見捨てられた國のヒミコ20Ⅹ0 (2)
Ⅽ、アイザック
見捨てられた國のヒミコ20Ⅹ0(2)
見捨てられた國のヒミコ20✕0 Ⅽ.アイザック
(2)
呆然としたヒミコだったが、漁村の住民の為に何かの役に立たなければと考えた。
「必要なものは薬品だけですか?」
代表格の男は黙ってヒミコを見つめた。唇が微かに動いたように見えたが何も語らない。
「食糧はどうしてるの?」
重ねて問いかけると男の傍にいた初老の女が口を開いた。
「政府の人に頼みがあるんだけど…。」そう言いながら男の顔にチラリと視線を走らせた。二人は夫婦らしいと思えた。
「子供や孫と連絡を取ることは出来ないかね。どうかね。」
言われてなるほどと思った。たしかにここに外国と通信できる環境はありそうになかった。
「出来ますよ。」
ヒミコの答えに皆が注目した。眼差しに期待が表れている。
「子供たちはフィリピンに移住した、たしかそう聞きました。それならあとは子供さんたちの国民番号を教えてもらえれば領事館と連絡を取って住所や電話番号を調べてもらいます。こちらには衛星通信の電話を貸与しますので…。」
ヒミコはふと口を閉ざした。電話は定期的にバッテリーを充電しなければならない。ここに電気があるのか。ヒミコの視線がすぐ傍の岸壁に繋がれた小さな漁船に注がれた。波に合わせてゆっくり上下に揺れている船は古くはあるが手入れされているのが見て取れた。この船のエンジンは動くのではないか。もしそうなら発電できるはずだった。
「漁船の燃料はどうしてるの?」
「A重油だよ。」誰かが答えた。
ヒミコは驚いた。とうの昔に輸入禁止になったと思っていたからだ。
「どうやって手に入れたのかしら。」
「物々交換さ。俺たちは漁の他に畑もやっている。イモと小麦を作っている。それを燃料と交換しているのさ。」
「いったい誰と?」
「外国人さ。アメリカ人らしい。五年くらい前から付き合ってる。いったいどこに住んでいるのか分らんがね。もしかしたら新潟にあるという難民キャンプの燃料の横流しかも知れんと思うが、それは俺たちが知らないことだ。」
「待ってちょうだい。五年間は燃料と交換してやって来れたかもしれないけど、それ以前はどうしてたの? 大震災から十一年も経ってるのよ。」
代表格の男が口を開いた。
「燃料は輸入禁止になったが、それ以降も零細漁民のために特別に輸入枠が認められた。ここには近隣の漁連の分を含めてタンクで貯蔵されていた。幸い震災を免れたので、それを少しづつ大切に使ってきた。タンクを見るかい?」
ヒミコは首を振った。「他にも近くに漁村があるんですか。」と尋ねた。ドローンによる調査では発見できなかったからだ。
「いいや、誰も残っちゃいない。他の集落は震災の三年ほど前に水害の山崩れでやられた。人も家も皆、海に押し出された。ここは直接の被害は無かった。」
「良かったですね。」
「…良かったのは確かだが、孤立してしまってね。暫くして調査に来た行政の人に言われたよ。孤立は解消するがインフラの復旧には優先順位がある、地域の人口を考えるとその他のことはあまり期待に沿えない、とね。
道路はそれまでの半分程度の幅で整備され、ここから先はそのまま。結局ここが行き止まりの地区になってしまった。水道の復旧を願ったが、近くの山に湧水があるからそれを利用して簡易水道を引いたらどうかと勧められた。
そしてこうも言われたよ。人が僅かしか居ないのは投票権の数が無いという事、その数が予算を決めるので、行政ではどうしようもないです、とよ。」
ヒミコはどこかで聞いた話のような気がした。そして思い出した。内閣府のアスカが口にしたことだ。都市部への人口集中、人口と議員定数の完全な比例。その結果九州の議員定数は二名、四国は一名などとなり約二百名の議員はほぼ大都会の選挙区が占めていたこと。予算も政策も大都会の中間層の利益を目標とし、地方は災害などでインフラが破壊されても放置されるケースが多かったという。
「国民が国を捨てたのか、それとも国が国民を捨てたのか…。」とアスカは呟いた。
ヒミコは地区住民の子や孫たちの国民番号を受け取って、憂鬱な気分でいわきの庁舎に戻った。
彼らの住所や電話番号はすぐに分かると思われたが暫く時間がかかるという領事館の返事だった。親族の要求であっても個人情報を公開するには各人の許可が必要だからと説明された。
どこか中途半端な思いで基地に帰ると兄タケルからのメッセージが届いていた。内容はヒミコの行動を心配したもので「一人で基地を離れるときはMC-001を連れて行くように」とあった。MC-001は雪ダルマのような形をしたロボットでMCはマスター・コントロールの意味。基地の多くのシステムにアクセス出来た。AIを搭載する以前は基地内の精密機械の静電気を放流する役割だったことからヒミコは「アースボーイ」と呼んでいた。
ヒミコは兄に電話した。メッセージを受け取ったと報せたかったのだがタケルが電話に出ない。ヒミコは唇を噛んだ。もう二週間も兄の声を聞いていなかったからだ。
SNSで呼び出すと「ドクタータケルはチャットルームを退出した」と表示されている。ヒミコはつい大きな声を出した。
「お兄ちゃんに用があるの。早く呼び出して。」
次の瞬間にヒミコが手にしたモニターに兄の姿が現れた。
「ヒミコ、どうかしたの?。」
それでもヒミコは黙って映し出された兄の顔を見ている。
「用は何ですか。」
ヒミコが眉を寄せて言った。
「私はお兄ちゃんに用があるの。バーチャル・クローンさんよく聞いて。すぐ会いに来なかったら地下三階の研究室に押し掛けるわよ。分った?」
ヒミコは一方的にまくし立てて通信を終わらせた。兄の姿はクローンだと分っていたからだ。
久しぶりに会う兄は表情に力が無く、やつれた様子に見えた。ヒミコはそれだけで涙ぐんだ。
「お兄ちゃん大丈夫?」
自分の憔悴した顔貌に気付かないのかタケルは怪訝な顔をした。
「大丈夫だよ。」
「なんだかとっても疲れてるように見えるわ。」
「そう、でも心配はいらないよ。」
「きっと忙しすぎるのよ。あの人に言って研究スタッフを増やして貰ったら?」
あの人とは総理大臣のことだ。このところヒミコは敷島に懐疑的になっているようだ。
「いや、今の体制で十分だよ。」
ヒミコは兄を見つめた。地階の研究スタッフは減り続け、今では四人しかいない。バイオテクノロジー、トランスヒューマニズム、宇宙工学、半導体と多元素合金の専門家たちだ。ほかに衛星などの通信技術者が地上階に七人いる。
「ヒミコの方はどう、手は足りてる?」逆に兄が尋ねた。
「うん。」
答えてから指を折って数えた。エネルギー、工業資材、食料品、ケミカル等の管理者、施設のメカニック、電気技士、保健師、調理士、ランドリー、理容、清掃などの衛生管理者、庶務、その他、ヒミコを加えて十五人だ。ギリギリの陣容と言える。
「でも、これ以上減ったら良くないかも。」
「分った。スタッフが減るのは仕方がない。皆、移住を伸ばしてくれてるからね。それに備えて出来るものは全て自動化していこう。」
タケルは優しい笑みを浮かべた。「ところで用というのは?」
「日本列島に残っている人たちといつでも通信できるようにしたいの。高度をうんと下げた衛星を使えば基地局なしで通話できるでしょう? バッテリーは充電が要らない原子力電池が良いわ。」
「分った。数はどのくらい?」
「とりあえず…百台くらいかな。」
「二ヶ月で準備するよ。」
「有難うお兄ちゃん。それからね…。もう一つあるの。」
ヒミコが顔じゅうに笑みを漂わせた。
「お兄ちゃん、だいじな事が近づいてます!さて、それは何でしょう。」
タケルはすぐに「だいじな事、さあ何だろう。」と尋ねた。
「早いッ。さあ、何?」
「う~ん。分るような気がしない。」
「それは、十月二十九日、お兄ちゃんの誕生日です。まさか忘れてた?」
タケルは肩をすぼめた。
「忘れた訳じゃないけど…。そういえばヒミコは小っちゃい頃から僕の誕生日を覚えてくれてたよね。」
「そう、さそり座の二十九、サソリの肉と覚えたの、すごいでしょう。」
「たしかに。」
「お誕生日にパーティーをするわよ。基地は全員参加だからね。」
このパーティーはヒミコの計画どおり行われたが、それは兄妹にとって最後の誕生日会となった。
林の上空に一筋の煙が見えた。…残留民かもしれない、咄嗟にそう思ったヒミコはインカムで警備ロボを呼び出した。
「残留民を調査に徒歩で向かう。隊長は私をサポートして。」
装甲車のアームが動きを止め、屋根が昆虫の羽のように開くと「隊長」がのそりと地上に降りた。
彼は科学基地を警備するAIロボットで、命令があればヒミコを警護する。大きさは競走馬ほどもあり、四足歩行で肩のあたりに二本の腕を持つ。腕の一本はマシンガンとすぐに分かった。胴体の正面が目標を補足するためのレーダーと光学装置を収めていて、小さな二つの丸い突起が目のように見えなくもない。
林の外れに細い道を見つけた。そこを下って行くと狭い畑があり、その端に小屋が見えた。軒下から突き出た細い煙突から煙がゆっくりと吐き出されている。ヒミコは立ち止まると「隊長」に待つよう合図した。「隊長」を初めて眼にした人間がパニックに襲われるのを何度か経験している。
ヒミコは注意深く辺りを見回した。人の姿は見えない。畑にはサツマイモの葉が茂り、それが幾筋も並んでいる。サツマイモは東北地方や北海道の北部でも栽培されている貴重な食糧だ。
小道は畑の縁を進み、その先は坂になってさらに下っている。耳を澄ますと水の流れが微かに聞えた。視線を遮る茂みの奥にせせらぎがあるようだ。
ヒミコは畑に足を入れ、踏み固められた道を小屋に近づいた。いかにも粗末な造りだが、ぴったり閉められた戸はアルミサッシが使われている。煙が出ているからには人がいるに違いなかった。遠慮がちに呼びかけた。
「今日は…。」
それからやや大きな声を出した。
「誰かいますか…。」
「はいよ、はいよ。」
思いがけなく傍の林の中から返事があった。「今行きますよ…。」
枯れ枝を数本抱えた初老の婦人が現れた。
「上の道路で作業をしている人かね。」
婦人はヒミコに近寄りながら問いかけたが、突然立ち止まって体をこわ張らせた。ヒミコの胸脇に吊られた大きな拳銃に気付いたのだ。
「私は政府の職員です。驚かせてごめんなさい。」
ヒミコが釈明すると婦人は安堵したらしく、掌で胸を撫でる仕草をみせて微笑した。「珍しいね、道路の整備なんて。アメリカさんの基地の関係かしら。」
「そういう事になります。」
「重機は倒木をのけるだけ? 切断は出来ないの?」
「出来ますよ。」
「じゃあ…。」婦人は枯れ枝を足もとに置くと両掌を顔の辺りで向かい合わせた。
「これくらいの輪切りに出来ないかしら。あまり重いと運べないし…。数がいっぱいになるのは構わないから。薪にするの。それから、小さな枝はそのままでいいわ。厚かましいお願いだけど。」
「お手伝いするわ。」
ヒミコは「アースボーイ」に倒木の切断を細やかに指示して、これで良いかというように婦人の顔を見た。
婦人もヒミコの顔を黙って見つめていたが、感に堪えないようすで口を開いた。
「まあ、まあ。人と話すのは何か月振りかしら。いや、一年以上になるわね。」
「おばさんは一人で暮しているの?」
「…そう、夫が八年前に死んだからね。今は一人さ。」
「お名前は?」
「山下よ。」
「生活が不便では…、電気とかどうしてるの。」
「ポータブルの発電機があるけど、もう長く使ってないね。なければないでどうにかなるものよ。早寝早起きをしてね。冬は薪をくべれば真っ暗という訳じゃないしね。」
「そうかも知れないけどたいへんだわ。それに、病気になったら困るんじゃないの。」
婦人は黙り込んだ。
「福島のいわき市に避難者住宅があるわ。とりあえずそこに移るのはどうかしら。病院もあるし、海外移住の手続きも出来るわ。あなたたちの手助けをするのが私の仕事なの。」
「私はどこへも行かないわ。夫の墓もあるし…。」
遠くを見る眼差しで言った。しかしヒミコにとって彼女の決心は無謀としか思えなかった。
「危険な事もあるわ。日本海側では強盗団の被害情報がある。こちら側が安全とは限らないのよ。」
福井、新潟、山形などで「強盗団」と呼ばれる一団が犯罪行為を繰り返していた。最初に出没したのがネオ・ソビエトから脱出した政治難民のキャンプ周辺だったことから、ネオ・ソビエトの公安組織が関わっているのではないかという疑問が早い段階で指摘された。つまり国内に政治的悪影響を及ぼす恐れのある者を排除する目的で、難民キャンプのリーダーを殺害する計画がなされている。強盗団は実行組織のカモフラージュにすぎないというのだ。これに対してネオ・ソビエトの当局者は「根拠のない非難だ。キャンプを襲っているのは犯罪歴を理由に国外移住を拒否された日本人の一団ではないか。」と見解を示していた。
やがて驚くべき事が明らかになった。日本政府はキャンプの難民、現地で活動するUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)とNGOの職員らの安全を守るために軍用装備を伴う六十人を警備隊員として派遣していた。 日本では事実上防衛省が消滅していたので、政府は内閣府防衛局を通じて非常勤国家公務員となった自衛官を募集し、ようやく数百人の応募をみた。これをいくつかのグループに分け、それぞれ一年の交替制で任務に就かせることで何とか政府としての体面を保っていた。
二年前、この警備隊の十数人が新潟西部沿岸地域で難民キャンプに迫る正体不明の一団二十人と遭遇、突然銃撃を受けて応戦。双方に複数の負傷者が出るなかで警備隊は投降した一人を逮捕拘束した。外国人だった。彼を尋問して次のような情報を得ることが出来た。
強盗団は複数存在する。構成員の数が二百人と最も多いのが「狼軍」と称するグループで、この他にいくつか小人数のグループがある。ほとんどが自国で警察に追われ密出国、密入国を繰り返して日本にたどり着いた者たちだ。なかには居残った日本人と農業や漁業をおこなう者もいたが、大半が窃盗などの犯罪に走り、銃などの武器を持った人物の周りに自然と集まって強盗団となった。
「狼軍」は早い時期から銃器やバイクなどが多数あり、まるでどこかから物品の提供を受けているようだった。「狼軍」のボスはイタリア人だと自称しているが「ヤツの顔はどう見てもスラブ人さ。」と逮捕された男は言った。
「ヤツは偉そうな口調で俺に言ったよ。銃が撃てるのか?とよ。」
男は斜視だった。片方の瞳があらぬ方を向いていた。
「そのうちヤツに弾をくれてやるさ。その時に分るだろうよ。」
彼は乾いた笑い声をあげて一息つくと、別の強盗団の話をした。
「よくそんなことを思い付いたものさ。強盗稼業から観光業に鞍替えさ。」
インターネットのディープサイトにそのツアーを募集する記事が掲載されたらしいという。「アドベンチャー・サバイバル・ツアー・イン・ジャパン」と題し「完全な無法、無政府状態が楽しめる。マシンガン、ライフルが撃ち放題。食料、武器、弾薬は現地で購入。殺せ、そして生き残れ」と刺激的なワードが並ぶ。高額の料金を支払い申し込むと極東の空港が指定される。集まった参加者は互いをまったく知らない。そこから港町に運ばれる。銃器やナイフなどの販売所があり、バイク、バギーも購入出来るらしい。各自で装備を整え、船で日本海を渡る。イシカワに受け入れの基地があるという。
「かなり儲けているらしいから足を洗えば良さそうなもんだが。実際本人は極東ロシアの都会に住んでるっていうが、しょっちゅうこちらに渡ってくる。分るぜ、その理由。たとえば、バギーを響かせて農村に走る。畑の老人が慌てふためく。居残ってる農夫は老人ばかりだからな。さあ走れ。一発で仕留めなくても結果は同じ事だ。たった今、人参かイモの出来を心配していた年寄が天国へ昇っていく。一瞬でそいつを惨めったらしい労苦から解放してやるわけさ。まるで神になったような気分になるぜ。」
男の言葉を自動翻訳機が日本語に変換して音声で伝える。そこには数秒のタイムラグがあった。話し終えた男はその声に耳を傾ける日本人たちの顔を薄笑いで見回した。
一人の隊員が男に告げた。「お前の国に強制送還する。殺人罪か戦争罪で代理処罰される。死刑か、一生牢獄にいるだろう。」
男は隊員を嘲笑った。「俺が憎いか…?」と言った。
「それならお前らのお仲間のことも話してやろう。」マヅルという日本人の強盗団がいるというのだ。
「奴らは狂ってる。命令に背くものは農民、漁民皆殺しだ。逆らわなくても食い物など差し出す物が無ければそれはマヅルにとって罪なのだ。必ず殺される。挙句の果てにトットリに上陸した高句麗の測量隊キャンプを襲った。武器や燃料を狙ったのだろう。そいつらを殺してすべてを奪った。食料、医薬品、武器弾薬、オフロードバイク、三輪、四輪のバギー、とにかく全部だ。高句麗の測量隊といっても実際は兵士だからな、戦闘でマヅルも三十人は死んだだろう。残ったのは百人くらいか。
数日して高句麗の軍隊がやって来た。マヅルの追討が目的さ。だがマヅルは地形に詳しい。軍隊の追撃をかわして逃げ切った。今は衛星でもヤツラがどこに潜んでいるか掴めないそうだ。けれども必ずまた動き出す。楽しみにしていろ。」男は再び嘲笑を浮かべた。
ヒミコがこれら複数の強盗団の存在を知ったのは公務員として採用された直後だった。ヒミコはアスカに示された労働協約や契約条件をよく読まなかったのでこうした重要な事柄を認識していなかったのだ。心配したアスカが念のため送ってくれた情報でようやく知ったのだが、そこには更に衝撃的な内容が通知されていた。
強盗団は日本人の農業、漁業従事者を人質にとっている。このため難民キャンプの国連職員やNGO関係者を保護する目的か、日本人に明白な危険が差し迫っている場合を除き強盗団へ武力を行使するのは慎重でなければならない、というのだ。
「…これでは犯罪グループは野放しってことじゃないの!」ヒミコは拳を握りしめた。
「強盗団は自分の国から逃げ出した犯罪者の集まりなのよ。とっても危険だわ。彼らが行動範囲を広げるとしたらアメリカ軍の基地がある青森には進まず岩手の方に来るかも。ここに居たらだめよ。」
ヒミコの説得に婦人は動じなかった。
「ここは私の実家があったところ。故郷なのよ。見知らぬ外国の街で乞食になるくらいならここで死ぬわ。」
「いわき市の住宅は電気もガスもあるのよ。自治会の参加者も多いわ。山下さんもきっと安心して暮らせると思う。」
ヒミコは夫人の頑固な様子に困惑しながらも念を押した。
「アメリカ軍の用事が済んだらまたここを通るわ。その時一緒に行きましょう。」
夫人は無言のまま微笑んで物置のような自宅に近づいた。アルミサッシのドアにカギを差し込むと、その音と同時に中からネコの鳴き声がした。
「ネコがいるの?」
ヒミコが驚いて明るい声を上げた。
「そう。あなたもネコがいるの?」
婦人がアルミのドアを引き開けると濃い灰色の縞模様の生き物が奔り出た。
「この子はサンタ。もう十年になるわ。」
婦人はヒミコを見つめた。「だから一人きりじゃないのよ。私にはサンタがいるわ。」
足もとに絡みつくネコを見下ろして夫人が尋ねた。
「あなたのネコの名前は?」
突然の問いにヒミコが力なく応えた。
「ミーコ。…震災の前年に死んだわ。」
「あらそうだったの…。」
「とにかくいわきに移ることを考えてください。サンタも一緒に行けます。」
婦人は遠くを思い出すように口を開いた。
「東京に出て働いたわ…。夫と知り合って結婚して。子供は出来なかったけど幸せに暮らしたわ。故郷を忘れた訳じゃない、でもそれはいつまでもあるものと思い込んでいた。けれど突然、母が死んだと知らされたわ。帰ると父が認知症を発症しているのに気づいたわ。どうしてよいか分からなかった。でも夫が一緒に来てくれると言ったの。そんな優しい人だった。
大きな病院で働いていたから蓄えは十分あった。夫は田舎暮らしを楽しんでいるように見えた。でもその翌年、東北生まれの私には経験のない、想像もできない豪雨災害に見舞われたわ。実家の母屋も離れも鉄砲水に流され、今住んでいる農作業小屋だけが残った。そのとき父は行方が分からなくなってしまった。
私は夫の提案を受け入れて東京に戻ることにした。夫はそれがきっと私の悲しみを癒してくれると言ったわ。けれどもあの巨大震災が待ってはくれなかった。二十年暮らした記憶に輝く東京は一瞬にして失われてしまったの。
夫と二人で農作業小屋を人が住めるように整えたわ。そして日本政府が進める海外移住について話し合った。私はヨーロッパが良いと言い、あの人はオーストラリアを望んだ。あんな状況でもあの人がいれば私は幸せだったのよ。けれどもその後、私たちの財産が全て失われたのを知ったわ。銀行も、バックアップのデータセンターも海に沈み、私たちのお金を証明する手段はどこにもなかったわ。
そして突然、夫はいなくなってしまった。心不全か心筋梗塞か、後から病名を考えても意味などないわね。私は海外移住を完全に忘れたわ。両親や祖父母、そして私が暮らしたこの土地で生きて、そして死んでいくのが自然だと思った。そう決意したときに心の内から静かで落ち着いた気持ちが満ちてきたわ。だから私のことは心配しないで。」
ヒミコは無言のまま軽く頷いたが、必ず婦人を連れて帰ろうと心に決めた。
ヒミコは更に北進する。ルートはかつて四号線と呼ばれた東北の大動脈だが、今は荒廃して所々で路肩が崩れ道幅もあやふやだ。これも廃線となって久しい新幹線の鉄路と交差、青森地方に入り八戸から海沿いに三沢へ向かい、やがてアップルゲートと呼ばれる米軍基地に到着した。
基地の司令官ダグラスと会うのは二回目になる。初めて対面したときからヒミコに好意的で、「勇敢なお嬢さんに」と軍用の大型拳銃をプレゼントしてくれたのは彼だ。
既に触れたようにアメリカは USAとUSTAに分裂したのだがアメリカ国防省は従来の組織を保っていた。不思議に思えてヒミコが問うとダグラスは短い沈黙の後で「政府が替わっても我々が変る事は無い。それがペンタゴンの伝統だ。そしてどちらの連邦もこれを認めている。なぜなら彼らはペンタゴンを失う訳にはいかないからだ。」と答えた。
「ヒミコの科学基地では衛星用ロケットの打ち上げ計画が進んでいるようだね。しかもひと月の間に連続して打ち上げる計画だとか。
それで電力の余裕が心細くなったのじゃないかと素人の私は考えるね。なにしろヒミコの基地の水素製造プラントは規模が大きいようだから。」
そう言ってダグラスが片目をつむった。
ヒミコは顔を赤らめた。衛星用ロケットの打ち上げ計画はもとより水素製造プラントの外見的能力まで把握されている。当然のことながら基地は衛星や情報面で監視されているのだ。
「水素燃料はいわきの港湾施設で使用される予定です。…ダグラス司令官には深く感謝しています。政府のタンカーが到着すればまずアップルゲートに向かうように指示を出しています。」
ヒミコがそれだけを伝えるとダグラスはコーヒーを勧めながら小さく頷いた。
カップを手に取ると忽ち香りが立ち上った。疲れていたヒミコは思わず目を閉じて濃い褐色の液体の匂いを嗅ぐ。口にすると熱いコーヒーは期待通りの味だ。
一息ついたヒミコだったが、気になっていたことを尋ねた。
「ところで、北海道はどんな状況ですか。」
「大きな変化は無いね。山脈の東側にネオ・ソビエトの農兵約五十万人が展開しているが、我々は札幌の基地を活かして西側を完全にコントロールしている。」
「その東側の日本人について情報がありますか。」
「残念ながら無い。ただしここ数年で二千人ほどの日本人が山脈を越えてこちら側に移動している。彼らによるとネオ・ソビエト側が住民への電気と暖房用のエネルギーを供与していることで、残っている住民との目立った摩擦や紛争は無いらしいが農地のソビエトへの国有化が進んでいるようだ。」
北海道の東部にネオ・ソビエトが自治政府なるものの成立を宣言してから十年になる。大地震の直後、日本の暫定政府は被害の少なかった北海道を被災者の救援と医療の拠点としたかったが、人口の少ない北海道はすでにインフラ整備と行政サービスから見放された地域が多く、その意味で広大な空白の大地は結局救援の拠点とはならなかった。ネオ・ソビエトはその空白へ静かに、ジワジワと乗り込んだのだ。
「君の政府はいったいどれほど分かっているのかい? 東部に日本人がどのくらい住んでいるのか。」
ダグラスの問いにヒミコは複雑な思いで応じなければならなかった。内閣府は自国民の境遇を把握していないからだ。
「約二万人と思われます。ただ正確な数は分からないわ。恥ずかしいことだけど。」
北海道の東部には大地震の直前で約二十万人が住んでいたが、国外移住が進み震災後五年を経て二万人ほどとなっていた。そして現在の正確な人口は分かっていない。ネオ・ソビエトが北海道東部への日本政府の関係者の立ち入りを拒否しているからだ。
「済まない。余計な質問だった。」
ダグラスは詫びて次のように言った。
「我々が把握しているのは北海道西部には一万人の日本人が、そして青森には二千人の日本人が住んでいるという事だ。ここ三沢には五百人が暮らしている。彼らは主に酪農業や漁業者で、その生産物をキャンプに提供している。キャンプは対価として彼らが望む燃料とドルを支払っている。この取引は長く続いているが彼らは高齢者が多く、今の関係がいつまで続くかは見通せない。彼らにもっと日本政府が積極的に関与してくれることを望んでいる。」
「政府は住民の望みを調べるなど取り組んでいます。でも十分とは言えないわ。残念だけど。」
ヒミコは唇を噛んだ。
日本に残留する人々の生活を守る目的でNPO法人「埴生(はにゅう)の宿」が設立されて四年になる。この団体は南太平洋の島に開かれた新たな日本国の首都に本部を置き、政府が出資した五百万ドルを原資とする。札幌に支部があり、東北、北海道に住む日本人の福祉のために活動しているという。ヒミコはこの支部長のイルカと内閣府いわき分室とのオンライン会議に一度だけ参加したが自己中心的な人物に思えた。
会議では官房長のアスカがNPO法人の事業報告を求めたのに対し、イルカは「本部と話してくれ、敷島首相は私たちの活動を理解している」と述べた。
アスカがNPOの事業報告を督促したのには理由があった。インドネシアに住むイルカの親族に「埴生の宿」から多額の資金が振り込まれていた。それは間を置かず補填されていて経理的に問題が無いように見えたが、アスカの疑問はこの資金の迂回には裏があるのではないかという事だった。けれども短期間の資金の保有で大きな利得は望めそうもない。単に事務上のミスとも考えられたのだが、イルカへの疑念は晴れなかった。
「あなたは残留する農民らとアメリカ軍キャンプとの交渉を仲立ちして農民、漁民から仲介料を得ているのではないか。実際にその情報が寄せられている。NPO札幌支部の経理内容を透明性を持って示してほしい。」
アスカの求めにイルカは眉をひそめて応じた。
「埴生の宿が事業収入を得たり寄付を受けることは法的に何ら問題が無い。それより我々が寄付に頼らざるを得ないのは、福島の科学研究基地があまりに多くの予算を使っているからだ。宇宙衛星の打ち上げがビジネスというが、私の知るところこの一年は僅か二基のロケットが打ち上げられたにすぎない。アスカさんに言いたい。科学基地の予算を見直す方がはるかに重要だ。」
「今はNPO法人の規約について話しています。今後も事業報告がなされなかったら法人の取り消しもあり得ます。必ず実行してください。」
ヒミコはこのときのやり取りを思い起こした。イルカが突然に科学基地の予算を持ち出したことに驚いたが、同時にアスカがNPOの経理報告だけを求めているように思えて違和感があった。NPOには日本政府が資金を拠出しているが、それだけで残留する国民に責任を果たしたと言えるだろうか。イルカには好印象が持てなかったが政府がNPOに頼りきりで、そのうえ責任を押し付けているようにも思えて複雑な気分だった。
アップルゲートの北、さほど遠くない所に温泉があるのを知っていた。前回訪れた時も利用したからだ。ヒミコはキャンプに一泊させてもらうことにして温泉へ足を延ばした。建物はこじんまりとしている。掃除がされているのは明らかだが人の姿がない。
「お婆さんが店番してたはずだけど…。」
声を掛けてみた。応えはない。所用で外しているのだろう。のんびりしてるわね…とヒミコは少し困ってしまった。
番台の木札に入浴料が「一$」と書かれている。ヒミコはそのドルを持ち合わせていない。代わりにコンビーフ缶を充てるつもりだがお婆さんの了解が要ると思ったのだ。
けれどもすぐに「事後承諾でいいかも」とちゃっかり思い直した。缶詰は二ドル以上の値段だから、というのがその理由だ。更に老婦人とは前回、米軍キャンプで働く息子の話を聞くなど、打ち解けた間柄と言えなくもない。きっと許してくれるだろうと決めた。
心配を打ち消して浴場に足を運び、温泉の熱い湯にゆっくりと浸かった。快さに眼を閉じ大きく息をついた。数百キロの悪路の運転で疲れた体を湯船に浮かべると、固まった毛糸の玉がゆるゆると解けるようで我知らず笑みがこぼれる。すっかり満足して窓の外へ目を向けた。湖の一部が視界に入ったが、人家が見当たらない。どこか荒涼とした印象があった。
体を拭いて脱衣所のベンチでぼんやりしていると賑やかな声が近づくのが聞こえた。キャンプの兵士たちだろう。慌てて服を身に着けた。直後に入って来た若者たちは突然にヒミコと出くわして目を丸くした。何人かが口笛を鳴らす。しかしヒミコの胸に吊るされた軍用拳銃に気付いて急いで敬礼をした。士官だと勘違いしたのだ。またキャンプの外で銃を携帯するのはミリタリーポリスかその関係者だ。兵士たちは静かになり、番台の四角い箱に次々と一ドル紙幣を投げ込んで脱衣所に向かう。後ろの男が振り向いて片目をつむってみせた。ヒミコが微笑を浮かべたときに見覚えのある「お婆さん」が息を切らせて姿を現した。
老婦人はヒミコを覚えていた。ヒミコの手を握り、元気だったかと強い方言で尋ねた。ヒミコが方言に似せて「達者だ、達者だ。」と答えると、彼女は何度も頷きながら笑顔になった。
ヒミコには彼女の生活について知りたいことがたくさんあった。一年ほど前に会った際は移住の希望について聞いたのだが、それだけでは不十分だったと反省していた。
「前にお会いしたときは話をしっかり聞けず失礼しました。あらためて質問させてもらっても良い?」
まず彼女の家庭の暮らしぶりを詳しく知りたかった。アマノショウコという名前、浴場を営んでいること、息子が米軍キャンプで働いているという以外の知識は得ていない。
老婦人はヒミコを女湯の側に誘い、板張りの床に置かれた木製のベンチに並んで腰を下ろした。ヒミコのこまごまとした問いに丁寧に答える。自分の孫ほどの若いヒミコと喋るのが楽しそうでもあった。
彼女は七十歳。子供が二人。十年前に夫を亡くした。米軍キャンプで働く長男と同居している。次男は沿岸で漁業を営み、一昨年結婚して妻の実家で暮しているという。
「米軍キャンプではどんな仕事を?」
「二十歳のころからずっと調理をしているわ。」
「お兄さんは独身なの。」
婦人は苦笑いともとれる表情をみせた。
「そうなの。なんというか無口で、真面目一方。人間は良いんだけど社交性がないのよ。もう三十五歳だから心配だけど、結局なるようになると思ってさ。」
「結婚された弟さんは幾つですか。」
「三十になったわね。」
「結婚はこちらでは普通のことですか。あ…つまり、結婚はよくあるのですか。」
ヒミコは自分がうまく喋れていないようで焦った。
「というのも他の地域では適齢の人が極端に少ないものですから。」と付け加えた。
婦人はヒミコをまじまじと見つめた。
「そうね…、結婚の話はあまり聞かないよ。ここらに残ってるのは二百人ぐらいで、年寄が多いからね。次男が相手に恵まれたのは特別な事情があったからなの。というのも嫁は母一人子一人の暮らしでね。大震災の後、ここらは被害が少なかったとはいえ暮らしが成り立たなくなったのは他所と変わりないわ。農産物や水産物の出荷先が消え失せちゃったからね。嫁の所帯も同じ境遇さ。お義母さんが魚市場で働いていたからね。
やがて国の勧めを受けて沢山の人が海外へ移住したんだけど、折悪しくお義母さんが病気になってね。脳内出血で動かすのが難しい症状だったらしいよ。結局は亡くなられて、一人残された嫁は移住のタイミングを失ってしまったのさ。
で、うちの次男と結婚したんだけど、次男も運がよかったよ。そんな事情が無ければ若い娘さんがこんなさびれた所に残らないよ。」
「次男さんのとこ、お子さんは?」
ヒミコの質問に婦人の顔が輝いた。
「孫が昨年生まれたよ。」
「そうですか、お目出度とうございます。」
「ありがとさん。でもね…。」と言葉が途切れた。
婦人が急に不安な表情に変わるのを見て、ヒミコはその理由が分るような気がした。だがそれを言い出す勇気がなかった。インフラのほとんどが失われた地区で幼児を育てるのが困難に満ちている事は容易に想像できる。そしてそれは政府の責任でありヒミコはそこに身を置いている。
ヒミコがようやく口を開いた。
「ここがお孫さんを育てるには厳しい環境なのは分かります。予防接種やワクチンはどうされたんでしょうか。もしかして米軍キャンプが手助けしてくれたんですか。」
「そう。キャンプで働いている長男が甥っ子をファミリーだと申し立てて便宜を図って貰えました。基地では感染症の侵入を特に警戒していますから。」
「次男さんは移住を考えているのでしょうか。いわき市かあるいは南太平洋に建国中のジパング島へ?」
「それはないようです。漁さえ出来れば生活できるし、やはり家族が一緒にいるのが心強いはずヨ。」
「でも、病気とか怪我が心配ですね。札幌は遠いですから…。」
内閣府のアスカによると北海道西部に数人の医療関係者が残っていて、札幌に二か所の診療所があると知らされていた。
ヒミコが敢えて不安を口にすると思いがけない答えが返って来た。
「そのときは財団のイルカさんというお人に助けてもらおうと思っています。」
「埴生の宿のイルカさんですか? アマノさんはイルカさんをご存知なのですか。助けてもらうとは?」
ヒミコは混乱した。内閣府のアスカはイルカを疑っている。会議では財団の事務報告を厳しい口調で迫っていた。しかしアマノはイルカを頼りにしているようだ。
「三年ほど前にその方が訪ねてきました。病気の診療が必要になったら手助けすると…。札幌の病院と契約しているそうです。」
ヒミコは北海道に理由なく干渉しないように指示されている。それはネオ・ソビエトとの摩擦を危惧してのことと受け止めていた。しかし「埴生の宿」が関係しているかもしれないと突然にヒミコは思った。その活動内容をまったく知らされていないのも不自然だった。埴生の宿が札幌の病院と提携関係を作っているらしいことも初耳なのだ。まるでヒミコとこのNPO財団の接触をアスカが嫌っているような印象を受ける。その理由がヒミコには全く見当もつかない。思い過ごしとしてもこの点はアスカに質すべきだと考えた。
「その場合の治療費などはどうなるのでしょうか。」
「日本政府が半分、受診者が半分支払う決まりだそうです。」
初めて聞かされることばかりだった。いわきの国立病院は治療費の全額を政府が負担している。そもそも残留する国民に治療費の支払い能力があるとは想定していない。
「半分といっても、支払うのは大変と思うのだけど…。」
「その時はイルカさんのとこが一時的に立て替えてくれるそうです。」
「立て替える?」
「あとは出来るときに支払えば良いと…。とても助けになることだと思って。だから頼まれてイルカさんの財団に寄付したわ。」
ヒミコは話に従いていくのがやっとだった。
つまりイルカが財団への寄付を募っている。対象はドルを入手出来る者。アメリカ軍基地で働く軍属か基地に物資を納入する生産者だろう。残留民が持っている可能性がある旧通貨の円は現在どの国の通貨にも交換出来ない。円の寄付は求めないはずだ。
「アマノさんはいくら寄付したんですか。」
「二百ドルよ。十日分の売り上げだわ。」
「埴生の宿は日本政府の出資をもとに活動しているのよ。」
ヒミコは指摘して、すぐに後悔した。アマノの善意を傷つけるように思えたのだ。
婦人は意外そうな表情をみせたが、「でも、資金が少しでも多い方がいいはずよ。寄付は三沢や札幌の人たちの役に立つわ。」と断言した。
ヒミコは肯いてはみせたが、遠慮なく告げた。
「難しい治療や手術の時はいわきの国立病院に連絡してください。搬送の手配もしますし、治療費は掛かりません。地域の皆さんにもそうお伝え願えませんか。」
東北の海沿いの街に夕暮れが迫っていたが時刻はまだ午後の四時だ。電話はすぐにアスカに繋がった。
ヒミコは訊きたい事がいくつもあって、順序立てて話せるか自信がなかったがとにかく口を開いた。
「アスカさん、札幌のことなんだけど、NPO埴生の宿が住民の診療に一役買っているようです。治療費の半額が自己負担だって知ってました?」
アスカが沈黙している。それはごく短い時間だったが、ヒミコは訳もなく不安が湧いた。
「…札幌で医療に取り組んでいる方々がいるのは把握しています。政府はしっかりサポートしていますよ。給与報酬は勿論、医薬品や器具なども提供しているわ。」
「治療費に自己負担があるのは変じゃないですか。」
「治療費ではなく、NPO財団が寄付を募る機会を設けていると聞いているわ。」
「寄付を治療費と言い換えてるなら寄付を強要してることにならないかしら。」
「ヒミコさんが疑問視するのは分かります。けれど、一万人を超える住民をサポートするためにはNPOの活動に頼るしかないのよ。我々としては透明性を持った事業報告を求めることで適切な運営を指導していく方針です。」
少々のことには目を瞑ると言っているように聞こえて悲しかった。ヒミコにはイルカが誠実な人物と思えなかったのだ。
「NPOに頼らず政府が積極的に関わっていくべきじゃないんですか。」
今度の沈黙は長かった。
「アスカさん?」
「ヒミコさん。よく聞いてください。あなたの職務の内容は残留する日本人の援護と科学基地の補助的監理です。
残留民の援護とは援助を申し出た人の状況や求めに応じてその個人の問題を解決することです。つまり政府が準備した制度内で扶助するものです。それを越えて残留する人々に独善的にコミットするのは慎まなければなりません。」
「意味がよく分からないんだけど。」
「日本は今、消滅の危機にあります。世界に散った日本人は概ね財力や技術力やその他の能力でその国に貢献し、存在感を示しています。しかし皆が皆そうとは限りません。好ましくない移民として排斥される事例が出ています。どうしても日本という国が必要なのです。それは自然災害で荒れ果てた列島ではなく、まったく新しい日本です。
敷島総理はジパング島の国家建設に賭けています。十万人の日本人を受け入れる当初の目標に対して百万人の申し込みがありました。つまりそれだけ行き場を失った日本人が多いのです。総理は受け入れ目標を増やすつもりですが、海面上昇が想定を上回るために苦労しています。
どうしても資源をジパング島建設に集中しなければなりません。ハッキリ言えば今の日本列島のどこであっても、政府にはインフラを回復する力は無いのです。」
ヒミコは言葉を失った。残留民の助けになりたい、ただ単純にそれを目指していた。けれどもアスカの話はまるでヒミコの活動を制約するようではないか。
アスカの静かな声が聞こえた。
「ヒミコさん。これまでどおりで良いのですよ。医療の整ったいわき市への移住を勧め、希望があれば外国移住のお手伝いをする。必要で充分な援助です。それ以外について、政府にさらなる施策があるかのような誤解を与えないようにしてください。人々に混乱を与えるだけですから。それからNPOとは適切な距離を保ってください。これも誤解を生まないためです。」
ヒミコはどこか納得できない気分ながら従うしかない。アスカは滅びかけた日本列島に居残る数少ない国家公務員であり上司なのだ。
翌朝、タンクローリーと装甲車がキャンプを出発した。通って来た同じルートを今度は南に進む。海沿いの長い道を辿った。海岸線がすぐ近くへ迫ったり遠退いたりを繰り返した。やがて山中に入る。もう岩手だ。ハンドルを握るヒミコは落ち着かなかった。一人でネコと暮らす山下婦人をなんとか連れ帰ろうと考えていたが、彼女を説得できるか自信がないのだ。
森の木々がふと途絶えたあたりで先行する装甲車が停まった。
「ヒミコ、山下夫人の場所だ。試みるか?」アースボーイだ。
「試みるわよ。あなたは私が失敗すると思ってるんでしょう。でもね、もし説得できなくても、それは相手の意思を尊重するという事なのよ。」
ヒミコは車を降りて見覚えのある畑の踏み跡を辿った。アルミの一枚戸を叩いた。
「山下さん。いらっしゃいます?」
現れた山下夫人は驚きの身支度をしていた。ゆったりとした瀟洒なパンツスーツ姿だ。ジャケットの両襟は濃い茶色のレザーをあしらっている。それは山中の風景とは異質の、かつての大都会東京を思い起こさせる雰囲気を放っていた。
山下夫人は顔を赤らめて言った。
「もう二十年も前の物なの。まだ似合うかしら。」
ヒミコは夫人の決意に気づいて嬉しかったが咄嗟に言葉が出ない。夫人は愈々顔を赤くした。
「あなたの意見に従うことにしたわ。猫を連れて行けるのよね。」
「そうです。」ヒミコの声が躍った。「…準備が出来ていますか。」
夫人は一度小屋に戻り、スーツケース一つとネコが入った籠を持って再び現れた。
「荷物はこれだけ。」
彼女は小声で呟いてアルミ戸に鍵をかけようとして、ヒミコを振り向いた。
「私は何をしてるのかしら。もうここに帰ることはないのに。」
ヒミコは山下夫人の両眼に涙が浮かぶのを見た。
「よく決心されました。お役に立てて私も嬉しいです。」
夫人と荷物を広い運転席に押し上げて出発した。ヒミコは山下夫人の転居が実現できることに満足していた。山中の一人暮らしは無謀と言えた。医療の問題ひとつをとっても、それが解決されることを単純に喜んだ。国外移住を望まなくてもいわき市には住宅群があり、コミュニティが作られている。きっと新しい生活が始められるはずだ。
運転席が大きく揺れると籠からネコの小さな鳴き声が聞こえた。その存在に心が和む感覚に二人は微笑を浮かべた。
ヒミコは幼いころ飼っていた子猫を思い出した。大震災の前、世田谷の古い一軒家で暮していた。両親はともに政治家で、留守が多く、そんな時は家中が静かだった。逆に在宅の場合は次々と大勢の人が訪ねてきて賑やかだった。忙しい両親とヒミコの時間は少なく、むしろ寂しい日常と言えたかもしれない。ある日母親が白い子猫を抱えて帰宅した。ヒミコは大喜びで「ミーコ」と名付け可愛がった。ミーコもヒミコによく懐いた。小学校から戻るといつも玄関の戸が開くのを待っているのだ。ヒミコは有頂天になった。
ところがある日、その子猫がいなくなってしまったのだ。ヒミコは家の中をはじめ近所を探し回った。しかしどこにも姿がない。兄はきっと帰ってくると励ましてくれたが、三日が過ぎても白いネコはヒミコの前に現れなかった。
その夜、眠っていたヒミコはボンヤリと目を覚ました。枕もとに何かの気配を感じたのだ。ミーコだ、直感して手を伸ばすと確かに子猫がうずくまっている。その体を撫でると、ヒミコの嬉しさはすぐに悲しみへと翻った。艶やかで滑らかだった体毛が固くゴワゴワした異様な手触りに変っていた。
「…あゝ、ミーコは病気なんだ。明日、病院へ連れて行ってあげるね。」
寝室の暗いなかで子猫はただヒミコを見つめているようだった。ヒミコも子猫の様子を確かめようとするのだがその輪郭が睡魔で定まらない。間を置かずヒミコは眠りに落ちてしまった。
翌朝ヒミコが跳び起きると、子猫の姿はなかった。枕もとにいたなら家の中にいる筈だと思えたが何処を探しても見つからない。玄関戸か雨戸を開けた隙に外に出たのじゃないかと母親を問い質した。
「だって、いないなんて変よ。」
二人のやり取りを耳にしたお手伝いの婦人が言った。
「この辺りの家はどこも古くてね。この家にもきっと子猫が出入りする隙間があるでしょうよ。」
それから彼女はヒミコに近づいて厳かな様子で告げた。
「猫はお嬢様にお別れをしに来たのかもしれません。」
突然の言葉にヒミコは戸惑った。
「お別れって…。」
「ネコが死ぬときは誰にも見つからない場所に行くそうです。」
ヒミコが言葉を失うと婦人は慌てた。
「昔からそう言いますが、きっと迷信。」
彼女は言い残してそそくさと去った。
ヒミコは数日のあいだ子猫を探し続けた。しかし心のどこかでミーコはもう帰って来ないだろうと予想した。深夜に触れた毛並みの異常な感触が悲劇的な運命を暗示しているように思えて仕方なかったのだ。
ひと月が過ぎてヒミコはついに庭の隅に一本の桜の枝を突き刺した。それはヒミコにとって子猫の墓標を意味していた。少女らしくない乱暴な振る舞いだったが、ヒミコは諦めながらも子猫の死を認めたくはなかった。つまり桜の枝は最も消極的な弔いの形だった。
トラックと装甲車が福島に近づいたところで突然アースボーイが告げた。
「ヒミコ、飛行物が新潟から接近中。もうすぐ科学基地の境界空域、福島に入る。」
「飛行物?」
「識別信号ではUN(国連)所属の乗用小型ドローンだ。」
「なにかしら…。交信して。」
「応答なし。」
ヒミコはUNHCR日本側担当官と連絡を取ろうとした。その名前が思い出せない。「えっと…。」焦った。アスカを呼び出さねばならない。
「ドローンが高度を下げている。」アースボーイだ。
「人が乗っているの?」
「赤外線で確認した。でも、反応が小さい。」
「えっ?」
「また別の飛行物を探知した。同じく新潟、阿賀野方面。コースはUNのドローンを追っている。こちらは識別信号がない。小型だ。無人機と推測できる。」
ヒミコは混乱した。あまりに突然の事態に何が起きているのか全く分からなかった。
「無人機が国連のドローンを追尾して政府の空域内に進入しようとしている、そう理解して良いのね?」
「そうだ。」
「無人機を撃墜して。」
ヒミコは決断した。無人機は偵察用か攻撃用に限られるからだ。
「飯豊山のミサイルが準備されている。」
飯豊山と燧ケ岳に無人の対空ミサイル基地が設けられていた。いわきにある科学基地とその他の施設を防衛するためだ。
「撃って!」ヒミコが叫んだ。
「対空ミサイル一基を発射した。五十秒後に目標に到達する。それからUNの小型ドローンが更に降下している。着地したと思われる。」
「着地?いったいどこに。」
「会津若松の北西、川の…あたり。」
「川に落ちたの? それとも河川敷かな。故障して着地したのかも。」
「…ミサイルが到達、無人機を破壊した。」
ヒミコは不意に胸騒ぎがした。無人機の撃墜という決断が想像も及ばない事態を招くかもしれない。
「ドローンの様子は?衛星画で確認して。」
「ドローンは河川敷に存在する。小さな人間がすぐ傍にいる。この人物が乗っていたようだ。」
「子供が乗って来たわけね。」
「もう一人、小さな子供が乗っている。いま降りようとしている。」
「交信出来ないの?」
「応答しない。」
「通信機の操作が出来ないのかしら。アースボーイ、私がそちらに行くわ。」
ヒミコは同乗する山下夫人に告げた。
「ごめんなさい。少し待ってもらえませんか。すぐに戻りますから。」
先ほどからのやり取りに目を丸くしていた山下夫人は何度も小さく頷いた。
ヒミコは装甲車に駆け寄ると慌ただしく乗り込んだ。アースボーイ用にカスタマイズされた装甲車のコクピットは広く、あらゆる通信機能が備えられている。
「衛星画像を出して。」
ヒミコが求めると大きなマルチ・モニターの分割画面にその映像が映し出された。水の無い河川敷にドローンが着地していた。機体のすぐ傍で少年が腕を伸ばし、もっと幼い子供が降りるのを受け止めようとしている。
「私の声が聞こえる?」
ヒミコの呼びかけに一瞬動きを止めた。
「聞こえるのね。…日本語が分る?」
少年より幼く見える少女の髪が明るい栗色だったのだ。
「そこを動かないで。あなた達を助けに行くから。そこにいてよ。分ったら手を上げて。」
少年が合図で応じた。
「心配しないで、衛星のカメラであなた達をずーっと見ているから。大丈夫だからね。」
ヒミコはすぐに科学基地のスタッフと連絡を取った。電気技師で水素ガスの管理を担当している初老の男だ。ドローンの操縦に熟練している。ヒミコがこの村田氏に少年らの救助を依頼したのだが、彼はヒミコが密かに抱いている不安を口にした。飯豊山の無人基地からミサイルが発射されたことで騒ぎになっている、内閣府分室のアスカが事実確認と検証のため科学基地に出向くと通告があったというのだ。
「救助についてはアスカさんが到着してから検討してはどうか。」
「村田さん、それじゃ間に合わないわ。」
「しかし対空ミサイルはヒミコが命じなければ発射されないはず。その理由は何ですか。」
「それは識別信号のない無人機が日本政府の領空を侵犯したからよ。」
「その事態はなんらかのトラブルに起因したものではないかな。どんなトラブルか分からないけれど現地に向かえば次はこちらが撃墜される可能性を心配する。更に衛星画像で見る限り要救助者の身元が不明だ。私はこの任務を辞退します。」
村田の訴えは一理あった。国連の有人ドローンを無人機が追尾するなど尋常ではない。この後さらなる異常事態も十分に懸念されるところだ。一方でヒミコはこの事象の原因や理由を何一つ知っていない。
「分ったわ。では途中で任務をチェンジしましょう。村田さんは乗用ドローンで来てタンクローリーをいわき市へ運んでください。救助には私が向かいます。」
液化水素を積んだトラックと装甲車はやがて福島に到着、そこから進路を変えて会津若松に向かった。
(つづく)
見捨てられた國のヒミコ20Ⅹ0 (2) Ⅽ、アイザック @c-izack
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