セカイ様のこいびと

@toseko

セカイ様のこいびと

 『セカイ様』という人々がいる。

 これはうんたらかんたら樹木化症候群というやたら長い学名の病気を発症した人を指す言葉だ。正式名称を僕はちゃんと覚えていない。僕に限らず、覚えてる人なんてこの病を扱う専門家くらいじゃないかな。それくらい通称の方が世の中には知れ渡っている。

 初めて発症した人が現れたのは、僕が生まれるよりずっと前の、もう何十年も昔の話だ。

 日常生活を送っていただけのただの人が、ある日突然木になった。

 それから少しずつ罹患者が増えてゆき、人々は木になり、あちこちの都市に森が増え、地球はどんどん緑化が進んだ。

 治療法のないこの病を恐れた人々は宗教を頼り、そこで付いた罹患者の名が『セカイ様』。木になり地球に根ざす、すなわち世界と繋がった人々だからセカイ様なのだそうだ。なんてわかりやすいネーミングセンス。僕もそんな通称を付けられるお偉い人間になってみたいぜ。

 

 さて、そんな僕の家の庭にもセカイ様が生えている。

 このセカイ様は僕の幼馴染だ。

「どうせセカイ様になるなら、雄大のそばがいいな」

 なんてことを言ったすぐ後に、本当にうちの庭でセカイ様になった。

 ひどいやつだ。


 僕の幼馴染、名を橘颯馬というのだが、コイツがうんたらかんたら樹木化症候群……長いから樹木化症でいいかな? こっちもよく使われる略称なんだ。で、颯馬が樹木化症であることは幼稚園のときに発覚した。

 颯馬の母親がうちの母親に話していたのを、僕は聞いた。

 僕の部屋で颯馬と遊んでろと言われていたのだけれど、喉が渇いたから水を飲みにリビングに行こうとしたんだ。でも、ドアを開けたら颯馬の母さんが泣きながら話してるのが聞こえて、びっくりした僕はリビングに入らず逃げ出した。

 大人があんなに泣いているのを初めて見た僕はドキドキしてしまって、部屋に戻ってすぐ颯馬に打ち明けた。

「そーまのママないてたよ。だいじょぶなのかな?」

「……ぼく、せかいさまになるんだって」

「せかいさまってなに?」

「わかんない。きのうおいしゃさんにそういわれた。それからママずっとないてる」

「そうなんだ」

 そのときの僕はなにもわからなかったけれど、泣いている颯馬のママも、不安そうにしている颯馬も可哀想で仕方なかったので、

「でもきっとだいじょぶだよ」

 と無責任に笑いかけた。すると颯馬も、

「そうだよね、きっとだいじょぶだよね」

 と笑ったので、その話はそれきりにして僕たちはパズルに没頭した。

 家に帰るよと呼びに来た颯馬の母親はいつも通りだったので、僕はきっと自分の母親がなんとかしてくれたのだと安心した。まあ、いま考えるとそんなことありえないわけだが。


 僕と颯馬は同じ病院で生まれた。そこで知り合った僕たちの母親同士が打ち解けて、偶然にも家も近所で、そんなこんなで赤ん坊の頃からずっと一緒だった。幼稚園から高校までずっと一緒。絵に描いたような幼馴染である。

 この橘颯馬という男、赤ん坊の頃から老若男女問わず大人気であった。赤ん坊の頃から、というのは僕の母親からの情報であるが。

 すっと通った鼻筋に、涼し気でいつも微笑んでるように見える奥二重、小さい顔、真っ直ぐで何もしなくても整って見える色素の薄い髪の毛。俗に言うと甘いマスクってやつか、塩顔イケメンってやつか。さらにコイツは運動が得意だし勉強も出来る。そりゃモテる。

 一方の僕はというと、平々凡々並の並。まあ? ちょっと弁が立つからクラスのお調子者的なポジションにいるかも、みたいな。そういうやつ。身長はずっと平均で、学校のテストも平均点。うーん……こうして颯馬と並べると僕が可哀想になるのでもうやめようかな。

 というか、僕じゃなくても颯馬と比べるのは誰だって可哀想だ。いつも周りに誰かいる人気者。先生たちからの評判も良い。クラスの女子もみんな一度は颯馬に恋してるんじゃない?

 今時古風なラブレターをもらって、

「困ったな」

 と頭を掻く颯馬を見たのはこれまでに一度や二度じゃない。

 僕はそのたび

「付き合っちゃえよ。いま彼女いないんだろ?」

 と囃し立てるのだが、そのたびに困ったように笑って

「付き合わねえよ。だって怖いじゃん、よく知らない子」

 と言っていた。

 本当はそれだけが理由じゃないと僕は知っているのだが、知っているからこそ、僕は颯馬に色んな経験をしてほしいと思っていた。

 颯馬がいつかセカイ様になるのだと知っているのは、うちの家族と、颯馬の家族だけだった。


 うんたらかんたら樹木化症候群は国の指定難病であるのだが、学校への告知義務はない。なぜならこの病は罹患していても発症するまでは通常の日常生活を送ることが出来るためだ。多感な時期の子どもがもし、周囲に罹患していることがバレたら、いじめだとかなんとか、あまりよくないことになるのは想像にかたくない。

 この病気には治療法がない。しかし、罹患したかどうかは血液検査でわかる。年に一回の健康診断の際に検査され、発覚する。樹木化症に罹った人間にしか検出されない成分があるのだそうだ。

 さらに厄介なのは、罹患していることがわかっても、いつ発症するのかは誰にもわからないということだ。赤ちゃんのときに罹っていることがわかっても、おじいちゃんになるまで発症しなかったというケースもあれば、発覚から発症まで一年も経過しなかったケースもある。この病が現れてからもう何十年も経つというのに、未だほとんどが謎に包まれている。理解が及ばないものに対して、僕たち人間というものは非常に無力だ。どうしようもない。人々が宗教に走るのも無理はないよなあと思う。セカイ様の名が生まれたのも、必然かもしれない。昔から人間というものは、不明瞭で不気味なものを神だとか妖怪だとか言って畏れ敬っていた。文明が進んでも人間の根本って変わらないね。

 颯馬の親はとても出来た大人で、宗教に走ることなく普通の子どもと同じように颯馬を育てた。この親にしてこの子あり。よく出来た親子である。

 幼稚園のときに偶然知ってしまった僕もよく出来た子どもだったので、周りに言いふらすなんてことはしなかった。嘘だ。僕が言いふらさなかったのは、僕がよく出来た子どもだったからではない。颯馬たち親子が帰ったあと、僕がいたことに気が付いていた母親に強く強く言い含められたのだ。今日の話はそうちゃんとだいちゃんだけのひみつだよ、と。意味はよくわからなかったが、ただ事ではないと思っていたし、素直な僕は大事な幼馴染のため、母親のため、今日まで誰にも言わずに生きているというわけである。健気だ。

 セカイ様の意味を知ったのは、小学校に上がってからだった。ある程度物心がつく頃になるとテレビのニュースやネットで目につくようになる。さらには学校の授業でもやるのだ。知らないままでいられるわけがない。

 あそこの公園の木はセカイ様なんだよ。あの芸能人はセカイ様になったよ。セカイ様のおかげで地球は今も元気なんだよ。こんな話が日常的に聞こえてくるようになったのはいつからだったか。身近なのにみんな他人事で、僕は怖かった。颯馬はきっともっと怖かったろうな。

 小学校の生活の授業で、初めてセカイ様の話を聞いた日の僕は気が気じゃなかった。小学校のときの僕たちは登下校を一緒にしていたのだけれど、その日の僕はいつも以上にどうでもいいことを颯馬に話していたのを覚えている。内容はまるで覚えていないが、浮かない顔をしている颯馬を元気づけたくて必死だったのだ。

「雄大うるせえ」

 なにがツボに入ったのかはわからないが、颯馬はそう言ってからお腹を抱えて笑い出した。僕も一緒になって笑った。

 ひとしきり笑ってから、颯馬は

「ありがと」

 と言った。人ってツボに入ると涙が出るほど笑うのか、なんて呑気に思ったのも、よく覚えてる。


 そんな僕たちであるが、今日に至るまでずっと仲良し幼馴染だったワケではない。

 小学校の頃は一緒にドッジボールしたり、サッカーしたりしてたけど、中学に入るとお互い思春期だ。ミスター平均値である僕にとって颯馬は自慢の幼馴染であると同時に、目の上のたんこぶになっていた。

 足が速かった颯馬は陸上部に入部した。

「一緒に入ろうぜ」

 なんて誘われたけど、僕は丁重に断った。僕は五十メートル走のタイムだって平均値だ。そんな僕が颯馬と並んで走ることなんて出来るわけがない。比べられて落ち込むのが目に見えている。

 そして僕は颯馬を避けるように文芸部に入り、小説を読み寡黙でクールな毎日を過ごした。というのは嘘で、うちの文芸部は実質帰宅部のようなものだったから、興味のある小説を読んだり読まなかったりして過ごした。日々走り回る颯馬と対極にあるような毎日だった。

 でもまあご近所さんだし同じクラスだったから、颯馬が朝練のない日は一緒に学校行ったりしていたのだけれど。

「随分日焼けしたな。運動部ってすげえのな」

「雄大は白くなって弱そうになったなあ」

「馬鹿にしてる?」

「うん」

 なんて笑いながら登校した。

 ただ、同じクラスと言っても小学校の頃と違って、一緒につるむグループは別だった。颯馬はスクールカーストのてっぺんに堂々と鎮座し、僕は真ん中ちょい下くらいでクラスのにぎやかしをしていた。颯馬のほうから話しかけてくることはよくあったけど、僕からはあまり話しかけなかったな。颯馬の取り巻き怖かったし。

 男子はともかく、女子の目が怖いんだこれが。なんでだか覚えてないけど、颯馬が僕の肩を抱いて、

「俺たち幼馴染なんだよな」

 って言ったことがあった。それからしばらく、クラスの女子から颯馬の家の場所を聞かれたり、子どもの頃の写真見せろって言われたり、面倒くさかった。懐かしいな。いま思い返しても怖い。

 まあ、そんなこんなで僕と颯馬の間には距離が出来ていた。というか、僕が一方的に距離を取っていた。

 この頃の僕は、意識的に颯馬がセカイ様になることを考えないようにしていた。

 勉強でも運動でも颯馬に勝てない僕だったが、颯馬が樹木化症であることを知っている。この手札を使えば、颯馬をどんなポジションにでも追い込むことが出来るんじゃないか。と、頭を過ったから。そんな自分が最低最悪すぎて嫌だったから、離れた。自分を嫌いになりたくなかった。颯馬に嫌われたくもなかった。

 そんなある日のこと、同じ中学の生徒がセカイ様になった。僕たちが二年生のとき、ひとつ上の先輩が。

 学校中がざわついてて、嫌な感じだった。クラスメイトもみんな落ち着きがなかった。いつどこでどうやってなった。なんてコソコソと囁き合ってるのが僕の耳にも届いた。

 僕は颯馬が気になって仕方がなかったけれど、声なんてかけられなかった。こんなタイミングで颯馬だいじょぶ? なんて、僕が話しかけてみろ。颯馬の取り巻きになにを勘繰られるかわかったもんじゃない。

 本の隙間から覗き見た颯馬はクラスの真ん中で笑っていた。だからきっと大丈夫なんだろう。僕たちはもう子どもじゃないし。

 と、思っていた放課後、帰ろうと荷物をまとめていたら颯馬に呼び止められた。

「雄大、今日一緒に帰れる?」

「帰れるけど、お前部活は?」

「今日は体調不良で休みー」

「そっか」

「だから一緒に帰ろうぜ」

「いいよ。たまには一緒に帰るか」

 断れるわけがなかった。僕はこのとき、小学生のときはじめてセカイ様のことを授業で習った日のことを思い出していた。小学生のときと違って颯馬は笑っていたけれど、やっぱり心配だったのだ。

 そうして僕たちは帰路についたわけだが、学校から離れて間もなく颯馬は口を開いた。

「なあ、一緒にセカイ様見に行かないか?」

「……体調不良で休んだんじゃないの?」

「嘘に決まってんじゃん」

「サボりかよ。陸部のエースがそんなことしていいんですかー?」

「いいんだよたまには。日ごろの行いが良いからみんなサボりだと思わねえの」

「みんなお前に騙されてるんだなあ、かわいそうに」

「人聞きの悪いことを言うなよ。で、いいの? だめなの?」

 僕は悩んだ。すごく悩んだ。

「……セカイ様なんて近くの公園にも生えてるじゃん」

「違うよ。わかるだろ。昨日セカイ様になったっていう、先輩の。できれば、雄大と見に行きたいんだけど」

 もちろん僕は、颯馬が見たいものがなにかわかっていた。さすがにその辺に生えてるセカイ様をわざわざ見に行こうなんて言うわけがないのだ。

 でも、そんなの見たら不安になるんじゃないの? ていうかなんで僕と一緒に行きたいの? 颯馬には僕の他にも友達いるし、別に僕じゃなくても良くないか? そんな疑問符で頭のなかはいっぱいだった。

 そして僕の口をついて出たのは、

「なんで僕なの?」

 という疑問だった。

 颯馬は目を丸くしてから首を捻り、困った顔をした。それからたっぷり時間をかけてうーんと唸り、

「……幼馴染だから、かなあ」

 と、困ったように笑った。

 だから僕は、

「しかたがないなあ。一緒に行ってやるよ。幼馴染だから」

 と答えた。

 冷静に考えれば、颯馬が樹木化症であることを知っているのは僕だけのはずだから、僕を選んだのだろう。たぶん。でも、このときの僕は颯馬が僕のことを選んでくれたことが嬉しかった。他にもたくさん友達いるのに僕を選んだ。幼馴染だから。颯馬のためにどうしたらいいかとかそんなことはまったく考えず、頼られたことに気をよくして頷いたのだ。僕は単純な男である。

 それからの道すがら、僕はいつかのようにどうでもいいことをひたすら話し続けた。最近読んだ小説の話、颯馬の取り巻きの女子はやばいって話、そんな話をしていたらあっという間にセカイ様の家についてしまった。ちなみに先輩の家の場所は颯馬がちゃんと調べてた。

 そこには僕たちの他にも制服を着た学生が集まっていた。どうやらセカイ様のクラスメイトや友人たちが訪ねているようだった。鼻をすすり涙する学生や、神妙な面持ちで俯いている学生たちばかりで僕たちは少し浮いていた。近くに行くのは憚られて、僕たちは離れたところからセカイ様を見た。

 それはなんとも立派な大木であった。幹は太く、葉は青々と繁り、もう何十年も昔からそこにあるような木。そよそよと吹く風に揺られて葉を擦り合わせている。

 これはこの先輩に限った話ではない。セカイ様の特徴であるのだが、セカイ様は皆とても立派な木になる。セカイ様の木は、それまでの歴史に存在したどの木とも違うらしい。僕は専門家ではないから詳しいことはよくわからないが、見たままを言えば桜の木に似ていると思う。

「俺もいつかああなるのか」

 彼らをぼんやりと見つめたまま、颯馬が小さな小さな声でぽつりと呟いた。僕はびっくりして颯馬の顔を見た。颯馬の弱音って、幼稚園のときから聞いたことなかったんだ。

 颯馬は真顔で、唇を震わせていた。それを見た僕は怖くなって、颯馬の手を握った。

「だいじょぶだよ。きっと、お前はまだだいじょぶだから」

 セカイ様になる兆候の一つに、表情がなくなるというものがある。セカイ様になる日が近づくと、段々と表情筋が動かなくなってゆくのだ。

 僕はそれを思い出して、とても怖くなった。だから僕はこのとき、颯馬のためではなく、自分に言い聞かせるように、無責任に言った。

 すると今度は颯馬がびっくりした顔で僕を見て、

「そうだな、きっと、大丈夫だよな」

 と泣きそうな顔で笑った。

 その顔を見て、ああ、颯馬はまだ大丈夫だと、心の底から安心した。いま振り返ると、自分の無責任さにほとほと呆れてしまうのだけれど。

 帰り道、僕たちは人目も憚らず手を繋いで歩いた。クラスメイトに見られたらどうしようとか、このときばかりはなにも思い浮かばなかった。

 この日を境に、僕たちはまた仲良し幼馴染に戻ることになった。

 この出来事がきっかけなのかはわからないが、颯馬は陸上部をやめた。僕は相変わらず名ばかりの文芸部だったので、登下校が一緒になり、自然とまた一緒にいる時間が増えるようになった。

 中三になった僕は、一緒にいる時間が増えたのを良いことに颯馬に受験勉強を見てもらった。いや、なんかこれだと僕が颯馬に頼ってたみたいだな。違うぞ、僕が勉強したくないとぼやいたときに颯馬がニヤニヤしながら

「しかたないから勉強見てやろうか? あーあ、幼馴染がバカだと困っちまうなあ」

 と煽ってきたからである。

 断じて僕から頼んだわけではないのだ。やりい、塾行くのめんどかったんだよな。とは思ったが。

 そうして不真面目に過ごした二年間の遅れを颯馬に教えてもらうことで取り返し、なんとそのまま颯馬と同じ高校に進学した。

 合格発表の際には、二人で抱き合って喜んだあとに

「雄大について来れるかな」

 なんて颯馬はニヤニヤ笑っていた。

 入試の自己採点をしてたときに、自分の点数より僕の点数ばかり気にしていたんだぜ。

 嬉しいくせに素直じゃない奴なのだ、颯馬は。

 颯馬は人気者のくせに、その実寂しがりやなのを僕は知っている。きっと一人で高校に行くのが寂しかったに違いない。だからあんなに真剣になって、僕に勉強を教えていたのだろう。


 そして、晴れて高校生になった僕たちだったが、仲良しこよしで三年間を過ごすことはなかった。

 颯馬がまた陸上部に入ったから、が理由ではない。僕が格好つけたくて軽音学部に入ったからでもない。

 僕に彼女が出来たからだ。高一の夏、クラスメイトのかえでちゃん。同じ部活で、かわいくて話しやすくって、部活のみんなで夏祭りに行った帰りに告ったら付き合うことになった。

 調子に乗った僕は有頂天になり、翌日朝から颯馬の家まで行って直接報告した。

 颯馬は僕が思った以上に驚いて、

「よかったじゃん」

 と笑った。

 それから、颯馬は露骨に僕との距離を置いた。

 朝練があるからと一人で登校するようになった。もともと放課後はお互い部活があったから時間が合うときだけ一緒に帰ってたんだけど、時間が合うことが全くなくなった。

 無邪気で呑気で彼女が出来て浮かれていた僕は、気を使ってくれてるのかなあ、なんて思っていた。だって幼稚園からずっと、僕が好きになる子ってみんな颯馬のことが好きだったんだぜ。初めて出来た彼女が颯馬のこと好きになったら嫌だったからさ、颯馬もそれを察してくれてるんだろうなって。それにクラスも違ってたし、顔を合わせない日が続いても、そんなものだろうと思ってた。

 まあ、そんな僕とかえでちゃんは一ヶ月で破局したのだが。理由はそう、かえでちゃんが好きだったのは僕ではなく颯馬だったからだ。

 颯馬とも一緒に帰りたいとか、今度三人でご飯食べに行きたいなとか、そういう誘いが多くって、

「本当に好きなのは僕じゃなくて颯馬じゃない?」

 って訊ねたら

「ごめんね?」

 ってかわいく微笑まれて終わり。女って怖い。

 僕はその足で付き合ったときと同じように颯馬の家に行き、直接報告した。浮かれポンチだった僕のことを笑ってもらおうと思ったのだ。

 そんな僕を出迎えた颯馬は僕のことを笑ったりせず、

「元気出せよ、この先もっといい相手見つかるって。な?」

 と肩を叩いてくれた。

「さすが颯馬は人間が出来てるな。僕は笑われる覚悟できたんだぜ」

「お前が本当に笑われたいならいくらでも笑ってやるけど」

「……やっぱ嫌だな」

「まあ、これでわかったろ? よく知らない相手って怖いってさ」

「あー……、うん、そうかも」

 それは女の子に告白されたあとの颯馬が、いつも僕にぼやく言葉であった。

 僕としては付き合ってみないとわからないこともあるのではないだろうか? と思っていたのだけれど、やはりある程度は付き合う前から知っている相手の方がいいなあと、このとき身に染みて感じたのである。

 感じたのではあるが、それはそれだった。

「……でもさあ、相手のことをちゃんも知ってから付き合うのって難しくない?」

「……そうだなあ」

「かえでちゃんだってまったく知らない人ってわけじゃないのに、こうなっちゃったわけだろ? もう一生彼女なんて出来る気がしないよ」

「そう言うなよ、いつかできるって。いつか」

「いつかっていつだよー!」

 と肩を落とす僕を慰めながら颯馬は困ったように笑っていた。

 

 そうして僕たちは前のように元通り……にはならなかった。たった一ヶ月、されど一ヶ月。朝練の習慣がついた颯馬と、朝はギリギリまで寝ている僕。日が暮れたら練習を切り上げる陸部と、割と遅くまで残ってる軽音部、時間が合うことはやはり稀で、前のように登下校することはめっきり減った。

 学校で顔を合わせたら話すし、母親同士は変わらず仲が良いので互いの家で晩飯を食うこともあった。休みの日に流行りのゲームを持ち寄ってどっちかの部屋で遊ぶこともあったし、普通の友達の距離感ってたぶんこんなもんなんだろうな。と、僕は勝手にそう思ってた。

 そうこうしているうちに、高校生活はあっという間に過ぎて行った。

 勉強も運動も、相変わらず颯馬には敵わないままだったけど、もう気にならなくなっていた。

 部室からグラウンドを見下ろして風を切って走る颯馬を見るのが僕は結構好きだった。たまに目があうと照れくさそうに笑うんだぜ。陸部のエースが。

 羨ましいとかああなりたいとか、そういうのを通り過ぎて、颯馬は自慢の幼馴染であるということだけが、僕のなかにあった。

 学校やテレビで樹木化症が話題になるたびに心配にはなったけど、前みたいに颯馬が不安そうにしてるとこも見なくなってたし、僕はなんの根拠もなく颯馬は大丈夫だろうと思っていた。そんなことないのに。

 この病気に罹った人間は、これまでただの一人の例外もなく、皆セカイ様になっている。そこに発症までの差があるだけなのだ。


 高三になってすぐのことだった。

 僕はベースを背負って帰路についていた。そんな僕の背中を、颯馬が呼び止めた。

「雄大」

「おー、颯馬。いま帰り?」

「うん」

「珍しいねこんな時間まで」

「ああ、図書室で勉強してたんだよ」

「うわ真面目」

「受験生だからな」

「わー、やなこと言うなよなー」

 僕が顔を顰めていると、颯馬はふと真顔になり

「雄大はさ、進路どうすんの?」

 と訊ねてきた。

「進路?」

「うん」

「えー……、まだちゃんと考えてないよ」

「マジかよ、やばくね?」

「まあなんとかなるって。ああでも、家出たいなってのは考えてる」

「え」

「だから、僕が行けそうなレベルでちょっと家から離れたとこ行きたいんだよなー。颯馬は? どうすんの?」

「あー、俺は……、俺も、まだちゃんと考えてないんだ」

「そうなの? お前ならスポーツ推薦でもなんでも行けそうだよなあ」

「まあな。日頃の行いだよ。いやあ選びたい放題で困っちゃうぜ」

 と笑う颯馬を前にして何も気が付かなかった僕は馬鹿だと、いまの僕は思う。

 いつ木になるかわかんないのに、そんなにたくさんの選択肢があるわけがない。そんなこともわからない僕って本当に馬鹿だ。結局僕にとっては、颯馬のことって他人事なんだ。


 そして僕たちの高校最後の一年は、あっという間に過ぎていった。

 夏には颯馬の大会を応援しに行って、秋は文化祭でライブして、本当にあっという間だった。

 それからは受験勉強で机に齧りつき。中学のときみたいに颯馬に受験勉強を見てもらおうとしたら、学部違うから無理と呆気なく断られてしまった。自力で勉強するにも限度があるので、僕は観念して塾に通い、勉強漬けの毎日を送った。

 いつの間にか年も明けて、僕は颯馬を誘って初詣に行った。学業成就と健康祈願。と言っても颯馬は推薦でとっとと受験を終わらせていたから、僕が無理を言って息抜きに付き合わせたのだが。

 新年に浮かれる境内は人で溢れていた。僕たちは人混みを縫い賽銭箱の行列に並び、どうでもいい雑談に花を咲かせた。僕が受験終わるまで我慢してるゲームを先にプレイしやがった颯馬がネタバレしてきたのはいまも根に持ってる。楽しみにしてたのに。ムカついて肩を殴った僕を見下ろし、颯馬はニヤニヤ笑ってた。

 ふざけてるうちに僕たちの番がやって来たので、賽銭箱に小銭を投げ入れて並んで両手を合わせた。

 颯馬が随分長いこと手を合わせていたので、

「なにをそんなに願ってたの?」

 と訊ねた。

「雄大は?」

「僕? 僕は学業成就に健康祈願だよ。受験生にはこれ以上の願い事なんてないだろ。それで? お前は? もったいぶるなよな」

「内緒。願い事は人に言わない方が良いって言うからな」

「えっ! そうなの? お前、僕には言わせたくせにずるいぞ」

「知らない方が悪い」

 文句を言う僕の話を笑って聞き流しながら、颯馬が足を向けたのは社務所だった。

 おみくじでも引くのかな。なんて思っていたら、颯馬は学業成就の御守りを買って僕に渡した。

「え、いいの?」

「俺からの餞別」

「あ、ちょっと待って。すみません」

 慌てて僕は健康祈願の御守りを買う。

「交換にしよ」

「いいの?」

「僕からの餞別」

 颯馬の真似をして言って渡すと、颯馬は一瞬眉を顰めてから、笑った。

「ありがとう」

「こちらこそ」

 それから僕たちは境内に並ぶ出店で腹を膨らませてから帰路に着いた。正月くらいは勉強から離れて息抜きしなきゃなあと言う僕に、颯馬が笑いかける。

「受かるといいな」

「まあ余裕だよ」

「調子乗って落ちても知らねえぞ」

「縁起でもないこと言うなよ」

「もし落ちたらそんときは勉強見てやるよ」

「えー、落ちる前から見てくれよ」

「嫌だ。俺は残りの高校生活満喫するって決めてんの」

 うん、颯馬はそう言って楽しそうに笑っていた。僕はこの日のことをよく覚えている。勉強勉強の毎日でずっと息が詰まってたから僕も楽しかったし。

 家に着く頃には颯馬の願い事のことなんて、すっかり頭から消えていた。もっとちゃんと考えればよかったんだ。

 僕は幼馴染なのに、颯馬の嘘をいつだって見抜けない。寂しがりやで強がりなのは、知っていたのにな。

 

 受験シーズンも本格化して自由登校が始まり、ますます僕は颯馬と顔を合わせなくなった。僕は自分の受験でいっぱいいっぱいだったし、颯馬も忙しいのだろうと思っていた。

 そうして三月になり、無事に僕は地元から離れた大学に合格した。

 大学デビュー、一人暮らし、四月からの新生活に思いを馳せながら、僕は颯馬に報告した。

 スマホのメッセージアプリで、

『受かったぜ』

 とサムズアップの絵文字を付けて送信する。

 するとすぐに

『今から雄大の家行っていい?』

 と返事が来た。

 わざわざ家まで祝いに来てくれるのかな。なんて浮かれていた僕は、

『いいよ』

 と即レスする。

 徒歩数分の距離のはずなのに、なかなか来ない颯馬を漫画を読みながら待った。

 時刻は夕方、一冊まるまる読み終えたくらいでようやく玄関のインターホンが鳴った。

「だいー。そーちゃん来たよー」

 颯馬が来たときの母さんのお決まりのセリフが聞こえて、僕は玄関まで颯馬を迎えに下りた。

「遅えよ颯馬……」

 とドアの開けた僕の目に飛び込んできたのは、真顔でそこに立つ颯馬の姿だった。


 母さんが入れてくれた麦茶を受け取って、僕たちは二階の僕の部屋に行った。

 心臓がドキドキとうるさいくらい激しく鳴っていて、後ろにいる颯馬にも聞こえるんじゃないかと思った。怖くて後ろが振り向けなかった。

 僕がいつも見ている颯馬の顔って、なにもしなくても笑ってるような顔だった。甘いマスクの塩顔イケメン。それなのに、颯馬は無表情だった。


 部屋に入ると、夕陽が僕の部屋を赤く染めていた。西陽がキツいのだ。僕の部屋は。

 颯馬は僕の部屋に来ると、いつも僕のベッドの上に座る。ローテーブルと座布団もあるけど、そっちに座るのは一緒に勉強してたときくらいだ。僕の部屋の小さいテレビを見やすいのもベッドの上だったから、ゲームするときもここだった。

 だから、この日も颯馬は当たり前のように僕のベッドの上に腰掛けた。僕もいつも通りその隣に座った。

「合格おめでとう」

 颯馬はこちらを見ずに俯いて、床を見ながら言った。

「ありがとう」

「これでお前、来月から一人暮らしか」

「……うん、そうなるね」

 颯馬の横顔を見ても、颯馬がなにを考えてるのかわからない。そこにはなんの表情もない。

 どうしよう。なんで? いつから? これはタチの悪い冗談じゃないか? 僕の頭のなかはさっきまでのおめでたい妄想などすべて吹き飛び、ひたすらそれだけを繰り返していた。

 颯馬になんて言ったらいいのかわからない。

 顔から表情が消えるのは、セカイ様になる兆候のひとつ。

 颯馬の横顔を見てられなくなって視線を落とした。颯馬の膝の辺り。そこにはぎゅっと握り合わせた颯馬の手があった。颯馬、緊張してるみたいだった。

 何か言わなきゃ、僕が、なにか。いつかのようにどうでもいい話をして、颯馬に笑ってもらわなきゃ。

「春休みの間にいろいろ用意しなきゃいけないからさあ、颯馬、買い物付き合ってくれよ。大学デビューのために服とかも色々用意しなきゃいけないしさ。服がないのは颯馬も同じじゃん? だから」

「嫌だ」

 頭に浮かんだことをそのまま口に出していただけだったから、僕はなにも言えなくなった。颯馬のキツイ言い方に驚いて頭が真っ白になってしまったのだ。

「嫌だよ。お前がどっか行くの、無理。そんなの、付き合えねえよ」

「え、と……」

 颯馬の声が震えていた。颯馬の手に水滴が落ちた。颯馬が、泣いていた。

「ダメだ。ああくそ、違う、こんなこと言いにきたんじゃないのに」

 そう言って颯馬は乱暴に目元を拭い僕に向き直ると、真っ直ぐに僕を見つめた。

「俺、たぶんもうすぐセカイ様になる。その前にちゃんと雄大に礼を言っておきたかっただけなんだ」

 颯馬の唇が、ぶるぶると震えていた。

 なるほど、顔の筋肉が動かないとこんなふうになるのか。僕は颯馬の言うことを頭でうまく処理できず、そんなことを考えていた。頭が殴られたようにジンジンと熱を持ち、瞼が熱かった。

「いままでありがとう」

 そう言って立ちあがろうとする颯馬の手を僕はぎゅっと掴んだ。

「だいじょぶ。だいじょぶだよ。きっと、颯馬は、だいじょぶだから」

「お前……っ」

 全然大丈夫じゃないってわかっていたのだけれど、僕の口から出たのはそれだった。颯馬が息を呑んだのが聞こえて、もう顔が見れなかった。

 それでも、僕は颯馬の腕を手離すことはできなかった。

 ベッドのシーツにポタポタと水滴が落ちて、僕は自分も泣いてることに気がついた。なんで僕が泣くんだよ。ますます顔が上げられなかった。かっこ悪いなあ。

 垂れそうになる鼻をすん、と啜ると、急に颯馬が僕が掴んでいるほうの腕を引いた。その勢いで前につんのめった僕の顔が颯馬の胸板に突っ込んだ。僕の背中に颯馬の腕が回っていた。何が起こったのかすぐにわからなかったけれど、これは颯馬が僕を抱きしめていたのだ。

 驚いて僕が身体を離そうとしたら、颯馬の腕にぎゅっと力が入った。

 そして、

「好きだ」

 と颯馬が言った。

「え」

「好きだ、雄大、好きだ。ずっと、ずっと好きだった」

「は、え、なに……? 好き……?」

 颯馬は僕の肩を掴んで抱きしめていた体を離し、僕の顔をじっと見つめる。イケメンの真顔というものは迫力があるなあ。という感想だ。なにを言われているのか全然わからなかった。好き? ってなに? 颯馬が? 僕を?

「一生言うつもりなかった。なのにお前が、大丈夫とか言うから、我慢できなくなった」

「な、なんだよそれ、僕のせいってこと?」

「うん」

「なんでだよ」

「……大丈夫なわけねえのに、無責任すぎ」

「それは、……ごめん」

「謝んなよ。俺、お前のそういうとこが、ずっと、ずっと好きだったんだよ」

「そ、そっか」

 真正面から好き好き言われて、僕はくすぐったいような気恥ずかしいような気分だった。こんなに真正面から好きだって誰かに言われるなんてはじめてのことだ。しかも、相手は颯馬。幼馴染の暴露話を聞かされている僕は自分の気持ちの置き所が見つからず、あちこちに視線をさまよわせた。

「だからさ、責任とってくれよ」

「責任って……そんなの……どうやってとればいいんだよ」

 突然の言葉の重さに、僕は伺うように颯馬の顔を見た。どれだけ待っても、颯馬の表情は変わらない。変わるわけがなかった。

 颯馬はたっぷりと数秒の間を開けてから、

「……付き合って。俺と」

 と言った。

「え?」

 思わず僕はきょとんとしてしまった。言い方だけだと、いつも軽口を言いあうときのそれだったから。

「付き合ってよ」

「いや、付き合うって、いきなり言われても、僕お前のことそういう目で見たことないし無理なんだけど」

「はは、そうか、そうだよなあ」

 本気かどうかわからない僕は、軽口を言い返すときと同じように言った。颯馬は変わらない表情で、声だけは笑ってた。

 なんだ、やっぱり冗談だったかあ。

 と思うまもなく、

「じゃあさ、いまだけ。今だけでいいから。明日からは元の幼馴染でいいから、今だけは付き合ってよ」

 と言われた。

「颯馬……」

「それも、ダメか?」

 ここまで必死だと、さすがの僕にもこれが冗談じゃないことは理解できた。

 そうかあ。颯馬って僕のことが好きなのか。

 そんなに好きだと言われたら悪い気はしない。それに、このときの僕には後先を考える余裕なんてどこにもなかった。

「……まあ、それなら、いいよ」

「やりい」

 いつもの颯馬なら僕をからかうときの顔でニヤニヤ笑ってるのだろうか。それとも嬉しそうに笑ってるのだろうか。

 真顔でそう言う颯馬を前に、僕の胸のうちでは照れと悲しみと、言葉に出来ないいろんな感情がごちゃごちゃになっていた。

 僕はそれを誤魔化すように、

「お前なら男女問わずいくらでもとっかえひっかえできるのにわざわざ僕を選ぶなんて、見る目があるなあ」

「そうだろ? お前のことを好きな物好きなんて俺くらいだよ」

「なんだとお?」

 と軽口の応酬をした。

 このままいつも通りに戻らないかな。僕はそう思っていたのだけれど、そうはいかなかった。

 颯馬はゆっくりと瞬きをして、僕のほっぺたを撫でた。その手つきがぎこちなくて、僕はまた言葉を失った。例えて言うなら、壊れやすいものに触るときのような手つき。こんなふうに誰かに触られたのなんて、初めてだった。

「……なあ、キスしていい?」

「キ、キス⁉︎」

「いいだろ、恋人なんだから」

 びっくりして裏返った僕の声とは対照的に、颯馬の声は静かだった。冗談を言えるような雰囲気ではなくなっていた。

 息を呑む。いいのかな、僕、はじめてなんだけど。一瞬だけそう悩んで、僕は目を瞑った。これで颯馬が喜ぶなら、いっか。キスの一回や二回、別に減るもんじゃないんだから。

「……いいよ」

 と言った直後、僕の唇に柔らかいものが押しつけられた。

 うわあ、キスってこんな感じなのか。唇って柔らかい。鼻を掠める颯馬の匂い。これが僕のファーストキスなのか。たぶん、一生忘れられないのだろうな。

 僕がそんなことを考えていたら、颯馬の唇が離れた。

 目を開けて颯馬の顔を見ると、

「もう一回」

 と言って、颯馬はまた僕にキスをしてきた。今度は噛み付くように。

「んっ……⁉︎」

 ぬるりと唇を割って、なにかが口のなかに入ってくる。それは無遠慮に奥まで入ってきて、僕の舌に絡みついた。

 いきなり突っ込まれたそれに、僕は驚いて目を見開いた。一方の颯馬は目を瞑って、余裕そうな真顔で……まあ、実際のところ余裕があるかどうかはわからなかったが、そんな顔をしていたので僕はひどく混乱した。

 僕が舌を引っ込めると、それがもっと奥に入ってくる。それじゃあと顔を離そうとしたら、後頭部に颯馬の手が回って押さえ込まれる。

 諦めてされるがままでいるしかないのか。でも、口のなかめちゃくちゃで息が出来ない。このままじゃキスで死ぬ! それは嫌だ!

 僕は颯馬の背中に手を回してギブアップを表現するために何度も叩いた。

 そうしてようやく僕の口は颯馬から解放された。

 ぷはあと思い切り息を吐き、そして吸い、僕は颯馬に食ってかかった。

「お前、いま、し、舌入れたな⁉︎」

「なんだよその反応、はじめてじゃあるまいし」

「はじめてだよ!」

 まさかいきなりディープなやつをされるなんて思わなかった。僕の心臓はドキドキと高鳴り、とてつもなく動揺していた。顔もひどく熱くなっていた。

「マジ?」

「マジに決まってんだろバカ!」

「お前、彼女いたじゃん」

「いたけど! 手も繋いでねえんだよ!」

「そうなの?」

「そうだよ!」

 颯馬は無表情のままだったが、きょとんとしてるように見えた。なるほど、これだけ長く付き合いがあると無表情でもなんとなく読み取れるらしかった。けれどもそんなことよりも腹が立っていたので、僕は颯馬の足を蹴飛ばした。

 すると颯馬は口を覆って俯き、

「へえ、そうだったのか。はは、ははは、はー……」

 と笑ったと思ったらため息をついた。僕にはその反応がよくわからない。馬鹿にされてるのかな?

「何笑ってんだよお前」

「……ううん、なんでもない。なあ、もう一回」

「ええ?」

 顔を上げたと思ったら、これである。またベロチューする気か? と身構えた僕を前に、

「頼むよ」

 颯馬は懇願するように言った。そんな言い方をされたら、断れない。

「しかたないなあ」

 かたちだけ渋って見せて、僕は目を瞑った。

 頬に颯馬の手が添えられる。そして、また唇に柔らかい感触。

 そのまま唇をくっつけるだけで数秒。いやもっと? 最初にしたときよりも長かった気がする。鼻先に颯馬の息がかかる。キスしてるときって鼻で息吸えばいいんだ。なんて考えてた。

 そうしてようやく颯馬が離れたと思ったら、思い切り、力いっぱい抱きしめられた。痛いくらいだった。苦しかった。

「颯馬」

 離せよ苦しいって。そう言おうとしたときに、僕の肩に顔を埋めた颯馬が鼻を啜る音が聞こえた。颯馬が泣いてる。

「怖えよ、俺、セカイ様なんてなりたくないよ」

 颯馬がこんなふうに素直な弱音を吐くのは初めてだった。不安そうにしてるところを見たことはある。でも、怖いって、なりたくないって、僕はこのとき初めて聞いた。

 僕はおそるおそる颯馬の背中に手を回した。僕よりも少し広くて、少し硬い背中。震えているそれをぎゅっと抱きしめた。

 大丈夫だから、なんて、僕にはもう言えなかった。気休めにもならない。それなら、颯馬のしたいようにさせてやりたかった。それしか出来ない自分が無力で、僕も颯馬の肩に顔を埋めて、泣いた。

 二人でぐすぐす泣いて、泣いて、その熱が冷めた頃には部屋のなかはすっかり暗くなっていた。

 そろそろ電気つけなきゃ。いつまでもこうしてるわけにもいかないし。なんて考えてたときだと思う。

 颯馬が僕から身体を離した。

 真っ直ぐに僕を見る颯馬の顔は、なんだか笑っているように見えた。

 暗かったから、これは僕の気のせいなのだと思う。でも、それでも僕には、笑っているように見えたんだ。

 そして颯馬は、

「どうせセカイ様になるなら、雄大のそばがいいな」

 と言った。

 僕は颯馬になんて返したらいいのかわからなくて、颯馬の顔を見つめていた。

 なに言ってんだよと笑えばよかったのか、僕もそばにいてほしいと言えばよかったのか、それはいまもわからないままだ。

 だって、僕がなにか言う前に、そのときが来てしまったから。

「あ」

 颯馬が口を開いた。空気が抜けるような、吐息混じりの声が漏れた。

 電気のスイッチが切れるみたいに、瞬きするまもなく颯馬の顔から表情が消えた。

 表情だけではなく、うーん、この異質さというのはなんて言ったら伝わるだろうか。颯馬らしい部分が何もかも、綺麗さっぱり無くなっている、みたいな。入れ物だけそこにあるような感じ。表情がなくても、話し方や仕草から感じるいつもと変わらない颯馬らしさがあった。それが消えてなくなってた。

 ぞわりと鳥肌が立った。

 僕が呆然と颯馬の顔を見つめていると、颯馬はゆらりと立ち上がった。

「……颯馬?」

 そしてふらふらとおぼつかない足取りで歩き出す。

「お、おい、どうしたんだよ颯馬」

 僕は咄嗟に颯馬の手を掴んだ。けれども、颯馬の手は僕の手のひらからするりと抜けてしまった。

「待てってば、おい」

 腕を掴んで引き留めようとしたけれど、颯馬の足は止まらない。ふらつきながら歩いているのに、僕が引っ張ってもうんともすんとも言わなかった。

 部屋を出て、迷いなく階段を下りる颯馬を追いかけながら、僕の頭のなかには樹木化症の症状がよぎっていた。

 セカイ様になるとき、その人はまるで何かに呼ばれたようにどこかに向かって動き出す。そして、突然立ち止まり大地に根を下ろす。

 これがセカイ様になる人の、最後。見たことなくても、みんな知ってる。

「ダメだって颯馬、待てよ、待っててば、なあ」

 颯馬は僕の家のリビングに向かい、庭に面してる大きな窓を開ける。

「そーちゃん、どうしたの?」

 とリビングにいた母さんもぎょっとしてた。

 靴も履かずに庭に下りる颯馬を追って、僕も裸足で庭に出た。

 うちの庭は広い芝生になっている。颯馬はそのど真ん中に立つと、空を見上げた。

「颯馬?」

 少し高い位置にあった颯馬の顔が、少しずつ高く伸びて行く。

 はっとしてその身体を見ると、颯馬の足は木になって、うちの庭に根付いている。陸上で鍛えた颯馬の足が太く膨らんで、太い木の幹になる。

「ひっ」

 と母さんが息を呑む声が聞こえた。

 さっきまで抱きしめていた颯馬の身体が、あっという間に変わってしまう。音を立てて服が裂け、露出された肌はもう人間のものではなかった。

 メリメリと音を立て、颯馬が木になる。

 さっき僕の頬を触っていた手は、もうとっくにどこにあるのかわからなくなっていた。颯馬の顔も、どこにあるのかわからない。

 にょきにょきと枝が伸び、伸びた先から青々とした葉っぱが生える。

 幹は太くなり枝葉の量も増え、どんどんどんどん大きくなって、そして僕の家の屋根を越えたところで、颯馬の成長は止まった。

 そして、颯馬はセカイ様になった。


 それから、うちと颯馬の家族で話し合って、颯馬はそのままうちの庭にいることに決まった。

 セカイ様を動かすというのはそう簡単なことではないのだ。お金も手間もかかる。セカイ様の木は元々が人間であるため、切ったり折ったりすることに心理的な抵抗を持つ人が多い。その上たいていのセカイ様は根っこが土の奥深くまで根付いているので、傷つけずに掘り起こすのはとても大変な作業なのだ。

 幸いうちは颯馬の家から近いから、颯馬の親もいつでも会いに来れる。

 うちとしても、颯馬はほとんど家族のようなものだったし、なんの問題もなかった。だだっ広い芝生だけの庭がこうして有効活用されるなら、うちの親としても本望だと笑っていた。

 僕の部屋も颯馬のおかげで西陽が眩しくなくなった。これは良いことだ。カーテンを開けると青々と生い茂る颯馬の枝と葉っぱで窓一面がほとんど埋まってる。なんだか颯馬にずっと見られてるような気もしたが、まあそんなことあるはずがないのですぐに気にならなくなった。

 それよりも、しばらくの間うちの庭に颯馬の友人知人が押し寄せ、みんなで手を合わせたり泣いたりしてるのを見るのが辛かった。

 颯馬は前述の通り塩顔イケメンの人気者だ。老若男女が颯馬を思い悲しんでいた。

 その光景は、中学のとき颯馬と見た、セカイ様になった先輩を惜しむ人たちの姿と重なった。

「お前もこうなったよ」

 と、僕は颯馬に直接言ってみたが、なんの返事もない。そりゃ木になっちゃったんだから当たり前なんだけど。


 これが、セカイ様になった僕の幼馴染の話だ。

 いまもうちの庭にいる。これからもずっと、ここにいるのだろう。

 

 一方の僕はというと、結局地元を離れることなく、一年浪人して颯馬が行くはずだったら大学に進学した。

 颯馬の代わりに生きるとか、そういう大それた理由ではない。僕じゃあ颯馬の代わりなんて務まるわけないしな。

 ただなんとなく。なんとなく、僕のそばにいたいと言った颯馬の願いを叶えてやりたくなっただけだ。

 僕はよくこうして颯馬との日々を振り返り、考える。

 僕は颯馬のことをどう思っているのだろう。

 颯馬は僕のことを好きと言った。

 僕も颯馬のことは好きだ。自慢の幼馴染だし、これからもそれは変わらない。

 けれど、それって颯馬と同じ好きなのかな。

 その答えはもう一生見つからないまま、僕のなかに行き場をなくして残ってる。

 あのとき、今だけ恋人になってなんて言ってたけどさ、それっていつまで? もう終わりってことにしていいの?

 僕の気持ちはちゅうぶらりんのままだ。そんなに好きならもっと早く言えよ。ばか。あほ。格好つけ。黙ってるなら最後まで黙ってろよ。

 ひどいやつだ。本当に。

 

 僕はたぶん、これからもずっとそばにいるのだろう。

 たとえ僕がいつかセカイ様になっても、ならなくても、僕は颯馬のそばにいることを選ぶのだろう。

 なんとなく、そんな気がしている。

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セカイ様のこいびと @toseko

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