第2話 草原を駆ける
三ヶ月前。忘れもしない。
と描いたが、それ以前の記憶は俺にはなかった。
三ヶ月前、俺はこの世界に来た。そのことは覚えている。
ただ、その前後のことは思い出せないのだ。
どう来たのか? なぜ来たのか? その直前は何をしていた? 世界に来る過程で何が起こった?
そんなことは、一つも覚えていないのだ。
ただ学生をしていたことは覚えている。大学の名前も覚えているし、自分の名前も分かるし、大学で受けた講義の内容もある程度記憶している。
だから記憶はほとんど全て残っていると言って差し支えない。ただ一つ、一番大事なところである、この世界に来た過程を忘れているということを除けば。
馬の背に揺られながら、こうして記憶を探ってみても、やはり何も出てこない。
それどころか、もう三ヶ月前の普通の記憶から抜け落ちて行ってしまっている。
「なあ、俺ってどこから来たんだろうな」
眼下の俺の馬、モーターカー(仮名)にそう言っても、答えは返ってこない。
ただ、俺のさっき出した「全速前進」の
あの時、俺が来たときと比べれば、ずいぶんと穏やかな季節になったものだ。
あのときは酷かった。
その時、俺はものすごく薄着だった。そして、雪は俺の膝を飲み込むほどに厚かった。
そんな大降雪、日本の都市部じゃ考えられないほどの脅雪に、俺は倒れていた。
全身の感覚が少しずつ抜けていくあの感覚を今でも覚えている。あの、少しずつ死に向かっていく、やけに心地よく恐ろしい感覚を。
まるで夢の中でまどろんで、眠るように死に向かっていく感覚は、ひょっとするとあれは本当に夢だったのではないかと錯覚を起こしてくるほどに。
恐ろしく、心地よかった。
思い出すと臓腑が冷える。
ごまかすように顔を見上げると、太陽が少しずつ西へ向かって落ちていくのが見えた。
もう数刻もすれば、日は沈んでしまうだろう。
あたりを見回して景色を確認する。
最初の頃は全く出来もしなかった技能。
ただ無限に広がる草原の景色。奥に山すら見えないこの景色の中に、ほんの少しの特徴を見つけ、自らの現在位置を測る技能。
あそこに見える、ほんの少しだけ盛り上がった土は、俺があの集落から五キロほど進んだことを示している。そんな事が、分かるくらいに。
風の感じや太陽の方角、草の倒れている向き。
そして、何より身に感じる、ほとんど無視してしまうようなごく微細な違和感。
それを元に、自らの向かう方を特定し、この地図も何もない世界で、目的の場所へ向かう。
まさに野生と言っていいくらいだった。ビルに囲まれた世界ではこんなことはできもしなかった。
もちろん一筋縄でこんなことはできない。何回迷って遭難しかけたか。
今も、慣れた一つのよく行き来した道を、行っているだけなのだから。
そろそろ、かな。
「ピュイゥーゥッ、ピゥィゥーッ」
口に指を咥えて、そんな口笛を吹いた。
それに馬は反応しない。これは、人間のための笛なのだから。
しばらく待って、返答がない。
再び、指をくわえようとする。
そこで、返答は来た。
ごく小さな音。
俺はモーターカーの鬣を軽く引っ張って、響く蹄鉄の音を緩めさせた。
それから、また指をくわえる。
「ピュイゥーゥッ、ピゥィゥーッ」
先ほどと変わらない指笛。
そして帰ってくる、返答。
自らの位置を指し示す、返答の指笛。
そこへ向かって、モーターカーの鬣を右へ引く。
「ピュイッ」
そう吹くと、馬は命令を認識し、どうっと前へ走り出す。
そして、また走ること少し。
今度は向こうから笛が返ってきた。
それに、俺は返答の指笛を返す。
もう近い。あと少しで、場所が分かる。
そして、広い高原の向こうに、ほんの小さな褐色がみえた。
あれだ。
そして、『あなたを見つけた』という意味の、ひときわ大きな指笛を鳴らす。
そうして、俺は馬の体をさらに疾駆させる。
俺の呼びかけに、再び応える笛。
そこまでくれば、もう会話ができた。
昨日ぶりのその姿と。
「トゥルサキ!
「
酷く澄んだ黒髪だった。ハッとしてしまうほどの冷めた黒髪、そして吸い込まれてしまうような鮮烈な赤色の瞳孔。
そして何より、綺麗だった。
彼女がふっと顔を振ると、防寒帽子から垂れた装飾具が、風変わりな耳飾りのようにきらりと揺れる。
俺のいる集落の族長の娘、名前は『水の流れ』を意味するラオラ。
俺は両腕を胸に手を当てて、高貴な身分に対するこの民族の礼を行った。
馬から両の手を離し、すべてを委ねることを意味するこの民の最高の礼を。
「
すると、その人は頷いて、
「
と言う。
そして。
ふっ、と笑い声が起きた。
それは、彼女と俺の両方の笑い。
先に、彼女が口を開いた。
「
「
「
もう、彼女を迎えに来るのは三度目のことだった。
そして、彼女との付き合いは三カ月もあった。
俺を、雪に埋もれて死にかけていた俺を、馬に乗ってたすけてくれたのも。
そして、俺に最初に言葉を教えてくれたのも彼女だった。
「
「
「
すると、彼女はいたずらっぽく微笑んで、俺の目を覗き込むように見てきた。
「
「
「
俺は馬の方向を変えて、そしてピュイっと口笛を吹いた。ラオラも同様に。そうすれば、馬たちは自分の主人の命令に従って、ゆっくりと草原を闊歩する。
「
すると、彼女がおもむろに口を開いた。
「
「
「
『話を聞いてくれるか』。それは、この言葉では文字通り『話を聞く』ではなく、『あなたからたずねてほしい』という意味だった。
この民族の文化か、それとも文法か。話し始めるときは、なぜか話しかける相手にたずねて貰う必要があるらしい。
ふふ、とラオラは微笑んだ。
冷気で赤く染まった頬に、白い息がゆっくりと漂う。
「
「
「
「
「
口には出さないけども、ラオラは満足げに目を閉じて微笑んだ。
馬上で目を閉じて笑うなんて、よくも勇気があるものだ。
俺も慣れてきたとは言うものの、まだ馬の上は怖い。
俺の乗馬技術は三ヶ月。けども、彼女たちは、三歳というまだ言葉も覚えているか怪しい時期から馬に乗り始める。
最早体の一部なのか。
俺が彼女の方をむいて馬の上操舵が怪しくなっても、彼女の方から自然に馬を寄せてきてくれる。
「
「ああ……」
そう聞くと、彼女はすぐには答えずに空を見上げた。
アーターヤ。
それは、神の名を冠する存在だった。
言い換えれば、この地に生きるすべての遊牧民族を束ねる、祖なる存在と言ってもいい。
族長より更に偉い、総族長のような存在。
彼らのいる集落を中心に、様々な遊牧民族の民が広がっている。
その中で、俺のいる集落は、「
他にも、北や南など、多くの仲間たちがいるらしい。
そして実際に、アーターヤとは、これらすべての民たちの祖となる人物の、その子孫であるという。
伝説の存在。天皇や現人神のような。
彼らの言うことには絶大な権力があって、そして彼らの遊牧集落が最も発展しているという。
そんなアーターヤのいる『
西の民、その現族長の娘として。
ラオラは、ふう、と息を吐いてから、口を開いた。
「
「……そうか」
「
それは、果敢な質問だった。
アーターヤは、神と同格。そんな存在が言うことに意見をする。それは、相当の理由と立場と勇気がないとできないこと。
「
「
会話の中で一つだけ、聞き取れない言葉があった。
「アダ。
「ああ……」
『必要な戦争』、と言う意味か。いや、絶対不可避な戦争。そんなところかもしれない。
「
そう言って、ラオラはため息をついた。
よく分かった。彼女は、まだ族長の代理になったばかりだった。
具体的には、三ヶ月ほど。俺が倒れていたのを見つけるすぐ前、その立場についたらしい。
だから、彼女は若く、周りからの立場がより低い。それは言うまでもなく察することができた。
「
「
戦争か。
結局いつの時代もか。
でも、驚いたものだ。
こんなに、ゆっくりとしているのに。
草原を駆けて、羊と馬を飼育して。
いつも笑顔でばかり、みんな毎日を過ごしているのに。
戦争をしなければならない、というのか。
どうにもちぐはぐに感じた。こんなにも満たされている生活に見えるのに。
いや、それは俺の勘違いなのかもしれないけど。それとも、満たされていると感じているのは、目まぐるしい現代日本からやってきた俺だけなのかもしれない。
「
「何?」
また、ラオラが聞いてきた。
「
「ああ。
俺の、故郷。つまり、日本の話。
この話をしたのは、彼女にだけだった。
この世の中で。もしこの星が俺のいた時代とは違うのなら、この世の中で、その事を知るのは、俺と彼女だけだった。
「
「
「ああ。
「
「ラオラ、
「トウキ……オ……トゥ、スリー……うー、
「はは、
「
「
「デンパ……?」
いつも、彼女を迎えた帰りには、こうやってゆっくり帰るのだった。こうして話が耽る頃には、いつの間にか集落についている。
そうなると、俺は気がついて彼女に言うのだ。
「
「
夕暮れの中で、俺は彼女の弓と矢筒を手にして、そして前を見る。
そこには、もう直ぐ向こうに、夕日に照らされて橙色になった集落のテントが見えた。
俺はそこに向かって、帰還を知らせる指笛を、強く吹いた。
言葉の知らない草原で 〜未知の言語の世界で生きる〜 ケンタ~ @Kenta---
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