#001アメリカ同時多発テロ

匿名A

第1話

 一周目

 2001年9月11日。

 その日付が、ページの端に赤く浮かび上がった。

 僕は、記録の本を開いたまま、言葉を失っていた。

“ニューヨーク 世界貿易センター 午前8時46分”

 その文字は、震災の記録とは違う冷たさを持っていた。

「……これは……日本じゃない……」

 ページがめくれる。 そこに、ひとりの名前が記されていた。

“マーカス・エヴァンス 2001年9月11日 午前8時46分 勤務中、テロにより記録された。”

 僕は、息を呑んだ。 知らない名前。知らない街。知らない言葉。 でも——胸が痛んだ。

 記録の本が、静かに語った。

“語り手、異国の記録に触れた。 語り手の言語、文化、記憶の一部を代償として、語りを開始する。”

「……俺は……語るのか……この人を……」

 ページが赤く染まった。 その赤は、語られた痛みの色だった。

 そして——世界が、揺れた。

 2周目

 マーカスがビルに向かって歩いている。 僕は、勇気を出して声をかけた。

「Wait! Don’t go in!」

 彼は立ち止まった。

「What? Who are you?」

 僕は、言葉に詰まった。

「Just… trust me. Please.」

 マーカスは笑って、首を振った。

「You crazy, man. I got work to do.」

 そして、ビルに入っていった。

 記録の本が震える。

“記録、修正されず。 語り手、再起動。”

 3周目

 今度は、僕は制服を着ていた。 記録の中で、姿を変えることができた。

 そして、今回の作戦は翻訳機を使って時間を短縮する作戦

「マーカス!上司が呼んでる。今日は休みだって!」

 彼は眉をひそめた。

「休み?なんで?」

「ビルの設備点検。危険らしい。」

 マーカスは少し迷った。 でも、携帯を取り出して確認しようとした。

「Wait, I’ll call—」

 その瞬間、空が裂けた。 遠くで、飛行機の音がした。

 記録の本が震える。

“記録、修正されず。 語り手、再起動。”

 4周目

 僕は、マーカスの前に立った。 言葉ではなく、目を見て語った。

「Please… I don’t know how to explain. But if you go in… you won’t come back.」

 マーカスは、僕の目を見つめた。 沈黙が流れる。

「You… you really believe that, huh?」

 僕は、うなずいた。 涙がこぼれた。 理由はわからない。 でも、心が叫んでいた。

 マーカスは、立ち止まった。 そして、ゆっくりと後ろを振り返った。

 その瞬間—— 空から、影が落ちた。

 記録の本が震える。

“記録、修正されず。 語り手、再起動。”


 5周目

 目を開けると、空が青かった。 ニューヨーク。2001年9月11日。 僕は、立っていた。 でも——名前が、すぐに出てこなかった。

「……俺……?」

 記録の本が、胸の奥で震えた。

“語り手、再起動。 記憶の一部を代償として、語りを開始。”

 僕は、マーカスを探した。 彼は、いつものようにコーヒーを片手に歩いていた。

「マーカス!」

 声は届いた。 彼は振り返った。

「You again? What’s going on?」

 僕は、言葉を選んだ。 でも、妹の名前が思い出せなかった。 日本語の響きが、遠くなっていた。

「Please… don’t go in. Something terrible will happen. I’ve seen it. Again and again.」

 マーカスは、眉をひそめた。

「You’re serious, huh? You look… tired. Like you’ve been through hell.」

 僕は、うなずいた。 でも、“なぜ”そうなったのかが思い出せなかった。

「Just trust me. Please. Skip work today. Go anywhere else. Just… not there.」

 マーカスは、しばらく黙っていた。 そして、ゆっくりと歩き出した。 でも、逆方向へ。

 僕は、息を呑んだ。

「……救えた……?」

 その瞬間、記録の本が震えた。

“記録、修正完了。 マーカス・エヴァンス、生存記録として更新。”

 僕は、ページを見つめた。 でも、その名前が、すぐに読めなかった。

「……マ……カス……?」

 記憶が、削れていた。 妹の声。震災の空。赤いランドセル。 すべてが、霞んでいく。

「……俺は……誰を……救ったんだ……?」

 記録の本が、静かにページをめくった。

“語り手、記憶の代償により、語られない者へと近づく。 次の語りにて、さらなる喪失が発生する。”

 僕は、ページを撫でた。 その紙のざらつきが、誰かの髪の感触に似ていた。 でも——誰の髪だったか、もう思い出せなかった。


 6周目

 目を開ける。 空が、青い。 高いビル。忙しそうな人々。 どこかでクラクションが鳴っている。

 僕は、立っていた。 でも、何をすればいいのか、わからなかった。

「……ここは……どこ……?」

 胸の奥が、じんわりと痛む。 何かを忘れている気がした。 大事なこと。 とても、大切なこと。

 ポケットに手を入れると、古びた本があった。 表紙には、見慣れない文字が刻まれている。 “記録”——それだけは、読めた。

 ページをめくると、赤い文字が浮かび上がった。

“2001年9月11日 ニューヨーク 世界貿易センター 午前8時46分”

 その下に、名前があった。

“マーカス・エヴァンス 生存記録として更新済み。”

 僕は、首をかしげた。

「……マーカス……誰……?」

 ページの端に、さらに文字が浮かぶ。

“語り手、記憶の代償により、語りの目的を一部喪失。 次の語りにて、記録の本能が自動誘導を開始する。”

 その瞬間、足が勝手に動き出した。 まるで、誰かに引っ張られるように。 僕は、知らない街を歩いた。

 知らない言葉が飛び交う中、ひとりの男が目に入った。

 コーヒーを片手に、ビルへ向かう男。 僕の足が止まる。

「……あの人……」

 名前は、出てこない。 でも、胸が痛んだ。 あの人を、止めなければならない。 それだけは、わかっていた。

「Hey!」

 声が出た。 男が振り返る。

「Yeah?」

 僕は、言葉を探した。 でも、何を言えばいいのか、わからなかった。

「……Don’t……go……」

 男は、眉をひそめた。

「You okay, man? You look pale.」

 僕は、うなずいた。 でも、なぜ止めたいのかが、思い出せなかった。

「Just… please. Don’t go in.」

 男は、しばらく僕を見つめていた。 そして、ゆっくりと歩き出した。 ビルとは、逆の方向へ。

 僕は、立ち尽くした。 記録の本が震える。

“記録、修正完了。 マーカス・エヴァンス、生存記録として更新。”

 ページがめくられる。 でも、文字が霞んで読めなかった。

「……誰を……救ったんだ……?」

 僕は、ページを撫でた。

 でも、もう——その紙のざらつきが、何かに似ていたことすら思い出せなかった。

 7周目

 目を開ける。 空が、青い。 でも、その青が何色だったか、言葉にできなかった。

 僕は、歩いていた。 誰かを探していた。 でも、誰だったかが思い出せなかった。

 ポケットの中に、本がある。 赤い表紙。擦り切れた背。 “記録”という文字だけが、かすかに読めた。

 ページをめくる。 そこに、名前があった。

“マーカス・エヴァンス 生存記録として更新済み。”

 僕は、首をかしげた。

「……マーカス……誰……?」

 その下に、もうひとつ名前が浮かび上がる。

“志道 澪 2011年3月11日 午後2時47分 津波により記録された。”

 僕は、息を呑んだ。 でも、その名前が、どこか遠く感じた。

「……しどう……みお……?」

 胸が、痛んだ。 でも、それがなぜなのか、わからなかった。

 その瞬間、目の前に人が現れた。 コーヒーを片手に、ビルへ向かう男。

 僕は、走った。

「澪!待って!」

 男が振り返る。

「What? Who’s Mio?」

 僕は、立ち止まった。 目の前の男は、澪じゃない。 でも、記憶が混ざっていた。

「Please… don’t go in. You’ll disappear. I’ve seen it. I’ve lost you before.」

 男は、困惑した顔で僕を見つめた。

「You okay, man? You need help?」

 僕は、涙を流した。

「I just… I don’t want to lose you again.」

 男は、ゆっくりと後ろを振り返った。 そして、歩き出した。 逆方向へ。

 記録の本が震える。

“記録、修正完了。 マーカス・エヴァンス、生存記録として更新。”

 でも、ページの端に赤い文字が浮かぶ。

“語り手、記憶の混濁により、語りの対象を誤認。 次の語りにて、記録の安定性が低下する。”

 僕は、ページを撫でた。 でも、もう——澪の髪の感触も、マーカスの笑顔も、誰のものだったかがわからなかった。

「……誰を……救ったんだ……?」


 8周目

 目を開ける。 空が、青い。 でも、その青が“空”なのか、“海”なのか、わからなかった。

 僕は、歩いていた。 ポケットの中に、本がある。 でも、開きたくなかった。

「……もう、語りたくない……」

 記憶が、ほとんど残っていない。 妹の名前も、震災の日も、マーカスの顔も。 語るたびに、何かが消えていった。

「誰かを救うたびに、俺は俺じゃなくなる……」

 でも——本が震えた。

“語り手、語り拒否を検知。 記録の安定性が低下。 語られなかった者が、再び沈む。”

 ページが勝手に開く。 そこに、マーカスの名前があった。

“マーカス・エヴァンス 2001年9月11日 午前8時46分 勤務中、テロにより記録された。”

 僕は、涙を流した。

「……俺は……誰かを救いたかったんだよ……」

 そして、世界が揺れた。

 9周目

 目を開ける。 空が、青い。 でも、その青が、少しだけ懐かしかった。

 僕は、立っていた。 記録の本が、静かに語った。

“語り手、最終記憶領域に到達。 次の語りにて、記憶の全消去が発生する。 ただし、語り手が語りの意味を再定義した場合、記録の固定が可能。”

 僕は、ページを開いた。 そこに、マーカスの名前。 そして——澪の名前も並んでいた。

“語り手が語った者は、記録に残る。 語り手が語らなかった者は、記録に沈む。 語り手が語る理由を持つ限り、記録は意味を持つ。”

 僕は、目を閉じた。 そして、思い出した。

 妹の声。

「お兄ちゃん、今日の給食、カレーなんだよ!」

 マーカスの言葉。

「You look tired. Like you’ve been through hell.」

 僕は、うなずいた。

「でも、俺は——語る。 誰かの命が、語られることで救われるなら。 それが、俺の記憶の代償でも。」

 そして、マーカスに語った。

「Please. Don’t go in. Not because I’m afraid. But because someone once saved me. And now, it’s my turn to save you.」

 マーカスは、立ち止まった。 そして、笑った。

「Alright. I trust you. I don’t know why, but… I do.」

 彼は、逆方向へ歩き出した。

 記録の本が震える。

“記録、修正完了。 マーカス・エヴァンス、生存記録として固定。”

 10周目

 目を開ける。 空が、青い。 でも、その青が、“空”だとわかった。

 僕は、図書館にいた。 記録の本は、静かに閉じられていた。

 ページの最後に、こう記されていた。

“語り手 志道遥 語りの記憶を代償に、語られた者を救った。 語りは終わり、記録は継承される。”

 僕は、ページを撫でた。 その紙のざらつきが、誰かの髪の感触に似ていた。

 でも——今は、思い出せなくてもいい気がした。

 外に出ると、風が吹いていた。 空は、どこまでも澄んでいた。

 誰かが、僕の手を握った。

「お兄ちゃん、今日の給食、カレーなんだよ!」

 僕は、振り返った。 そこに、笑顔の少女がいた。

 名前は、わからなかった。

 でも、その笑顔だけは、確かだった。

 僕は、微笑んだ。

「……いいね。カレー、好きだよ。」

 そして、歩き出した。 語りは終わった。 でも、語られた命は、ここに生きていた。

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