第3話 禁忌の名、或いは現実の扉

 その日、兄貴の夢を視た。

 兄貴は両手に小さな観音像を抱きながら、天使の羽根を拡げて微笑んでいた。それは東洋と西洋を飲み干した異様な宗教像だった。

『蓮二、またね』

 舌で転がす飴のような甘さでそう呼ぶと、兄貴は飛び去っていった。

 其処で目を覚ます。

 手には、何時ものように十字架のような跡――聖痕が浮かび上がっていた。白く濁った花蜜をつけた儘。 

 

 完璧な兄だった。何時も温厚で言葉は深く、中性的な顔つきでありながら『絶対的な雄』だった。おれは兄貴以上に柔和で、兄貴以上に美しく、兄貴以上の男を知らない。

 もし。

 もし兄貴が生きていたら、草野が惚れたのはおれではなく兄貴だっただろう。

 ――おれは、兄貴にはなれない。


―――――――――――――――


 ぼんやりと構内を歩いていた。次の授業まで一コマ空きがある。今朝眠りが浅かったから、自習室で少し華胥を貪ろうと思っていた。

 ふと、中庭を見た時だった。

 ――歳を重ねた兄貴がベンチに座っていた。

 清潔感のある顔立ち。長い睫毛。静かな佇まい。水流を思わせる雰囲気。あの何処か影のある寂しげな瞳を、あのなだらかな眉を、あのすんなりした指を、おれはよく知っている。何処かから白檀の芳香が流れてくる。幻臭だろうか。

 麗らかな春の光の中、生前の儘成長した兄貴が、ベンチに座って紙の束を手繰っている。

 おれは見惚れていた。遠く鳥が鳴いている。蝶が舞っている。絵画のような景色だった。魂が飛び立ちそうな心持ちになる。

 時間が止まる。

 そして動き出す。兄貴が立ち上がり、此方へと歩いてきたから。おれはばくばくとした心臓の鼓動を聴きながら、呆然と立ち尽くしていた。

「おっと」

 資料を見ながら歩いていた兄貴がおれにぶつかってきた。その滑らかな声もよく知ったものだった。低い体温も、すべらかな肌の感触も、ほんのり香る白檀の香りも。

「済まないね」

「え、あ――」

 何を話せばいいのだろう。何て言えばいいのだろう。

 ぼうっとしていると兄貴は――解語の花は、そのままおれを素通りして行ってしまった。おれはただ立ち尽くしていた。

「蓮二、こんなところにいたのね」

 不意に馴染みのある声がした。草野だ。瀑布のように急激に現実へと引き戻される。

「……蓮二? どうかした?」

「草野、あに、兄貴が、」

 それしか言えなかった。深呼吸して胸を落ち着かせる。草野は黙って眉根を寄せていた。何か言いたげなくちびるを噛み殺しながら。

「――兄貴が、いたんだ」

 おれの言葉に、草野は溜息を吐いた。

「蓮二、だから柊真くんはもう――」

「今、ぶつかったんだ」

「ぶつかったって――胡蝶先生のこと?」

 草野が首を傾げる。

 ――胡蝶先生。初めて聞く名前だ。

「誰だ、それ……」

「さっき蓮二がぶつかってた人。うちの哲学概論の先生よ」

「そんな筈――兄貴だった。兄貴、だった」

 さらに草野は眉を顰めた。何処か不愉快そうだ。

「全然似てないじゃない。柊真くんはもっと、」

「似てない? 別人だったのか……?」

 脂汗を滲ませたおれの胸に草野が手を置いた。

「貴方は柊真くんに囚われ過ぎなのよ。あんなことがあったから仕方ないとは思うけど――」

 それから草野が何を言っていたのか思い出せない。ただ、目に焼き付いた兄貴の姿を反芻するように思い返していた。


―――――――――――――――


 その日、また夢を視た。歳を重ね、兄貴が三十代になった姿。それは兄貴なのか、草野の言っていた『胡蝶先生』なのか判然としなかった。

 彼は笑いかける。昔と同じ柔和な微笑で。おれに手を伸ばす。おれも手を伸ばす。触れるか触れないか――其処で目が覚めた。手についた聖痕と花蜜を眺める。

 汗だくになりながら、おれは何とか『胡蝶先生』に接触出来ないか考えていた。

 何故そう思ったのか判らない。今更『兄貴』と会って何をしたいのか。贖罪なのか、神殺しなのか、悪魔祓いなのか、果たして――


 次の日、教科課程を見ると哲学概論の授業が入っていた。当然その授業は履修していないが、講義に潜伏することにした。草野に気づかれないよう、眼鏡と着替えで軽く変装紛いのことをする。

 変に落ち着かない気持ちで胡蝶先生が現れるのを待った。しばらくすると――来た。

「え……」

 其処には兄貴とは似ても似つかない男が立っていた。清潔感はある。静かな佇まいも、水流の雰囲気もある。端正でもある。だが顔立ちは全然違った。目線は鋭く、くちびるも薄い。髪も半分若白髪が混じっている。

 兄貴ではなかった。

 違う男だった。

「夢だったのか……?」

 だが、しばらく授業を聞いていると、また時折兄貴の影がちらついた。角度や光の当たり具合で、奇跡的に兄貴と重なる部分があるのだ。眉目秀麗な横顔、静かな視線、瓜実顔の輪郭、白魚の指、時折微笑む口元の笹舟――何処からともなく立ち上ってくる白檀の香り。それは現実か夢幻か判別つかなかった。

 不思議な心持ちで授業を聴き、おれはふらつきながら講義室を後にした。


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アニマの檻 四十住沓(あいずみ くつ) @Solaris_aizm

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