳が目に飛び込んできた。

小さな鉄板と固形燃料、前菜の器、箸袋が整然と並び、同じ形の夕食セットが長いテーブルいっぱいに続いている。


その規模と統一感に、思わず「わぁ……」と声が漏れそうになる。

鉄板の上には一口サイズのステーキが静かに置かれ、銀色の脂がほんのり光を返していた。


御珠はその光景を見た瞬間、肩をびくりと震わせる。


「ぬぉっ!?なんじゃ。きょうは正月かなにかか!?

 これほどの料理が並ぶとは……どこぞの国賓でも来るのかの!」


その大げさな反応に、雪杜はつい笑ってしまう。


「確かにすごいね。僕もこんなの初めて見た。

 もし国賓が来たら……面白いかもね」


御膳を前に、周りの生徒たちも期待でそわそわと落ち着かない。

椅子が引かれる音があちこちで重なり、ようやく全員が席についた。


「いただきます」の声がそろったところで、近くにいた仲居さんが固形燃料へ火をつけて回り始めた。


小さな青い炎が灯った瞬間――御珠がまた震えた。


「ぬぉっ!?小さき塊が……燃えておる……!?」


雪杜は(ほんと、何にでも感動してかわいいな……)と胸の奥で微笑みながら説明する。


「固形燃料ってやつだよ」


御珠は鉄板の下の青い火を覗き込み、まるで新種の神獣を発見したかのように目を丸くした。


「この小さき命火が、鉄の板をここまで熱くするとは……

 妾より働き者ではないか!!」


テーブルのあちこちで笑いがこぼれ、颯太が勢いよく箸を構える。


「っちょ!肉めっちゃうまそうなんだけど!」


その横で駆が鉄板の上の肉をじっと見つめ、低くつぶやいた。


「これは“はこだて和牛”……?」


莉子が不思議そうに首をかしげる。


「え、なにかのブランド牛なのこれ?」


駆の目が一瞬で光った。


「そう。

 年間220頭前後しか出荷されず、赤身が柔らかく、脂肪は少ないのに旨味が濃厚。

 穀類、ビール粕、米などで丁寧に育てられ――」


テーブルの全員が同時に固まった。


(え……急にめっちゃしゃべる……)


駆はまるで肉の専門家のように続ける。


「旅費の全額をここに突っ込んだと言っても過言ではない」


颯太が勢いで押し切る。


「お、おぅ!とにかくめちゃくちゃ旨いってことな!」


しかし駆は淡々と首を振った。


「いや“めちゃめちゃ旨い”で収まるレベルではない。

 神に感謝するレベルだ」


御珠はすかさず胸を張る。


「ふむ。ぬし、よくわかっておる。

 妾に感謝せよ」


その堂々たる態度に、咲良が慌ててフォローする。


「こ、この子、神様ごっこが好きなの。

 合わせてあげてね……」


雪杜は咲良の意図を察し、ほんの少しだけ息を吸い込んだ。

御珠の肩にそっと手を添え、勢いで口にする。


「み……御珠ちゃんは、えらいでちゅね〜」


言った瞬間、雪杜の頬がじわっと赤くなった。


(……うわ、今のめっちゃ恥ずかしい……)


一瞬の静けさが落ちたあと――


「妾を子供扱いするでない!!」


御珠は真っ赤になりながら跳ね上がり、その勢いに天野班のテーブルへ笑いが弾けた。


少し離れた位置で、透が湯気越しに微笑む。


「賑やかだねー」


「ふん!もっと静かに食べて欲しいわね!」


澄香は文句を言いながらも、気づけば誰よりも早く肉を口に運んでいた。


(……なにこの肉、想像以上なんだけど……!)


その感想が隠しきれず、表情の端にそっとにじむ。


鉄板の上で肉がじゅっと焼け、香ばしい音が広がる。

笑い声と混ざるその音は、どこか懐かしくて心地よいリズムだった。


雪杜はふと手を止め、周囲の輪を見回す。

湯気の向こうで、誰かが笑っている。

御珠も、咲良も、颯太も、駆も、莉子も――みんな同じテーブルにいる。


胸の奥がぽっと温かく灯る。


(……みんなと一緒に食べるごはんって……楽しい)


その小さな実感が、じゅうじゅうと焼ける肉の匂いと一緒に、

雪杜の心へ静かに染みていった。

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神愛 ─ 永遠の刹那 ─ @kami_ai

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