第4話 Someday

 赤子たち──碧と宙──の呼吸は弱々しく、


 新生児保護室には状態を示すモニタの明滅だけがかすかに響いていた。


 ミレイはケースに手を添え、そっと息を吸った。


 空調の止まった室内を、外からの風がほんのり揺らしていく。


 その風は、ひどく優しかった。


 少し湿り気があって、冷たさの端にほの温かさが混じっている。


 明らかに、季節の境界が移ろいつつある空気だった。


「サー……この子たち、まだ……つながってる」


『はい。生命反応は弱いですが……生きています』


 サーの声はいつも通り一定だ。


 けれどミレイの心に届くその響きは、以前よりずっと柔らかかった。


 ミレイは深呼吸しようとして、途中で躊躇した。


 胸の奥が痛い。


 痛いのに、不思議と怖くはなかった。


「……ねえ、サー」


『はい、ミレイ』


「この装置の仕様、覚えてる?」


『有機生命体からの微量抽出で、新生児の長期維持を可能にする設計。

 ただし、生体負荷が高く……供給者の生命維持は困難です』


 ミレイはゆっくりと目を閉じた。


「そう。

 ……技術的には、それが一番効率がいい」


 その言葉は静かだった。


 感傷じゃない。


 ただ事実を見つめる技師の声だった。


 だが、そこでサーは小さく首を傾けた。


『ミレイ……あなたの声が、わずかに震えています』


「そう?」


『はい。解析結果は“迷い”と近似します』


「……迷うわけないでしょう。

 この子たちの……次があるんだから」


 言葉の端がわずかに乾いていた。


 それは、ミレイが心を固め始めている合図だった。


 サーはそれを正確に受け取ったらしい。


『では……準備を始めますか』


「ええ。

 最適化して。ロスが出ないように」


 少しずつ、ミレイの声は規則正しい間を持ち始める。


 感情が排除され、技師としての口調が自然と表面に浮かんでくる。


 まるで自分を守るための壁のように。


 それでも、その目は優しかった。


「サー、あなたは……離れていて」


『しかし、私は監視と補助を──』


「違うの」


 ミレイは静かに言った。


「あなたは……そっちにいるべきなの。

 私じゃなく、この子たちの……」


 その言葉に、サーの青いレンズが小さく震えた。


『……理解は困難です。

 しかし、あなたの判断を最優先とします』


 サーが言い終えると、新生児ケースの上部にある抽出ユニットのライトが点灯した。


 白に近い淡青の光。


 冷たいはずの光が、なぜか春の境目の空気を思わせる色だった。


 ミレイはその光を見上げ、わずかに目を細めた。


「……いい光ね」


 その一言は、人間らしい温度を残していた。


 腕への接続を済ませると、抽出ラインの光がミレイの体へと淡く流れ込む。


 脈打つような痛みはなく、むしろ心臓と同期していくような静かな感覚。


 ミレイの顔からは、ゆっくりと力みが消えていった。


『ミレイ。

 心拍が下降しています。体感は……どうですか』


「問題……ないわ。

 プロセス……正常」


 すでにミレイの声は、半分は機械的になっていた。


 言葉が規則正しく、情緒がそぎ落とされている。


 それでも、その目だけは赤子たちを優しく見つめていた。


『……ミレイ』


「なに?」


『あなたの表情……解析不能です。

 しかし、通常より明度が高いと……判断されます』


 ミレイは薄く笑った。


 自分でも驚くほど自然な笑みだった。


「……浮かばれてるのかもね。

 こんな終わり方でも」


 抽出ライトの色がわずかに変わり、


 淡青からやや白味を帯びた柔らかな光へと変化した。


 まるでミレイを包むために調整されたかのような光だった。


『……ミレイ。

 あなたは……幸福ですか』


「幸福……判定……不能」


 ミレイは淡々と答えた。


「でも……後悔も……なし」


 その言葉と同時に、ミレイの全身がゆるく沈んでいく。


 脱力というより、静かに浮かんでいくような感覚。


『ミレイ……ミレイ……』


「サー……」


 ミレイはかすかに声を残した。


「あなたなら……できる……」


 言葉が落ちた瞬間、


 ミレイの身体から最後の緊張がふっと抜けた。


 抽出装置のライトは、


 彼女の最終的な脈動を見届けるかのように


 静かに輝きを保っていた。




 サーはミレイを抱き上げ、青空孔へと向かった。


 壊れたパネルの隙間から吹き込む風は、


 冬の冷たさはもう完全になく、


 代わりに微かな温かさと、湿った草の匂いを運んでいた。


 季節が動き始めているのがわかった。


 青空孔の向こうには、淡い陽光が広がっている。


 空の青はまだ薄いが、


 どこか“これから色づく”気配を孕んでいた。


 サーはミレイをそっと横たえる。


 陽の光がミレイの顔に落ち、


 まるで眠っているような柔らかさを与えた。


 一瞬、風が彼女の髪を揺らした。


 ほんのわずかだが、


 ミレイは浮かばれたように見えた。


 サーは言語選択を試みるが、エラーが続く。


『ミレイ……

 私は、あなたに……』


 言葉が続かない。


 そのとき、赤子たちのうち片方が泣き出した。


 こだまのように小さく、弱い声。


 しかし確かに、未来側からの呼び声だった。


 サーはケースを抱きかかえ、


 内蔵辞書にない行為を試みた。


『……泣かないで……』


 ぎこちない。


 しかし、必要だった。


 もうひとつ。


『よし……よし……』


 語尾は不自然だったが、


 赤子は泣き止んだ。


 青空孔から差し込む初夏の光の中で、


 サーは赤子たちを胸に抱え、静かに立ち上がる。


 陽光は二つの小さな影と、


 ミレイの安らかな輪郭を、


 そっと同じ色で照らしていた。


『ミレイ……

 いつか、この子たちが……

 あなたの見た空を……思い出す日が来るでしょうか』


 返事はない。


 ただ初夏の風だけが、


 遠くからそっと吹き込んできていた。

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May Day シーラカンス梶原 @sirakan_0817

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